熱狂集団(セクト)の加害性 “カルト問題”に寄せて

Pocket

このエントリーをはてなブックマークに追加

…以下は、2023年2月12日 日本キリスト教団尼崎教会の平和聖日集会での講演を要約し若干加筆したものです…..

“旧統一協会問題”及び熱狂集団についての私的メモ

1968年 統一協会・岸信介・笹川良一・児玉誉士夫による「国際勝共連合」発足
    Fixer(闇のボス)会議
1970年 「国際勝共連合」大会 日本武道館 笹川良一「私は文鮮明氏の犬」発言
    (アレン・ウッド証言)
     スパイ防止法制定促進国民会議  神道政治連盟 (2022年まで安倍晋三が会長)
1974年 富士大石寺顕正会 日蓮正宗から離脱  浅井甚兵衛 国家戒壇 折伏の戦闘性
1984年 岸信介からレーガンへの親書「文鮮明氏は自由と民主主義に不可欠。
    釈放をお願いする」
1989年 オウムによる坂本堤弁護士一家殺人事件
1990年 オウム 衆議院議員選挙で敗北 陰謀説を拡散 戦闘態勢を強める
1991年 創価学会 日蓮正宗から離脱 戦闘的折伏 国政参加後、国家戒壇を取り下げ
1992年 文鮮明のメシア(救世主・再臨主)宣言 韓国で三万組の合同結婚式(桜田淳子・
    山崎浩子ら)
1992年 エホバの証人(ものみの塔) 輸血拒否事件
1995年 地下鉄サリン事件
1997年 元号法制化日本会議→日本会議(小渕恵三 森喜朗 小沢辰男)
1999年 自己啓発セミナー ライフスペース高橋弘二 成田ミイラ化遺体事件
2009年 富士吉田市 「不二阿祖山太神宮(ふじあそやまだいじんぐう)」設立 
    顧問 安倍昭恵 石破茂 →71名国会議員 9の中央官庁 19の自治体 8の教育委員会
    36の行政機関と全国メディア7社が後援「イエス・キリストはここで修行をしてか
    ら国に帰ってキリスト教を広めた」と説明しているとの情報あり。 
2011年9月 オウム事件を描いた「A3」が講談社のノンフィクション賞受賞。
    これに対し、滝本弁護士他が抗議し、「弟子の暴走」否定
2018年3月 滝本弁護士、JSCPR弁護士ら 麻原彰晃以外の弟子に対する死刑執行に反対す
    る声明 →麻原の死刑は当然という主張。
2018年6月 森達也、雨宮花凛 宮台真司他「オウム事件真相究明の会」麻原への治療
    優先を主張。麻原教祖の死刑も弟子達の死刑執行にも反対。
    「国や社会は死刑で区切りをつけたがっている。事件を風化させてはならない」
    と主張。
2018年7月6日と26日 麻原他13名「死刑」
2022年7月8日 安倍晋三元首相銃撃で死亡 山上徹也容疑者逮捕
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
前書き
 現代、旧統一協会だけではなく「熱狂的なセクト」「カルト」として問題視され報道されている団体があります。
 問題の多くが、組織や構成員の「熱狂」から派生している問題がいちばん大きいと感じています。
 いかなる団体であれ、それらが文化的、宗教的、精神活動や政治活動を提唱し、参加を呼びかけている団体であり、一般的によく知られている、信頼できる、安全な、オープンな、というイメージや活動が定着している団体であったっり、そのように努力している団体ならば、一見奇異に映る団体であっても問題にはなりにくいはずです。

 しかし、組織の実態を隠して新しい名称や、“美しい理想(世界平和・神の国、国家戒壇など)”で勧誘し、“救い”や“病の治癒”や“祟り”などの、心の弱さにつけ込む概念で心理誘導し、入信・参加しないことによって大きな不利益がある等と、退路を絶って脅すなど、強引に勧誘する団体についての対策、被害の救済、加害性の周知、警鐘が近年の大きな課題になっています。
※熱狂的集団の反社会性・人権侵害として弁護士たちが挙げている問題点
 (チェック項目)
中心人物の独裁 (教祖崇拝 教祖の子や家族や血縁者を崇拝させる)
組織・お金の流れや人事の隠蔽、隠匿
教義・規則の隠蔽 
入会・脱会の不自由 
正体を隠した勧誘・伝道 
内部批判者への攻撃・排斥 
敵と看做した組織や人物への激しい攻撃・テロ 
脱落者・傷病者の切り捨て


