20260809聖霊降臨節第12主日礼拝「モーセの凄さ」申命記 23章 マルコ2章
2026年8月9日
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聖書箇所 申命記 23章 25-26節
隣人のぶどう畑に入ったなら、思うまま満足するまでぶどうを食べてもよい。しかし、それを籠に入れてはならない。(25)
隣人の麦畑の中に入ったなら、手で穂を摘んでもよい。しかし、隣人の麦畑で鎌を使ってはならない。(26)
マルコ2章23−28
ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。(23)
ファリサイ派の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言った。(24)
イエスは言われた。「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。(25)
エブヤタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司たちのほかには食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」(26)
また、彼らに言われた。「安息日は人のためにあるのであって、人が安息日のためにあるのではない。(27)
だから、人の子は安息日の主でもある。」(28)
宣教要旨「モーセの凄さ」
申命記23章をまっすぐに読めば、安息日の収穫の可否議論そのものが捻じ曲がってしまっていることがわかる。そこには資本主義的商品の貨幣価値や労働賃金などの感覚もない。見失われているのは全ての人の食べ物を与えてくださる、生かしてくださる“神の恵み”への感謝が全ての前提にある。今日の社会福祉理念の原点もここにあればと思います。
(モーセの偉大さ)
エジプト脱出から40年の荒野の旅を経てカナンの地(現在のパレスチナ地方)に入るイスラエル12部族は、得る予定の領土のヨルダン川の東と西に六つの逃れの町を設けることを命じた。これらの町は、イスラエルの人々とそのもとにいる寄留者と滞在者のための逃れの町であって、誤って人を殺した者はだれでもそこに逃れることができる」(民数記35:13-15)と命じた。
神がモーセを通して与えた十戒 – 第五戒:殺してはならない→生かせ、生かし合え、の逆説的命題
入植地を12地域に分け入植させた。争いを避け、各地域で共生を目指させたのは誰の目にも明らか。
人は定住し生産活動をし、使用者や奴隷を使うようになると貧富の格差が必ず生じてしまう。
→申命記23章 葡萄畑 麦畑の穂 → 餓死させてはならない。
富者と貧者の格差が大きくなっても、貧しい者たちを飢餓させてはならない。
モーセの凄さを受けてイエスの「法(律法)は人のためにあるのであって、法のために人があるのではない。法より「人」が上である」は凄い!の一言。現代の子どもたちに「法律や決まり、全体のルールより、一人一人の事情が優先する」と熱弁してくれる大人たちがいてほしい。
芥川龍之介 “羅生門” と現代を重ねてみる
平安末期 飢饉疫病蔓延 刀を振り回し窃盗を働く野盗
羅生門崩れかけた平安京南の大門 死体が投げ込まれている
主人公「下人」個人名無し 孤児出身か 使用人を解雇され働く機会の目処なしこの世に誕生したことを恨んでいるか。 空腹餓死を願っているか。
2階で老婆が女の死体の髪の毛を抜いている。老婆の言い分。この死者は生前悪行を重ねた。悪行を重ねなかった自分が餓死を逃れるためであれば悪行にはならない。「餓死で死なないために他者のものを奪うことは仕方がないこと」→老婆の言葉に盗みをしても生き延びるための傲慢さを見出し、老婆の着物を剥ぎ取り、悪人となっても生きるため、羅生門を歩み出した。「生き延びるためなら他はやむを得ない」
「核による核抑止論」核兵器を他の国々より多く保有することで他国による自国に対する核兵器使用を諦めさせることができると言う理論→最強の殺人兵器で他国を威圧したがっている→舐められたらあかんというヤクザの論理と同じ。