20210926 SundayService 宣教題「お金という偶像」担当 金田恆孝

本日の聖書箇所(聖書協会共同訳)

出エジプト記32章 1-4節
モーセが山からなかなか下りて来ないのを見て、
民はアロンのもとに集まって言った。「さあ、私たちに先立って進む神々を私たちのために造ってください。私たちをエジプトの地から導き上った人、あのモーセがどうなったのか、分からないからです。」
アロンは彼らに言った。「あなたがたの妻、息子、娘の金の耳輪を外し、私のところに持って来なさい。」すると民は皆、耳にある金の輪を外し、アロンのところに持って来た。アロンは彼らの手からそれを受け取り、のみで型を彫り、子牛の鋳像を造った。すると彼らは「イスラエルよ、これがあなたの神だ。これがあなたをエジプトの地から導き上ったのだ」と言った。

申命記29章 16-18節
あなたがたは、彼らのところにある木や石、銀や金でできた憎むべき偶像を見た。
あなたがたの中に、今日、心変わりして私たちの神、主を離れ、諸国民の神々のもとに行って仕えるような男や女、氏族や部族があってはならない。あなたがたの中に毒草や苦よもぎの根があってはならない。
この呪いの言葉を聞いても、心の中で自分を祝福し、「心をかたくなにして歩んでも、私は大丈夫だ」と言うなら、潤っている地も乾いている地と共に滅びる。

マルコによる福音書10章 25節
金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通るほうがまだ易しい。」

宣教の要旨「お金という偶像」

 禁止されるべき「偶像崇拝」の「偶像」とは何か。モーセが十戒を授かった場面で言えば、目に見えるものとしては、彫像としての「金の子牛」ですが、本質としては「富」崇拝禁止、目に見えるものとしての「金、貨幣」をこそ最大の“我々の守り”として崇拝することだったのでしょう。後世のキリスト教は、目に見える「もの」についてのみ偶像として激しい論争や争いを繰り返し、「富」によってのみ守られようとすること、富の集積、資本の信仰的理解について答えることを避け続けたと思います。米国の鉄鋼王と呼ばれ大富豪だったアンドリュー・カーネギーのように、イエスの問いかけに個人として答え、個人資産を公共の富のために寄付し、お金持ちであることをやめたキリスト者もいました。規模は違ってもカーネギーのような信仰者は歴史上多くいたと思います。

「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通るほうがまだ易しい。」とか「神のものは神に、皇帝のものは皇帝に」(マルコ12:17)がイエスが直接語った真正の言葉であることを疑う神学者はいないと思います。“金持ち”、資本家、富を独占する者が、“貧しい者”を生み出している、お金がなければ食べ物も手に入らないシステムを作り出し、神さまによってのみ生かされることを不可能とし、人をお金の奴隷にしていることに対するイエスの激しい怒り、資本に対する告発を誰にでもわかる優しい言葉で表現していると感じられる。イスラエルの民が十戒を授かるとき、“金の子牛”事件が起こった。金の子牛は指導者モーセへの不安から「神の偶像を作り出し崇拝した」罪以上に、富(貨幣、銀・金)への依存、富への崇拝そのものに対する神の怒りを表していると思われる。「偶像崇拝禁止」の中心課題はここにあったと感じられる。“お金は王様や国が作り出したもので、神が作ったものではない” “人間が作り出した便利なものであったとしても、そのお金がなくても、お金の奴隷にならなくても生きていける、助け合える世をこそ主なる神は祝福される”、そんなメッセージをイエスは子どもたち、大人たちに向けて語っていたと想像するのです。
 富の支配、経済への従属・奴隷化から脱して、「お金なんかなくても生かしあえる社会」を考えるとき、イエスの言葉は現代で重要なメッセージだろうと思うのです。小中学校で「そもそもお金ってなんだろう」「お金で人が不幸になるのは何故か」みたいな対話や学習、勉強ができるようになったら子どもたちも元気になるのではと思うのです。