 一方で、グループによる自由な精神活動や、新たな宗教活動や教団作り、結社の自由や政治党派作りは制限されるべきではない基本的権利です。
 基本的には、「公」、一般社会に対して責任ある団体として、「入るのも自由、出るのも自由」で、参加、入会、脱会の自由が明らかにされており、献金や会費や従事者の報酬など金銭の流れも外部から知ることができ、ホームページや印刷物などを通して、活動内容や責任役員名なども随時公になっているオープンな姿勢は基本であるべきであり、それが決して運動や宗教活動の妨げにはならないはずです。

 「カルト」のラベリングや、行政による「宗教法人の認可」「認可取り消し」など、いわば上からの政策、“治安対策”によって、「怪しい」「危険な」「加害性の大きな団体」の取り締まり、「宗教団体への立ち入り調査」を求める声もあります。が、人間社会の自由な活動に対する制限を、国や警察に委ねるべきではないし、危険な団体かそうではないかの判断は、国や公の保証に求めることではなく、民間の人間関係の中で情報共有やチェックが行われ、最終的には各自の判断であるべきだと思います。

 選挙の時は、民主主義の名の下に、明らかに個人の意思ではない、大きな組織票が、特定の政党と結びつき、大勢に影響を与える宗教団体もあります。宗教団体やその活動に疑惑の眼差しが向けられる現在だからこそ、組織や活動の実体を明らかにし続けていくことが、わたしたち宗教団体に求められていると考えています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 1)「カルト」「マインドコントロール」の用語の功罪について

「カルト」という言葉は、共同で何かに向かって手を合わせるとか、一緒に祈る、とかの、自然発生的な信仰形態を表すラテン語 cultusから派生した用語で、「原始的宗教」のような意味でも使われます。
 1978 年のガイアナのジョーンズタウンでの「集団殺人・集団自殺」をきっかけに、主に米国で流布され、「マインドコントロール」の用語とともに「怪しげな人を騙す宗教団体」「危険な集団」を指す用語として用いられ始め、その後、警戒を呼びかけ、被害を防ぐための「カルト・アウェアネス・ネットワーク(CAN:Cult Awareness Network)」が設立され、200余の不透明な多くの団体への監視活動を行っていましたが、用語の定義と「宗教」との線引きが曖昧だったことと、CANが最も危険だと警告を発していた“サイエントロジー教会”からの反撃・訴えで裁判に負け、破産。その後発足した「New Cult awareness network」は、その 「サイエントロジー教会」が運営し、サイエントロジーに反対するグループについての情報を提供しているようです。
 ちなみにサイエントロジー教会は、1969年に「市民の人権擁護の会」(CCHR)を設立し、精神医療における人権侵害についての告発と啓蒙活動を日本でも行っていますが、被害者の人権救済と精神医療を改善するための他の活動団体との連携よりも、“サイエントロジー”を拡大するためのセクト的な活動に終始しているように感じられます。ギリシャでは禁止。フランスは危険な団体として認定、ドイツでは民主主義に対する脅威的団体として認定している様子です。

 現代社会はネットを通して「難民救済」「戦争被害者を救え」「孤児を守ろう」「地球の環境破壊を防ごう」「薬害から市民を守ろう」などのアピールでお金や人を集める活動団体は巷に溢れています。訴えている活動がどれほど「正しい」と感じても、組織全体を見渡す、見抜くことは難しいのであり、「お金を提供する」ことは、その組織全体に協力・加担したことになり、組織に「間違った行為」があれば、そこに協力した“責任”が生じ、善意で協力しただけ、では済まないことになります。

 ヨーロッパではフランスを中心に、非社会的、秘密結社的、熱狂的グループについては「セクト」と呼ばれてきました。日本では、1993年に米国の元統一協会信者、スティーブン・ハッサンによる、統一協会の犯罪を明らかにしようとした「Combatting Cult Mind Control」という書籍が、被害者の救済活動をも行っていた浅見貞雄東北学院大学教授によって『マインドコントロールの恐怖』として翻訳され、「カルト」「マインドコントロール」という二つの用語が、統一協会問題の理解の一助として広まりました。
 しかし、統一協会以外の“怪しげな団体”についてのマスコミ報道などでも「カルト」「マインド・コントロール」の用語が用いられ、「宗教」や「洗脳」「心理誘導」「心理操作」概念との違いなども曖昧なまま、漠然と“おかしな団体とそれに踊らされるおかしな人々”といったニュアンスの、非難めいた“レッテル貼り”の言葉として広まってしまったと感じています。

