20221127 宣教要旨「イエスは魚が大好き」 ルカ福音書5章4-6節 マタイ福音書17章24-27節 

本日の清書箇所

ルカによる福音書5 46

話し終わると、シモンに、「沖へ漕ぎ出し、網を降ろして漁をしなさい」と言われた。シモンは、「先生、私たちは夜通し働きましたが、何も捕れませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。

マタイによる福音書17 24-27

一行がカファルナウムに来たとき、神殿税を集める者たちがペトロのところに来て、「あなたがたの先生は神殿税を納めないのか」と言った。ペトロは「納めます」と言った。家に入ると、イエスのほうから言いだされた。「シモン、あなたはどう思うか。地上の王は、税や貢ぎ物を誰から取り立てるのか。自分の子どもたちからか、それともほかの人々からか。」ペトロが「ほかの人々からです」と答えると、イエスは言われた。「では、子どもたちは納めなくてよいわけだ。しかし、彼らをつまずかせないようにしよう。湖に行って釣り針を垂れなさい。そして最初に釣れた魚を取って口を開けると、銀貨が見つかる。それを取って、私とあなたの分として納めなさい。」

 

宣教の要旨「イエスはお魚が大好き」

日本に住んでいる人々のルーツは縄文人であり弥生人であり、その他北方や大陸や南方から来た人々です。長い長い縄文時代には山の幸に恵まれた山の民と、海の幸に恵まれた海の民が多かったのでしょう。海の幸彦・山の幸彦のお話しにも伝わっています。海辺の人々は魚や貝や海藻などで胃袋を満たし、山の幸彦たちと天からの恵みを交換する場合は干した魚が主だったと想像できます。

「魚は天のくれらすもんでござす 天のくれらすもんを ただで わが要ると思うしこ(だけ)とってその日を暮らす これより上の栄華の どこにゆけばあろうかい」 
                         石牟礼道子【苦界浄土】より

 かつては水俣の豊かな海で漁をし、水俣病(?)で骨と皮ばかりになった老人の言葉を石牟礼道子さんが伝えています。石牟礼さんをとおして、天の恵みに生かされてきたことへの至福の喜びを語る老人の言葉を聴きながら、イエスが出会った、イエスの活動に合流した漁師たちの姿が重なります。

 とても便利で私たちの生活に欠かせないだろう塩化ビニールやプラスチックなどの化学製品。その原料を生成する過程で排出された水銀で汚染された水俣湾と魚たちと海の民やこどもたち。科学技術の発展・商品の便利さの恩恵に浴しながら、数多の天からの恵みを破壊し汚染し被害者たちを生み出してきた歴史の先端に私たちはいます。

 ガリラヤ湖で魚があまり獲れず貧しい漁師たち、というイメージを福音書から読み取りがちなのですが、実は魚が獲れても重税ないしは献品(年貢)が課せられていたことは見逃されがちです。「貧しさ」の根本原因はそこにあったわけです。たとえば日本の歴史の中で、私たちの先祖の農民や漁民に、もしも課せられた年貢(徴収・献品・税金)がなかったら、公共のためにと課せられた税金があったとしても、全収穫の十分の一までだったら、歴史はまったく異なっていたのでしょう。もしも、長い長い縄文時代が、支配者や権力者たち“大きな者”から、“小さい者”の採取したものや狩りをしたもの、収穫したものを無理矢理奪われることのない、献品を強制されることのない世界だったとしたら、それは至福の時代だったと思うのです。

 イエスのもとに集まってきた、子どもを含めた貧しい群衆は飢えていたはずです。難民です。彼らの飢えを満たすための食糧をなんとかしようと網を降ろしたら、舟二杯分の大漁となった、と理解できます。今日の炊き出しがそこで行われていたと理解できます。

「貧しい者」とは「小さな者・小さくされている者」です。自分が、自分自身を愛するように、より「小さな者たち」を助けようとした時、しんがり・最後尾に立つ神が魚たちをいっぱい集めてくださった、という記事として読めるのです。そうであれば、イエスがシモンたち漁師にかけた言葉は、人を獲る漁師にしようというよりも、「いっしょに、人を養う漁師になろう」という意味が大きかったと思うのです。

