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20250330 受難節(四旬節)第四主日 東淀川教会礼拝宣教要旨「しんがりからの救い」ルカによる福音書4章16‐30節
聖書箇所 ルカ福音書4章16-30節
それから、イエスはご自分の育ったナザレに行き、いつものとおり安息日に会堂に入り、朗読しようとしてお立ちになった。(16)
預言者イザヤの巻物が手渡されたので、それを開いて、こう書いてある箇所を見つけられた。(17)
「主の霊が私に臨んだ。/貧しい人に福音を告げ知らせるために/主が私に油を注がれたからである。/主が私を遣わされたのは/捕らわれている人に解放を/目の見えない人に視力の回復を告げ/打ちひしがれている人を自由にし(18)
主の恵みの年を告げるためである。」(19)
イエスは巻物を巻き、係の者に返して座られた。会堂にいる皆の目がイエスに注がれた。(20)
そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。(21)
皆はイエスを褒め、その口から出て来る恵みの言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」(22)
イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うに違いない。」(23)
そして、言われた。「よく言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。(24)
確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、全地に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたのに、(25)
エリヤはその中の誰のもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタにいるやもめのもとにだけ遣わされた。(26)
また、預言者エリシャの時には、イスラエルには規定の病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンだけが清められた。」(27)
これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、(28)
総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。(29)
しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。(30)
宣教要旨「しんがりからの救い」
イエスがガリラヤの故郷ナザレ周辺の会堂で人々に語られた場面です。イザヤ書について語り、聴衆はイエスの言葉に驚嘆していたが、やがてイエスをこき下ろすようになり、ルカ福音書の記述では、イエスが預言者エリアと預言者エリシャについて語ったところ、聴衆は怒り出し、終にはイエスを追い出すだけでなく追い詰めて崖から突き落とそうとしたようです。この激しい変化、聴衆の怒りの実体は何だったのでしょうか。
イエスが宣教を始めた時代、神殿政治の中心、ユダヤ教の中心は南ユダ国のエルサレム神殿だけでした。北イスラエル王国があった頃は北部のあちこちに礼拝場所はあったのですが、北イスラエルが滅んでからはエルサレム神殿のみになりました。
ガリラヤ地方はイスラエル十部族の北イスラエル側でした。国を失ってもイスラエルの民であることに強い誇りを持っていました。
一方、南ユダ国の、戦いにも強く国を大きくした王様はダビデでした。そのダビデも息子のソロモン王もユダ族の出身であり、南ユダ国の住民=ユダヤ人であることに誇りを持ち、北イスラエル王国が滅んでからは「イスラエル人」というアイデンティティよりも「ユダヤ人」というアイデンティティが大きくなったのでしょう。さらに北部のサマリア地方は北方の、イスラエルと闘ったアッシリアなどからの入植者も多く、アブラハムの血統ではない、異邦人と混血した、汚れた人々と見做されていました。更に北部のガリラヤ地方も、エルサレム神殿側からみれば、サマリアほどではなくても、異邦人の多い汚れた地域と軽視されていました。しかし、ガリラヤの人々は、北イスラエル国は滅んだけれど、自分たちこそ「イスラエルの民」の伝統や血統や信仰を背負っているという自負は強かったと思われます。
ルカ福音書の記述によれば、イエスが語ったのは、それまでのイスラエルの民が最も尊敬している預言者エリアが神から遣わされたのは、ユダヤから見れば混血の地、シドン地方サレプタの、貧しいやもめのところのところ。そこで彼女はエリヤを支え、国や民族を失っても、神殿を失っても、男から守られる立場を失っても、神に導かれて生きる信仰を失ってはいなかったのでしょう。子どもを失いかけますが、エリアがこの家族を救います。