先週の出来事

 朝ドラの「モネ」で、「津波を見ていない」「私は故郷から逃げ出した」ことがトラウマになり、「故郷に戻って役に立ちたい」のメッセージが繰り返されると、原発の放射能汚染、子どもたちの被爆を恐れて福島周辺から逃れた人々、帰還できない人々にとって、辛いメッセージではないかと思う。ドラマの中で「津波」という言葉は出てくるが、放射能汚染、被曝などの言葉が出てこないことは不思議だった。気仙沼で牡蠣の養殖が悪天候の被害を受けた、という話題でも、牡蠣の放射能に対する安全性の話題に一切触れないことはいかにも不自然。

20210919 SundayService 宣教題「いのちも場所も神さまからのレンタル」担当 金田恆孝

本日の聖書箇所(聖書協会共同訳)
イザヤ書5章 1-9節
 私は歌おう、私の愛する者のために ぶどう畑の愛の歌を。愛する者は肥沃な丘にぶどう畑を持っていた。彼は畑を掘り起こし、石を取り除き 良いぶどうを植えた。また、畑の中央に見張りのやぐらを建て 搾り場を掘った。彼は良いぶどうが実るのを待ち望んだ。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。
 さあ、エルサレムに住む人、ユダの人よ 私とぶどう畑の間を裁いてみよ。ぶどう畑に対してすべきことで 私がしなかったことがまだあるか。私は良いぶどうが実るのを待ち望んだのに どうして酸っぱいぶどうが実ったのか。そこで今、あなたがたに知らせよう 私がぶどう畑にしようとしていることを。垣根を取り払い、荒らされるに任せ 石垣を壊し、踏みつけられるに任せる。
 私はこれを荒れ地にする。枝は刈り込まれず 耕されることもなく 茨とあざみが生い茂る。 私は雲に命じて、もはや雨を降らせない。万軍の主のぶどう畑とは、イスラエルの家のこと。ユダの人こそ、主が喜んで植えたもの。主は公正を待ち望んだのに そこには、流血。正義を待ち望んだのに そこには、叫び。
災いあれ、家に家を連ね、畑に畑を加える者に。もはや土地はなくなり あなたがただけがこの地の中に住もうとしている。万軍の主は私の耳に告げる。多くの家は荒れ果て 大きく美しい家々にも住む人がいなくなる。

マルコによる福音書12章1-10節
 イエスは、たとえで彼らに話し始められた。「ある人がぶどう園を造り、垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを建て、これを農夫たちに貸して旅に出た。収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を受け取るために、僕を農夫たちのところへ送った。
ところが、農夫たちはこの僕を捕まえて袋叩きにし、何も持たせないで帰した。そこでまた、他の僕を送ったが、農夫たちはその頭を殴り、侮辱した。さらに、もう一人を送ったが、今度は殺した。そのほかに多くの僕を送ったが、ある者は殴られ、ある者は殺された。その人には、まだ一人、愛する息子がいた。『私の息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に息子を送った。
農夫たちは話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、財産はこちらのものだ。』そして、息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外に放り出した。さて、ぶどう園の主人は、どうするだろうか。戻って来て、農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるに違いない。
聖書にこう書いてあるのを読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石 これが隅の親石となった。

宣教の要旨「いのちも土地も神さまからのレンタル」


 紀元前1千年以上前のこと。イスラエル12 部族がカナンの地(パレスチナ)に入植したとき、12部族が各地にそれぞれ分かれて入っていったのは、先住民や近隣部族と共存し、各地それぞれに溶け込んでいくためだったと思われる。ちからで強引に侵入する、戦ってでも侵略するつもりだったら、ひとかたまりになって入ったはず。

「葡萄園悪しき農夫の話」はマタイ、マルコ、ルカ、トマス、各福音書にあり、イエスが引用しているのはこのイザヤ書5章を引用してイエスが語った重要なメッセージであろう。主に導かれ、主が「畑を掘り起こし石を取り除き良いブドウを植えた」土地に入ったのは12のイスラエルの家だった。(入植した12部族は各地に分かれ他のう部族と調和するはずだったが、兄弟争いと近隣部族との争いに明け暮れ、12部族は「北のイスラエルの人」と「南ユダの人」とに分かれ、やがて北イスラエル10部族は滅んだ。国家と武力と財力に頼った「ユダの人」が残したのは流血と悲鳴。ブドウ園から収穫したのは、調和でも平和でもなく「酸っぱいブドウだけ」となり、主はこの民を散らすと告げた。「イスラエル」という言葉には、調和・平和を作り出そうとする「神とともに歩む民」というアイデンティティ、民族理解が込められていたと思われる。

