東淀川教会 20180812 礼拝 イザヤ2章 マルコ14章 「敗戦からしか学べぬこと」司式:金田恒孝

旧約聖書 イザヤ書2章3-4節
多くの民は来て言う、「さあ、われわれは主の山に登り、ヤコブの神の家へ行こう。彼はその道をわれわれに教えられる、われわれはその道に歩もう」と。律法はシオンから出、主の言葉はエルサレムから出るからである。彼はもろもろの国のあいだにさばきを行い、多くの民のために仲裁に立たれる。こうして彼らはそのつるぎを打ちかえて、すきとし、そのやりを打ちかえて、かまとし、国は国にむかって、つるぎをあげず、彼らはもはや戦いのことを学ばない。

And many peoples shall go and say, Come ye, and let us go up to the mountain of Jehovah, to the house of the God of Jacob; and he will teach us of his ways, and we will walk in his paths: for out of Zion shall go forth the law, and the word of Jehovah from Jerusalem.
And he will judge between the nations, and will decide concerning many peoples; and they shall beat their swords into plowshares, and their spears into pruning-hooks; nation shall not lift up sword against nation, neither shall they learn war any more.

新約聖書 マルコ福音書14:43-48

すると、イエスのそばに立っていた者のひとりが、剣を抜いて大祭司の僕に切りかかり、その片耳を切り落した。イエスは彼らにむかって言われた、「あなたがたは強盗にむかうように、剣や棒を持ってわたしを捕えにきたのか。わたしは毎日あなたがたと一緒に宮にいて教えていたのに、わたしをつかまえはしなかった。しかし聖書の言葉は成就されねばならない」。
弟子たちは皆イエスを見捨てて逃げ去った。
 But a certain one of them that stood by drew his sword, and smote the servant of the high priest, and struck off his ear.
 And Jesus answered and said unto them, Are ye come out, as against a robber, with swords and staves to seize me?
 I was daily with you in the temple teaching, and ye took me not: but this is done that the scriptures might be fulfilled.
 And they all left him, and fled.

宣教題「敗戦から何を学ぶか」
戦勝国にとっては「戦争」は正義であり、神が戦勝国を祝福している証拠であり、「悪」なる敵国に対する加害責任に心を痛めたり戦争そのものについて悔い改めることはない。敗戦国にとっては、戦争そのものの犯罪性に直面化せざるを得ず、敗戦は神から与えられた裁き、報いであり、神から与えられた試練となり、非戦への誓いが可能となる。
イザヤの語る「主の山」「ヤコブの神の家」とは、地上で争う、この世の国々を突き抜けた山の上の「神の国」を示している。神の国の「彼」らが示す教え、示す道は和解の道であり、非戦、平和への道である。そこで学ぶのは、武器を農具に、自然から恵みを得る道具に変えること、だとイザヤは告げる。
イエスによる神の国の宣教を、国家、及び国家を支える宗教セクトに刃向かう犯罪と見なした者たちの手先が、反逆者イエスを逮捕すべく武装して近づいた。武器によってその威信が維持される国家が「神の国」をつぶそうと攻撃するのは聖書にあらかじめ書かれていたことであり、それは必然であり、成就されるべきだとイエスは語った様子。
広島に原子爆弾リトルボーイが投下されたのが1945年8月6日。長崎にファットマン投下が8月9日。驚くのは、更に17発の原子爆弾投下が予定されていたとのこと。「戦争を終わらせるための原子爆弾使用」とは、「戦争を終わらせるための戦争」と同じで明らかな詭弁であり、本当は武器として開発した途方もない強力な原子爆弾の実験がどうしても必要だったのは自明のこと。
第二次世界大戦後、世界平和のために国連が生み出された後も、軍事力拡張は進み、ソ連の核爆弾ボンバの破壊力はリトルボーイの3300倍。米国のトライデントⅡは一基でリトルボーイの30倍。それを原子力潜水艦一つに20基を搭載し、どこにでも撃ち込むことができる。
2017年122カ国の賛成多数で可決された核兵器禁止条約に核保有国である先進諸国も被爆国日本も署名も批准もしない。
ますます「剣」・軍事力を拡大している現代社会に平和への希望はあるのだろうか。
「負けても学べない」この国はどうなるのだろうか。

○先週の出来事
8月6日 広島の平和記念式典に参列した安倍首相の挨拶は戦争の加害者責任について何も言及せず、以前に使った原稿のコピペしたものを読むだけの人形となった様子。首相という業務は人形で済むのが日本の現状らしい。

東淀川教会 20180805 礼拝 イザヤ11章 マタイ12:33-35 宣教「まむしの子を見極めよ」司式:金田恒孝

旧約聖書 イザヤ書11章6-9節
11:6おおかみは小羊と共にやどり、ひょうは子やぎと共に伏し、子牛、若じし、肥えたる家畜は共にいて、小さいわらべに導かれ、
11:7雌牛と熊とは食い物を共にし、牛の子と熊の子と共に伏し、ししは牛のようにわらを食い、
11:8乳のみ子は毒蛇のほらに戯れ、乳離れの子は手をまむしの穴に入れる。
11:9彼らはわが聖なる山のどこにおいても、そこなうことなく、やぶることがない。水が海をおおっているように、主を知る知識が地に満ちるからである。

詩編140篇1-4節
140:1主よ、悪しき人々からわたしを助け出し、わたしを守って、乱暴な人々からのがれさせてください。
140:2彼らは心のうちに悪い事をはかり、絶えず戦いを起します。
140:3彼らはへびのようにおのが舌を鋭くし、そのくちびるの下にはまむしの毒があります。
140:4主よ、わたしを保って、悪しき人の手からのがれさせ、わたしを守って、わが足をつまずかせようとする乱暴な人々からのがれさせてください。

