20210530 東淀川教会礼拝 宣教要旨「全ての命は主の灯火」

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本日の聖書箇所(聖書協会共同訳) 
  イザヤ書42章 1-3節
 見よ、私が支える僕(しもべ)  わたしの心が喜びとする 
わたしの選んだ者を。 わたしは彼にわたしの霊を授け  
彼は諸国民に公正をもたらす。
 彼は叫ばず、声を上げず、巷にその声を響かせない。
傷ついた葦を折らず  くすぶる灯心の火を消さず  
忠実に公正をもたらす。

  イザヤ書43章 16-17節
 主はこう言われる。すなわち海の中に道を 荒れ狂う水の中に
通り道を作られ 戦車と馬、大軍と兵を連れ出し  彼らを皆
倒して起き上がらせず  灯心の火を消すように消滅させた方。

詩編18章 029節
 主よ、あなたは私の灯をともし わが神は 私の闇を照らす。

 マルコによる福音書4章 21-23節
 また、イエスは言われた。「灯を持って来るのは、升の下や
寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。
隠れているもので、あらわにならないものはなく、
秘められたもので、明るみに出ないものはない。
聞く耳のある者は聞きなさい。」

ヨハネによる福音書9章 1-3節
さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。「先生、この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか。」 イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。
ヨハネによる福音書9章39-40節
イエスは言われた。「私がこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」
イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。

宣教要旨『全ての命は主の灯火』
 

「灯」を、命の主から与えられた「輝き」として比喩的に表現しているのは、預言者の書や諸書、詩篇などに散見される。
「灯は升の下や寝台の下に置くためではなく、燭台の上に置くためではないか」とは、どのいのちもそのままで輝くのが当然で、隠されたり損なわれたりすべきではない、と理解できる。
 しかしこの箇所を(私自身もかつてそのように講解した),多くの場合「地の塩、世の光」との関連で「キリスト教徒、クリスチャンこそ世の光、地の塩であるべき」と解釈し、そのように受け取ってきた。なぜそうなるのだろうか。古代ローマ帝国の国教であったし西欧から各地に広がったキリスト教のプライド、世をリードしようとする前衛意識からなのだろうか。イスラム教や仏教などと比較しても、この前衛意識は根深いと思われる。  
 イエスが近づきさまざまな癒やしのわざを行なったのは、燻らされ、吹き消されようとしてる灯火(人のいのち)に対してであった。イエスのわざについて大声で騒いだ者たちの伝承が記録の中に残ってはいるが、実は“巷にその声を響かせない”静かなわざであったと思われる。いのちの灯を灯すのも消すのも主の御手によるもの。それを升の下や寝台の下に隠したり折ったり吹き消してはならない。いかなる人のいのちであれ、その輝きは燭台の上にあって、いのちの主なる神の御わざを現わし、だれの目からも隠されてはならない、というのが本旨だろう。
 
 ヨハネ福音書9章1-3節が表現しているのは、イエスの“生まれつき目が見えないのは罪の結果であるとか、五体満足が罪のないしるしなどと思ってもみるな。短命が神の罰であり、長命が神の祝福のしるしなどと考えてもみるな。全ての命は神の灯であり、それぞれ異なった灯は神のわざがそれぞれに現れるためである”と理解できる。が、人間はいつでも自己中な生き物。
 今日、コロナウィルスの脅威の中で“医学的知見と医療技術への依存が高まり、データでの死亡率や生存率が基準となり、生存期間を僅かでも伸ばすことが当然、という試みが続けられている。それに依存しない、治療を受けない自由や個人意志などは吹き飛んでしまいそうな、「医療ファシズム」が起きそうな気配を感じてしまう。

先週の出来事 
 コロナウィルス感染の増減だけでなく、ワクチン情報とともに副反応(アナフィラキシー、血栓、死亡など)についても世界各地の情報が伝わってくる。これは「延命のための確率ゲーム」ではないか、とすら感じてしまう。


「20210530 東淀川教会礼拝 宣教要旨「全ての命は主の灯火」」への1件のフィードバック

  1. 20210530の宣教要旨「全ての命は主の灯火」で感じたことです。灯火は燭台の上にあるのがふつうで最も輝く。私たちは何も金儲けや地位や権力を得るような「特殊な生き方」をしたいわけではなく、ごくごく「ふつう」に生きたいだけ。人のいのちを灯火に例えたイエスは、人は誰でも「ふつう」に生きる権利があると言っているように思える。「ふつう」に生きるとは「その人らしく」生きることだとすると、人間の顔と同じく、人の数だけ様々で多様な生き方があり、イエスはそれさえも肯定していることになる。それは憲法の規定する生存権にもつながる。またイエスの人間肯定、人間賛歌に出会えたようで爽やかな気持ちです。

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