更に預言者エリシャが用いられて重い皮膚病から救われたのは、イスラエルと敵対していたアラムの、ナアマン将軍であったとのメッセージ。敵国のナアマン将軍に、イスラエルの預言者エリシャを頼るように進言したのは、おそらくイスラエルから奴隷として連れ去られた女性でありナアマン将軍の召使いとして働いていた人。彼女が預言者エリシャを紹介したのは、将軍の病の苦しみを感じ、彼女が信頼している預言者エリシャが仕えている神の力を信じていたからでしょう。
イエスの時代、女たちは人の数に数えられず、軽んじられていました。イエスについて、会堂にいた一人が叫んだ「こいつはマリアと大工のヨセフの長男イエスであり、次男ヤコブ、三男ヨセ、四男ユダ、五男シモン、他に姉妹たちがいるのをみんな知っているではないか(マルコ6章3節)とありますが、ここでも姉妹、女たちは一人ひとりとして数えられていません。
イエスは、サマリアや、ガリラヤよりも更に北の異邦人の地も訪れていますし、ガリラヤ湖東側の、病んでいる人々が置かれた地も訪れています。
イエスの攻撃の矛先は、自分たちこそが選ばれた民であるという選民思想、アブラハムの血統という血統主義、清い民と汚れた民を分ける律法思想、女を男の財産ととらえ、対等な人として見做さない男尊女卑思想、それらを含む傲慢な信仰・思想だったのでしょう。批判の切っ先は容赦なく鋭かったために、逆に故郷の多くの人々を激しく怒らせたのでしょう。
参考箇所
列王記上 17章8〜24節 異邦人の地シドンのサレプタ(地中海に面したツロの近く)のやもめがエリアを養い、エリアは死んだやもめの子を救った。やもめの女は神への信仰を取り戻す。
列王記下5章1〜14節 かつてイスラエルを攻撃し略奪したシリア、アラムの王の将軍ナアマンのところにいた、イスラエルから捕虜として連れ去られた少女がナアマン将軍の皮膚病治療にエリシャを紹介し、ナアマン将軍は癒やされた。
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宣教内容についての感想やご意見、近況の分かち合いより
教会の結婚式で司式する牧師が発することば「神が合わせられたものを人は離してはならない」を、イエスのことばとして理解し、“離婚は罪である”と考えている、乃至は感じているクリスチャンが多いことについて、礼拝語、意見交換が行われました。また教会には結婚式の式文はあるのに、離婚式やその式文がないのは何故か、について語り合いました。
東淀川教会からのお知らせ
6月16日午後2時から、演劇鑑賞会、関西ツイッター仲間の交流会・ティータイムが東淀川教会でありました。芝居だけでなく個性豊かな諸活動家の皆さんで、ペチャクチャがとても楽しかった。お野菜までいただきました。感謝。
東淀川教会「こども喫茶室」の日時を、毎週日曜日の午後1時からに変更します。お待ちしています。
毎月第一月曜日の昼12時から午後5時までという設定で、こどものための喫茶室を毎月開いていましたが、利用者がいなくなりましたので、教会の都合もあり、日時を毎週の礼拝後に変更しました。。
紅茶でも日本茶でもコーヒーもお茶菓子でも無料です。本の持ち込みもご自由です。
東淀川教会週報20240602-2870 こども喫茶202407
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いただいた投稿
20210822 宣教題「死者に語っていただく」について
ヨナ書のお話に出てくるニネベの街の物語は、ヨナとニネベの人たちの疫病対策の物語のように思うのは僕だけでしょうか?
ヨナは単に滅びるとだけニネベに警鐘したのではなく、きっと疫病などの理由(根拠)をちゃんと伝えたのではないか?あるいはニネベの人たちが警鐘の理由を知っていた乃至気づいたのではないか?(でないとヨナは単なる狼少年か、妄想癖・虚言癖人間になり、信用してもらえない)
ニネベの人たちが粗布を身にまとい灰の上に座るのは滅菌消毒対策。人も家畜も何一つ口にしない、食べることも水を飲むこともしないのは経口感染対策。人も家畜も粗布を身にまとい、ひたすら神に向かって叫び求めるのはソーシャルディスタンスを想起させる。
コロナ対策でも、正しく信頼できる情報さえ伝われば、人はマスクや消毒、距離など、自発的にちゃんと感染対策を取れる力がある。しかし「自粛しろ」「オリンピックで盛り上がれ」との全く矛盾する情報や政策は、コロナの感染爆発を引き起こした。
今の政府は災いを自分たちで防いだヨナとニネベを見習ったら!とつくづく思うのだがどうでしょう。
from T.Seisan
※聖書を通して響いてくるメッセージを、“今” “ここ” “わたし” へのメッセージとして受け取ること、更に、復活したイエスがガリラヤから出発し、今も私たちの前を歩んでくださり、その声を今ともにここで聴くことの重要さをあらためて感じさせられました。ヨナのことば「ニネベは滅びる!」が空振りに終わったとしても、ヨナが嘘つきと言われようと、ニネベの人々や行政責任者が断食を行い、生活の仕方や人間関係を自分たちの手でリセットしたこと自体、自分だけを義としたい観念的な悔い改めではなく、具体的行為としての悔い改めだったのでしょうね。今こそ、ヨナとニネベの人々、為政者に見習うべきですね。例えばですが、声を出して会話することを避けるために、若者が最低限の手話を覚えるとかが実現したらいいなと思います。頭の硬い老人の私も学ぼうと思います。(金田恆孝)
20210808 東淀川教会宣教要旨「どん尻の連帯」について
コロナ禍によって、人間のための文化の価値が高まり、人間にとっての必要性も高まっていると思います。その文化とは、演劇、音楽、映画、美術、学問、宗教と多様で、しかもリモートではなく、「生」(生の舞台、生の鑑賞、生の体感、生の対話)が益々大事になっているのではないでしょうか。コロナに負けずに、教会の「生」の礼拝に集いましょう。日々や自己を振りかえる、金田牧師の「生」の宣教が聞けます。しかも礼拝後に宣教の率直な感想を「生」で話し合えます。何と「文句」でもいいというのがめちゃ素敵です。経験上そんな教会は滅多にありません。元気になります。楽しくなります。場合によっては「目からウロコ」で「見える者」になれます。この教会には「生」の文化の魅力があります。 from T.Seisan
※礼拝もライブ配信している教会も増えていますが、やはりイエスの十字架の元に体を運び、友と直接集える恵み、今の思いや祈りを分かち合うことができたことを「東淀川教会史」として刻み続けたいと願います。金田恆孝
20210801 東淀川教会宣教要旨「現代の律法主義」について
0801の金田牧師の宣教も色々考えさせられ楽しかったです。律法=マニアル=形に囚われて、これが創られたそもそもの目的を忘れ、これを守ること自体が目的になってしまう(外れる者を攻撃する)ことは、現代でもよくあることです。これは、自分の私利私欲や言い訳(責任回避)を隠して、あたかも公(みんな)の問題であるかのようにすり替える論法としてよく使われます。これを見抜いて、みんなが幸せになるため、あるいは運動や物事を前進させるための、本音、本質での話し合いに持っていくことが、民主主義=コミュニケーションの神髄、醍醐味であろうと思います。そうすれば多数者である「見えない者」は、真実や本質が「見える者」に変化、成長できます。だから、現代の変革や革命は「自由なしゃべくり」「しゃべくり合い」によってなされるものと信じています(しゃべくり変革、しゃべくり革命)。
誰でも命を吹き込まれた神の子。死んだらだれもが神のもとに帰る”という、明るいシンプルなメッセージに同意、共感します。
科学的な探求が進むほど、宇宙の中で、地球の誕生、有機物の誕生、生命の誕生、多様な生き物や人間の誕生、出産など、それぞれの誕生や出産自体が数多くの条件がそろわないと生まれない、みんな等しく奇跡的なことだと分かってきています。イエスの教えは正にこの認識につながります。from T.Seisan
※金田の耳の障害?老化?で、「自由なしゃべくり」の腰を折り、会話のリズムを乱し、「なんですか〜?」としつこく何度も聞き返すことがありますが、堪えて、諦めず、しつこく、老人介護の練習と思ってリピートしてください。金田恆孝
20210523 礼拝宣教要旨「地獄はない」について
「地獄へ落ちる」とは誤った観念(迷信)、人を支配する方便にすぎません。でも、自分たちでつくった誤った観念で人を支配や攻撃しようとする人たちは、結構身近にもいます。迷信に惑わされないためには、事実を集めて真実を導き出し、賢く認識や反証する必要がありますね。 from T.Seisan
※天地創造にも出てこない「地獄」なんて怖くもないのですが、天にあげられ、神の前に立つ(神の御顔を仰ぐ時、という表現がありますが)とき、生きていたときの全ての謎が解ける、という希望があります。それと同時に、私の一生が川の流れのように映し出され、「お前さんはあの△△の時、○○に対して、心の中で言い訳して、□□から逃げただろ!」とか、人を悲しませたこととか、誤魔化したこととか、いっぱい、いっぱい、叱られそうで、恐怖もあります‥ 金田
※ いかなる批判的なコメントでも、必ず掲載させていただきます。辛辣なご意見もお寄せください。
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