宣教題「まむしの子を見極めよ」
普段は悪人になりたくはないのに、ある場面で「悪人」になってしまうことはある。その場合は、内なる「悪人」に本人自身がのちのち苦しむことになる。
だが、根っから権力や財力を増やし、隣人への影響力を及ぼしたがり、社会的弱者を意のままに支配したがる「悪人」はどの時代でも必ずいる。現代社会もまた、21世紀の現代もまた独裁者たちによる力争いの時代になり、戦争を防ぐための最大の機関「国連」が経済的にも政治的にも危機的状況を迎えている。

イザヤ書が指し示す「神の国」のビジョンは、「強者」も「弱者」も主なる神に養われ、牧され、ともに活かされている姿、ビジョンである。これも「国連」が目指す最終的なビジョンでもある。
詩編140篇は、「悪人」の自覚のない「悪人」に翻弄され虐げられる「弱い者」の祈りである。多くの人々が入っていく「広い道」ならば、虐げられる苦しみは軽減され、より弱い者を踏み台にしてでも「強者」の側に近づいていくことができる。が、彼らが持っている「毒」に毒されないためには「狭い道」に留まり、主にのみ守られるしかない。

悪人「まむしの子」の見分け方についてイエスが語っている場面である。良い木が良い実を結ぶ、とは、自分がしてほしいことを隣人に行う「木」である。が、悪人は自分にしてほしいことを人にするのではなく、逆にしてほしくないことを「あなたがたのために良いこと」として強制してくる。

現代社会でも同じように毒を持ったマムシたちが乱立し始めた。
それが民主主義を自称していようが、共産主義を自称していようが、共和主義を自称していようが、看板と中身とは関係ない。
「独裁」が世界あちこちでポピュリズムを流布・再生しながら跋扈している。それを見抜きつつ「弱い立場」の者たちが互いを守り合えるようにするための、上からではなく下からのネットワーク作りが火急に求められていると思う。

○先週の出来事
チェルノブイリの立入禁止区域内には、ハイイロオオカミなどの大型動物が数多くいるらしい。癌を引き起こす弱い人間とは異なり、野生性の高い動物(灰色オオカミ)の野性的生命力が放射能の攻撃力をものともず繁殖しているのだろうか。

東淀川教会20180729礼拝 詩編51:1-4マタイ7:12-14 宣教「罪を憎み人を赦すとは」司式:金田恆孝

旧約聖書 詩篇51編1-4節
神よ、あなたのいつくしみによって、わたしをあわれみ、
あなたの豊かなあわれみによって、
わたしのもろもろのとがをぬぐい去ってください。
わたしの不義をことごとく洗い去り、
わたしの罪からわたしを清めてください。
わたしは自分のとがを知っています。
わたしの罪はいつもわたしの前にあります。
わたしはあなたにむかい、ただあなたに罪を犯し、
あなたの前に悪い事を行いました。
それゆえ、あなたが宣告をお与えになるときは正しく、
あなたが人をさばかれるときは誤りがありません。

新約聖書 マタイによる福音書7章12-14節

だから、何事でも人々からしてほしいと
望むことは、人々にもそのとおりにせよ。
これが律法であり預言者である。
狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、
その道は広い。
そして、そこからはいって行く者が多い。
命にいたる門は狭く、その道は細い。
そして、それを見いだす者が少ない。

宣教題「罪を憎み人を赦す」
イエスは「赦せ。7の70倍赦せ」と言われる。(マタイ18:22)
『私の罪をお赦しください』とは、キリスト者の中心的祈り。
主の祈り「我らに罪を犯す者を 我らが赦す如く 我らの罪をも赦し給へ」 →「我らに罪を犯した者を私たちが赦した分だけ、私たちの罪をも許し給え」が本意。どれだけ自分が隣人の罪を一緒に背負ったり、赦したり、応援できたかが肝心。
ちなみに許すとは、許可すること。赦すとは責めないこと。
更に、その隣人が罪から離れることを、あるいは悪霊に従わず神に従うことを祈り続ける。
刑論にある孔子の言葉「古之聴訟者、悪其意、不悪其人(昔の裁判所では訴訟を取り裁くとき、罪人の心情は憎んだが人そのものは憎まなかったの意味)」から。
聖書(ヨハネ福音書8章)にも「罪を憎んでも人を憎まず」という言葉があり、孔子の「罪を憎んで人を憎まず」と同じ意味と解釈される。

ヨハネ福音書8:7
彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。 8:15あなたがたは肉によって人をさばくが、わたしは
れもさばかない。
8:34イエスは彼らに答えられた、「よくよくあなたがたに言っておく。すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。
8:44あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって、その父の欲望どおりを行おうと思っている。彼は初めから、人殺しであって、真理に立つ者ではない。彼のうちには真理がないからである。彼が偽りを言うとき、いつも自分の本音をはいているのである。彼は偽り者であり、偽りの父であるからだ。
罪を犯す者は「罪の奴隷」「悪魔」「偽りの父に従う者」。
たとえそれがヒットラーであろうと、松本智津夫であろうと、支配している悪魔と支配されている人とを分けなければならない。彼を支配している悪霊の正体をはっきりと見極めなければならない。

○先週の出来事
左回りの台風によって本日の礼拝が守れるかどうかわからない。いや、それ以上に、たとえ礼拝堂でなくとも、いたずらに災害を恐れるだけではなく、「天の父なる神」の声に耳を傾けつつ、私の罪、我々の罪を見つめなければならないと思う。