「セクト」 村々  江戸時代迄の「国」に戻せたら

この国の「政治」はセクトによって決まる

選挙のたびに「やはり行きたくない」と思う。票はほとんど、地域セクト、宗派セクト、トリクルダウンセクト(利益下請け共同体)。企業セクト、氏族セクト(表に出ない一族)などでほぼ決まっている。選挙速報も各セクトの動きを読んだうえで、セクト以外の時流に漂う浮動票の「読」に集中するだけで的中してしまう。

カルトなどと呼ばれている熱狂的集団の強引な勧誘やら、マインドコントロールなどと称される強引な心理誘導方法をみていると、そこに惹かれている人々の求めている根底に「村」があると感じる。現代ではかなり崩壊してしまっているが、この地に住む人々の心理的根底では、やはり目には見えなくても「村・村々」や、村に代わる組織、共同体、人間関係を求めている。

明治以降の、強い軍事国家という理想は「八紘一宇」とともに砕けた(復活を願う人々も多い)が、廃藩置県を基礎としたひとつの民主的「国家」イメージは、標準語を決めてもNHKが「日本の姿」をどれほどPRしても、村や村々に代わる共同体意識は持てなかったと思われる。

ドイツ社会主義者ラサールの「国家に与えられた任務は、そこに住む民が安心して寝られるための夜警任務だけに限定すべき」(満田正氏より1971年に学ぶ)には激しく同意。

国家・国概念を血肉に近いものとして取り戻すには、いったん、江戸時代までの阿波国吉備国越国信濃国など68諸国、蝦夷と琉球が同意すれば70の国々に戻るべきである。
無理矢理統一国家、統合の象徴として貼り付けた「天皇教」を、伊勢信仰と同様、民間の宗教団体に戻すべきである。

移動の自由を前提とした地理的な「村・村々」を取り戻せたとき、住民は直接民主制を、主権を取り戻せると思われる。

ただの“絵空事”と言われそう。

190623 イザヤ書9:1-2 マルコ福音書4:21−25宣教題「見透かされすっぽんぽん」

20190623 宣教要旨 司式・宣教 牧仕 金田恆孝

旧約聖書 イザヤ書 第 9 章1-2節
1 しかし、苦しみにあった地にも、やみがなくなる。さきにはゼブルンの地、ナフタリの地にはずかしめを与えられたが、後には海に至る道、ヨルダンの向こうの地、異邦人のガリラヤに光栄を与えられる。
2 暗やみの中に歩んでいた民は大いなる光を見た。暗黒の地に住んでいた人々の上に光が照った。

新約聖書 マルコによる福音書4章21-25節
また彼らに言われた、「ますの下や寝台の下に置くために、あかりを持ってくることがあろうか。燭台の上に置くためではないか。
なんでも、隠されているもので、現れないものはなく、
秘密にされているもので、明るみに出ないものはない。聞く耳のある者は聞くがよい」。
また彼らに言われた、「聞くことがらに注意しなさい。
あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられ、
その上になお増し加えられるであろう。
だれでも、持っている人は更に与えられ、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう」。

聖書から聴く 主題「見透かされすっぽんぽん」
マルコ福音書の“ともし火は升の下や寝台の下ではなく、燭台の上に”の箇所は、「あなた方は世の光である」という聖句とともに語られることが多い。しかし「キリスト者は世の光」という、語られて嬉しくなるような意味でマルコ福音書のこの箇所を受け取ってしまったら、本来のイエスのメッセージとまったく違った、むしろ逆のメッセージなのに、こちらが受け取りやすいように自分たち勝手に理解してしまっている可能性があると思うのです。
イエスの「聞く耳のあるもの」 「聞くことがらに注意しなさい」は、自分に都合よく聞いているんじゃないのか?」「聞く私たちが聞く耳を持っているなどと思ってはならない」という警告に聞こえる。