 ルカ福音書24章では、復活したイエスが焼いた魚をむしゃむしゃ食べている姿が描かれています。イエスやその仲間たちも魚が大好きでいつも食べていたのでしょう。

 マタイ福音書の17章では、神殿税問答が行われています。いわば難民の炊き出し、看護、救援活動をしているイエスたちの活動は経済活動として課税されるのか、そこに集められた善意の救援物資にも課税されるのか。それを受け取る人々も消費税を払わなければならないのでしょうか。

イエスの切り返し、「王は自分の子どもたちから税金をとっているのだろうか」とは、「王(国の支配者・大きな者)とは、生産活動を行い、助け合って生きている国民を守ることが第一の責任なのではないのか」という、逆の問いかけ、反論です。が、誰から見たって正しい道理であれ、小さな者、貧しい者の「収穫・収入」から税を取り立てようとする(奪おうとする)神殿や権力側が、道理を認めて引き下がるはずもありません。
 不要な弾圧や争いを避けるための工夫の結果が魚の口の中にあった銀貨の意味なのでしょう。

先週の出来事

カタールFIFAワールドカップ。スタジアム建設にかかったこの10年で建設従事の移民労働者(インド・バングラディッシュ・ネパール・アフリカなどから)6500人が死亡したとの報道がされています(一ヶ月に50人以上!)。(まちがいなく)蛸壺のような宿舎、日中気温は40から50°の環境の中で、安全基準など守られず、 使い捨て労働力とされた数多の人々がいたはずです。
 テレビに映し出されたイランの選手は国歌を歌わず、ドイツの選手たちは口を塞いでいた。祭典の背景に何があったのかは、私たちの想像を超えているはずです。祭の熱狂、その背景にあるものから目を逸らせられないのです。

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20221120 宣教要旨 マタイ23:23-24 出エジプト記8:12-13 レビ記11:4 ブヨとラクダ

降誕前第5主日礼拝 収穫感謝日 
本日の聖書箇所

出エジプト記8章 12-13節
主はモーセに言われた。「アロンに言いなさい。杖を差し伸べて地の塵を打て。そうすれば、それはエジプト全土でぶよになる。」二人はそのように行った。アロンは杖を持って手を伸ばし、地の塵を打つと、人や家畜につくぶよとなり、地の塵はすべて、エジプト全土でぶよとなった。

詩編105編 31節
主が命じられると あぶやぶよが国中に襲来した。

レビ記11章 4節
ただし、反芻するだけか、あるいはひづめが割れているだけのものは食べてはならない。らくだ、これは反芻するが、ひづめが割れていないので、あなたがたには汚れたものである。

マタイによる福音書23章 23節
律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたがた偽善者に災いあれ。あなたがたは、ミント、ディル、クミンの十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な公正、慈悲、誠実をないがしろにしている。これこそ行うべきことである。もっとも、十分の一の献げ物もないがしろにはできないが。

マタイによる福音書23章 24節
ものの見えない案内人たち、あなたがたは、ぶよは漉して除くが、らくだは吞み込んでいる。

宣教の要旨「ぶよとラクダの笑い話」

 コロナウィルスが更に変異して、第何波かわかりませんが、広がろうとしている、ぶよの異常繁殖で苦しめられた時代もありましたが、まさにぶよのようなウィルスに悩まされている現代の只中に語られたイエスの言葉として聞きたいと思うのです。

このぶよとラクダの話。マタイ福音書では神殿入場後、攻撃してくる相手たち(長老たたち、祭司長や律法学者やファリサイ派やサドカイ派)を前にした、全面対決のごとき、激しい緊張の中で語った話になっていますが、この対決姿勢は、初期キリスト教団に由来するものであり、実際はむしろ、仲間たちや大勢の人たちと一緒に食べたり飲んだりしながら、楽しくユーモアを交えて話したことだと思うのです。

「お偉いさんたちは私たちに向かってケガレから離れよ、いつも清潔を保て、ケガレたら清めの捧げ物をしろとか指示するよね。手や体をいつもきれいに洗って清潔を保て、だけやったら、神経質な指示やな、くらいで済むんだったらいい。それじゃ済まないから大変なんだ。支持する彼らは、雇人たちに洗濯とか散髪とか風呂の用意をさせて清潔を保っているだけでなく、そうしない人や病気の人を捕まえて“お前は汚れている”“汚れが好きなサタンに取り憑かれている““病気なのは取りついている汚れやサタンのせいで、それを清めるには神殿に傷のない牛を一頭治めなければならない”などと強要してくる。しかも、納められた償いの牛を売り飛ばして得たお金を、賄賂としてヘロデ王側に渡したり、ローマのユダヤ州総督の手下に渡したりしている。神に従っている、全て神に捧げていると言いながら、支配者たちに尻尾ふって従っているんだよね。 ケガレから遠ざかる、小さなぶよを汚いと言いながら、絶対食べてはいけないと言い伝えられているラクダ、それも、ローマとヘロデというふたこぶラクダを実は飲み込んでいるんだよ。おかしいだろ!」
そんな砕けた話を普段からよくしていたと思われます。


