20240324 東淀川教会礼拝 宣教要旨「分断・立ちはだかる血縁」マタイ10章12章マルコ3章

聖書箇所

マタイによる福音書10章 34-36節
「私が来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。
私は敵対させるために来たからである。人をその父に 娘を母に 嫁をしゅうとめに。こうして、家族の者が敵となる。

マタイによる福音書12章 46-50節
イエスがまだ群衆に話しておられるとき、その母ときょうだいたちが、話したいことがあって外に立っていた。
そこで、ある人がイエスに、「御覧なさい。お母様とごきょうだいたちが、お話ししたいと外に立っておられます」と言った。
イエスはその人にお答えになった。「私の母とは誰か。私のきょうだいとは誰か。」
そして、弟子たちに手を差し伸べて言われた。「見なさい。ここに私の母、私のきょうだいがいる。
天におられる私の父の御心を行う人は誰でも、私の兄弟、姉妹、また母なのだ。」

マルコによる福音書3章 20-22節
イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。
身内の人たちはイエスのことを聞いて、取り押さえに来た。「気が変になっている」と思ったからである。
エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。
———

「分断・立ちはだかる血縁」担当・金田恆孝

 ローマ帝国から統治を赦されているヘロデ王や他の領主たち、神殿祭司などの支配者たちによる、イエスたちの難民救済活動や大食事会などの「神の国運動」を危険視し、これを潰そうとする活動は執拗に行われていたわけです。

 イエスに親族を利用して引き離して連れ戻し、気がフレた者・異常者として排除(隔離・現代なら精神病院収容?)しようとしたことの一端が福音書から伝わってきます。イエスだけではなく、仲間たちにも、参加する無名の協力者たちに対しても、このような「引き剥がし工作」は激しく続いていたと思われます。

 イエスたちの時も、初期のキリスト教会にも、迫害・妨害工作が続いていたことを伝えるために、福音書の記者は、初期のキリスト教会を守るために「父、母、子ども、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうと、これを憎まないなら、私の弟子ではありえない」というニュアンスのコメントをイエスの言葉として記述したと思われます。現代風に表現すれば、“イエスたちは統一協会やオウム真理教のような危険なカルト集団である”、“悪魔の手先であるイエスにマインドコントロールされているから、親族総掛かりで連れ戻し、頭がおかしくなっているから精神病院に入れるか、指定場所に隔離しなければならない。”、“なにもせず放置したら、親族も協力・加担していると見做されて、罪に問われる”というような恫喝が行われただろうことは充分予測できます。だから母マリヤもイエスの兄弟たちも手はずを整えてやってきていたと思われます。それは今日も行われている、精神病院への強制入院措置と本質的に同じことです。

 親族・家族による拉致、連行には失敗したわけですが、おそらく母マリアはイエスたちの活動を確かめるため、その場に残り、やがてその活動全体を理解し、活動を支える側に回ったと思われます。

 イエスたちの活動の特色として、「病んでいる=汚れている=祭司から証明書をもらうまでは一緒に食事をしてはならない」とされている人々を癒やし、人間関係に戻す行為が続いていましたが、一方では、貨幣経済から排除され飢えている大人たちやこどもたちとの「食事会」を頻繁に行っていました。私たち東淀川教会の“聖餐式”も、この食事会の延長にあります。

 「家族」「家庭」「親族」などの言葉に“暖かさ”、“良いもの”のイメージを感じられる人たちは、幸せな人々の部類に入るのでしょう。暖かさなどをまったく感じない人々もいますし、更には「家族」や「家」から深い傷を負わされた人々もいます。コンクリートの壁に囲まれ外側からは見えにくい現代社会の家庭のほうがより深刻だと思います。

 イエスの言葉に「やもめ」が頻繁に現れますが、「家・一族」から排除された婦人や子どもだけでなく、孤児もハンディを負った人々も多くいたとはずです。「二匹の魚と五つのパン」運動は、そこに誰でも参加することができ、誰も排除しない、互いの顔を見合わせながら分かち合い、腹一杯食べることの出来る時と場所は「神の国」の始まりであり、そこに集うお互いが親であり仲間であり兄弟姉妹だったと思われます。「持っている・持っていない」を、“お互いさま”の感覚でカバーし合える人間関係が生まれていたと思われます。

 ロシアでコンサートホールが襲撃され100名以上が死亡したとのニュースが流れていました。最終兵器を後ろに隠し持ったままロケットやドローンによる襲撃・戦争が続いている今。分断工作も続いています。イエスの時代の“引き剥がし”分断工作だけでなく、万里の長城、東西ベルリンの壁、ハンガリーとセルビアの壁、イスラエルの分離壁、トランプ大統領によるメキシコ国境の壁、等々、いつの時代も「分断・敵対工作」はありますが、これに対抗できる工作は何でしょうか。
  
 日本では結婚する割合も子どもの出生率も精子や卵子の活動も下がり続け、“結婚はコスパが悪い”など、家庭作りに夢を持てない若者の感覚も広がっていると感じます。「誰でもがありのまま誰も排除せず食卓を囲み飢えを満たし合える関係作り」がイエスの提案だったと思います。

 精神病院を廃止したイタリアのように、日本でも、分断に抗して、収容場所としての精神病院を終わらせ、重度精神障害者を地域で職種を超えて支え合おうとするACT(Assertive Community Treatment)活動が広がっており、これに“神の国運動”の一端として希望を感じています。聖餐式は主イエスを中心とした食事会。教会もこの活動の拠点になればと主に願います。

☆ACTについてご興味がある方に一冊の図書をご紹介します。医療関係者でなくても読める、なるほど!の書です。
「精神医療の専門性・治すとは異なるいくつかの試み」近田真美子著 医学書院 2000円

先週の出来事

 モスクワ郊外のコンサートホールで起きた襲撃事件。百名以上が死亡とのこと。武装集団による襲撃のようだが、ロシア側集団なのかウクライナ側かそれ以外の集団なのかは不明なまま。ただ、戦時下であることを忘れて音楽を楽しもうと集まっていた人々に、戦時下の、殺し合いを続けている当事国の国民であること、戦場は限定されていないことを突きつけている攻撃と感じます。日本は交戦権が連合国・米国から与えられなかった国。米国の交戦権に従属させられているのでしょう。“日本は憲法9条を変え、主権国として交戦権を取り戻すべき”と主張している人々もいますが、武装化しても、かつての“竹槍”以上の意味はないのでしょう。被爆国であり交戦権をもたない国の住民だからこそ出来ることを主イエスに祈り求めたい。