 イエスはイザヤ書5章を受け、南の「エルサレム」を中心とした、周囲と調和せず、国益、利権のみを追い求める「ユダの人」の姿だけでなく、本来神のものである土地を自分たちのものにしようとし、全ての人の命は神のものであるのに、自分たちが作り出した「選民思想」により、異邦人たちを軽んじるようになった。傲慢になってしまった「ユダの人」に対し、神は何度も預言者たちを派遣し、ブドウ園は神のものであることを告げたが、人々は彼らを迫害し、追放し、しまいには殺し、神に守られることよりも国に守られることを選んだ。やがて神はこのカナンの地に彼らを入植させたことを悔い、彼らをここから追い出し、散らしてしまう、と語る。

 30年ごろのイエスの十字架処刑ののち、70年エルサレム神殿崩壊以後、世界に散った流浪の民(ディアスポラ)が、国家を持たないまま「神と共に歩む民・イスラエル」の民族理解を保ち続けたが、ユダヤ人への迫害、第二次世界大戦終結ののち、「やはり国家は必要」と、パレスチナの中に武力でエルサレム国家を建設したことが火種となり今日の民族紛争、列強国の覇権争い、難民問題の大きな病根の一つとなっていることは、現代のキリスト者が“内なる過ちと痛み”として受け止め、考え続けなければならない課題であろう。

 “入植”について考えていたとき、現在は廃村となった埼玉県秩父市吉田大田部楢尾地区の山の民の末裔を追ったNHKドキュメント「花のあとさき」を観ました。「どの花も器量いっぱいに咲いて綺麗だよ〜。お借りした土地や畑をお山の神さまにお返しするためハナモモの木を植えているよ〜」と語るムツおばあさんの言葉に感動しました。(土地も、いのちも神のもの。神からお借りして、役目が終わったら、木や花を植えて、神さまにお返しするだよ〜)のメッセージが伝わってきました。

先週の出来事 岸和田だんじり祭りが「2年連続の自粛はできない」と開催に踏み切った(22町のうち5町は自粛)。だんじり祭りは疫病退散の神事である。感染に怯え、自粛を促す勢力との妥協点を探りながら町ぐるみで実施を決めたパワーに拍手を送りたい。

 

20210912 SundayService Linggo ng serbisyo 東淀川教会 宣教題「偶像崇拝禁止とは」担当 金田恆孝

本日の聖書箇所(聖書協会共同訳)
(出エジプト記20章3節) あなたには、私をおいてほかに神々があってはならない。(4節) あなたは自分のために彫像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水にあるものの、いかなる形も造ってはならない。(5節) それにひれ伏し、それに仕えてはならない。私は主、あなたの神、妬む神である。私を憎む者には、父の罪を子に、さらに、三代、四代までも問うが、(6節)私を愛し、その戒めを守る者には、幾千代にわたって慈しみを示す。(7節)あなたは、あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。主はその名をみだりに唱える者を罰せずにはおかない。

(マルコによる福音書1章 21節)一行はカファルナウムに着いた。そして安息日にすぐ、イエスは会堂に入って教えられた。(22節)人々はその教えに驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者のようにお教えになったからである。(23節)するとすぐに、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。
(24節)「ナザレのイエス、構わないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」(25節)イエスが、「黙れ、この人から出て行け」とお叱りになると、(26節)汚れた霊はその男に痙攣を起こさせ、大声を上げて出て行った。

宣教の要旨「偶像崇拝禁止とは」
 

 壮大な神話から始まる創世記の物語、出エジプト記をはじめとするモーセ5書などを中心とした神イメージ、神と人との関係イメージは、イスラエル民族のみならずセム語族、ハム語族など、今日私たちが「中東」と呼ぶ地域に広く広がっていたイメージだったのでしょう。その神イメージは、宇宙万物の創造主(唯一.only)、全ての生命を生み出した親のような、人格的な感情を持った神(妬む神)であり、時の流れも天体の動きも全てを支配している(全部all)神という、超越的なイメージでありながら、遊牧民の強い族長のような、人間的なイメージも備えた神イメージを感じます。