2)カルト監視団体について

 「カルト」という用語が拡散され、「ヤバい団体」とのニュアンスとともに一人歩きし、私自身も様々な人たちから「○△□という団体はカルトか否か」と尋ねられました。そんな「ヤバい団体」情報が集まり、発信していたのが、全国霊感商法対策弁護士連絡会(略称 全国弁連)や、私自身も参加している「脱カルト協会」(1995年発足)でした。ヤバそうな熱狂集団に対して、映画「ゴーストバスターズ」ならぬ “カルトバスターズ” (カルト摘発隊)、“悪なるカルトと戦う戦士”のごとき雰囲気が全国弁連や脱カルト協会にあったと思います。

 相談に乗ったり、訴訟で対応したり、“救出”を目指したカウンセリングを行う側とすれば、熱狂度が高い団体ほど、家族親族友人との話し合いを“宗教弾圧”として妨害したり攻撃してくることが多く、応戦的、戦闘的にならざるを得ない事情もありました。

 1999年にJDCC・日本脱カルト研究会(現JSCPR・日本脱カルト協会 2004年改称)は「集団健康度チェック目録」を作成しており、それがオープンにされているかされていないかに関わらず、米国のCAN、カルト監視団体、映画ゴーストバウターズの如き“カルトバスターズ”、というような方向性が顕著でした。

 その頃、JDCCの研修会が創価大学で行われたことで、“創価大学は国が認めた大学だから問題ではない”、との意見と、“公明党や創価大学の本体である創価学会は反社会的なカルトであり、JDCCはカルトにお墨付きを与えるのか”との意見とで紛糾したことがありました。この問題はその後曖昧なままおおっぴらには議論されなくなったと記憶しています。
 監視対象の団体については、記録や記事などが外に出た場合の訴訟対策もあり、“議論ある団体”という表現が今日も続いています。

 一方で「カルト」という言葉とともに一般社会に「宗教」に対する警戒心が生まれ、人間の宗教心や宗教活動に対する偏見や警戒心を助長した面が大きかったと思われます。それは1990年代からキリスト教会やお寺や、既成の宗教団体を訪れる、新たな人の数が激減したことにも表れています。日本基督教団の諸教会でも、“当教会は統一協会やエホバの証人、ものみの塔のようなカルト団体ではありません”というような文言を看板やチラシに入れて、自分たちの組織防衛に躍起でした。

 私自身も家族や友人たちからの相談に応じて、統一教会や熱狂的な集団の問題と長年関わってきましたが、曖昧な「カルト」という用語よりも、一般的な、排他的・閉鎖的・独善的、かつ熱狂的な集団を表す「セクト」概念のほうが適していたと反省とともに感じています。それは、理論や教義などが近いものほど激しく争ったり、小さな違いを過大視して熱狂的に主導性を争うナルシスチックなセクト、政治団体や活動団体にも共通する重要なテーマだと思います。

「カルト」=「反社会的団体」というステレオタイプの思考を生み出した用語については、すでに頻繁に使われていますが、安易な使用は危険だと今も思います。奇異に感じる団体や行動を、被害を受けたわけでもないのに興味本位に揶揄したり、社会の治安を乱す可能性があると断定し、警察に取り締まりを求めたり、自分たちが異質に感じるものを排除しようとして人権侵害、差別を生み出したりもします。かつて戦時中に戦争反対を叫んで投獄され、かつ所属していた“ものみの塔”からも除名された明石順三の件や、興味本位にマスコミと警察に叩かれ続けた千石剛賢氏、“イエスの箱舟”事件の悲劇も思い浮かびます。


3)「マインドコントロール」について

 全国弁連が統一協会の被害者救済の一環として起こしてきた「青春を返せ訴訟」がありました。統一協会の「マインドコントロール」により、長期にわたって自由意志を奪われ、組織に利用され続けた期間の被害を弁償しろ、という趣旨の訴訟です。裁判では、活動目的を正しいと信じて行動していた側の自己責任の度合い、自由意志の度合いや、組織の指示により高額な商品を売りつけた場合の購入被害者に対する責任や、新たな信者を勧誘し活動に従事させたことの責任などなど、「マインドコントロール」概念やその被害の認定は、今も困難な状況だと思われます。


 これに関連した興味深い出来事が最近ありました。
 森達也監督(オウム問題を内部から描いた映画A,A2)は著書として「A3」を出版。「事件や被害者に対する麻原教祖の責任は免れないが、弟子達は単に服従していたわけではなく、教団内での地位争いで暴走し、積極的に社会への攻撃を拡大し、教団を更なる戦いへと加速させた場面もあった。教祖と弟子達の関係は、単なる犯罪行為を指示した側と、マインドコントロールされ、指示通り動くしかなかった被害者という図式ではなかった」というのが森達也監督側の描こうとした内容でした。