20240317 東淀川教会受難節第5主日礼拝 宣教要旨「王様は(みっともない)裸じゃないか」マタイ福音書5章27−32節

聖書箇所

マタイ福音書5章 27-32節

「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。 (27節)
しかし、私は言っておく。情欲を抱いて女を見る者は誰でも、すでに心の中で姦淫を犯したのである。 (28節)
右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨てなさい。体の一部がなくなっても、全身がゲヘナに投げ込まれないほうがましである。(29節) 
右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨てなさい。体の一部がなくなっても、全身がゲヘナに落ちないほうがましである。」 (30節)
「『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と言われている。 (31節)しかし、私は言っておく。淫らな行い以外の理由で妻を離縁する者は誰でも、その女に姦淫の罪を犯させることになる。離縁された女と結婚する者も、姦淫の罪を犯すことになる。」(32節)

 

宣教要旨「王様は(みっともない)裸じゃないか」

 イスラエルでもっとも理想的な王であり信仰の模範はダビデでした(メシアはダビデの末裔から生まれるという伝承の起点)。実際は王権を握ると人口調査とともに徴兵制を敷き、強い軍事国家を築きました(今日のイスラエル・シオニズム問題?)。部下の妻(バト・シェバ)を奪い(籠絡され)、夫である部下(ウリア)を戦場で死なせた。バト・シェバから生まれた次の王ソロモンが兄弟姉妹の権力争いを勝ち抜き王位に就き、領土を広げ、経済発展と神殿を中止とした栄華を誇った。ソロモンの死後、その子どもたちも権力争いに明け暮れ、民族の分裂と亡国を招いた。
 イエスが生まれた頃は、ローマ帝国の間接支配のもと、ユダヤの王様はヘロデ大王(十人の妻と多数の子どもで大奥を築いた)で、ローマ帝国の手先としてイスラエルのローマ化、従属国化を計った。その後息子ヘロデ・アンティパスがガリラヤ地方の領主であったとき、兄弟の妻ヘロディアを奪って自分の妻としたために、バプテスマのヨハネから批判され、ヨハネを牢獄にいれた。その後、妻へロディアと娘サロメの計略でヨハネを処刑した。ヘロデ親子は神殿建築で人々の人気を得ようとしたが、神への信仰はなかった。マタイのような取税人たちを使ってローマと自分達への税金(みかじめ料ショバ代)を取り立てていた。人々は神殿税と取税人が取り立てる税金の両方に苦しんでいた。外交や政治に関することはローマ(江戸幕府?)の間接支配のもと、神殿とヘロデ大王の息子たちに四分割された領主(藩主?)たちとの合議で行われていた。社会の諸関係法、民法、社会倫理、何が悪であり何が罪か、などの規則や判断については、神殿政治に丸投げされていた。律法で人々を縛りながら、人頭税や神殿税を取り立てることが第一義で、律法を神殿支配者やヘロデ領主や役人たちや軍人に適応することはなかった。その状況下でイエスの言葉を、支配者たちに投げつける言葉として、再度聞き直したい。(支配者たちは自分達のみっともない堕落した裸をさらけ出しているではないか!)
 ローマ帝国とヘロデの息子たち領主と神殿政治の関係は、戦後の米国の世界戦略、属国としての敗戦国日本との関係によく似ていると感じます。主権を持たない傀儡政権の政治家たちは必然的に堕落し、民衆への責任を放棄し、自分たちとセクトの維持と富の蓄積に奔走する。今日の日米合同委員会問題、保守政党議員のパーティティ集金、キックバックの問題もよく似ていると思います。

 

先週の出来事

ネットのニュースやテレビや新聞などで「戦争」のニュースがどんどん流れ込んできます。キリスト者でもクリスチャンでも、わたしのようなイエスチャンでも隠れキリシタンであっても、“聖書に親しんだだけ”の人であったとしても、特にイスラエルとパレスチナの戦闘状態のニュースはこころが•(多少なりとも)痛むと思います。1993年8月ノルウェーで開かれたオスロ会議でイスラエルのラビン首相とPLOのアラファト議長との間で停戦の合意がなされ、9月にもホワイトハウスで、米国クリントン大統領の仲介のもと、話し合いのための「停戦」が世界に向けて表明されました。希望の火が灯ったはずでした。が、1995年11月にラビン首相がイスラエルの若者による銃弾で死亡したとき、「絶望」の輪が広がりました。現在のイスラエルのネタニヤフ首相と、あのときラビン首相を射殺した若者の姿が重なってしまいます。「やつらだけは決して許せない」… ここを乗り越える道を、神の声を聴こうとしている人々、神を畏れる人々、わたしたちは見いだせないのでしょうか。「祈りましょう」でごまかし続けるわけにはいきません。

20240310 東淀川教会受難節第四主日礼拝 宣教要旨「あなたがたは神の子ではないか」マタイ福音書5章13-16節 週報2858

聖書箇所 マタイによる福音書5章 13-16節

「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられようか。もはや、塩としての力を失い、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。 
あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。 
また、灯をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家にあるすべてのものを照らすのである。 
そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かせなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、天におられるあなたがたの父を崇めるようになるためである。」

宣教題「あなたがたは神の子ではないか」

地の塩(あなた方は地の塩である) イエスは人の体について、また、医学的な知識に長けていた。神から与えられている体の神秘的な働きについて語っている。 
 タンパク質や糖分がエネルギー源(右手の役割)であれば、塩は体の半分以上の水分をコントロール(左手の役割)している。生命の維持に欠かせない塩。
塩が不足すると、循環不全、血圧低下、脱水症状、ショック症状や立ちくらみ、むくみなどが起こり、新陳代謝も衰える。人が身体を動かす時、脳からの命令が信号として神経細胞を伝わり、この信号を伝える働きをするのが塩の成分ナトリウムイオン。細胞浸透圧の調整。塩化マグネシウムの抗炎症・抗菌作用。塩化カリウムは筋力の保持。
 塩の役割 食べ物の味付けの基本。更に、食べ物の余分な水分を抜き、雑菌から食べ物の腐敗を防ぎ保存状態を保つ役割。人の体を守る役割として、危険な雑菌を清め炎症を鎮め代謝を促し人々の「元気」を支え調整する役割をイエスは知っていた。
 ※死海の塩水中では、30%以上の塩分があるが、その内容は、塩化ナトリュウムは僅か5.5%、それに対して塩化マグネシュウムは33.3%、塩化カリュウム24.3%などがあるとされている。死海で採れる塩は古代ローマ帝国の兵士に給与として支払われていたと伝えられる。また、シルクロードを通ってアジアに運ばれたとても貴重な品だった。