 唯一Onlyであり、全てAll であり、ここから始まりここに帰る全ての命の親である「神」のイメージを、被造物でしかない人間如きが勝手に作り出してはならない、目に見えるモノや形、偶像で神を表現してはならない、というのが偶像崇拝禁止の始まりだったと思われます。

 何を禁止されている偶像と看做すかを巡って、その後、聖人画(イコン崇拝)の是非、聖人列伝、マリア崇拝等々をめぐり(或いはセクト争いの口実として利用されながら)偶像崇拝・偶像破壊をめぐる争いは今日も続いているわけです。
 そもそも、今日でいうところのユダヤ教もキリスト教もイスラム教も、ほぼ一つの神イメージから始まった群れであるわけですが。

 大天使ガブリエルからのメッセージを受け取ったというムハンマドから始まり、メッカという小さな町から生まれたイスラム教がなぜキリスト教を否定したのかについてですが、「キリスト教は預言者イエスを神と同格にみなし(三位一体論)崇拝するのは偶像崇拝であり、間違いである」ということらしいのです。

 イエスが自分自身を「人の子」とは表現しましたが、「神の子」であるとか、「メシア」であるとか、神から遣わされた聖者であるとかは言わなかったし、イエスを神格化しようとする周囲の動きを否定し続けたように思います。
 マルコ福音書1章の、カファルナウムでの出来事で、悪霊に取り憑かれた男がイエスに向かって「お前の正体は神の聖者だ!」と叫び、イエスが「黙れ、この人から出ていけ!」と叱った、というこの記事は、イエスを神格化しようとする群衆の熱狂こそが悪霊である、というメッセージと受け取ることができますし、イエスに対する神格化をイエス自身が否定した、とも理解できます。「わたしが来たのは、律法や預言者を廃止するためではなく、成就するためである」マルコ5:17 「私は仕えられるためではなく、仕えるために来た」マルコ10:45 などの記事やメッセージも、ユダヤ教を否定し、新しい宗教(キリスト教)を作るためにきたのではない、モーセの十戒、人を奴隷状態から解放するためにモーセを用いた神イメージ、神と人との関係をとり戻すために現れた、というメッセージを感じるのです。(イエスはユダヤ教徒であった、という表現にはやや抵抗を感じます。イエスの時代のユダヤ教は、ユダ族や国家を前提とした宗教体系が出来上がっていました。イエスは12部族連合時代の「イスラエルの神」イメージだったと思うのです)

 イエスの十字架処刑ののちに生まれたキリスト教は、教会が西へ、南へ、北へ広がって行く中で、様々な話し合いを行い、神学を生み出し、三位一体論もこの話し合いの中から作り出されました。イスラム教は、この「話し合い」を一切しないというのです。食べ物のタブーも、祈りの文言も、生活習慣も、“イスラム教はこうだ”という取り決めは一切ないらしいのです。その時代の、違う地域の人間たちが集まって話し合って、何が正しいとか、何が間違っているとか、イスラム法はこうであるとか、決めること自体間違っている、というのです。西洋の成文法の世界に対して、自然法、習慣法、みたいな感じでしょうか。今日、イスラム教徒の過激派が貴重な文化財を破壊した、などのニュースに触れることがありますが、始祖ムハンマドの肖像すら飾ることを禁じている“偶像崇拝禁止”の感覚を私たちが理解するのはとても困難だと感じます。

 今日でも“カルト”と呼ばれる熱狂集団は、指導者を神格化し、個別の「自我」を放棄=自分が自分であることを否定し、教祖と一体化することを目指します。極端に言えば、全ての信徒が教祖のコピー、均一の部品となることを目的とします。それは神がこの世に唯一の命を吹き込んだこととは真逆となります。人間を均一な部品化するもの、お金の奴隷とするもの、均一化出来ない者を排除する、差別化する、そういった人間が作り出した「闇」から人を解放するため、そこから抜け出すことに仕えるためにイエスは現れた、と福音書を読むことができます。キリスト教は「神の子イエス」という神学を打ち立てましたが、それはイエスの言葉とは異なるのかも知れない、という感覚を保ちつつ、イエスの働きに目と心を注ぎ続けたいと思います。 

先週の出来事

非常事態宣言が9月末まで延長された。10月もまた延長されない保証はどこにもない。重傷者数は増加しているとのこと。入院はできない、家庭内感染は防げない、など、あちこちでストレス、抑圧が蔓延し、負のエネルギーが軋んだり暴発しているような事件が起きているように感じられる。

20210905 SundayService Linggo ng serbisyo 東淀川教会 宣教題「パウロよりもイエスを」担当 金田恆孝

本日の聖書箇所(聖書協会共同訳)
イザヤ書55章 1-2節
さあ、渇いている者は皆、水のもとに来るがよい。金のない者も来るがよい。買って、食べよ。来て、金を払わず、代価も払わずにぶどう酒と乳を買え。なぜ、あなたがたは糧にもならないもののために金を支払い 腹を満たさないもののために労するのか。私によく聞き従い 良いものを食べよ。そうすれば、あなたがたの魂は 豊かさを楽しむだろう。

マルコによる福音書/ 9章 41-42節
よく言っておく。あなたがたがキリストに属する者だという理由で、一杯の水を飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」
「また、私を信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、ろばの挽く石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまうほうがはるかによい。

コリントの信徒への手紙一 13章 1-13節(抜粋)
たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、私は騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ私が、預言する力を持ち、あらゆる秘義とあらゆる知識に通じていても、また、山を移すほどの信仰を持っていても、愛がなければ、無に等しい。また、全財産を人に分け与えても、焼かれるためにわが身を引き渡しても、愛がなければ、私には何の益もない。愛は忍耐強い。愛は情け深い。妬まない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、怒らず、悪をたくらまない。不正を喜ばず、真理を共に喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。愛は決して滅びません。しかし、預言は廃れ、異言はやみ、知識も廃れます。(中略)それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残ります。その中で最も大いなるものは、愛です。

コリント人への第一の手紙/16章 21-24節
ここでパウロが、手ずからあいさつをしるす。もし主を愛さない者があれば、のろわれよ。マラナ・タ(われらの主よ、きたりませ)。主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。
わたしの愛が、キリスト・イエスにあって、あなたがた一同と共にあるように。

 

宣教の要旨「 パウロよりもイエスを」


1990年に大ヒットした、KANの歌がありました。

「♭心配ないからね 君の想いが 誰かにとどく明日がきっとある 
どんなに困難でくじけそうでも 信じることを決してやめないで carry on carry out …
愛される喜びを知っているなら 信じることさ 必ず最後に愛は勝つ♭」

 同じ頃、“愛は地球を救う”なんて番組やフレーズも流行りました。

キリスト教が日本に広まった時、パウロの“それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残ります。その中で最も大いなるものは、愛です”の聖句とともに、「神は愛なり」の文句は盛んに用いられました。(KANの歌と一緒くたにすると叱られそうですが伝わってくるメッセージはよく似ています。)

「愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。(ヨハネ第一の手紙4:7-8)」パウロの手紙が最初に書かれたのは54年頃。共観福音書の中で最初に成立したマルコによる福音書が65〜70年頃。ヨハネによる福音書fの成立時期はおよそ90年以降、100年前後と思われます。


神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。ヨハネによる福音書3章 16節
あなたがたに新しい戒めを与える。互いに愛し合いなさい。私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。13章 34節
父が私を愛されたように、私もあなたがたを愛した。私の愛にとどまりなさい。15章 09節
 これはキリスト教というよりもパウロ教だと感じます。

 ヨハネによる福音書の「愛」は明らかにパウロの“愛の讃歌”に由来し、パウロの「キリスト論」をもとに「イエス伝承」を再構築しています。

 一つのことばに“最も重要なこと”を集約・代表させ、「これさえ覚えていれば(これだけ唱えれば)、他は付随的なこと」という宣教は、人々の心を掴むのにとても効果的です。仏教なら「一切衆生悉有仏性いっさいしゅじょうしつうぶっしょう」(全ての人に仏が宿っている)に近いのでしょうか。

 パウロの伝道でこの「愛」(アガペー)は中心的かつ大切な概念として用いられ、それによってキリスト教はギリシャ文化の世界、異邦人に広まったと言えます。もはやユダヤ教の律法も預言者の言葉も瑣末なこととして後ろに過ぎ去った、というニュアンスです。日本人にキリスト教が広まった時の重要なフレーズであったことは確かでしょう。

 イエスが語ったのは、良きサマリア人の話もそうですが、愛の概念ではなく、“倒れている人がいたら、一杯の水を持って駆けつけなさい。あなたは神の祝福から漏れることはない”のメッセージであり、“自分自身をかけがえのない存在だと思うと同じように隣人を掛け替えのないものとして大切にしなさい”という行動への促しです。

 戦時下において、プロテスタント系諸教団が信仰や信条によってまとまったのではなく、天皇を中心とした国家の翼賛体制として国家の都合で作られた「日本基督教団」は、敗戦後、積極的な戦争協力を果たしたこと、アジアの植民地支配に協力し、それを「キリスト教伝道活動」としたことなどの間違いを認め、罪を懺悔し、日本基督教団は解散すべきでした。信仰の一致など初めからなかったにもかかわらず、ずるずると「日本基督教団」の看板を掲げ続けたのは、“日本で最大のプロテスタント教会の集まり”という「勢力」の大看板を社会的信用として利用し続けているメリットなのでしょう。1970年代に「教団の罪、我々の罪をちゃんと認め、告白しよう」の機運が高まった時、多くの教会、キリスト者がそっぽを向きました。「戦争協力したとか、天皇とイエスを並べて崇拝したとか、植民地支配に協力したとか、それらは全て二義的、三義的なこと。神の愛を伝えることこそ大事」ということばでした。

「愛が全ての問題の解答であり、宗教の目的、私たちの教団の目的、人類の最も重要な目的」として、それ以外の事柄を二義的、三義的なこととして向き合えなくなった時、それは「自分たちだけの独善的な教義に酔いしれている」「宗教は阿片である」という批判にさらされることになります。 一つの言葉・概念・信条がその個人にとって最も有益な思想・信仰を言い表している、私の生きる意味だ、目的だ、という自己理解は自由ですが、それがいわゆる独善的・観念的な自己肯定だけに止まらず、隣人や他者を測る物差し、裁く基準となり、「救済条件」「選民思想」「他者の選別基準」に繋がると、いわゆる“観念と現実の逆転”が起こったことになります。いわば、本来、向き合わなければならない現実の課題(例えば、どうしたら殺し合いを避けられるか)を、自分が大切にしている概念の課題(大切な家族や仲間を守ためには我々の敵である人は殺してもかまわない)にすり替えてしまうことです。聖書の中の“観念と現実の逆転”の構造をパウロ主義とし、「パウロ主義批判」を通して聖書と向き合おうとする提言が行われたのですが(自牧蓮)、提言が各教会、キリスト者に届かなかったのは、組織のそもそもの成り立ちと国体翼賛体制での実態を懺悔し、組織を返上し、解消しない限り、戦争責任論も実体化するはずがないのでしょう。「組織はこのままにして、信条や信仰の違いを認めあう公同教会として再出発すべき」などの提言もあるようですが、明らかなゴマカシです。“神の奇しき御わざにより集められた組織”などは詭弁そのものです。まさか、無理矢理結婚させられて、考え方、信仰が違うと喧嘩し続けて、でもキリスト教だから離婚はできない、などと考えてはいないと思うのですが。やはり、一番大きな、日本で歴史あるプロテスタントの教会の団体、という大看板に太平の夢を託しているのでしょう。

先週の出来事

18歳以上の若者を対象としたワクチン接種が始まった。更に12歳以上(中学生)への接種も許可(?)とのこと。本人の決断? 親の決断? 学校の決断? それらは曖昧なまま、なし崩し的にワクチン接種が暗黙の義務として広がっている。コロナウィルスの実態、少年たちの罹患や死亡率、ワクチンのリスクと効果等の検証よりも、周囲に迷惑をかけないために、という「同調圧力」がますます強まっていると感じる。明らかな独裁体制ではないが「全体」はかくあるべし、「全体」を受け入れてこそ「個」がある、という全体主義が、ますます「個」が個であることを窒息させている、ないしは死に至らしめている時代だと感じる。「私が望むのは、考えることで人間が強くなることです。危機的状態にあっても、考え抜くことで破滅に至らぬよう。」全体主義の無言の浸透に抵抗できなくとも、長いものに巻かれながらも、ハンナ・アーレントの言葉を思い出しながら、滅びの日まで考え続けようと思う。