 大きなラクダを飲み込んでいる指導者の姿は、統一協会問題で自民党議員と統一協会の関係が取り沙汰されていますが、その議員たちの姿ととても重なって見えます。

 選挙応援などのメリットがあって付き合ってきただけではなく、もっと古くから、闇の世界が築かれていて、政治工作や根回しにはつきものの賄賂工作、便宜を図るなどの闇の貸し借り、更には、表に出せないお金を、宗教法人を通じて足のつかないお金に変えてしまうマネーロンダリング技術に長けた統一協会との関係を続け、お世話になってきたため、解散命令を出すとか、今後一切関わらないできれいな手ときれいな体を取り戻す、などという、過去のケガレをなかったことにすることはなかなかできないはずです。 

 今現在も活動していますが、「国際ハイウェイ財団」(日韓トンネル構想)のキーワードでお調べください。元々は統一協会の文鮮明が日本から自分のところに金を運ばせるために考えた構想でした。佐賀県唐津市~釜山へ (実現不可の絵に描いた餅)  これが2004年NPO法人取得し、2008年日韓海底トンネル推進議員連盟発足(山崎拓•麻生太郎)となった。この問題は今後明らかにされていくと思われますが、まさに“統一協会というラクダをすでに飲み込んでいる政治指導者たちの姿” は、現代社会の病理なのだと感じるのです。

先週の出来事

ウクライナの、破壊された瓦礫に描かれたバンクシーの絵という。
小さな少年が、大きな柔道着の男を投げ飛ばしているのは柔道大好きなプーチンが小さなウクライナの少年に投げ飛ばされている図と解釈できますが、この柔道着は、北朝鮮からのミサイルや台湾問題などで緊張が高まり、軍備拡張を図っている好戦的な日本を暗示しているのかも、と思ってしまう。

20221113 宣教要旨 イエスの笑い 目に入ったおが屑 目の中の梁 目の中の丸太

聖書箇所 マタイによる福音書7章1−6節 ユダによる福音書1−2章 担当 金田恆孝
2022年11月13日 週報№2789 降誕前第6主日礼拝

マタイによる福音書7章 1〜6節
「人を裁くな。裁かれないためである。
あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量られる。
きょうだいの目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目にある梁に気付かないのか。
きょうだいに向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に梁があるではないか。
偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、きょうだいの目からおが屑を取り除くことができる。
聖なるものを犬に与えてはならない。また、豚の前に真珠を投げてはならない。豚はそれを足で踏みつけ、犬は向き直って、あなたがたを引き裂くであろう。」

ユダによる福音書 (意訳)
1章1節 イエスが人々の前に現れてから、彼は多くの人々の救いのために大いなる奇跡を起こした。
2節 イエスは働く仲間たちに対して、自分自身のことは語らず、大人の指導者として振る舞うことはなかった。むしろ、外側の人々の目には、この集団の中に子どもっぽいイエスが映っていた。
2章1節 ある日ユダヤでイエスは仲間たちのところへ行き、彼らが一緒に座して、食事について大真面目に決まり文句の感謝の祈りを、声をそろえて唱えているところに出くわした。イエスは笑った。
2節 彼らは言った。「なぜ私たちの感謝の祈りを笑うのですか。私たちがしていることは正しいことではないのですか」
3節 わたしはあなた方のことを笑っているのではありません。あなた方は自分の思いと自分の言葉で祈っているわけではありません。決まり文句の祈りで、決まり切った(作られた)神が賛美を受けているのでしょう。