「あなた方は世の光である」は「あなた方は神の子である」の言い換え。
原始キリスト教団は「イエスこそ唯一の神の子」という教義を中心に据えようとした。そのため、イエスの「あなた方は神の子」というメッセージが背後に回された。「あなたこそ神の子」という“持ち上げ”、神格化のメッセージに対して「私は人の子」と切り返していたと思われます。
排除され疎外され日陰や闇に置かれがちなあなた方は、自分自身をそのように扱ってはならない。自分を隠そうとしてはならない。神に命を吹き込まれ、生かされているありのままの今の姿を輝かせなさい。あなたの輝きが、あなたと共に生きている周りの人々をも輝かせることになる。あなたがたにいのちを吹きこんだ神を讃美しつつ天に召されるその時まで、今を生かされ(活かされ)続けよ、というメッセージそのものです。

20240303 東淀川教会受難節第三主日礼拝 宣教題「ポジショニング・マウンティング」マルコ10章35−45節 週報2857

聖書箇所

マルコによる福音書10章 35~45節
ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」 イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、 二人は言った。「栄光をお受けになるとき、私どもの一人を先生の右に、一人を左に座らせてください。」 イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているのか、分かっていない。この私が飲む杯を飲み、この私が受ける洗礼(バプテスマ)を受けることができるか。」 彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたは、私が飲む杯を飲み、私が受ける洗礼(バプテスマ)を受けることになる。 
しかし、私の右や左に座ることは、私の決めることではない。定められた人々に許されるのだ。」
ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。 そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、諸民族の支配者と見なされている人々がその上に君臨し、また、偉い人たちが権力を振るっている。 しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者となり、 あなたがたの中で、頭になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。 
人の子は、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」

宣教要旨「ポジショニング・マウンティング」

 イエスたちの神の国運動はいわば“(力も富も信用もない)貧しい者こそ幸い”な社会作りだったと感じるのです。運動が起こると誰が上か下か、組織的秩序・権力関係、社会的な影響力の大小などが意識され、セクトが生まれ、仲間たちを出し抜いてでも上下関係のポジション取リ(マウント取り)が図られる。天にまで届くバベルの塔が完成しそれを見た人々が唯一の王権を恐れ敬い、地上から権力争い、戦争はなくなる…という神話は文明と一体の幻想なのでしょう。
 世界支配を目論むナチスドイツが原子爆弾を手にする前に米国が持てば、ヒトラーも諦めるだろう、とアインシュタインがルーズベルト大統領に送った原子爆弾開発を勧める手紙が、広島・長崎に投下された原子爆弾を生み出したという見方もある。戦後、物理学者の学会で湯川秀樹氏に会ったアインシュタインは涙を流しながら日本に謝罪したと伝えられる。彼が核分裂・核融合の開発競争に明け暮れる西欧の物理学者の一人に送った手紙「神はサイコロ遊びをしない」と、応答の手紙「神でもないあなたが神の行いを決めるべきではない」が、これに携わる学者たちが感じていただろう「パンドラの箱」を開けることへの恐怖と、理論を真っ先に実験し実証したい学者の性(さが)のせめぎ合いが感じられます。
 独国・米国の原子爆弾開発競争の物理科学者たち(NHKバタフライエフェクト)
1920年代ドイツのゲッチンゲン大学物理学研究室
○ ヴェルナー・ハイゼンベルグ へのヒトラーの指示 原子爆弾開発計画に非協力。サボタージュ。1941年米国軍部はハイゼンベルグ暗殺を計画。未遂。終戦時イギリスM16に軟禁される。
○ ロバート・オッペンハイマー ユダヤ人 マンハッタン計画 ニューメキシコ州ロスアラモス国立研究所110㎢ エンジニア2500名職員1万名 二つの原子爆弾製作 広島長崎の実情を知り原子爆弾不使用意見を表明。「赤狩り」対象。水爆開発に反対し推進派の科学者と対立。
○ 仁科芳雄 帰国後理化学研究所仁科芳雄研究室によるサイクロトロン・原子爆弾開発(海軍・陸軍それぞれからの依頼)GHQにより研究成果は廃棄。
学者たちにユダヤ人、ユダヤ系移民がとても多い。ディアスポラとして迫害の中を生きてきた人々の強さと、現代のパレスチナにおけるイスラエル問題、ソ連のウクライナ侵攻、覇権争いの舞台裏で牙を磨き続ける最終兵器と、それに怯える現代社会。
人間の「知覚」に基づく「知的欲求」は限りなく広がろうとし、強者たる人間たちの欲求や便利のために利用してきた。精子や卵子すら冷凍保存し遺伝子検査の結果、望む時期に望む子供を望むかたちで得ることすら可能になりつつある。歴史を「人類の進歩」と捉える歴史観とともに失ってきた「神への畏れ」を取り戻すこと、最終兵器廃絶は可能なのでしょうか。パンドラの箱に残る「希望」を幻視したい。

20240225 東淀川教会受難節第二主日礼拝 宣教要旨「運命を重ねる」列王記上17章 列王記下4章 マルコ1章 週報2856

聖書箇所

列王記上17章 17-24節(サレプタのやもめ)
これらの出来事の後、この家の女主人の息子が病気になった。病気は大変重く、その子はついに息絶えた。
彼女はエリヤに言った。「神の人、あなたは私と何の関わりがあるというのですか。あなたは私の過ちを思い起こさせ、息子を死なせるために来られたのですか。」
しかしエリヤは、「子どもを私によこしなさい」と言って、彼女の懐から息子を受け取り、自分が泊まっている階上の部屋に抱いて上がり、寝台に寝かせた。
そして主に叫んだ。「わが神、主よ、私が身を寄せているこのやもめにまで災いをもたらし、その子を死なせるおつもりですか。」
彼は子どもの上に三度身を重ね、主に叫んだ。「わが神、主よ、どうかこの子の命を元に戻してください。」   
主はエリヤの願いを聞き入れ、その子の命を元に戻されたので、その子は生き返った。


