20251228 東淀川教会礼拝宣教要旨「無力なイエス」ルカによる福音書5章15−25節 宣教担当 金田恆孝

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聖書 ルカによる福音書5章 15〜25節

しかし、イエスの評判はますます広まり、大勢の群衆が、教えを聞いたり病気を治してもらうために集まって来た。(15)

だが、イエスは寂しい所に退いて祈っておられた。(16)

ある日のこと、イエスが教えておられると、ファリサイ派の人々や律法の教師たちがそこに座っていた。この人々は、ガリラヤとユダヤのあらゆる村や、エルサレムから来ていた。主の力が働いて、イエスは病気を癒やしておられた。(17)

すると、男たちが体の麻痺した人を床に乗せて運んで来て、家の中に入れてイエスの前に置こうとした。(18)

しかし、大勢人がいて、運び込む方法が見つからなかったので、屋根に上って瓦を剝がし、病人を床ごと群衆の真ん中につり下ろし、イエスの前に置いた。(19)

イエスは彼らの信仰を見て、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われた。(20)

ところが、律法学者たちやファリサイ派の人々は論じ始めた。「神を冒瀆するこの男は何者だ。罪を赦すことができるのは、ただ神だけだ。」(21)

イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた。「何を心の中で考えているのか。(22)

『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。(23)

人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、体の麻痺した人に、「あなたに言う。起きて床を担ぎ、家に帰りなさい」と言われた。(24)

その人はすぐさま皆の前で立ち上がり、寝ていた床を担いで、神を崇めながら家に帰って行った。(25)

宣教要旨「無力なイエス」大勢の人たちがイエスから神さまの話を聞きたがったり、悩みを相談したがったり、人々の病気を治したという評判を聞いて、できれば自分や身近な人の病気を治してもらうために、いちばん有名なイエスに直接触ってもらおうと、次々と多くの人々が押し寄せている風景が想像できます。
 他の仲間に振り分けて診てもらうにしても、まず最初はイエスが面談したのでしょう。一人ひとりの訴えを聞き、問診するだけでもとても疲れることです。病気が伝染することも恐れず直接体に触れ、癒し、生活のアドバイスもしたのでしょう。いわば戦地の野戦病院で働く医師のように休むこともできず疲れ切ってしまうのでしょう。
 “寂しいところに一人で隠れるように退き、一人で祈っておられた”とは、祈りと安息の場を確保し、なんとか主からの回復を得ていたのでしょう。
 ファリサイ派の人々や律法学者たちが集まっていたのは、イエスたちの活動を検閲し攻撃する材料を探すために注視していたのでしょう。それもイエスたちを緊張させ、より疲れさせることだったのでしょう。ここでの「主の力が働いて」というルカ福音書の記者が書き記した言葉は重要な意味を表していると思われます。
 つまり、「唯一の神の子」「神が任命したメシア・救世主」の神通力のようなパワーや大きな個人的能力で治癒が行われていたのではなく、各場面場面で「主なる神の力が働いて」、つまり、主が、一人では無力なイエスを用いて、利用して、弱者・病者を回復に向かわせているという“報告”です。
福音書の記者であるルカも、“神さまに用いられなければ、ただの弱いイエス”をここで描いていると感じます。

続く記事は、病人の回復を願う彼の仲間たちが、登った屋根に穴を開けてイエスの前に吊り下ろした。仲間たちや本人(当事者)の熱い思い、祈りの関係をイエスは「信仰」と呼び、あなた方の信仰が彼を回復させた、と宣言したのです。この病んでいる本人(当事者)とは、仲間にとって大事な、偉い人や人気のある人だからではなく、身近な仲間として本人の痛みや辛さややるせなさを感じてしまう仲間、ほっとけない関係ということなのでしょう。その、当事者のやるせなさを共感しほっとけない人間関係の中で神さまからの祝福が、癒しが現れてくる、ということなのでしょう。

 年末年始をそれぞれご無事で越えられますように。一月の礼拝でみなさまとお会いできるよう祈ります。

 

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