20260906 東淀川教会礼拝宣教要旨「喧嘩腰の対峙」マルコ福音書1章 5章
聖書箇所 マルコによる福音書1章 23-24節
するとすぐに、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。(23)
「ナザレのイエス、構わないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」(24)
マルコによる福音書1章 40−42節
さて、規定の病を患っている人が、イエスのところに来て、ひざまずいて願い、「お望みならば、私を清くすることがおできになります」と言った。(40)
イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「私は望む。清くなれ」と言われると、(41)
たちまち規定の病は去り、その人は清くなった。(42)
マルコによる福音書5章 7-9節
「いと高き神の子イエス、構わないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい」と大声で叫んだ。(7)
イエスが、「汚れた霊、この人から出て行け」と言われたからである。(8)
イエスが、「名は何と言うのか」とお尋ねになると、「名はレギオン。我々は大勢だから」と答えた。(9)
喧嘩腰の対峙
イエスに触れようと近づく人。大切な人をなんとかしたくてイエスのもとに運んでくる人。そういった人たちとは全く異なり、イエスが自分に近づくのを拒もうとする人。「こっちに来るな。助けなど求めてはいない。ほっとけ!」「そっちが聖なる神の使いなら、こっちはサタン側で良い。サタンの居場所を滅ぼすな!」との、喧嘩腰の叫び声が聞こえる。
“既定の病を患っている人”は、イエスに対して明らかに上から目線です。神殿祭祀(医師)の診断を受けて神殿の指示(治療)に従っている神殿の患者。まだ治っていない。「神殿の私に対する診断や治療が間違っているというのなら、あなたが私を治療し完治させることができます。私の病をあなたに直接感染させる、病気をあなたに移せば私は治ります。そうすればあなたが神殿に勝ったことになります。その覚悟はありますか?」という上から目線の、イエスに対する挑戦的なメッセージだと感じます。
ゲラサ人の地。鎖でさえ暴れるのを抑えられない=強度行動障害?患者、一般社会から隔離されている。差別された土地(社会側が守られている?)。「メシア」と噂されるエライ人たちの集団が近寄ってくる。自分たちは神殿や社会のエライ人々から排除され、社会(普通の人々)からも排除されてきた。 「私は悪魔の仲間で結構。ほっといてくれ!」の拒否の叫びが聞こえてきます。
名を問われて「レギオン」と答えたとあります。これまで個人として、一人の人として扱われたことはない、という現実の別表現なのでしょう。
当事者の希望とともに悪霊たちを豚の一群に移した、という「治療物語」が描かれていますが、そこで何が起こったのかをカモフラージュするための物語だと感じます。「神様からいただく食べ物で汚れているものはない!」というイエスの言葉とともに豚たちを屠り、伝統的な食のタブーを打ち破り、神様からの頂いた豚肉や(自然からいただいた)食べ物をみんなで分かち合って食べる、という大食事会が行われたと思うのです。