列王記下4章 32-36節(シュネムの女)
エリシャが家に着いてみると、子どもは死んで、寝台の上に横たわっていた。
彼は中に入って戸を閉め、二人だけになって主に祈った。
そして寝台に上がって子どもの上に身を伏せ、自分の口をその口に、目をその目に、手をその手に重ねてかがみ込むと、子どもの体は暖かくなった。
それから彼はまた起き上がって、家の中をあちこち歩き回り、再び寝台に上ってかがみ込んだ。すると、子どもは七回くしゃみをして、目を開いた。


マルコによる福音書1章 40−45節
さて、規定の病を患っている人が、イエスのところに来て、ひざまずいて願い、「お望みならば、私を清くすることがおできになります」と言った。
イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「私は望む。清くなれ」と言われると、
たちまち規定の病は去り、その人は清くなった。
イエスは、彼を厳しく戒めて、すぐに立ち去らせ、
こう言われた。「誰にも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めた物を清めのために献げて、人々に証明しなさい。」
しかし、彼は出て行って、大いにこの出来事を触れ回り、言い広め始めた。それで、イエスはもはや表立って町に入ることができず、外の寂しい所におられた。

宣教要旨「運命を重ねる」

(感染と集団免疫)
 偉大な預言者と慕われたエリア、エリシャ。子を病で失った二人の母の絶望を聞き届け、行った「わざ」は、亡くなった子と体を重ねる、一体化でした。それは“病を行為者に感染させ移す”ことであり、“運命をひとつにする”ことでした。
 一般常識でも律法でも、原因不明の病や伝染病などの患者に近づくことも死者に直接触れることも忌むべき行為でした。イエスの病める者への行いは、預言者の「わざ」を受け継ぐものであり、“直接触れる”、“接触する”行為でしたし、手当てし癒やしつつ、死にゆく人とも触れ続けていたと思われます。
 世の最後尾に立ち、細大の歎きを癒やす神のわざを代行しているだけなのですが、癒やされた者が「イエスの行った奇跡」として、神を崇めずイエスを崇め、大騒ぎしたため、行動的な病める者たちに追われ続ける羽目にもなったようです。
 現代、コロナウィルスの変異は続いていますが、「集団免疫」についての研究と議論が続いているようです。ウィルス感染の広がりによって、集団や交流する人々の中に、抗体も広がっていく、免疫力も高まっていく、というものです。医学的・人工的に免疫力を高めようとするのがワクチンです。免疫力が強ければ良いのかというとそうではなく、強くしすぎると自身の細胞にも攻撃を仕掛けてアレルギー疾患や自己免疫疾患を起こしてしまうし、弱すぎると感染によって重症化してしまうようです。人間も自然の中の生き物です。生物学の福岡伸一氏の言葉を借りれば、自然との「動的平衡」・バランスの中に答えがあるのでしょう。
 良きもの(食べ物も身を守る衣類も身を横たえる場所も)分かち合い、弱い者同士が支え合う、自分よりもより弱い者を支え合う、病すら分かち合うことを恐れない、信仰の先人たちが多くいたことも、イエスのわざとともに心に留め続けたい。

20240218 東淀川教会礼拝宣教要旨「旧約と新約との隔たり」出エジプト記20章1-20節

本日の聖書箇所

出エジプト記20章 1-20節
それから神は、これらすべての言葉を告げられた。「私は主、あなたの神、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。
①あなたには私をおいてほかに神々があってはならない。
②あなたは自分のために彫像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水にあるものの、いかなる形も造ってはならない。それにひれ伏し、それに仕えてはならない。私は主、あなたの神、妬む神である。私を憎む者には、父の罪を子に、さらに、三代、四代までも問うが、私を愛し、その戒めを守る者には、幾千代にわたって慈しみを示す。
③あなたはあなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。主はその名をみだりに唱える者を罰せずにはおかない。
④安息日を覚えて、これを聖別しなさい。六日間は働いて、あなたのすべての仕事をしなさい。しかし、七日目はあなたの神、主の安息日であるから、どのような仕事もしてはならない。あなたも、息子も娘も、男女の奴隷も、家畜も、町の中にいるあなたの寄留者も同様である。主は六日のうちに、天と地と海と、そこにあるすべてのものを造り、七日目に休息された。それゆえ、主は安息日を祝福して、これを聖別されたのである。
⑤あなたの父と母を敬いなさい。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えてくださった土地で長く生きることができる。⑥殺してはならない。
⑦姦淫してはならない。
⑧盗んではならない。
⑨隣人について偽りの証言をしてはならない。
⑩隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛とろばなど、隣人のものを一切欲してはならない。」 モーセは民に言った。「恐れてはならない。神が来られたのは、あなたがたを試みるためである。神への畏れをあなたがたの目の前に置き、あなたがたが罪を犯さないようにするためである。」

 

宣教要旨「旧約と新約の隔たり」

ユダヤ教にあってキリスト教にないもの。ヤハウェ(主)「ヤーダー」(知る)
キリスト教にあってユダヤ教にないもの。「アガペー」(愛)「キリスト」(救い主)
※「さて、人は妻エバを知った。彼女は身籠もってカインを産み、『わたしは主によって男の子を得た』と言った。創世記4章1節
「知った」(ヤーダー)が新約における「愛した」と同じ意味です。

 イエスはイスラエル(ユダヤ)人であり、現代の私達が言う“旧約聖書”が示すユダヤ教の中に生きた人であり、旧約聖書に基づいて神からのメッセージを示し、十字架の上で殺された人。
 旧約聖書では「神」は万物と全ての生命の「親」であり、言葉で表現したり、書き表すことができない、讃美しつつも畏れるしかない対象。人間には理解の及ばない神中心の世界観がそこにある。仏教の“色即是空・空即是色”も、人間の知覚や認識をこそ空としており、これによく似ている。
 それに対してイエス以降のキリスト教では、自分が一番大事な、人間中心の世界観。人間が神を信仰する(契約する・服従する・告白する)ことが神を喜ばすことができる、という「関係概念」で理解するようになった。イエスが伝えた神と民(人)との関係を、「モーセの十戒」から拾い出してみます。
「わたしは主、あなたの神」とは、神が全ての生命と人々の親・肉親、という血縁的な感覚があります。イエスの神を呼ぶ言葉「アッバ」もそうです。親は全ての「命」も「人」も「あなた」も「子」として知って(ヘブライ語、ヤーダー)いるが、「人」は親を知ろうとしないし畏れない。神を「父」、民を「娘」で表現する場合もありますが、肉親関係の言葉で表現されます。「知る」(ヤーダー)がギリシャ語「アガペー」に該当します。