 これに対して、滝本太郎他、霊感商法被害弁連の弁護士達が抗議声明を発表。統一協会を脱会したもと信者の「青春を返せ訴訟」を担ってきた弁護士達にとって、教祖や加害者カルト側VSマインドコントロールされた弟子や被害者たち、という構図をベースとした「マインドコントロール理論」が曖昧になることは許せなかったと思われます。

 長期にわたったオウム事件の、教祖や幹部たちをめぐる審理が終わりに近づき、幹部たちへの死刑判決が続いたとき、脱カルト協会の滝本弁護士を中心に「麻原教祖以外の信者に対する死刑反対声明」を出しました。幹部を含め、信者たちはマインドコントロールされた、もともと真面目な被害者であり、死刑にすべきではない、との主張です。これは、裏返せば、“麻原教祖は犯罪を指示した責任者であり、死刑にされるべき”という「死刑合憲論」の主張となります。
 
 これに対して、森達也氏や「死刑違憲論者」側は、死刑は犯罪の抑止力にはならず、犯罪被害者の救済にも繋がらず、ただ、社会を震撼させた嫌な記憶を忘れたがっている人々、事件とは関係のない一般人の「不安解消」に資するのみであり、被害者と加害者が和解を目指す機会も失い、生きて償う機会を失わせ、事件を風化させる結果しか残さない、と訴えました。麻原教祖については重篤な精神病が明らかであり、精神病患者を治療もせず死刑に処すことは国際的な人権規約にも違反していると主張。死刑廃止論の森達也氏にとっては、滝本弁護士や被害弁連の弁護士達が、麻原教祖の死刑を認め死刑を存置させ、弟子の助命を求めることは欺瞞と映ったようです。が、マスコミ側の多くは「麻原教祖以外の信者に対する死刑反対」論を盛んに取り上げ、森達也側の主張はほとんど取り上げられませんでした。「麻原教祖以外の助命を訴える」ほうがマスコミ受け、世間ウケしたわけです。


4)“旧統一協会”と“勝共連合”という現象について
 現在、特に自民党、及び“勝共連合議員”と、旧統一協会との“相互利用関係”が、安倍元首相殺害事件で改めてクローズアップされています。
 長年この問題に関わってきた者として、統一協会の実体は「宗教」ではないと確信しています。最近そのことを見事に表現している動画がyoutubeにアップされています。1970年に日本武道館で行われた「国際勝共連合」発足式に、統一協会の米国における幹部として参加していたアレン・ウッド氏が目撃したこと。壇上に立った笹川良一(モーターボート・日本船舶振興会会長)の発言『文鮮明先生の前では私は犬である』を証言しています。文鮮明に対する絶賛の辞ですが、宗教家としてでも、“メシア”としてでも、思想家としてでもありません。「裏社会のボス」Fixer フィクサー、もっと簡単に言えば「ヤクザ」としてです。これを“宗教団体”として扱おうとするところに間違いが生じます。

 統一協会の最重要の教義である「原理公論」は他人の書を剽窃し仲間が書き加えたものですし、聖書についてほとんど知りません。要は、“十字架に架けられたイエスはメシアとして失敗したのであり、その失敗者から頼まれた、本物のメシアがわたし文鮮明であり、私によってサタンに汚染された血統から神側の浄い血統へと転換でき、世界を一つに統一できる”というホラ話を信じさせ、熱狂集団を作り上げました。韓国は日本以上に、血統、血のつながりを重要視する国です。その韓国で、“血分けを行う混淫派”(宗教を利用したフリーセックス派)として有名でしたが、軍事クーデターで大統領となった朴正熙に資金提供と人材提供を行い、銃器制作部門と反共政策を担って勢力を更に拡大していった危険なセクトでした。「共産主義に」ついての知識もまるでありませんでした。ただ、「共産主義はサタンである」と教義に付け加えればよかった。宗教、キリスト教は、闇のボス、フィクサーにとって、単なる隠れ蓑にしただけでなく、文鮮明自身を崇拝させ、お金を集め、人を集め、権力を手にする道具に仕立てました。集めた豊富な資金で海外の「反共側」の政府要人たちや知識人たちに資金提供しながらネットワークを広げていった。その「盗っ人猛々しい手口」のみごとさを、第二次世界大戦の裏世界で活躍していた児玉誉士夫や笹川良一は絶賛したわけです。

