20260719 東淀川教会礼拝宣教要旨「病人に体と心を重ねるイエス」マルコ福音書1章 マルコ福音書8章

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Table of Contents

マルコ福音書1章40-42節
さて、規定の病を患っている人が、イエスのところに来て、ひざまずいて願い、「お望みならば、私を清くすることがおできになります」と言った。(40) イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「私は望む。清くなれ」と言われると、(41) たちまち規定の病は去り、その人は清くなった。(42)

マルコ福音書8章22−25節
一行はベトサイダに着いた。人々が一人の盲人をイエスのところに連れて来て、触れていただきたいと願った。(22) イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出し、その両目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、「何か見えるか」とお尋ねになった。(23) すると、盲人は見えるようになって、言った。「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。」(24) そこで、イエスがもう一度両手をその目に当てられると、見つめているうちに、すっかり治り、何でもはっきり見えるようになった。(25) イエスは、「村に入ってはいけない」と言って、その人を家に帰された。(26)

 

宣教題「病人に体と心を重ねるイエス」
 人々に最も尊敬されたと言われる預言者エリアはBC900年頃の預言者でしたが、伝染病で死にかけている子どもに自分の体を重ねて、病気を自分に移すかたちで治療していたことが報告されています。
 イエスも病人に直接触れながら、病気(悪霊)を自分に移しながら治療(悪霊の追い出し)を行なっていると感じます。決して病人から離れたところで悪霊に出ていくよう命じたりの治療はしていません。同じ病気になって神様に一緒に祈る、と言うスタンスに感じます。

「ちょっと不思議な表現ですが、(あなたが)お望みならば、私を清くすることができます」とは、「イエスが私と同じ病気になり、わたしの“清くなりたい”という祈りを、イエスがイエス自身の祈りとして一緒に祈ってくだされば、私は清くなることができます」という意味だと感じられるのです。イエスの「私は望む」は、病者への一体化の表現に感じられます。

マルコ福音書8章の、人々に連れて来られた(友人たち、親族たちの祈りが事態を動かしたか)盲人に対する治療は、他の治療場面に比べてかなり異なっています。生まれつき盲人なのか、両眼失明なのか、失明に向かっているのか、原因は何かなど不明ですが、この治療風景で他の治療とかなり異なっているのは、一回性の、短時間の治療ではなく、“両目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて”とありますが、単なる密着どころか、イエスの体液を注ぐような「一体化」が感じられます。相手の変化を聞きながら、目を洗って再び唾をつけ、そして祈るなど、何回も繰り返された治療にも感じられます。いずれにせよ、全体重をかけて治療を行い、見えるようになった、そんな治療関係が伝わってきます。

 この治療場面の特異性ですが、イエスの「何か見えるか」という問いに対して「ひとが見えます。木のようですが、歩いているのが見えます」と答え、治療を続けると全て見えるにようなった、と言う記述の「ひとが見え出した」が大きなポイントに感じられます。

 ここで描かれているのは、イエスの治療とは、「人」への信頼、「人間らしさ」への期待やイメージを見失った病んでいた人が、幼児期から持っていたであろう「生き生きと動く人間らしさ」のイメージを取り戻した、という、マルコ福音書の記者からの病気理解とメッセージに感じられるのです。

 ここでは失明という事例ですが、古代では病気になるのは“悪霊に祟られた、取り憑かれた”ためという理解が強かったと思われます。武家社会の長かった日本では殺された者の恨み、怨霊の祟りから身を守る術(清め、お祓いなどの宗教行事)は何よりも大切でした。

悪霊が、人間たちの争い、戦争、裏切り、虐待、恨み・怨霊から生まれ続けるならば、人間不信は増大し悪霊は増え続け、社会病理が個人を病ませ続け、殺人も自殺も増え続けるのでしょう。増え続ける難民の生活と今も飛び交うミサイルのもとで被害は増大し、怨霊は増え続けていると感じます。

 人が生まれた時、幼児の頃に持っていたであろう「ひと」への信頼、願いを取り戻し、オトナとして「赦し・和解」への道を歩むために、イエスの活動や姿を心に描き続けたいのです。

 

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