「神の名をみだりに唱えてはならない」とは、頭の中で理解したつもりになったり、一片の被造物が創造者を言葉や概念で表現する傲慢さを示す。人は神を知る(ヤーダー)ことはできない、という「わきまえ」が大前提です。
安息日は全ての束縛からも義務からも主従関係からも解放されて近親者とともに親なる神に生かされていることを祝う日。テーマは“解放”です。
「父母を敬え」は、父なる神・母なる神」の関係イメージ、神理解が重なっており、「あなたの子を知れ(愛せよ)」と同じ意味になります。
「殺すな」は「神の子」を殺すという神への反逆を禁じています。
「姦淫」の禁止とは「神が与えた人の性を他人が奪ったり支配してはならない」の意味で、自分から体を売る娼婦業、男娼は禁止していませんでした。人や物の略奪も禁止。偽証・嘘で隣人を貶めることの禁止。最後の「隣人の家を欲してはならない」とは本来、お隣の民族やや国を襲って人や物を奪うことであり、戦争禁止を表します。
 西欧に広まったキリスト教は人間の意識を中心とした神理解となったことを記憶に留め続けたいと思います。

 

先週の出来事

 豚から人への臓器移植の記事がいくつか流れている。その背景には、中国に腎臓などの臓器を買いにいくことが困難になってきている裏事情があるようです。
※「臓器収奪―消える人々 中国の生体臓器ビジネスと大量殺人、その漆黒の闇」
ガットマン,イーサン【著】中国で年間二千人の臓器移植ビジネス。その多くがウィグル民族や少数民族出身の死刑囚からのもの。そして、なんと大枚をはたいて臓器移植を求め中国に渡っている人の最も多いのが日本人。昨今は世界からの批判が集まり、「豚」からの臓器移植か模索されているとのこと。『千と千尋』の豚に変えられた両親が思い浮かんだ。これが今の「日本人」の実像なのだろう。

 

20240211東淀川教会 礼拝宣教要旨「信仰義認? 何それ?」イザヤ書9章 ハバクク書2章 マルコ福音書11章 マタイ福音書21章 ルカ福音書17章

本日の聖書箇所

イザヤ書9章 15-16節
この民を導く者は迷わす者となり これに導かれる者は惑わされる者となった。(15)それゆえ、主は若者たちを容赦せず みなしごもやもめも憐れまない。
すべての者が神を敬わない者となり、悪を行い すべての口が愚かな言葉を語るからだ。それでもなお、
主の怒りは去らず その手は伸ばされたままだ。(16)

ハバクク書2章 4節
見よ、高慢な者を。その心は正しくない。しかし、
正しき人はその信仰によって生きる。」

マルコによる福音書11章22-24節

イエスは言われた。「神を信じなさい。 (22)よく
言っておく。誰でもこの山に向かって、『動いて、海に入れ』と言い、心の中で少しも疑わず、言ったとおりになると信じるならば、そのとおりになる。(23)

マタイによる福音書21章21節
イエスはお答えになった。「よく言っておく。
あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、『動いて、海に入れ』と言っても、そのとおりになる。

ルカによる福音書17章5-6節

さて、使徒たちが、「私どもの信仰を増してください」と言ったとき、(5) 主は言われた。「もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この桑の木に、『根を抜き、海に植われ』と言えば、言うことを聞くであろう。(6)

宣教要旨「律法義認? 何それ?」

 イザヤ書9章15-16節の「ことば」は2千年の時を超えて、この“神こそ在りのときを神なしで過ごす”「今」の現実に向けて語られているメッセージとして、そっくりそのまま受け取りたい。

 唯一なる神は「信仰」によってその人を「義」とされる、とパウロは教えました。「信仰」こそが、その人が神に受け入れられる義人であるかどうかかが計られる、根本的な基準という意味なのでしょう。ならば、イエスは「信仰」をどう語ったのでしょう。
 それほど重要な「信仰」という概念は旧約聖書でどう語られてきたのでしょうか。とても不思議なのですが、旧約聖書に「信仰」(ヘブライ語でエムナ)って言葉はほんの一箇所(ハバクク書)を除いて出てきません。エムナとは(神への誠実・神への畏れ・神への敬虔)を表す言葉です。生き方そのものを指します。
 旧約聖書では、神を畏れない、敬虔さを失った人間の傲慢さを批判する言葉はたくさんありますが、言葉で定義された、概念としての「信仰・不信仰」という概念がないのです。それに反して新約聖書では「信仰」、ギリシャ語で「ピスティス」が頻繁に多用されています。

 ではイエスは「信仰」についてどう語ったのでしょうか。実はイエスは「信仰する者が神に救われる」みたいなことを語ってはいないのです。今日の神学者の中でも「神を信仰したら、それを条件に神は人を救う」「信仰したんだから救ってくれないと困る、契約違反だ!」という考え方を“神取引き”と呼んで批判が始まっています。では、本日の聖書箇所における「信仰」をどう考えていけばいいのでしょう。

 実は、イエスの時代、最も「信仰」と「律法」で人々に重荷を背負わせていたのが神殿祭司や律法学者たちでした。『自分たちこそ神の御心を理解している、人々は神の前で汚れを清めなければならない、罪や病は神殿側が判定し、罪の赦しを得、汚れを清めるために、神殿側が定めた捧げ物(代金)をしなければならない』という趣旨です。そんな彼らは、人々に重荷を負わせるだけ負わせて、本当に困っている、苦しんでいる人に指一本貸そうとはしないとイエスに批判された人々でした。「自分たちこそが神の御心を知っている」「罪から救われる道を手伝っている」という神殿側が乱発する律法の定義、「信仰」定義に対して、イエスは「人々を裁くな!」と叫び続けていました。

 イエスの処刑から十年以上が過ぎ、原始キリスト教団と呼ばれる、初期のキリスト教会が大きく動き始めていました。そこで「福音書」が書かれたのです。そこでは、パウロの語る、“人は「信仰」によってのみ神に義とされる”という「概念」が新たにスタートしていました。福音書の中で、イエスが「信仰」について語っていたことにする必要があったと思われます。「律法」や、「信仰」などの言葉を頻繁に使っていたのは神殿祭司や律法学者たちでした。