宣教要旨 笑うイエスの声 おが屑と目の中の丸太

 イエスが笑う姿は共観福音書に直接描かれてはいません。旧約聖書などにも“嘲笑う”はありますが、健康的な、楽しげな笑いについては、(詩篇の一部にはありますが)ほとんど見当たりません。が、イエスのメッセージには、明らかにユーモアや“明るい笑い”が響いているのを感じます。イエスの笑い声や、それを聞いている人々の笑い声を感じないで読むことのほうが難しい箇所はたくさんあります。

 新約聖書外典「ユダの福音書」(信仰の書としては排斥されてきたグノーシス派の書)には、子どもっぽい姿のイエスと、イエスの笑う声、笑う姿が描かれています。

 イエスの譬え話に「おが屑と目の中の梁(目の中の丸太とも訳される)があります。 イエスは養父ヨセフ(大工)と母マリアの子と呼ばれています。おそらくヨセフの死後も大工仕事で家計を支えたと想像できます。そんなイエスが、ノコギリによる裁断、木の加工から出るおが屑や太い木材を用いて譬え話を語る時、体験を交え、笑いながら楽しげに、ありありと語っていたに違いありません。

 中東、パレスチナの地域で、砂ぼこりに悩む、目を痛める体験や、眼球が傷つきばい菌が入り失明することへの恐れは、誰にでもあったのでしょう。イエスがこんなふうに語ったんじゃないか、と想像してみます。

 「砂ぼこりや虫やおが屑のような小さなものでも目に入ると、痛くてたまらないよね。川やきれいな水がなければ洗い流すこともできないし、自分では怖くて取り出せないから、誰かに取ってくれとお願いするしかないよね。」「誰でも、隣人の目にゴミが入って痛がっていたら、水や、水がなければ唾液や布や紙などで工夫して取ってあげるよね」

「でも、痛いわけでもないし、こちらからお願いしたわけでもないのに“あなたの目はゴミで濁っていて良し悪しが判別できなくなっている。私がそれを取り除いてあげよう”などと助言・アドバイスのフリして人をコントロールしようとする奴らがいっぱいいる。

 他の人の欠点ばかりあげつらって自分の欠点に気がつかない大人たちがいるよね。そんな人たちの目の中をよ〜く覗いてごらん。目の外側じゃなくて目の中だから、もう痛くはないのだろうけれど、たくらみという名の丸太が入っているのがきっと見えるよ。おもしろいだろ!」

「でも、そんな大人に向かって、へたにアドバイスはしない方がいいと思うよ。よけいに怒り出して、あなた方を攻撃してくるだろうからね。」


 この“おが屑と丸太の喩え”は、現代の、子どもたちに対する「発達障害」診断の諸問題がとてもよく当てはまると感じています。近年の「発達障害」という言葉は、“人間の発達にはみんなでこぼこがあって、基本的には治さなければならない病気ではない”という認識から広まり始めたと思います。でも、現在ではADHDとか自閉症スペクトラムとか学習障害とか、さまざまな「病名、或いは、手当をしなければならない障害名」として流布され、特別クラスや特別学校に分けられたり、病院に通って投薬治療を受けたり、〇〇セラピーと称する特別な訓練を受けなければならない実態が広がっています。そのために、幼少期や、学童の低学年の時から、脳に直接働きかける“向精神薬”の投与を受ける子どもたちが増えています。15歳以下の、脳が発達途中の児童に向精神薬は投与すべきではない、との専門医の声もありますが、“治療”と“社会・環境適応”が優先されています。これらの、子どもたちへのアプローチが、本当に一人一人の子どもにとっての「助け」「利益」「生きるちから」になっているかは甚だ疑問です。学校への不登校、引きこもり、子どもや青年期の自殺数など深刻な実態は、確実にますます増加しています。

 子どもたちや他人の目のゴミばかりを問題にしているけれど、自分の目の中に大きな梁・丸太が入っているのに気づかない大人たち、教師たち、専門家たち、親たちの方が、実は深刻な事態ではないかと感じるのです。

 もちろん、私自身の“目の中の丸太”に気づく努力は続けますが、。私の中の、全く見えていないことなどに気づかれたら、決して反撃などしませんから、教えてくださるようお願いします。


 先週の出来事

葉梨康弘法務大臣の「法務大臣は死刑執行のハンコを押すときだけ目立つ地味な仕事」発言。目立ちたかったの? ハンコを押す前に判決を精査した? 冤罪への恐怖はないのか? 再審請求はなかったの? 責任者として死刑執行への立ち合いはしないのか?

