20210801 東淀川教会宣教要旨「現代の律法主義」担当 金田恆孝

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本日の聖書箇所(聖書協会共同訳) 

ハバクク書1章10-11節

彼らは王たちを嘲り 君主たちを笑い物にする。いかなる砦をも嘲笑い 土を積み上げて奪い取る。

こうして、風のようになぎ倒して去って行く。彼らには罪がある。己の力を神とするからである。



ヨハネによる福音書9章 39-41節
イエスは言われた。「私がこの世に来たのは、裁くためである。
こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」
イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これを聞いて、
「我々も見えないということか」と言った。
イエスは言われた。「見えない者であったなら、罪はないであろう。
しかし、現に今、『見える』とあなたがたは言っている。
だから、あなたがたの罪は残る。」

宣教の要旨「現代の律法主義」
ハバクク書が伝えるのは「悪しき王を倒すのは正義である」と、それまでの王を裁き倒すが、自らが権力を持つと、自らを神にまで高めようとする権力者の姿がある。

 ヨハネ福音書におけるファリサイ派の人々は、自分たちこそが律法を厳密に守り、神の裁きを行っていると自負している人々であった。自分たちの律法理解にこだわり、神の裁きによって盲人となっている人の目を、神殿の赦しもなく(医者でもないのに)勝手に見えるようにするなどとんでもないと考えていたと思われる。目が見えないことによって「多数・一般の視覚情報」から疎外されていることなど、どうでもよかった。


 現代にも諸刃の剣となる正義の運動があった。1960年代後半から「差別」糾弾の様々な運動があった。
被差別部落への、在日朝鮮人・外国人への、沖縄・アイヌへの、身体・精神障害者への、公害被害者への、その他様々な少数者(マイノリティ)への差別を糾弾し、差別の実体を理解せず被害者と連帯しないしない者は加害者であると批判する運動だった。社会の矛盾は差別解消によって解決していくという運動論があった。運動のセクト争いがあり、Aの差別被害者がBの差別被害者のことを理解し連帯することも困難であり、各々の被害者側にも“差別”があった。差別解消の目標、到達地点は、「無条件の平等」という理念でもなかった。
「差別」概念の一人歩き、反差別という律法主義だった。

 本来、“差別”という用語は、正当な根拠もなく受けられるはずの利益が生けられないことへの抗議のことばだった。2000年以降は各々の運動の行き詰まりから、“人権問題”として語られるようになった。が、この「人権」理解は、不可侵の尊厳Dignity(国連人権規約)(憲法24条婚姻に関する規定)なのか、努力目標の、尊重Respectされるべき人権(憲法13条)(すべて国民は、個人として尊重される)という努力目標なのかあいまいである。
イエスの「神の子」表現は、“全てのいのちは神のもの” であり、人間に対する“殺してはならない”という律法は絶対的な命令であり、「絶対の不可侵の尊厳」を指していたと思われる。

 イエスの、「あなたがたが自分自身を(絶対的に)愛すると同じように、隣人を愛しなさい」のメッセージ、そしてイザヤが語る「神は高いところから、この世の、偉い人を上に引き上げる神ではなく、人間が作る序列の最深部、最後尾(どん尻)にこそいてくださる」のメッセージにある希望をこそ、あらためて注視したい。

先週の出来事

12歳以上の子どもへのワクチン接種が準備されている様子。15歳以下の子どもの死亡率はほとんどなく、むしろ一般のインフルエンザの方が死亡率が高いとのこと。はやく子どもたちがマスクから解放されるよう祈りたい。

 

投稿者:

izayajesus

東淀川教会 主任 金田恆孝

「20210801 東淀川教会宣教要旨「現代の律法主義」担当 金田恆孝」への2件のフィードバック

  1. 0801の金田牧師の宣教も色々考えさせられ楽しかったです。律法=マニアル=形に囚われて、これが創られたそもそもの目的を忘れ、これを守ること自体が目的になってしまう(外れる者を攻撃する)ことは、現代でもよくあることです。これは、自分の私利私欲や言い訳(責任回避)を隠して、あたかも公(みんな)の問題であるかのようにすり替える論法としてよく使われます。これを見抜いて、みんなが幸せになるため、あるいは運動や物事を前進させるための、本音、本質での話し合いに持っていくことが、民主主義=コミュニケーションの神髄、醍醐味であろうと思います。そうすれば多数者である「見えない者」は、真実や本質が「見える者」に変化、成長できます。だから、現代の変革や革命は「自由なしゃべくり」「しゃべくり合い」によってなされるものと信じています(しゃべくり変革、しゃべくり革命)。

  2. コロナ禍によって、人間のための文化の価値が高まり、人間にとっての必要性も高まっていると思います。その文化とは、演劇、音楽、映画、美術、学問、宗教と多様で、しかもリモートではなく、「生」(生の舞台、生の鑑賞、生の体感、生の対話)が益々大事になっているのではないでしょうか。コロナに負けずに、教会の「生」の礼拝に集いましょう。日々や自己を振りかえる、金田牧師の「生」の宣教が聞けます。しかも礼拝後に宣教の率直な感想を「生」で話し合えます。何と「文句」でもいいというのがめちゃ素敵です。経験上そんな教会は滅多にありません。元気になります。楽しくなります。場合によっては「目からウロコ」で「見える者」になれます。この教会には「生」の文化の魅力があります。

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