 イエスは彼らに向かい、「地震が起きるのは神の怒りであり、病気も個人責任だとあなた方は言う。あなた方に神の御心がわかっている、神をも動かすことができるというのなら、あなた方が山に向かって海に入れと命じたら、その通りになるはず。やってみなさい。預言者エリアも、他の宗教の祭司と雨乞いの祈祷をして、どちらの祈りが神に通じたかを争ったのだから」「ただし、もしもあなた方にからし種一粒ほどの、神に届く信仰があれば、だけれどね。」と、神殿祭司たちの“傲慢”を皮肉っていた言葉と思われるのです。 

先週の出来事

映画『福田村事件』が、一年を通して優秀な活躍をした俳優や映画・ドラマ等を表彰する「2024年エランドール賞」を受賞したとのこと。第一次、第二次世界大戦の頃の日本人・日本の姿を、昨日のこととして想起できる貴重な作品だと思います。是非是非、おすすめです。

20240204 東淀川教会 礼拝宣教要旨「病名撤回の戦い」ルカ福音書13章31-35節 ネヘミヤ記3章33−35節 マタイ福音書5章27−29節

本日の聖書箇所

ネヘミヤ記3章 33〜35節

サンバラトは、私たちが城壁を再建しているということを聞いて怒り、激しく憤ってユダヤ人を嘲った。 (33)
彼は仲間たちとサマリアの兵士を前にして言った。「哀れなユダヤ人どもが何をするつもりか。再建するというのか。いけにえを献げるというのか。一日で仕上げるというのか。瓦礫の山から石でも拾って使おうというのか。それらは焼けてしまっているのに。」 (34)
そばにいたアンモン人のトビヤも言った。「彼らが再建したところで、彼らの石壁など、狐が登るだけで崩れてしまうだろう。」(35)

ルカ福音書13章31−35節

ちょうどその時、ファリサイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに言った。「ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています。」 (31)
イエスは言われた。「行って、あの狐に、『私は今日も明日も三日目も、悪霊を追い出し、癒やしを行うことをやめない』と伝えよ。 (32)
ともかく、私は、今日も明日も、その次の日も進んで行かねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ。 (33)
エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めんどりが雛を羽の下に集めるように、私はお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。 (34)
見よ、お前たちの家は見捨てられる。言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言う時が来るまで、決して私を見ることはない。」(35)

マタイ福音書5章27−29節
マタイによる福音書5章 27〜29節
「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。(27)
しかし、私は言っておく。情欲を抱いて女を見る者は誰でも、すでに心の中で姦淫を犯したのである。(28)
右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨てなさい。体の一部がなくなっても、全身がゲヘナに投げ込まれないほうがましである。(29)

宣教要旨「病名撤回の戦い」

 現代社会とは「ヘイトの時代」と命名してもいいくらい軽蔑やら憎悪やら攻撃やらの「ヘイト」がかつてないほど横行している時代だと感じています。イエスもまた「ヘイト」の嵐の中で死刑囚として殺されている分けですが、ネヘミヤ書にもヘイトの記述があります。

 40年以上のバビロン捕囚からバビロンを滅ぼしたペルシャのキュロス王に帰還を許され、エルサレム神殿とユダヤ国再建を許されたユダヤの人々。祈りの家、神殿の再建、ほとんど廃墟の中に小さな石造りの見窄らしい建物。ネヘミヤは再建のリーダー。それを見て、かつては南ユダ王国から散々な目に遭っていた諸部族から妨害され続けていた。今日でいう「ヘイト」の嵐に襲われた。ヘイトを浴びせる一人ペルシャの役人サンバトラ。いくら石を積み上げてもキツネが通るだけで崩れるだろう、と嘲笑した。「キツネ」は敵対する人々の嘲笑と共にユダの人々の心に刻まれた。イエスの時代。この「キツネ」をイエスはヘロデ・アンティパスに向けて「あのキツネめ!」という語調で攻撃し返している。

ヘロデ大王の死後アンディパスは賄賂を渡すなどしてローマ総督からガリラヤ地方の管理者に任じられた。ヘロデ大王の悪政を引き継ぎ、権力と富の保全のみに心血を注ぎ、異母兄弟の妻を自分の妻とし(律法違反)、悪政を繰り返すヘロデ・アンティパスを非難し悔い改めを求めたバプテスマのヨハネを投獄し、ついには妻へロディアの計略でヨハネを殺した。
 そんなアンティパスと結託しながら、神殿側は人々の病気につけ込み、罪名のように病名を付け、神殿祭司に多額の“清めの捧げ物”代金を渡し、病気が清まったとの証明が得られなければ「汚れ人(アムハーレツ)」として自由が得られない仕組みを作り出していた。こうした神殿の裏金は、「汚れ人」たちの行動を監視・制限する兵を送り込むヘロデ・アンティパスにも渡っていたはずである。

40年以上のバビロン捕囚からバビロンを滅ぼしたペルシャのキュロス王に帰還を許され、エルサレム神殿とユダヤ国再建を許されたユダヤの人々。祈りの家、神殿の再建、ほとんど廃墟の中に小さな石造りの見窄らしい建物。ネヘミヤは再建のリーダー。それを見て、かつては南ユダ王国から散々な目に遭っていた諸部族から妨害され続けていた。今日でいう「ヘイト」の嵐に襲われた。ヘイトを浴びせる一人ペルシャの役人サンバトラ。いくら石を積み上げてもキツネが通るだけで崩れるだろう、と嘲笑した。「キツネ」は敵対する人々の嘲笑と共にユダの人々の心に刻まれた。イエスの時代。この「キツネ」をイエスはヘロデ・アンティパスに向けて「あのキツネめ!」という語調で攻撃し返している。

ヘロデ大王の死後アンディパスは賄賂を渡すなどしてローマ総督からガリラヤ地方の管理者に任じられた。ヘロデ大王の悪政を引き継ぎ、権力と富の保全のみに心血を注ぎ、異母兄弟の妻を自分の妻とし(律法違反)、悪政を繰り返すヘロデ・アンティパスを非難し悔い改めを求めたバプテスマのヨハネを投獄し、ついには妻へロディアの計略でヨハネを殺した。
 そんなアンティパスと結託しながら、神殿側は人々の病気につけ込み、罪名のように病名を付け、神殿祭司に多額の“清めの捧げ物”代金を渡し、病気が清まったとの証明が得られなければ「汚れ人(アムハーレツ)」として自由が得られない仕組みを作り出していた。こうした神殿の裏金は、「汚れ人」たちの行動を監視・制限する兵を送り込むヘロデ・アンティパスにも渡っていたはずである。

