20260426 4月26日東淀川教会 礼拝宣教要旨「女になるタイヘン女であるタイヘン」マルコ福音書5章21−43節
マルコによる福音書5章 21-43節
イエスが舟で再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。(21) 会堂長の一人でヤイロと言う人が来て、イエスを見ると足元にひれ伏して、(22)
しきりに願った。「私の幼い娘が死にそうです。どうか、お出でになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」(23) そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけられた。大勢の群衆も、イエスに押し迫りながら付いて行った。(24) さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。(25) 多くの医者からひどい目に遭わされ、全財産を使い果たしたが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。(26) イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの衣に触れた。(27) 「せめて、この方の衣にでも触れれば治していただける」と思ったからである。(28) すると、すぐに出血が止まり、病苦から解放されたことをその身に感じた。(29) イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気付いて、群衆の中で振り返り、「私の衣に触れたのは誰か」と言われた。(30) 弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『私に触れたのは誰か』とおっしゃるのですか。」(31) しかし、イエスは触れた女を見つけようと、辺りを見回された。(32) 女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。(33) イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。病苦から解放されて、達者でいなさい。」(34) イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」(35) イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。(36) そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、誰も付いて来ることをお許しにならなかった。(37) 一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、(38) 家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子どもは死んだのではない。眠っているのだ。」(39) 人々はイエスを嘲笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子どもの父母、それにご自分の供の者だけを連れて、子どものいる所へ入って行かれた。(40) そして、子どもの手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、さあ、起きなさい」という意味である。(41) 少女はすぐに起き上がって、歩きだした。十二歳にもなっていたからである。それを見るや、人々は卒倒するほど驚いた。(42) イエスはこのことを誰にも知らせないようにと厳しく命じ、また、少女に食べ物を与えるようにと言われた。(43)
宣教要旨「女になるタイヘン 女であるタイヘン」
共観福音書の中で最も記事の量が限定されているマルコ福音書(マタイ28章 マルコ16章 ルカ24章)。その中で“ヤイロの娘”と“長血患いの女”の記事はマタイ、ルカ福音書の同じ記事に比べてとてもボリュームが多く中身が濃い、力が入っているカンジです。
イエスたちの活動が“貧しい者”や、障害など生きづらさを背負わされる社会的弱者に向かっているのはどの福音書も共通しているが、マルコ福音書は特に女であること自体の生きづらさ、苦しみに光を当てていると思われます。
死にかけている幼い娘12歳の物語(病因・死因不明)と、12年間の長血患いで苦しんできた二人の女の物語がイエスの前で一つの物語としてより合わせられて(編集されて)います。どちらも12年間、12歳。
十二進法と十進法で人生や時を測る考え方は、聖書の中にも、日本にもあります。12を5回繰り返せば60で一回転で還暦など。
12年間の長患いとは、不治の病を抱えているのと同じ意味、重さなのでしょう。伝染の危険はないのに出血があることで「穢れている」などと忌み嫌われたり、礼拝や祭りなどの“聖”が意識される場から、聖の対極にあるものとして排除されることが多い。12歳で生理が始まったとすれば24歳の女性。周囲の人々から疎まれ、痛みに耐え、女として生まれてきたことを、ヨブ記のヨブのように呪ったかもしれません。
一方の12歳になった少女とは、男女関係ない“こども”の季節から“女”の季節に入ったことを表しているのでしょう。死の影がちらついていますが、生理が始まると同時に衣食住にわたって生活の仕方が一変し、素顔のままでは外に出られないとか、さまざまな制限や規制が始まったかもしれません。生理が不順で痛みが激しいのかもしれません。女であることに希望を持てず、運命を呪ったかもしれません。
マルコ福音書が二人の女性の物語で描き出そうとしているのは、イエスが、貧困や目にみえる障害や差別だけでなく、男性中心社会では女性が「女」であるだけで社会の構成員としてカウントされず、生理中は出血ゆえに穢れている存在として礼拝や集会の場から排除されたり。結婚し子供を産むことが当たり前のように言われ、妊娠できない女性は原因がどこにあるかは別として離縁されて当然の男社会や女性を差別・区別している神殿政治があり、その愚かさをイエスは非難し、告発し続けていたはずです。
十字架より数十年過ぎて初期のキリスト教会が生まれ、イエスの活動が福音書として書かれ始めましたが、周囲の国々も教会も男性中心社会でした。パウロさんも“女は教会では黙っていなさい”などと語っていますし。
子どもから大人の女性になった少女は、受け入れなければならない過酷な現実に希望を見出せず死を願ったかもしれません。
長血の病から回復した女性に“達者で暮らしなさい”と送り出し、死に向かう少女をイエスが起こして立ち上がらせたことで、イエスが重荷と孤独を背負う女の立場に立ち、女として生まれた祝福を取り戻すよう応援し続けたと思うのです。そんなイエスたちの活動と思いをこの二人の物語で表現していると思われます。
そんなイエスたちの活動に応え、陰ながら支え、広めていた女たちの活動は、福音書には書かれてはいませんが、あったと思います。
創世記の男から女が助け手、パートナーとして作られたと書かれていますが、雄の視点で記録されたのでしょう。人類(哺乳類)の進化という視点から分析すると、単性生殖(ミツバチや昆虫や魚類や蛇など)から両性生殖に移行しており、雌から雄、女から男が作られた、と言うのが正しいそうです。地上を二足歩行で移動していた時代は男、雄が群れの先頭に立ち、女、雌が雄や群れ全体や小さき者や弱き者をサポートしたのでしょう。
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“女となる、女であるだけで、タイヘンなことなんやで” と言うイエスからの、メッセージが聞こえてきそうです。
☆参考資料
レビ記15章における主な規定
女が月経(血の流出)にある期間は7日間不浄(ニッダー)とみなされ、その間に彼女に触れる者は誰でも夕方まで汚れる。月経中の女性が使った寝床や腰掛けに触れた者も不浄となり、衣服を洗い、水を浴びて夕方まで汚れが残る。月経の期間外に長期にわたって出血がある場合や、生理が長引く場合も不浄とみなされ、周囲の人々から離される。出血が止まった後、7日を経てから清められ、8日目に山鳩のひな等を持って祭司のもとへ行き、贖い(あがない)の儀式を行うことで清くなったとされる。
ヒンドゥー教では月経は「不浄」とみなされ、厳しい制約があるようです。
チャウパディ(ネパール): 月経中の女性を家や家族から隔離し、村の外れにある「生理小屋(Chhapadi hut)」で生活させる慣習。不衛生な環境、寒さ、野生動物の危険などから命を落とすケースもある。
制約: 月経中は寺院への参拝、料理、井戸の使用、男性との接触、植物に触れることさえ禁止される地域がある。