191013 宣教要旨 ホセア書6:1-3 マルコ福音書8:27-33 題「おとしまえはわたしひとりで」宣教 金田恆孝
聖霊降臨節第19主日礼拝
旧約聖書 ホセア書6章1-3節
6:1「さあ、わたしたちは主に帰ろう。主はわたしたちをかき裂かれたが、またいやし、
わたしたちを打たれたが、また包んでくださるからだ。
6:2主は、ふつかの後、わたしたちを生かし、三日目にわたしたちを立たせられる。
わたしたちはみ前で生きる。
6:3わたしたちは主を知ろう、せつに主を知ることを求めよう。主はあしたの光のように
必ず現れいで、冬の雨のように、わたしたちに臨み、春の雨のように地を潤される」。
新約聖書 マルコによる福音書8章27-33節
8:27さて、イエスは弟子たちとピリポ・カイザリヤの村々へ出かけられたが、その途中で、弟子たちに尋ねて言われた、「人々は、わたしをだれと言っているか」。
8:28彼らは答えて言った、「バプテスマのヨハネだと、言っています。また、エリヤだと
言い、また、預言者のひとりだと言っている者もあります」。
8:29そこでイエスは彼らに尋ねられた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと
言うか」。ペテロが答えて言った、「あなたこそキリストです」。
8:30するとイエスは、自分のことをだれにも言ってはいけないと、彼らを戒められた。
8:31それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに
捨てられ、また殺され、そして三日の後によみがえるべきことを、彼らに教えはじめ、
8:32しかもあからさまに、この事を話された。すると、ペテロはイエスをわきへ
引き寄せて、いさめはじめたので、
8:33イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペテロをしかって言われた、
「サタンよ、引きさがれ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。
聖書から聴く 主題「落とし前はわたし一人で」
「行って、姦淫の女をめとり、 姦淫の子らを引き取れ。」「この国は主を見捨てて、 はなはだしい淫行にふけっているからだ。」(1:2)。最も罪深い女をめとり愛せよ、の神の指示に従い、淫行に走り連れ子のいる女ゴメスをめとり、裏切られ続けながらも支え続けたホセア。
主は、ふつかの後、わたしたちを生かし、三日目にわたしたちを立たせられる。(6:2)神の指示に従ったばかりに受けた試練の期間を二日間であらわし(、耐えられぬ試練はない)、試練後(三日目)には再生の新たないのちを与えられる、という確かな希望をホセアの体験から語る。
イエスに希望を託し、群がるように集まっていた人々が、イエス自身の“わたしは必ず多くの苦しみを受け、世の中から捨てられ、また殺される”との言葉に躓き、離れていった。弟子と呼ばれる仲間たちも混乱と不安の中にあった。ペテロたちは、“この世がイエスを殺そうとしても神は、聖霊たちを総動員してメシアであるべきイエスを助けるに違いない”と自分に言い聞かせていたと想像します。また、イエスや自分たちが行っていることが、国の秩序に反乱している、国の秩序を支えている人々を激しく怒らせている、という危機感も持ち合わせていなかったと想像します。が、イエスは世から国への反乱者として必ず殺されることを告げ、“国に対する反乱者への「おとしまえ」は必ずなされる。それを引き受けるのはわたし一人で十分である。これは二日間の試練と同じであり、新たないのちへと再生されるための避けることのできない試練なのだ”と語ったと思われます。それはユダヤ教における、過越の祭と、種入れぬパンの祭のあとの初穂の祭りに至る「三日目」を言い表しています。再生のいのち、すなわち神の国の初穂となる、という意味が込められています。
リーダーであるイエスが必ず殺される、というイエス自身の言葉はとうてい仲間たちには受け入れることのできないものでした。
○先週の出来事(気になるニュース)
神戸市の中学校で、教師たちによる教師への“楽しげな嫌がらせ”事件。 教師という仮面の中身はただの人でしかないが、「ただのひと」たる自分自身を、先生と呼ばれ続け、先生であり続けようとする中で見失ってしまったのでしょう。政治家であれ、医師であれ、牧師であれ、仮面の中の、ただのひとたる自分を見失ってしまう悲劇は数多あり、生み出される被害も大きいのでしょう。いっそのこと、「先生」という称号、使用禁止にできないものでしょうか。牧仕、みたいに教仕、或いは「公僕」「年長様」とかに変えましょうか。