 イエスが語る「今日も明日も三日目も悪霊を追い出し、癒しを行うことをやめない!」とは、神殿側が勝手につけた罪名のごとき「病名」のレッテルを剥がし、悪霊(神殿祭祀、ヘロデアンティパス)からの呪縛から解放することだった。イエスたちが、病名をつけられた人々を癒し続けることが、神殿祭司やヘロデ・アンティパスの企みへの反撃であり、囚われ人たちの解放だったと思われる。

 神様から息を吹き込まれ生まれてくる子どもたちは、2千年前だろうと今日であろうと何も変わらない。生まれたくで生まれたわけでも、親を選んで生まれたわけでもない。親や周囲の大人たちの庇護のもとに、生まれてきたこと、生かされていることの喜びから多くの子どもは人生を開始する。親にとっても周囲の大人たちにとっても、子は宝であり、神様からのかけがえのない贈り物であることに今も変わりはない。

 しかし現代はこの喜びを奪ってしまうほど余裕・ゆとりを失いつつかる社会です。子どもの“商品価値”を高めるための躾や教育という名の訓練を受けることが求められ、偏差値教育は当たり前になり、子どもをせめて大学まで行かせることが親の義務みたいになっています。子どもの商品化が学校で行われ、子どもはそこから逃げられません。こどもの出生率は下がり続け、不登校はますます増え、閉じこもりの子も増え、小中学生からの自殺も増加しています。子どもは子どものままでいたいのに、社会に適応する大人になることを強いられ、それについていけない子は適応障害、発達障害というレッテルが貼られ、特別教室への分離、向精神薬の投与、製薬会社の利益拡大という現実は、イエスの時代と二重写しに見えてならない。

 ユルい、ユルす(許す)、ユルユルの語源の和語があります。ゆとりとか、すきま、余裕を示す言葉です。現代社会の中で最も失われているものの一つが「ユルさ」と思います。このユルさを体得するのは自然の中からです。体得する中から自分の歩き方、歩調、頑張り具合と緩め方、休み方、自分の守り方も体得します。
 大人も子どもも、この自然から学び直し、自然から元気をいただくところまで戻ることが必要なのでしょう。

先週の出来事

 群馬県で、朝鮮人と日本人との不幸な歴史を振り返りながら、新しい関係を模索するための記念碑が撤去されるとのニュース。そこに渦巻いているのはまさに「ヘイト」です。ヘイトに屈して撤去を決めたのは県か市か、いずれにしても愚行ですが、ここまでこの社会が病んでいることのしるしなのでしょう。

20240128 東淀川教会礼拝宣教要旨「向こう岸へ渡ろう」マルコ福音書5章1−20節

本日の聖書箇所

 マルコによる福音書4章 35節
さて、その日の夕方になると、イエスは弟子たちに、「向こう岸へ渡ろう」と言われた。

マルコによる福音書/ 4章 37節
すると、激しい突風が起こり、波が舟の中まで入り込み、舟は水浸しになった。

マルコによる福音書4章 39節
イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。

マルコによる福音書5章 1-20節
一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。 
イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊に取りつかれた人が墓場から出て来て、イエスに会った。 
この人は墓場を住みかとしており、もはや誰も、鎖を用いてさえつなぎ止めておくことはできなかった。 
度々足枷や鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり足枷を砕くので、誰も彼を押さえつけることができなかったのである。 
彼は夜も昼も墓場や山で叫び続け、石で自分の体を傷つけていた。 
イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、 
「いと高き神の子イエス、構わないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい」と大声で叫んだ。 
イエスが、「汚れた霊、この人から出て行け」と言われたからである。 
イエスが、「名は何と言うのか」とお尋ねになると、「名はレギオン。我々は大勢だから」と答えた。 
そして、自分たちをこの地方から追い出さないようにと、しきりに願った。 
ところで、その辺りの山に豚の大群が飼ってあった。 
汚れた霊どもはイエスに、「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」と願った。 
イエスがお許しになったので、汚れた霊どもは出て、豚の中に入った。すると、二千匹ほどの豚の群れは、崖を下って湖になだれ込み、湖の中で溺れ死んだ。 
豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。人々は何が起こったのかと見に来た。 
そして、イエスのところに来ると、レギオンに取りつかれていた人が服を着、正気になって座っているのを見て、恐ろしくなった。 
成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれた人に起こったことや豚のことを人々に語って聞かせた。 
そこで、人々はイエスにその地方から出て行ってもらいたいと願い始めた。 
イエスが舟に乗ろうとされると、悪霊に取りつかれていた人が、お供をしたいと願った。 
しかし、イエスはそれを許さないで、こう言われた。「自分の家族のもとに帰って、主があなたにしてくださったこと、また、あなたを憐れんでくださったことを、ことごとく知らせなさい。」 
そこで、彼は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことを、ことごとくデカポリス地方に言い広め始めた。人々は皆驚いた。

宣教要旨「向こう岸へ渡ろう」

イエスたちが“向こう岸”(ゲラサ、ガダラ、ゲルゲサなどとも表記されている)に渡ったことは、とてもでっかい事件だったようです。プロローグはイエスの「向こう岸に渡ろう」という言葉。そこは勝手に侵入してはならない、ヘロデ王やエルサレム神殿が管理している、勝手な侵入が禁じられていたタブーの地にイエスたちが侵入したと思われます。「舟を襲った大嵐」が、イエスたちの行動がどれほど時代に敵対する危険な行為であったかを表現しているのでしょう。「墓場・監獄・発狂した人・鎖で繋がれた人・大声で叫び続ける人」等の描写が、そこが時代のおもてから隠された際暗部であり、悲惨な現実があったことを描き出しています。“悪霊に取り憑かれた”と見做された人々が隔離された地なのでしょう。そこでイエスたちによる、一人ひとりに対する治癒、解放活動が行われたことが、それぞれの福音書においてドラマチックに語られています。

 鎖を引きちぎって叫ぶ声は、自分たちを捕まえ隔離し閉じ込めているものへの抗議が込められているのでしょう。イエスの「名は何というのか」という問いかけは、一人ひとりに、今日でいう“カウンセリング”が行われたことを示しているのでしょう。悪霊を豚の群れに移した、という記事は、かつて日本で行われていた、心の病を“狐憑き”とし、当事者から狐を呼び出して治療者が狐と対峙し、狐にはお山に帰るよう説得し、狐が本人から離れたことにより治療が完成する、という“狐落とし”の手法によく似ています。狐や豚にとっては迷惑な話ですが、一種の心理療法だったのでしょう。

