天皇教について

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 基本的な考え方(信仰を持つ宗教者として)
 神格化された天皇(皇族)崇拝が、庶民にとって明治以降の文化的遺産であっても、それを信仰する多くの人々もいるのですから、その人たちによって宗教としての「天皇教」は維持され守られるべきだと考えます。あくまでも信仰する人々と天皇家一族によってのみ維持されるべきで、政教分離の原則が徹底され、そこに国が介入したり、国の都合によって天皇教を利用したり、そのあり方を左右すべきではないと考えます。天皇教は宗教団体として、国家から完全に切り離され、皇族の方々は戸籍を持ち、国のシステムや管理からは自由であるべきです。

 元号問題について
 プロテスタントの牧師たちの中にも、そのほうが楽だからとか、和暦だからとか、行政が和暦を使うから、などと昭和平成令和など天皇歴(元号)を使う人は多い。キリスト者だから西暦を使うべき、などと強弁するつもりもないし言い争う元気もないが、牧師を自認するならば、もう少しこの国の天皇制を学び、天皇神話をこの国の住民に押しつけている「矛盾」を感じ悩むことの出来るこころを持ってほしい。
 古事記や日本書紀などに記されている「天皇」物語は、多くの歴史学者たちが指摘しているように、あとから作られた神話であり、それを元に構成された「歴史物語」です。天皇神話と歴史がまだまだ混在していますが、明確に分けられるべきです。天皇の代替わりごとに変わり、天皇によって時代を意識させようとする年号はなくし、グローバル社会に対応して西暦のみで十分だと考えます。

「天皇」神話のルーツは「天児屋命(あめのこやね)」のような男祈祷師だったのか、卑弥呼のような女祈祷師だったのかは不明ですが、いずれにせよそのルーツに「天孫族」神話・伝承が接ぎ木されたのでしょう。万世一系とは、ある時代に武力で権力、支配力を握った氏族が、自分たちの氏族による長期的支配をもくろみ、それを「いくさ無き世をつくるため」と言い換えたところから始まった方便でしょう。それを“血統によって受け継がれる聖なる一族”という時代を超えた神話を生み出すことが、記紀神話のうち特に日本書紀の目的だったと思いますが、それは文字を使う知識人や武士階級を対象とした意図であり、一般大衆のなかに広がった物語ではなかったと思います。江戸時代まで「テンノウ」なんて知らなかった人々が多かったことは様々な資料にも散見できます。明治政府となり、世界の諸国と肩を並べるか、それ以上の「国体」を目指したとき、武士たちが一目おいている「京の帝」を東の都に担ぎ出し、てっぺんとして位置づけたのです。それまでは一般大衆にとって「くに」といえば“出雲国”や“信濃国”など、回りの山々、河、海などを含む風景と地域の歴史との総称としての「おらが国(邦)」だった。それを「ひとつの国」へと洗脳する必要があった。そのための廃仏毀釈だったし、天皇巡幸だったし、東の京を中心とした標準語づくりだった。「国の象徴(シンボル)としての天皇」とは、軍隊の元帥たる天皇の責任を回避し、ひとつの国イメージを維持するための方便でしょうが、聖なる一族、生き神様イメージを「醸造」した立役者は、戦争中から国家権力の走狗であったマスコミでしょう。

キリスト教の中の天皇制「内村鑑三と国体・天皇」

 日本基督教団が成立した根幹に、強固な「国体イメージ」「天皇イメージ」が残っており、現在も根強いまま、相対化も検証もされずに生きていると感じます。アカデミックな、学術的なアプローチではなく、道を求める者=求道者にとっての実感的な、理屈以前の「日本理解」「人間理解」「天皇理解」に迫ってみたいのです。そのために「内村鑑三」を選びました。私自身に対する今の宿題です。