 人の命を刑死させることへの逡巡や苦悩の一欠片も感じられない“目立ちたがり屋”が法の番人とは、この国はいったい…

20221106 宣教要旨「ヨハネの顔・イエスの顔」マルコ1:14−15 マタイ11:2-5 ルカ11:20

本日の聖書箇所

マルコによる福音書1章14−15節
 ヨハネが逮捕されたあと、イエスはガリラヤに来て、神様からの便りをこう語らい出した。「時は来ている。神様のお取り仕切りは今ここにある。心を切り替えて、この便りに身を委ねよう。」(山浦玄嗣訳けせん語風)

 マタイによる福音書11章 2-5節
 さて、ヨハネは牢の中でキリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、 尋ねさせた。「来るべき方は、あなたですか。それとも、ほかの方を待つべきでしょうか。」
イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。 目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、規定の病を患っている人は清められ、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。
(帰ったら、牢獄で心配しているヨハネに伝えておくれ)

ルカによる福音書11章 20節
しかし、私が神の指で悪霊を追い出しているのなら、神の国はあなたがたのところに来たのだ。
「もしも神さまの力で俺が憑き物落としているのなら、神さまのお取り仕切りはここに近づいているんだ。」(山浦玄嗣訳風)

宣教要旨「ヨハネの顔・イエスの顔」

 神の怒りを告げ、悔い改めを求め、権力者やイスラエルの堕落を非難したバプテスマのヨハネ。その顔のイメージは、神の怒りを告げる、悔い改めを求める、厳しい顔つきが多いと思われます。

 ヘロデ王の怒りによって牢に閉じ込められたヨハネは、弟子を通じてヨハネ自身の活動がイエスにどう受け継がれるのか、預言されていたメシアはイエスだったのか、イエスたちの活動は何なのか、確かめようとしたと思われます。

 厳しい顔のヨハネ、その使いの者に対し、イエスの顔はどんなんだったでしょう。おそらく、ヨハネの弟子たちの不安を吹き飛ばすように、“ヨハネにも見聞きしたことを伝えておくれ”と、にこやかに笑いつつ語ったと思われます。


 世のしんがりに置かれた盲人の目は開け、聾唖者の耳は開け、口は解け、病は浄められ、差別と貧困に苦しんでいた人々に喜びの知らせと希望が訪れている。神の国は近づいているんだ、と告げています。 それは決して威厳に満ちた宣言ではなく、“泣いていた多くの顔がいま笑っているんだよ” それを一緒に喜んでいるイエスの姿であり、イエスの顔だったはずです。


 ヨハネとイエスの顔・表情をあえて二項、左右に分けてみますと


今は神の怒り・裁きのとき← →今は救いのとき  
今は断食のとき← →今は婚礼のとき 
今は悔い改めのとき← →今は分かち合いのとき 
洗礼を受けよ← → 隣人の足を洗おうよ  

つい、イエスの顔や風貌を、“悲しみを湛えた” “熱心な” “威厳に満ちた” と勝手にイメージを作りながら聖書に向かい合ってしまう。がイエスが生きることに難儀している人々に語ったのは福音(喜びの知らせ)であり、誰にでも、子どもにもわかりやすい、ユーモアに満ちた言葉だったからこそ、集まってきた多くの人々の心に染み渡り、広がっていったと思われるのです。
 イエスのユーモア、イエスの笑い声を、しばらく連続して聖書から聞き取りたい。


 

先週の出来事

 3日朝っぱらから長時間、全国瞬時警報システム(J-ALERT)のアラームが鳴り響き、テレビも各局一斉報道。“国民は全員強制的に注目し緊張し続けなければならない”状態に。しかも、内容が“日本上空を飛んだ”が、“日本上空から消えた”に変わり、その後、“日本上空を飛んではいない”に変わった。ひたすら「アホラシ!」 
我が家のジジイの一言「世の中狂っとる!」
だいたい、飛行物体の高度が発表されていない。ネットのニュースなどではミサイルの高度970Kmとか1920kmとか伝えられていますけれど。
 そもそも日本上空・日本の領空って地上何キロまで? 地上80〜100キロメートルより上は宇宙ってことらしいけれど、まさか宇宙まで「日本の上空」って言ってませんか?
『ニッポン上空を○○国の人工衛星が飛んだ!』とか言わないと思うけれど。