「聞くことがらに注意しなさい」との念押しは、むしろメッセージは隠されている、というふうに理解すべきだと思われる。

イエスの時代、人々はローマからの徴税、ヘロデ王の徴税、神殿税など、重い課税徴税にかなり苦しんでいたのは確か。いくら財産やおかねを隠そうとしても、ごまかそうとしてもごまかしきれるものではなく、そんなことしたら重い刑罰が待っていた。「ローマに税金を納めるべきではない、という意見も確かに多かった。ゼニを土の下に隠せば……肌身離さず身につけられるものに換えて所持していれば……そんな必死の努力も必ず見透かされて、或いは隣人から告発され、もっともっと大きな「罰・ペナルティ」が襲いかかってくるわけです。「お金でしか家族を養えないじゃないか!」という「お金基準」と同じ基準で根刮ぎ持って行かれるし、お金(資本)をたくさん持っている者たちがますます豐かになっていくし、お金を持てない、ライフラインが細い、貧しい者がより貧しくなっていく、格差はどんどん広げられていくのだ……こうイエスが語っている、と感じられるのです。

現代社会は、数多い燭台の、たくさんのローソクのごとく、監視カメラなどで「隠れることはできなくなっている」し、名義を変えて隠し口座を作っても必ず暴かれてより大きなペナルティが課せられるし、現代の顔認証システムはどんなに変装しても隠れるところもなく暴き出されるし、どこでどんな買い物をしてどんな物慾傾向か、くまなく調べられている。過去の違反歴も逮捕歴も健康診断記録も治療記録も入院記録も権力側であれば極秘という名目をつければすべて権力側の手に入る。
町のあちこちに隠しカメラが置かれていることにプライバシーの侵害だと騒ぐことができた20世紀があった。21世紀は犯罪防止のため、容疑者検挙のため、善良な一般ピープルを守るためとの大義名分のもと、ビデオ撮影カメラを堂々とあちこちに付けてくれることをほとんどの一般ピープルが願っているのが現状なのでしょう。
間違いやすいパスワードよりも、顔認証で顔パスできることを善良な市民達は望んでいるし、だから顔認証システムは広がっている。

「あなたがたの髪の毛一本一本まで数えられている」、とは
やはり現代の「今」に向けてイエスが語られているように感じられる。
もはや二〇世紀には戻れないし、国家による優生保護政策は「善良な国民のため」推し進められ、役立たずで金食い虫の弱者や国家に反抗的な危険人物はフクシ政策として排除され患者扱いされ矯正させられ、最終的な排除刑(死刑)へとつながっていくのでしょう。善良な、優生な、国家を愛するクリスチャンによる、巨大な病院のような、白いチャペルを備えた「白く塗られた教会」が残りそうな気がします。

190721 宣教要旨「わたしにぶらさがるな」 司式・宣教 金田恆孝

旧約聖書 詩篇40篇1-7節
40:1 「慰めよ。慰めよ。わたしの民を。」とあなたがたの神は仰せられる。
40:2 「エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その労苦は終わり、その咎は償われた。そのすべての罪に引き替え、二倍のものを主の手から受けたと。」
40:3 荒野に呼ばわる者の声がする。「主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。40:4 すべての谷は埋め立てられ、すべての山や丘は低くなる。盛り上がった地は平地に、険しい地は平野となる。
40:5 このようにして、主の栄光が現わされると、すべての者が共にこれを見る。主の口が語られたからだ。」
40:6 「呼ばわれ。」と言う者の声がする。私は、「何と呼ばわりましょう。」と答えた。「すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。40:7 主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。40:8 草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」

新約聖書 マルコ福音書6章45:-48
6:45 それからすぐ、イエスは自分で群衆を解散させておられる間に、しいて弟子たちを舟に乗り込ませ、向こう岸のベツサイダへ先におやりになった。
6:46 そして群衆に別れてから、祈るために山へ退かれた。
6:47 夕方になったとき、舟は海のまん中に出ており、イエスだけが陸地におられた。
6:48 ところが逆風が吹いていたために、弟子たちがこぎ悩んでいるのを
ごらんになって、夜明けの四時ごろ、海の上を歩いて彼らに近づき、そのそばを通り過ぎようとされた。
6:49 彼らはイエスが海の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。
6:50 みんなの者がそれを見て、おじ恐れたからである。しかし、イエスはすぐ彼らに声をかけ、「しっかりするのだ。わたしである。恐れることはない」と言われた。
6:51 そして、彼らの舟に乗り込まれると、風はやんだ。彼らは心の中で、非常に驚いた。

聖書から聴く 主題「わたしにぶらさがるな」

イエスはご自身を中心とした教団を、ユダヤ教の宗派を作ろうとしていたのでしょうか。信仰の教祖、リーダーとして信徒を増やそうとしていたでしょうか。イエスは「キリスト教」を広めたのでしょうか。ともにいたのは福音を伝え働く仲間だったのでしょうか。それとも「弟子」でしょうか。
その後、イエスをメシア、救い主とする信仰共同体・教団が形成され、キリスト教が様々なかたちで広がっていきましたが、十字架を境としてそこには「歴史的事実」と「信仰としての心的事実」の大きな断絶があります。
ガリラヤ湖北東岸ちかくの「地の民」が多いベトサイダで「五つのパンと二匹の魚」から始まる大規模な食事会があり、その後、疲れ切っていただろう仲間たちを先にガリラヤ湖北西岸のカファルナウムに先に帰らせ、イエスにしがみつこうとする、癒やされようとする人々の世話をひとりでし、解散させて、山の中でひとりで礼拝を行われ、後からイエスもひとりで西岸に向かっていた箇所です。
彼らが乗っていた舟が逆風で進めなくなっていた、とは、彼らがあまりにイエスに依存し、指示待ちで、それぞれが世と向き合う、自立した、それぞれの姿勢を持ち得ていなかったことを表していると思われます。
イエスが水の中か岸辺か、一人で先に進んでいった。彼らが逆風か、何らかの理由で前に進めなくなっていたのを横目に、通り過ぎようとされた。この記録はマルコ福音書のみですが、彼らとイエスとの関係を行間に表現していると思われます。イエスを見て「幽霊だと思い、おじ恐れた」とは、ひたすら主なる神に用いられて働いているイエスと、イエスにぶらさがって盲従しようとしている彼らとの“おおきな隔たり”があったのでしょう。『困っているわたしたちを放っておくのか』とパニック状態だったのでしょう。
親が見えなくなって泣き叫ぶこどもと変わらないのでしょう。
地の民として世の凹みに落とし込められている人々。
「主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。40:4 すべての谷は埋め立てられ、すべての山や丘は低くなる。盛り上がった地は平地に、険しい地は平野となる。」の福音のため働き続けるイエスと、そのイエスにしがみつき、ぶらさがろうとする仲間たち。ヨハネ福音書15章を待つまでもなく、はじめから仲間を「友」と呼んでいたと思われるのです。「わたしにぶらさがってはいけない」とのイエスの声が聞こえるのです。

○先週の出来事(気になるニュース)
韓国の徴用工問題。ねじれにねじれまくっているが、そもそも、徴用された韓国の人々と徴用した日本企業の間の問題。訴えられている企業を飛び越えて、なぜ国が「国に売られたケンカ」みたいな反応を示し続けるのか? 訴えられている企業たちがまず歴史的事実を踏まえて応答すべき。国の後ろに隠れて、「戦争だったから仕方なかった」とか、「国が日本企業の悪行もチャラにしてくれたハズ」なんて理屈はチガウのでは? 経済第1のこの国もまた「主権在企業」の感覚なのだろうか。余談だが、フェイスブックのキリスト者の発信を見ていると、『この国を愛しているキリスト者なればこそ』みたいな文言が多いのが気になる。天皇とイエスを並べて礼拝していた戦中の教会に戻っている? キリスト者云々のまえに、あなたにとって「国」って何なのさ、と問いかけたくなる。

190714 宣教要旨 詩編23篇 マルコ福音書6章 司式・宣教 金田恆孝  

旧約聖書 詩篇23篇
主はわが牧者なり われ乏しきことあらじ 主はわれをみどりの野にふさせ
いこいの汀(みぎわ)にともないたもう
主はわが魂を活かし 御名のゆえをもて 我を正しき道にみちびきたもう
たといわれ死のかげの谷を歩むとも わざわいをおそれじ なんじ 我とともにいませばなり
なんじの笞(しもと) なんじの杖 われをなぐさむ
汝、わが仇(あだ)のまえに わがために宴(えん)をもうけ
わが頭(こうべ)に油をそそぎたもう わが酒杯(さかずき)はあふるるなり
わが世にあらんかぎりは かならず恵みと憐れみと 我にそいきたらん
われはとこしえに主の宮に住まん

新約聖書 マルコ福音書6章37-44節
6-38 And he saith unto them, How many loaves have ye? go and see. And when they knew, they say, Five, and two fishes. 6-39 And he commanded them that all should sit down by companies upon the green grass. 6-40 And they sat down in ranks, by hundreds, and by fifties. 6-41 And he took the five loaves and the two fishes, and looking up to heaven, he blessed, and brake the loaves; and he gave to the disciples to set before them; and the two fishes divided he among them all.6-42 And they all ate, and were filled.6-43 And they took up broken pieces, twelve basketfuls, and also of the fishes. 6-44 And they that ate the loaves were five thousand men.
するとイエスは言われた。「パンは幾つあるか。見てきなさい」。彼らは確かめてきて、「五つあります。それに魚が二ひき」と言った。
そこでイエスは、みんなを組々に分けて、青草の上にすわらせるように命じられた。人々は、あるいは百人ずつ、あるいは五十人ずつ、列をつくってすわった。それから、イエスは五つのパンと二ひきの魚とを手に取り、天を仰いでそれを祝福し、パンをさき、弟子たちにわたして配らせ、また、二ひきの魚もみんなにお分けになった。 みんなの者は食べて満腹した。
そこで、パンくずや魚の残りを集めると、十二のかごにいっぱいになった。パンを食べた者は男五千人であった。

聖書から聴く 主題「主は我を緑の野に伏させ」
交読文の文語調の響きって、やっぱ、いいですね。聖書の原語と、日本語の歴史との調和を図るための挌闘の歴史を感じるのです。「若い人にも子どもにも理解しやすい易しい言葉で」っていう、自分の頭基準の意見、差別につながることばをやめましょう、などという「自分の気持ち基準」、「運動基準」の言い換え、言葉狩り、などがますます聖書のメッセージをつまらないものにしている気がします。

マルコ福音書によると、この箇所はイエスや弟子たちが「貧しい人々」を訪れたのではなく、彼らが休もうとしている、さみしい祈りの場、休息の場に、勝手に先回りをして押しかけてきたことになっている。おとなの男だけで5千人とありますから、女こども含め二万人以上の人が集まっていたのでしょう。今日の難民キャンプのようなイメージでしょうか。イエスや仲間達の休憩場所を勝手に襲われたのだから、さっさと追い返していい。ある程度受け入れたとしても夕方になれば、夕食も寝るところも自己責任でバイバイするのが事前だろう。が、イエスは彼らの様子を見てそれをせず、弟子達に「食べ物を与えようではないか」と言う。
男一人が1家族とするなら5千家族。それを100家族か50家族毎に分け、整然と配置させたようです。おそらく、全体から見える小山、或いは大きな岩の上のうえでイエスは五つのパンと二匹の魚を神に捧げる「儀式」を執り行ったと思われます。
神に捧げた5つのパンと二匹の魚が、神からの恵みに変えられ、5千家族のお腹を充分に満たし、殘りをそれぞれが持ち帰ることができるほどたくさん余った、とあります。
「五つのパンと二匹の魚がどう変化したか」とか、「イエスがどんな奇跡を起こしたか」と、つい考えてしまいがちですが、イエスではなく「神が奇跡を起こされた」と解釈する方が自然でしょう。
現在世界には6500万人の難民がおり、これは第二次世界大戦の戦死者数とほぼ同じだといわれます。“悲惨な戦争”は今も続いていることになります。
「二匹の魚と五つのパン」は自然を通して与えられる恵みとしての食物と、天然の恵みを人間の手で工夫・加工したものを現していると考えられます。
排他的な国家作り、国境の壁づくりが“悲惨な戦争”を持続させていることを各国が気づき、悔い改め、経済戦争から撤退し、神からの恵みをわずかずつでも神さまに委ねていけば、「悔い改めたニネベの町」になることができると思います。
これだけ過疎の村や過疎の島がたくさんあるのに、世界の難民を受け入れ、自活の援助をすることがこの国でなぜできないのでしょう。国境の壁をつくろうとしているどこかの国と同じなのでしょうか。

○先週の出来事(気になるニュース)
所沢市の中学校で同級の友人を友人宅で殺害した事件。同じ中学校で一昨年は電車への飛び込み自殺、去年は屋上からの飛び降り自殺と続いていたとのこと。
2004年6月1日午後、長崎県佐世保市の市立大久保小学校で、6年生の女子児童が同級生の女児にカッターナイフで切り付けられて死亡した事件。2014年、高校1年生の女子生徒(15)が、同学年の友人(15)の後頭部を鈍器のようなもので多数回殴り首を絞めて殺害し、首と手を切り落とし、腹を裂き解体した事件。大都会だけではなく、地方都市にも声にならない“戦争”が広がっていると感じられる。

20190707 東淀川教会主日礼拝 ヨナ書4章 マルコ福音書6章 司式 金田恆孝

 

旧約聖書 ヨナ書 4章3-11節
3 それで主よ、どうぞ今わたしの命をとってください。わたしにとっては、生きるよりも死ぬ方がましだからです」。
4 主は言われた「あなたの怒るのは、よいことであろうか」。
5 そこでヨナは町から出て、町の東の方に座し、そこに自分のために一つの小屋を造り、町のなりゆきを見きわめようと、その下の日陰にすわっていた。
6 時に主なる神は、ヨナを暑さの苦痛から救うために、とうごまを備えて、それを育て、ヨナの頭の上に日陰を設けた。ヨナはこのとうごまを非常に喜んだ。
7 ところが神は翌日の夜明けに虫を備えて、そのとうごまをかませられたので、それは枯れた。
8 やがて太陽が出たとき、神が暑い東風を備え、また太陽がヨナの頭を照したので、ヨナは弱りはて、死ぬことを願って言った、「生きるよりも死ぬ方がわたしにはましだ」。
9 しかし神はヨナに言われた、「とうごまのためにあなたの怒るのはよくない」。ヨナは言った、「わたしは怒りのあまり狂い死にそうです」。
10 主は言われた、「あなたは労せず、育てず、一夜に生じて、一夜に滅びたこのとうごまをさえ、惜しんでいる。
11 ましてわたしは十二万あまりの、右左をわきまえない人々と、あまたの家畜とのいるこの大きな町ニネベを、惜しまないでいられようか」。

新約聖書 マルコ福音書6章30-31節
6:30さて、使徒たちはイエスのもとに集まってきて、自分たちがしたことや教えたことを、みな報告した。
6:31するとイエスは彼らに言われた、「さあ、あなたがたは、人を避けて寂しい所へ行って、しばらく休むがよい」。それは、出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。
6:32そこで彼らは人を避け、舟に乗って寂しい所へ行った。
6:33ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見、それと気づいて、方々の町々からそこへ、一せいに駆けつけ、彼らより先に着いた。

聖書から聴く 主題「人を避け風に吹かれる場所」

私たちが夜寝るのは、安全な場所で心と体を休めて安らぎの中で眠りたいのであり、空腹時に食事をすると同じように、元気を回復するために必要な、大切かつ不可欠な、生理的な習慣です。普段の心身の疲れはこれで回復できるのですが、たましい(霊、魂)の疲れや混乱や痛みは、寝て回復するものではないようです。

自分自身の痛みのみならず、愛すべき隣人の重荷を自分の
重荷であるがごとく感じ、その先の不安も共有してしまうとき、どこかで、自分の重荷・持ち物と、隣人の持ち物の分類をしつつ、神さまとの語り合いの中で「主なる神による取りなしと癒やし」を求めることが欠かせません。

「人々から離れた、寂しいところ」が実はだれにとっても必要なのだと思うのです。
例えば千メートル以下の山の中で、小さな川の傍で、瞑想したり、お祈りしたり、鮮しい風に吹かれることがとっても重要なのだと思います。

イエスもご自身をリセットするとき、人々から離れて寂しい場所で安息しながら神に祈っていたようです。
そこで行われる神さまとの対話、祈りは、実はなりふり構わない、誰にも気をつかわなくていい場所を確保するのが現代ではとても難しいのかもしれません。
山に抱かれた、小さな川のある場所で、 或いは海に向かう小さな入り江で、或いは人目につかないビルの屋上で、神さまとの対話ができたらどんなにいいだろうと思います。

神さまから逃れようとして神さまに捕まり、悔い改めて神さまに從ったのに、神さまから裏切られ、とうごまの木の下で安らいでいたのにとうごまの葉まで枯れてしまって、“もう死んだほうがましだ!”と神に叫んだとき、不思議な神の声が聞こえてきました。 私たちも一緒に耳を傾けましょう。
それにしても、「あなたの怒るのは、よいことであろうか」というセリフ、とても新鮮な言葉として響きます。感情に振り回されて周囲を攻撃しないではおられない“怒り”、味方以外を攻撃しなければ自分がやられる、みたいな“怒り”が蔓延している今日この頃。普段に使いたいですよね。

○先週の出来事(気になるニュース)
選挙が近づいているのに、“選挙って、なんてくだらない、うっとおしいことなんだ!”と感じて投票に行く気がまったく起きないのです。100人の町があって、100人が出し合う税金の使い道を100人で議論し合い、その使い方をどの政治家に任せるのか等を議論し、政治にも直接関わっていくことができたら、どんなに選挙は大切なものになるだろうとは思うのですが、現代の選挙はつまらないセクト争いのみ。希望など持てそうもない。ただ、「山田太郎」には、このセクト争いを突き破りそうな気配を感じている。

201901630 東淀川教会主日礼拝 創世記38章 マルコ福音書6章 司式 金田恆孝 

創世記38:6-11
6 ユダは長子エルのために、名をタマルという妻を迎えた。
7 しかしユダの長子エルは主の前に悪い者であったので、主は彼を殺された。
8 そこでユダはオナンに言った、「兄の妻の所にはいって、彼女をめとり、兄に子供を得させなさい」。
9 しかしオナンはその子が自分のものとならないのを知っていたので、兄の妻の所にはいった時、兄に子を得させないために地に洩らした。
10 彼のした事は主の前に悪かったので、主は彼をも殺された。
11 そこでユダはその子の妻タマルに言った、「わたしの子シラが成人するまで、寡婦のままで、あなたの父の家にいなさい」。彼は、シラもまた兄弟たちのように死ぬかもしれないと、思ったからである。それでタマルは行って父の家におった。

マルコによる福音書6章17-28節
このヘロデは、自分の兄弟ピリポの妻ヘロデヤをめとったが、そのことで、人をつかわし、ヨハネを捕えて獄につないだ。それは、ヨハネがヘロデに、「兄弟の妻をめとるのは、よろしくない」と言ったからである。
そこで、ヘロデヤはヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた。それはヘロデが、ヨハネは正しくて聖なる人であることを知って、彼を恐れ、彼に保護を加え、またその教を聞いて非常に悩みながらも、なお喜んで聞いていたからである。ところが、よい機会がきた。ヘロデは自分の誕生日の祝に、高官や将校やガリラヤの重立った人たちを招いて宴会を催したが、そこへ、このヘロデヤの娘がはいってきて舞をまい、ヘロデをはじめ列座の人たちを喜ばせた。そこで王はこの少女に「ほしいものはなんでも言いなさい。あなたにあげるから」と言い、さらに「ほしければ、この国の半分でもあげよう」と誓って言った。そこで少女は座をはずして、母に「何をお願いしましょうか」と尋ねると、母は「バプテスマのヨハネの首を」と答えた。するとすぐ、少女は急いで王のところに行って願った、「今すぐに、バプテスマのヨハネの首を盆にのせて、それをいただきとうございます」。王は非常に困ったが、いったん誓ったのと、また列座の人たちの手前、少女の願いを退けることを好まなかった。
そこで、王はすぐに衛兵をつかわし、ヨハネの首を持って来るように命じた。衛兵は出て行き、獄中でヨハネの首を切り、盆にのせて持ってきて少女に与え、少女はそれを母に渡した。

聖書から聴く 主題「静かで壮絶な物語」

聖書を開くとき、神の聖なる御わざを知ろうとして、「聖なる書」から勧善懲悪的な教訓を引き出そうとしたり、イエスの血統に意味づけしたがったりします。が、バイブルとは元々「テキスト」、文字、記録されたもの、という意味で、矛盾に満ちた人間達の、矛盾そのままの姿が描かれています。
イエスの系図には異邦人のおんなたちが登場します。タマルもそのひとりです。長男の嫁だったのですが長男の死後次男の嫁に指定されますが、それを拒否した次男が死に、三男の嫁になるはずでしたが、不吉な女と思われたのか、実家?、故郷に返されてしまいます。居場所を失ったタマルは遊女に化けて義父ユダに近づき子種をゲットして、パレスとザラが生まれ、神さまからの祝福を受けます。

ヘロデ・アンティパスはナバテア王アレタスの娘と政略結婚していた。へロディアは夫の異母兄弟ヘロデ王に近づき、ヘロデの妻と自分の夫を追い出し、王妃の座につきました。このことでバプテスマのヨハネはヘロデ王を公然と律法違反者として告発していました。目障りなヨハネを牢屋に入れましたが、民衆の絶大な人気ゆえ、処置に困っていました。
ヘロデ王の誕生祝いパーティで招いたお客達の前でへロディアの娘、サロメが妖艶な踊りを披露し、招かれた主賓たちから拍手喝采を浴びたため、客の前で、サロメが望むものはなんでも与えようと約束してしまいます。母へロディアにとってもっとも邪魔な存在だった「バプテスマのヨハネの首をいただきたい」と娘に言わせたのです。

ギュスターヴ・モローの、妖艶な姿のサロメと、首だけになって輝いて宙に浮いているヨハネ、そのヨハネを指さし、死を宣告しているようなサロメの姿は強烈な印象を放射しています。多くの画家達にとっても、このへロディア・サロメによるヨハネ殺害のテーマは繰り返し作品化され続けました。
聖書のこのダイナミズム、操り操られる人間模様を直視したい。
イエスたちによる、仲間たちとともに始めた、この世の最後尾に置かれた人々を支えよう、という「最後尾運動」が始まった頃のことだと思われます。ヨハネ虐殺の報はイエスの仲間だけではなく、ヨハネを慕っていた民衆にとってあまりに大きな痛手だったと思われます。

○先週の出来事(気になるニュース)
草津温泉の「湯長」が訪れた湯治客の問診を行っていることについて、
題沸騰している中で、湯長の問診を「宗教みたい」と批判している一部報道があった。
「宗教」とは「怪しい」と同義語らしい。人間の怪しさに比べたら「宗教」ごときの怪しさなんてたいしたことはないのだが。