20220925 宣教要旨「洗礼」「バプテスマとは何か」イザヤ書6:8-11 イザヤ書33:10-14 マタイ3:11−12

週報№2782 聖霊降臨節 第17主日礼拝 
本日の聖書箇所(聖書協会共同訳)
イザヤ書6章 08-11節
その時、私は主の声を聞いた。「誰を遣わそうか。誰が私たちのために行ってくれるだろうか。」私は言った。「ここに私がおります。私を遣わしてください。」 主は言われた。「行って、この民に語りなさい。『よく聞け、しかし、悟ってはならない。よく見よ、しかし、理解してはならない』と。 この民の心を鈍くし 耳を遠くし、目を閉ざしなさい。目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず 立ち帰って癒やされることのないように。」 私は言った。「主よ、いつまでですか。」主は言われた。「町が荒れ果て、住む者がいなくなり 家には人が絶え その土地が荒れ果てて崩れ去る時まで。」
イザヤ書33章 10-14節
主は言われる。今、私は立ち上がる。今、私は自らを高くし 今、私は身を起こす。 あなたがたは枯れ草をはらみ、わらを産む。あなたがたの息は自らを焼き尽くす火だ。 もろもろの民は焼かれて石灰となり 刈り取られた茨は火で燃えてしまう。 遠くにいる者よ、私のなしたことを聞け。近くにいる者よ、私の力を知れ。
「罪人たちはシオンで わななき、神を敬わない者は恐怖に取りつかれる。 「私たちのうち、だれが焼き尽くす火に耐えら れよう。私たちのうち、だれがとこしえに燃える炉に耐えられよう。」
マタイによる福音書3章11 ‐ 12 節
私は、悔い改めに導くために、あなたがたに水で洗礼(バプテスマ)を授けているが、私の後から来る人は、私より力のある方で、私は、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたがたに洗礼(バプテスマ)をお授けになる。

宣教の要旨「洗礼・バプテスマって何?」

 世は不正・強者の嘘と暴虐に満ち、弱者は飢え、王や権力者たち指導者たち長老たちも「正義」「公正」を語らず,人々もそれを求める心を失っていた(イザヤが招かれたときも、そしてまさに現代も)。
 主なる神を忘れ、傲慢な者たちが神の如く振る舞い、主の御心に逆らい続ける「罪」は繁殖させてはならず、焼かれねばならない。そのために神が立ち上がられることをイザヤは知り、イザヤは神のことばを告げる使者の派遣に「わたしを遣わせてください」と願いでる。

 神が『立ち上がった』。罪を重ねる「世」に向けて放たれるのは、枯れ草や枯れ枝を焼いて大地に戻すごとき「焼き尽くす火」である。「火」のイメージは、干ばつと日照りの「火」もあれば、文字通り焼き尽くす「火災」もあるのだろう。雷など、天からの火もあるのだろう。
マタイ福音書3章の「その方は、聖霊と火であなたがたに洗礼(バプテスマ)をお授けになる」が、「火で焼き払うバプテスマ」という、本来の意味を表現している。



「行って、この民に語りなさい。『よく聞け、しかし、悟ってはならない。よく見よ、しかし、理解してはならない』と。 
この民の心を鈍くし 耳を遠くし、目を閉ざしなさい。目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず 立ち帰って癒やされることのないように。」 とは何なのでしょうか。


立ち上がられた神のわざは、人間の考える因果論(こうしたからこうなった)や、二元論(滅ぼされるものと滅ぼされないもの)などで悟ったり理解できるものではないのです。

 神が滅ぼしリセットしようとしているのは「人間個人」対象ではなく「都」「社会」全体なのですが、愚かなる人々(我々)は、何が原因かを頭で理解しようとしたり、滅ぼされる人と滅ぼされない人を分けようとしたり、どうしたら自分(たち)だけは神の怒りからなんとか逃れようとしたり、どうせ滅ぼされるのなら、とやけになって暴走したり、より罪を重ねることになります。

神はイザヤを用いて、人々に何を告げよと語っているのでしょうか。ヨナ書を参考に考えます。 大魚から吐き出されたヨナさんは罪深い、大いなる都ニネベ全体が滅びることを主の命令通り宣告しますが、それを聴いた人々も王も、全ての人が粗布をまとい断食をしました。それは、滅ぼされないため、滅びを回避するための行いではなく、避けられない神の怒りを憶え、祈りつつ、滅ぼされるための準備を行ったと理解するのが自然です。もちろんそこには、受け取らなければならない運命を感じつつも、神がこの裁き・火のバプテスマを思いとどまってほしいと願う祈りも含まれていたとは思います。