 終戦後、米ソの二大冷戦期に米国でも日本でも「共産主義は悪魔である」という“赤狩り旋風”が吹き荒れました。“共産主義は悪魔である”という教義だけで文鮮明は米国に拠点をつくり、ワシントンタイムズという新聞社を作って反共側の議員や大統領に近づき、日本側の反共国会議員たちとのネットワークを築き、日本の国会議員と米国の共和党議員たちとの仲介の役割まで果たしていました。

 旧統一協会問題が映し出しているのは、“スパイ防止法”に繋がる“赤狩り”という弾圧が今も残っていることと、今も続く米日安保条約や米日合同委員会のもとで、米国の軍事戦略に従属しながら独立国としての体裁を装うための、闇のネゴシエーション(談合)や、国交のない国との裏交渉や、その中立ちを統一協会に委ねてきた歴史がありますし、更に、闇献金や、選挙の票集めや、表に出せない闇の政治資金を宗教法人を通して浄化する“マネーロンダリング”でお世話になってきたなどの、表に出しにくい不透明なままの長い歴史があり、切開して患部を取り出すなどの外科治療的アプローチは極めて困難な課題です。個々人の契約ではなく合同結婚式で韓国に渡った日本人女性や、世界宣教の名のもとに南米やら様々な国々に飛ばされた日本人女性たちの問題も残ったままです。
 問題を矮小化し、現職議員と旧統一協会との関係を断つ、とか、宗教法人としての認可取り消し、などでお茶を濁すわけにはいかない背景にどう切り込むのか、が今問われている極めて重要な課題だと思います。

5)熱狂的集団から大切な人を救出するために

 その集団が外から見て、どれほど奇妙な、非論理的な、非合理的な集団であろうと「馬鹿なこと」として反対したり否定したりしても、それは“火に油を注ぐ”結果になることがほとんどです。

 熱狂を理解する一つの例ですが、日本全体が熱狂していた太平洋戦争の末期、敵艦に体当たりするための「特攻」を志願して、爆薬を抱え、片道だけの燃料で飛び立って行った、文字通り「必死」のパイロットの若者が多くいました。彼らの「志願」をやめさせようとした人もほんの一部はいたようですが、説得には誰も成功していないと思います。大きな集団の熱狂の前には、どれほどの関係があったとしても、個人の働きかけはほぼ無力です。

 基本は、救出したい本人を、とても大切に思っている家族や親族や友人などがどこまで熱狂を冷ますための困難に立ち向かえるかの、救出側の覚悟と準備が重要であり、持続可能な救出のネットワークづくりが大切です。

 熱狂側の本人は、善なる崇高な使命感に燃えており、反対する側を悪、サタン側、或いはサタン側に唆された人たちとみなし、反対者と徹底的に戦い、熱狂に至った信念を貫くことを最大の目標とします。
話し合いの場所が戦場と化すことは絶対に避けなければなりません。話し合いの頭から、あなたは他人にマインドコントロールされている、とか、組織に利用されている、といった否定的なアプローチは、せっかくの話し合いの場を壊してしまいます。

 先ずは、大切な、崇高な使命に立ち上がった本人の心模様をよく知り、一人の生き方として、その決断に至った過程や背景をも含め、生半可ではない決断があったことを認めることが重要です。
 本人の現在の決断や思いを個人として尊重する気持ちが通じてからしか、話し合いは始まりませんし、説得しようとする側の言葉も届きません。

————————————————————————
 一定の期間、話し合おう。あなたの気持ちや決断は尊重するが、私たちの気持ちにも耳を貸してほしい。あなたの決断に疑問を持っていたり、反対したい気持ちにも耳を傾けてほしい。もしも、話し合いのなかで、あなたの決断や組織の目的が正しいことだと確信したら、組織に協力するし、或いは私も組織に参加しようと思う。
 あなたも私たちそれぞれの思いや意見を聞いて、本当にこの道を突き進むべきか、一生を賭けてもいい決断なのかを、改めて立ち止まって考えてほしい。この組織に邁進していたけれど、疑問を抱いて脱会した人の意見も聞いてほしい。私たちが集めた、この組織についての資料にも目を通してほしい。一定期間話し合って、それでもあなたがこの組織、この道を選ぶなら、それ以上、無理やりに押し留めることはできないし、しようとも思わない。
————————————————————————
 たいがい、こんな“同意”から話し合いが始まります。これらの、相手を理解しようとする、相手にも理解を求める言葉が、マニュアルではなく、自分の言葉として伝えることができれば、話し合いの道は開けると思います。

 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー