20230326 宣教要旨「世の終わりと神の国の到来」エレミヤ書51章マルコ福音書9章ルカ福音書11章17章マタイ福音書27章

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本日の聖書箇所

エレミヤ書51章 29節
地は震え、もだえる。主の企てがバビロンの上に実現し バビロンの地を住む者のない荒れ果てた地とする。

マルコによる福音書9章 01節
また、イエスは言われた。「よく言っておく。ここに立っている人々の中には、神の国が力に溢れて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる。」

ルカによる福音書11章 20節
しかし、私が神の指で悪霊を追い出しているのなら、神の国はあなたがたのところに来たのだ。

ルカによる福音書17章 20-21節
ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスはお答えになった。「神の国は、観察できるようなしかたでは来ない。
『ここにある』とか、『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの中にあるからだ。」

マタイによる福音書27章 50-54節
しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。その時、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りに就いていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人に現れた。百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「まことに、この人は神の子だった」と言った。

宣教要旨「世の終わりと神の国の到来」

 

 

 

 江戸時代から明治政府の時代へと変わり、それまでの時代のフレームが壊れ、カオス状態になった時、霊能力者が多く現れ、金光教とか天理教とかさまざまな宗教が生まれました。2023年の現在ですが、21世紀からの現代社会は、終末を予言する宗教などがニョキニョキ生えてきています。死への恐怖と生きにくさがとても高まっていると感じます。多くの人々がどうしたら救われるのか、安心を手に入れられるのか、などの「答え」を求めて、未来はこうなる、終末がいつやってくる、などの“予言”に群がっているのだと感じます。

 旧約時代の終末、神の国待望は比喩(黙示)で語られ、神がメシアを地上に送り、巨大な権力者の暴虐(バビロンで表現)は終わり、今は奴隷状態であるイスラエルの民が解放され、神殿を中心に住むところを得る時が来る、という、希望を失わないための予言的なものだった。(エレミヤ51章)

 暗澹たる現代社会の中で、聖書を利用して世の終わり・終末がいつ来るのかを予言しているグループ・セクトが多くの人々をそそのかしている。それらは人間の“予言”に、聖書や神の働きを従わせようとする「傲慢」である。人間の「死に対する恐怖」と、世への失望・不安とが増大し、答えを求める人々の叫びが予言を求める。

 イエスの「その時は山に逃げなさい」という「災難、荒廃をもたらす憎むべきもの」は、王などの傲慢な人間たちがひきおこ患難、戦争などであり、これは世の終わりではない。(マルコ13章)

 イエスの語る「神の国」の到来は「終末」に続く、終わりと始まり、一つのことである。イエスやイエスたちの活動が、神の御手のわざだと感じ確信した者たちは、すでに神の国の到来を見た者たちである。それはイエスの登場によってすでに始まっている、現れていることであり、その「神の国」はイエスたちの言葉や活動に触れた一人ひとりの「中に」起こり、現れている。それはイエスの時でも、現代でも同じである。

 終末までの時と、神の国の到来からの時との境が、神殿の幕が真っ二つに裂け、地震が起こり、眠りについてた多くの霊なる者たちの体がよみがえった、ことで「神の国の到来として告白され表現されている。
その時、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け地震が起こり岩が裂け墓が開いて眠りに就いていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人に現れた。」というマタイの記事は、明らかに旧約時代の黙示文学的な終末描写をここに取り入れ、イエスの十字架の出来事が終末の出来事であり、神の国は始まっているという、原始キリスト教団の理解と確信を表しています。


 「終末」はすでに起こったのです「神の国」はイエスとともに始まっています。
それを実感し確信した人にしか、復活のイエスは視えないのです

 復活したイエスが、その約束通りガリラヤから、神の国の中を新たに旅を続けておられる、その新たな旅に、肉の服を着ている今も、肉の服を脱いで神のもとに帰った後も招かれている、という確信が原始キリスト教団からすでに起こっていたのです。

 神から命を吹き込まれた全ての人(神の子)たちは、世の旅路が終わり、肉体を脱げば命の主なる神(アッバ)のもとに帰るが、イエスをメシアと信じた人々の魂・霊はイエスとともに旅を続け、働き続けるというのが、イエスを救い主と信じる信仰の当然の帰結です。

イエスを救い主として信じられない、終末がすでに来たことが信じられない、死を恐れ続ける心が、終末と神の国の到来を先送りし、時代時代に合わせた予言を作り出し繰り返し続けていることになります。

先週の出来事

 戦時下のウクライナをおとづれた首相が、広島土産の「しゃもじ」を引っ提げ(敵をメシとるなどという駄洒落を得意げに披露したとかしなかったとか)、戦争当事国の一方であるウクライナに膨大なマネーを贈って(戦争被害者支援ではなく)、今後の支援も約束し、ウクライナと兄弟分のようなこと言ってた、という報道。
 福島県を訪れた首相に子どもが「なぜ首相を目指したのか」という質問に、「日本で一番エライ権力者(王様)だから」などと答えたという報道。
 諸外国にとって、彼は今の日本人の、まごうことなき「代表」であることに恥ずかしさを感じている人は多いと思う。このトンチンカンさこそが、日本の「終末」を表現しているのだろう。世も末である。

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