ニネベの人々の「粗布をまとい、断食し、祈った」という主への応答は、神の怒りから逃れるための、救われることを取引条件としての「粗布をまとっての断食」・「悔い改め」ではないことを理解したい。そのような、取引的な行為であれば、ニネベはとっくに滅んだのでしょう。

個々人の悔い改めのために、バプテスマのヨハネが水による洗礼を行いながら、語った、本来の「バプテスマ」のメッセージは、洪水伝説の「水」による裁き・リセット、それに続く「(水で)滅ぼさない約束」に安穏としているイスラエルの民に向かい、神の怒りは、イザヤたち預言者が告げるごとく、焼き尽くす「火」によるリセットが行われる、わたしのあとに来られる方がそれを行うというメッセージなのでしょう。
キリスト教に入信するための洗礼、「古いわたし」から「新しいわたし」へ生まれ変わらせていただくためのバプテスマ、という洗礼理解から離れて、「火によるバプテスマ・洗礼」と、あらためて向かい合いたいと願います。

先週の出来事

イスラーム世界の「ヒジャブ」と呼ばれる布のつけ方が不適切と拘束された女性、マフサ・アミニさん(22)の突然死の報道があった。歴史的な感覚の違いや相互理解への、あまりの距離の遠さがあればこそ、主の執り成しを祈りたい。


20220918 宣教要旨「イエスはひとりで祈った」ヨナ書2:8-11 マルコ1:35 ルカ5:15-16 ルカ11:1 担当:金田恆孝

2022年9月18日 週報№2781聖霊降臨節 第16主日礼拝 
本日の讃美歌 1.51 日影静かに 1.58神よ御前に 1.512我が魂の慕い奉る
本日の聖書箇所(聖書協会共同訳)
ヨナ書2章8-11節
命が衰えようとするとき 私は主を思い起こした。私の祈りはあなたに届き あなたの聖なる宮に達した。空しい偶像に頼る者たちは慈しみの心を捨てている。だが、私は感謝の声を上げ あなたにいけにえを献げ、誓いを果たそう。救いは主にこそある。主が魚に命じると、魚はヨナを陸地に吐き出した。
マルコによる福音書1章 35節
朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。
ルカによる福音書5章 15-16節
しかし、イエスの評判はますます広まり、大勢の群衆が、教えを聞いたり病気を治してもらうために集まって来た。だが、イエスは寂しい所に退いて祈っておられた。
ルカによる福音書11章 1節
イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください」と言った。

宣教の要旨「イエスはひとりで祈った」

 ヨナさんもイエスも主の声を聴き続けていました。
この「主」とは今日のキリスト教でよく用いられる言葉です。(ヘブライ文字・ヤハウェ ヘブライ語(私の主)・アドナイ  ギリシャ語・キューリオス ラテン語・ドミヌス 英語・ロード アラビア語・アッラップ・アッラー ドイツ語・ヘア 
スペイン語・セニョール    アラム語 アバ 
(イエスが用いた、万物の父母 幼児が父母を呼ぶ幼児言葉 日本なら、チャン! に相当するか?) 
「主」に込められた意味は、“わたしにとってもっとも大切な唯一onlyの父母” “すべてのいのちにとってallの父母” 、onlyとall、そして  永遠の eternity  を込めた言葉です。

ヨナさんの祈りも、イエスの祈りも、一方的に何かをお願いする「祈り」ではなく、“主の声を聴く”から始まる、「主」との対話です。ヨナさんは主の声を聴かないふりをして逃げ続け、逃げ切れずに、終には自身を捧げ物として献げ、大魚の中で最後の時を迎えた。このいのちは神の慈しみの中にあったことの感謝を語り、自らを神に捧げ、「神のもとに迎えられる救い」を祈り求めました。が、主なる神はヨナさんを更に用いるために、大魚に命じてヨナさんを吐き出させます。旧約聖書の「ヨブ記」も「ヨナ書」も、祈りが“主との対話”であることを、本質的に、とてもわかりやすく示しています。

 まことの「主」のことをイエスから聴こうとする人々、癒やされようとする人々がイエスたちのもとに押し寄せていました。それに応えようとイエスは激しい活動の中でも、主の声を聴き続けながら、ときには人々や仲間たちから離れて一人寂しいところに退き、日々の激しい働きで疲れた身体とこころを休めながら主なる神との対話の時を過ごしていた、それを示す一部が、本日取り上げた聖書箇所です。

 イエスたちの活動は、当時の社会・宗教、人間観から押し出された(疎外された)人々の、「神の子」としての尊厳を取り戻す活動だったと確信しています。神殿の律法を利用し、病・病気を利用し、人々を差別・分断する“悪しきちから”に対し、イエスは『あなたがたは神の子に何すんねん!』とたびたび叱りつけていたと確信しています。ただし、福音書が記された、イエスの十字架から数十年経た時代は「イエスこそ神の子」という宣教が重要なテーマとなり、「神の子」概念が変質したと思います。

 そのイエスも、仲間たちも、自分たちの身を守りながらシステマティックに(例えば、野戦病院の活動のように)活動していたわけではなく、求めてくる人々に、臨機応変に対応していたでしょうし、エネルギーを奪われる働き方だったはずです。その、疲れたからだや心を癒やすために、たったひとりの自分と、主との対話の時が不可欠だったはずです。言い方を変えれば、主のカウンセリングを受けて、主に癒やされていたと思うのです。

 現代の「カウンセリング」という言葉は、「心身(精神・心理・こころ)の問題・疾患を解決する、軽減するためのもの」という、医学モデルからくる考え方がありますが、本質は、それぞれの「わたし」が、わたしにとっての“全体性”を取り戻すための行為です。イエスの活動からいえば、「神の子」としての尊厳を取り戻すことだと思います。

 宗教や宗派、民間療法などは異なっていても、古より行われてきた「瞑想」「座禅」「ヨーガ」「巡礼」「曼荼羅」も、現代の「マインドフルネス」も、「固有状況のわたし」を離れて、宇宙・永遠と向き合う作法・手法の別名なのだと思います。
  イエスが行い、教えた「祈り」も、生ける神と向き合い、内側と外側両方にわたる「全体性」を取り戻すための大切な示唆だと思うのです。不幸の極みに追い込まれたヨブの「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」ヨブ記1:27 もこの「全体性」を取り戻すための祈りでしょう。


 全体の中のかけがえのない存在」について、アインシュタインの言葉を引用したい。
 「人間は我々が宇宙と呼んでいる全体のなかの限定された一部でしかない。人間は何かをきっかけにして自分の意識に対する幻想が起こり、自分自身や思考や感情が、全体から切り離された孤独な牢獄の中にいると感じ、自分自身を見失う。私たちはあらゆる生命と自然全体を抱擁するために、神の慈しみに生かされてきたこと、生かされていることを憶え、神の慈しみの輪を広げて、この牢獄から自分を解放しなければならない」(アルベルト・アインシュタインの手紙1972) 

先週の出来事
北朝鮮に拉致された横田めぐみさん(行方不明時13歳)の父滋さんが二年前6月5日に87歳で亡くなり間もなく2年。めぐみさんの母早紀江さん(86)や弟である飯塚耕一郎さんの「なんで(事態は)うごかないのか」の声が、テレビ番組を通じてであるが、私たちに突き刺さります。拉致事件があったことは国連でも明らかにされ、一部の人たちの帰国はありましたが、現在の生存を確かめる、など、それ以上事態を動かすことを阻んでいるのはなんでしょうか。「待ったなし」は「国」にとっての「待ったなし」ではないのでしょうか。それ以上に、この国自体が『待ったなし』の状況に追い込まれているとも感じます。

20220911 東淀川教会礼拝 宣教要旨「人を裁けるほど人は偉くない」レビ記19:15ー16節 ルカ福音書6:37ー41節

本日の聖書箇所(聖書協会共同訳)
レビ記/ 19章 15~16節
裁きにおいて不正をしてはならない。弱い者に偏ってかばってはならない。強い者におもねってはならない。同胞を正しく裁きなさい。民の間を回って、中傷してはならない。隣人の命に関わる偽証をしてはならない。私は主である。
ルカ福音書6章37~38節
「人を裁くな。そうすれば、自分も裁かれない。人を罪に定めるな。そうすれば、自分も罪に定められない。赦しなさい。そうすれば、自分も赦される。与えなさい。そうすれば、自分にも与えられる。人々は升に詰め込み、揺すり、溢れるほどよく量って、懐に入れてくれる。あなたがたは、自分の量る秤で量り返されるからである。」
ルカ福音書6章41~42節
「きょうだいの目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目にある梁に気付かないのか。自分の目にある梁は見ないで、きょうだいに向かって、『きょうだいよ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。偽善者よ、まず、自分の目から梁を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、きょうだいの目にあるおが屑を取り除くことができる。」

宣教の要旨「人を裁くほど人は偉くない」
 イスラエルの新年(ロシュ・ハシャナ)は9月末〜10日間(懺悔と学びの期間)で、10日目は贖罪日(ヨム・キプール)。一年間は懺悔・悔い改めから始まる。この期間、特に読まれるのがレビ記のようです。19章はモーセの十戒を中心とした学びの指標です。現代社会の私たちへのメッセージとして読み解いてみます。富者が貧者を偏って恵んではならない、とは、たとえばキリスト者が陥りやすい過ちでもあります。道を尋ねられれば親切に教えたがる日本人の姿があります。困っている隣人の助けになりたいキリスト者の姿があります。つい、自分の助けたい人を(偏って)助けようとする私たちの陥りやすい過ちがあります。

 強い者におもねったり弱い者を見下してはならない、とは、鎖国を続けることで異文化との交流を避けてきた日本国の歴史があり、武力で近隣諸国を侵略した歴史があり、現在も強国に追従しながら戦闘態勢を増強したがる日本人の姿もあります。
「寄留者と対等に付き合いなさい。イスラエル人はエジプトで寄留者であったのだから」とは、高慢にならず、頑なにならず、対等、かつ利他的な人間関係を築くため、富者や権力者にありがちな、人を高みから見下ろす「傲慢」に陥る危険を強く戒めていると思います。

 同胞や隣人を疑ったり悪人と裁きたくなったとき、タルムード・ミシュナー(ラビの口伝集、神の教えの口伝的な解説書)には、“もしも裁くなら当人に有利なように裁きなさい”というのがあるそうです。イエスの「隣人の目のおが屑を取らせてくださいと言う前に、まず自分の目から梁を取り除くべきです」(隣人や他者の過ちや間違いを指摘したり怒ったり非難したりする前に、自分自身の中にある偏見や思い込みや一方的な考え方などを自分自身で気づきなさい)のメッセージは、隣人の助けをしたいと思う日本人、キリスト者の犯しやすい過ちを避けるための、重要な助言・アドバイスを与えてくれていると思います。


 現在、報道で「統一協会問題」を通して戦後の政治家たちと宗教との関係が問い直されようとしています。統一協会については、もともと「宗教」とはいえず、「宗教を偽装した危険なセクト」であり、その反倫理性、反社会性が裁かれるのは当然ですが、既成の大宗教団体が票田となって政治家や特定の党派を動かしている現実があります。

「性善説」に基づいて宗教法人が無課税なのは良いと思うのですが、統一協会問題やオウム問題があって「宗教って怖い・ヤバい」という風潮があるのならば、余計に「お金の流れ」や「組織の在り方・人事」や、「教義・内部の法」などは協力者や信徒たちにオープンにされているべきだと思いますし、宗教団体の「透明化」「見える化」は図られるべきだと思うのです。東淀川教会は役員会の議事録もお金の流れも「すっぽんぽん」に見えるようになっています。

 現代、コロナウィルスワクチン接種効果よりも、ウィルスに罹ってこそ得られる自家免疫力の方が感染を防げるというデータが広がってきており、諸外国ではマスクを外しつつあります。この国では感染への恐怖からまだまだマスクが外せない人は多く、自己判断で防衛のためマスクし距離を取るのは自由ですが、自己判断でマスクをしない人を“裁く”風潮が残っています。何が誰にとっても正しい答え、正解なのかは曖昧でありそれぞれの思い込み先週の出来事
 三権分立なのに、国会も司法も無視して内閣判断だけで国家的宗教行事「国葬」を、多くの反対意見を押し切って強行しようとしていることは同意できませんし、国際的にも恥ずかしいことだと思う。少なくとも、この国は、もう少し“恥を知る”文化ではなかったでしょうか?
も偏見もあります。多様な思いがあって影響し合って良いはずです。
 何が正しいか、ではなく、私の「不安」や私の「偏見」など、私の目の「おが屑」に自分で気づき、修正するためにも、互いが互いを利するための(おたがいさまの)「思いの交流」ができたらと願います。それが教会の交わりの中で実現できたら、そしてそれぞれの人間関係において実現を図れたら、それは主イエスにホメられることと思うのです。 

先週の出来事

三権分立なのに、国会も司法も無視して内閣判断だけで国家的宗教行事「国葬」を、多くの反対意見を押し切って強行しようとしていることは同意できませんし、国際的にも恥ずかしいことだと思う。少なくとも、この国は、もう少し“恥を知る”文化ではなかったでしょうか?

 

20220904 東淀川教会礼拝宣教要旨「ちぐはぐな時代」マルコ福音書2章18−22節

レビ記16章 29節 
これはあなたがたのとこしえの掟である。第七の月の十日には身を慎みなさい。どのような仕事もしてはならない。イスラエル人も、あなたがたのもとでとどまっている寄留者も同じである。(贖罪日ヨム・キプルについての定め)

マルコによる福音書2章 18~22節
ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、断食していた。そこで、人々はイエスのところに来て言った。「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食するのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」
すると、イエスは彼らに言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいる間は、断食はできない。
しかし、花婿が取り去られる日が来る。その日には、彼らは断食することになる。
誰も、真新しい布から布切れを取って、古い服に縫い付けたりはしない。そんなことをすれば、新しい継ぎ切れが古い服を引き裂き、破れはもっとひどくなる。
また、誰も、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋も駄目になる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」

宣教の要旨「ちぐはぐな時代」

イスラエル民族は年一度罪を悔い改める贖罪日ヨム・キプルを決めていました。断食が目的ではなく、生きるための行為(働く、とか、用事を行うとか食べるとか)を止めて、生かされているままの状態に戻って、何もしないまま、神のことを思う、生かされていることを確認する、ひたすら神から離れていたことを悔い改めることが重要な目的だったはずです。(レビ記16章29節)

それがいつの間にか断食という行為が目的となり、回数を増やし、「断食」という行為を行うことが信仰の証明となり、敬虔さや義人であることの証明となり、守るべき決まり事(後から造られた律法)になっていったと思われます。身近な隣人を助ける、助け合うことよりも「断食」という宗教行事を、欠かすことの出来ない行為として宗教家たちは優先していたわけです。


福音書が伝えるイエスたちの姿に「断食」は見当たりません。心からの悔い改め抜きの、儀礼化した「断食」に付き合っている暇もなく、食べ物を分かち合い、病んでいる人の手当てをし、人々を助け合いの関係へと導いていたと思われます。安息日も断食の日もおかまいなしだったため、信仰のルール=社会のルールを守らない、今風に言えば「反社」の行為、グループとして攻撃されたわけです。

イスラエルの民間伝承で、父なる(男性的な)神に対して、神とともに歩む民のことを「シオンの娘」つまり女性イメージで表現していることが多くあります。「花婿が一緒にいるのに婚礼の客は断食できるだろうか」とは、社会から無視・放置され、闇に置かれ、嘆き悲しむ人々の祈りを、その叫びを聞き、主なる神が救済のために立ち上がられる、とイザヤは告げ、イエスもまた「神の国は近づいた」と告げました。神のほうから救済のために近づいてこられている。どん底に置かれた人々のところへ降ってこられる、それが花婿(神)が一緒にいる喜びの時、という表現なのです。

イエスたちの行いは、食べ物を分かち合い、語り合い、事情を理解し合い、生きにくさを共感し合い、おのおのの元気を取り戻すこと、更には、そのような人間関係を取り戻すことこそが重要であり、身体を清潔に保つための沐浴も、身支度を調えることも、手を洗うことも、おそらく食前の祈りすらもそっちのけだったため、「反社会的グループ・反社会的行い」と攻撃された、と理解していいと思います。


 共観福音書それぞれに記されている、古い布の修理に新しい布を継ぎ当てする喩え、新しいぶどう酒を古い革袋に入れる譬えについて、大人たちや子どもたちを交えながらイエスがどんなお話しをされていたのか、想像力を膨らませたいと思います。

イエスは今私たちが置かれている社会関係、人間関係でどう語られるだろうか、例えば現代の難民問題について、貧困問題について、LGBTQ問題について、幼児虐待問題について、妊娠中絶問題や体外受精問題について、戦争について、何が古い布きれで、何が新しい革袋なのか、何がちぐはぐな使い方なのかなどについて語ってくださると思うのです。イエスの十字架を仰ぎながら、復活の主の声を聴きたいと願います。

先週の出来事

 元首相の国葬について、議論を広げようとする人々と、議論を抑え込もうとする人々との、両極端な動きを感じます。「国葬」とすることは、無言のうちに、この国の住民すべてに「弔意」を要求することになります。許されない暴挙だと思います。
 安倍元首相の家族葬に、政府に忖度し半旗を掲げるよう各学校等に指示した自治体がありました。自治体の勝手な忖度だから政府は責任を負わない、と言い逃れはできるかもしれませんが、数十年前の戦争への道がそうであったように、「危険なファシズムへの道は権力者に対する忖度によって敷き詰められている」と思われますし、過剰なくらい警戒すべき現在の動きだと思います。