20260412 東淀川教会礼拝 宣教要旨「お互いさまの関係づくり」

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Table of Contents

マタイによる福音書9 11~17
ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたがたの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。(11
イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。(12)
『私が求めるのは慈しみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(13)
その時、ヨハネの弟子たちがイエスのところに来て、「私たちとファリサイ派の人々はよく断食するのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」と言った。(14)
すると、イエスは言われた。「花婿が一緒にいる間、婚礼の客はどうして悲しんだりできるだろうか。しかし、花婿が取り去られる日が来る。その時、彼らは断食することになる。(15)
誰も、真新しい布切れで、古い服に継ぎを当てたりはしない。その継ぎ切れが服を引き裂き、破れはもっとひどくなるからだ。(16)
また、誰も、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、革袋は破れ、ぶどう酒は流れ出て、革袋も駄目になる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。そうすれば、両方とも長もちする。」(17)


宣教の要旨「お互いさまの関係づくり」
この聖書箇所は、マタイ、マルコ、ルカにほぼ同じように描かれており、イエスが多くの人々によく話されていたお話なのでしょう。
 ここでの「発酵するワインと革袋の関係」も、古い糸から織られた布と新しい糸から織られた布の関係も、無自覚だと傷つけ合ったりだめにしてしまうけれど、主従的な関係、古くからの色に新たに入ってきた人々が染まる関係ではなく、それぞれがお互いを活かし合う関係、相補的な、互いが変わっていく社会関係(お互いさまの関係)を築く、新たな色や模様を作り出すことができれば天からのめぐみである、みたいな、イエスのユーモアを含む話だったと思われます。

皮袋とお酒・新しい布と古い布の関係について

比較的新しい皮袋は柔らかく伸縮性を持っているので、ガスが発生する発酵中のワインを入れても大丈夫だが、古くなると伸縮性が落ちるので、亀裂が入ったり穴が空いてしまったりする。

天然の糸で織られた布はその働きの程度や経年劣化により縮んだり穴が空いたり破れたりする。布の補修や組み合わせを古い布と新しい布ですると伸縮性の違いでひきつってしまったり、補修したはずが、元の破れをひどくしてしまう。

律法(法律)とか、「常識・普通の感覚・ルール」とかは、ある時代の、ある地域の、古くから住んでいる上流・上級階級・土地所有者の人々にとって大事なものですが、いつの間にか多様性や柔軟性を失い、上流ではない人々、他の地域から移ってきた人々、他の言語や他の文化を持つ人々などにとってはその地域で共存していくためには大きなハンディ、困難が伴い、理解され難い努力を続けなければならないことが多い。

 日本人はみな大陸や南、北から流れ着いた流れ者、移動民ですが、田舎や地方、その土地に移住してきて親から子、子から孫へと3代を経ないとその土地にとって「よそ者」というレッテルがなくならない、と言われます。じっさんばっさんの顔も親父やお袋の顔も知っているその子が村の子になれるというわけです。

 そんな「村の者」と「よそ者」の区別、血統的な人種差別、病人やハンディキャップを負っている人々への差別や区分けなどをイエスは皮袋と酒のたとえ話や古い布と新しい布のたとえ話で、その愚かさとともに、ともに食べ物を分かち合い、友となり、助け合う道、互いが少しづつ変わり合う、相補的な関係こそが神に祝福される道であることをイエスは示していると思います。

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