 体が病むように精神も病みます。精神が病むことの背景に、心身の弱者に対する差別、疎外、危険人物と見做して排除するという、集団側からの、或いは社会の側からの攻撃がいつの時代でもあると思うのです。

 教科書で英国人ダーウィンの進化論を学んで、その名前を覚えている人は多いと思いますが、ダーウィンの従兄であるフランシス・ゴルトンの名前は私も知りませんでした。学校では教えません。彼はダーウィンの進化論と並行するように、社会は優秀な子孫を後世にいかにして残すことができるか、という「優生学」を作った人です。優生学は、いかにして「劣生」の人間を排除するか、生まれないようにするか、という理論と表裏一体です。ドイツのヒトラーと同様の考え方です。 
 現代は「民主主義」を掲げている社会ですが、この「優生学」の思想は強かに残っていますし、現代社会の子どもたちの心を不安や恐怖とともに襲っている最も大きなものだと感じています。

 自分の子どもが普通の人として社会から扱われるためには、せめて大学だけは出しておかなければならない、と考える親は、ある意味で、優生学の被害者とも理解できます。まず学歴で採用を決める企業が、優生学を推し進めていると言えます。そんな学歴差別が常態化している社会の中で、「就学前診断」が子への篩(ふるい)となリ、障害による振り分けが行われ、就学後も「身体障害・発達障害・特別支援対象」等のレッテルが貼られたり振り分けられるという恐怖は、子や親を襲い続けていると思います。

 「障害」という言葉、概念そのものが曖昧になっています。日本語の「病気」と「障害」の違いも曖昧になっています。メガネをかける人が多くなれば、「眼鏡をかけている人には視覚障害があり、眼鏡は視覚障害者の補装具」などという日本語はもはや通用しなくなっているわけです。

 発達障害者支援法(2005年 法律第167号)とは自閉症、アスペルガー症候群、その他の広汎性発達障害、学習障害、注意欠陥・多動性障害などの発達障害を持つ者に対する援助等について定めた法律、となっていますが、治療が必要な病気なのか、治療によって治る病気なのか、治らない障害なのか、よく考えても調べても不明です。

 2023年不登校児童約30万人。登校し特別学級に分けられる児童15万人。2022年1年間で自殺した小中学生や高校生は暫定値で512人となり、初めて500人を超えて過去最多となったとのこと。
 確実なのは、子どもたちにとっての現代社会は、のほほんと生きられない、不安や恐怖に満ちた生きづらい社会であること。そして、こんな社会にした大人たちの責任が問われていると思います。

 先週の出来事

 2019年の京都アニメーション放火事件(死者36人)の加害者に死刑判決。
本人も火傷で10ヶ月入院して退院後に逮捕・起訴され裁判が続いた。ずっと治療にあたっていた医師のコメント「本人を事件の被害者たちに向き合わせるために治療を続けた」と。あたまが下がる思いがした。が死刑にされることで被害者たちに向き合うことになるのか、罰として殺されることが責任を取ることになるのだろうか。生きて事件と向き合い続ける、わずかでも償い続けるための無期懲役という判決はあり得ないのか、と思う。

20240121 東淀川教会 礼拝宣教要旨「命は人間のものに非らず」創世記2章7節 ヨブ記1章20−21節 マタイ福音書6章26−27節

本日の聖書箇所

創世記2章7節
神である主は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き込まれた。人はこうして生きる者となった。

ヨブ記1章 20−21節
ヨブは立ち上がり、上着を引き裂いて、頭をそり、地に身を投げ、ひれ伏して、言った。「私は裸で母の胎を出た。また裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の名はほめたたえられますように。」

マタイによる福音書6章 26−27節
空の鳥を見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。まして、あなたがたは、鳥よりも優れた者ではないか。 
あなたがたのうちの誰が、思い煩ったからといって、寿命を僅かでも延ばすことができようか。

宣教要旨「命は人間のものに非らず」

 “気がついたら生きていたし、気がつかないまま死んでいた”というのが実際なのでしょう。命とは本来、抽象的な概念ではなく、動く体のことであり、動かなくなるのが死でした。聖書が神話的イメージで伝えるのは、体を動かす原動力・「命」は神のもので、神与え神奪うもの。動植物も人間も、神に奪われるまで生かされている受け身の存在でしかなく、一瞬たりとも伸ばしたり縮めたりすることもできない。いつかわからぬその時まで、餓死せぬよう、安心して眠れるよう、殺されぬよう、病気や怪我で死なぬよう、文字通り“保身”を図り続けるのが人間なのだろう。人間が上等な存在であるなら、自分だけでなく隣人の保身を互いに助け合うべきであり、それが法(律法)の目的であるとイエスが語った、と福音書は伝えています。

 「神」という抽象的概念である用語をみだりに使うことを聖書の民たちは避けていました。動く体は、母の胎で命を吹き込まれ、神に組み立てられ育まれ世に出たゆえに「裸で母の胎に帰ろう」とは、神の命に帰ろう、との直感的表現です。モーセの十戒の“汝の父母を敬え”とは、「子は親に従え」という封建的な意味ではなく、人の親(父母)である、命のもとである神を敬え、の直感的な表現であり、律法の初源的な表現だったと思われます。“父なる神”とは、父権的な国家の歴史の中で好んで用いられた表現であり、元々は“父母なる神”イメージだっと思われます。日本でも身近な人の自殺に接したとき、「親からもらった体を殺すなんて」などという言い回しは、産んだ親に対する反逆というよりも、実は案外と“神に対する反逆”という意味が込められていたようにも感じます。

 現代社会で“いのち”という言葉はそこらじゅうに氾濫していることと、“いのちはわたしのもの”とばかりに若者から老齢者までまんべんなく自殺者数が増えていることは、息苦しい(生き苦しい)、やるせない、現代社会の表と裏なのでしょう。
  臓器移植や延命治療や安楽死、不妊治療、受精卵の選別、病気と障害の区別、などなど、現代では「いのち」という概念は、死の判定が医師の手に委ねられているように、“病気の治療”を超えて、医療産業、医療技術がリードし、委ねさせられていると感じるのです。
「いのち」という抽象的な概念ではなく、それぞれの自分の「体」に戻り、どこまで、誰に、何を、どう委ねるのか、私たちは聖書を手がかりに語り合い、考えたいと願います。