20211031 Sunday Service 宣教題「選民思想の過ち」担当 金田恆孝

本日の聖書箇所(聖書協会共同訳)
イザヤ書8章 23節
しかし、抑圧された地から闇は消える。先に、ゼブルンの地とナフタリの地は辱められたが 後には、海沿いの道、ヨルダン川の向こう 異邦人のガリラヤに栄光が与えられる。
ルカによる福音書9章 53節
しかし、サマリア人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムに向かって進んでおられたからである。
ルカによる福音書10章 29-37節
しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、私の隣人とは誰ですか」と言った。イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追い剝ぎに襲われた。追い剝ぎたちはその人の服を剝ぎ取り、殴りつけ、瀕死の状態にして逃げ去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、反対側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、反対側を通って行った。
ところが、旅をしていたあるサマリア人は、その場所に来ると、その人を見て気の毒に思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』この三人の中で、誰が追い剝ぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人に憐れみをかけた人です。」イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」
ヨハネによる福音書4章6-9節
そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。
サマリアの女が水を汲みに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女の私に、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際していなかったからである。
ヨハネによる福音書4章 21節
イエスは言われた。「女よ、私を信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。

※サマリア 北イスラエル王国の首都 アッシリアに滅ぼされアッシリアからの移住政策で混血化。南ユダ王国のバビロン捕囚、帰還後サマリア人は神殿再建協力を申し出たがユダヤ人たちがこれを断った。サマリア人はゲジリム山に神殿を設け、モーセ5書のみを聖典として信仰を継承した。イエスの時代、サマリア人は穢れの民とみなされていた。

宣教の要旨「選民思想の過ち」ー選民思想は賤民を生み出すー
 イザヤの時代、ガリラヤはすでに異邦人(よそ者)の地と呼ばれていた。よそ者の地で生まれたイエスの時代、滅んだ10部族の首都だった北のサマリアは南ユダ王国からは「近親憎悪」の対象であり、混血、神殿や儀礼の混淆を理由に穢れの民と看做されていた。イエスたちの宣教活動は「隣人」サマリアにも及んだ。“良きサマリア人”の側から、祭司やレビ人で構成される南ユダ国、エルサレム神殿の側(ユダヤ教)をイエスは批判していた。イエスはユダヤ教徒だった、という言い方はあるが、むしろ「イスラエル教徒」と表現する方が正しいと感じている。
 ヨハネ福音書が描く、サマリアの女に一杯の水を求めるイエスは、貧しいやもめの家に派遣された預言者エリアの姿であり、“この山(ゲジリム山)でもエルサレム神殿でもないところで(どこでも)(万物の主、いのちの主なる)神を礼拝するときが来る”というイエスのメッセージは、“セクト宗教からの解放”を書き記していると読める。

 サマリア人に愛されたイエスが、自らの死を予告しながら、エルサレムに向かって行ってしまう。サマリア人の悲しみ、裏切られたような思いがあったのではないか、と想像します。

 自分たちこそ神に選ばれた民、という「選民思想」に基づく他の民族への差別化、奴隷化、排除の歴史は近代・現代も続いている。ナチスによるホロコースト(民族浄化)と現代の優生思想とは地続きである。
 明治政府は西欧の「形質人類学」を輸入し、アジアにおける日本人の優秀さを証明しようとする(研究)目的で、明治から昭和にかけて琉球人(沖縄北部今帰仁村“ナキジン”から26体)やアイヌ人(カイの国、もしくはアイヌモシリの各地から数千体)の人骨盗掘が東京大学、京都大学、その他の帝国大学によって繰り返されたという。諸論文には“文化民族(日本人)と自然民族(土人)の比較研究”等の文字がある。「土人」は「地の民・アムハーレツ」と同義である。北海道各地のアイヌ協会が遺骨の返還を求めたが対応しなかった和人・シャモの国だったが、2007年、国連で「先住民族の権利宣言」が採択され、遺骨の返還は少しずつ始まるも、未だ人骨とアイヌのこころを「盗んだ」ことに対する謝罪はないようです。「学術研究のためにお借りしただけ」の対応が、いまもカイの国、アイヌモシリのこころを盗み続けているのは確かです。

 1903年(明治36年)大阪博覧会学術人類館(天王寺)で「人種の陳列」が行われ、並べられたのはアイヌ人、琉球人、台湾高砂族、朝鮮人、清国人、インド人、ベンガル人、トルコ人、アフリカ人。西欧列強の植民地政策の模 倣と、その後の大東亜共栄圏構想につながる日本人の優秀さ、選民思想を内外に示す目的でした。諸外国の抗議でしばらくして取りやめましたが、こころからの謝罪、悔い改めはなされておらず、和人、ヤマトンチュの選民思想は息を潜めてはいますが、いまだに健在なのだとおもいます。

 イエスは民族や人種や宗教を用いた“選民思想”や“優劣ランク分け”“賤民を作り出す棄民政策”などを、全ての人=「神の子」に対する罪として、最後尾=しんがりから告発し続け、復活したイエス(たち)はガリラヤから新たな旅を続けながら告発し、まことの悔い改めを求めている、それが聖書の、イエスからのメッセージとおもうのです。

  先週の出来事
米FDA ファイザーのワクチン 接種可能年齢を5~11歳に拡大とのニュース。子どもの重症化・死亡リスクが高いわけでもないのに、判断が困難な子どもへの接種を製薬会社が「風潮」をリードすること自体が大問題と思う。

20211024 Sunday Service 宣教題    「 奴隷の鎖を逃れるために」担当 金田恆孝

本日の聖書箇所(聖書協会共同訳)
申命記19章 15-20節
どのような過ちや罪であれ、人が犯した罪は一人の証人によって確定されることはない。人が犯したどのような罪も、二人または三人の証人の証言によって確定されなければならない。悪意のある証人が立ち、相手に対して不利な証言をするならば、争っている二人は主の前に進み、その時、任に就いている祭司と裁き人の前に立ちなさい。裁き人は子細に調査し、その証人が偽りの証人であり、同胞に対して偽証したのであれば、その者が同胞にたくらんだことを彼に行って、あなたの中から悪を取り除きなさい。他の者たちはこれを聞いて恐れ、あなたの中でこうした悪事が二度と繰り返されることはないであろう。

マタイによる福音書16章 19節
私はあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上で結ぶことは天でも結ばれ、地上で解くことは天でも解かれる。
マタイによる福音書18章 10-16節
「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天にあっていつも、天におられる私の父の御顔を仰いでいるのである。✝
人の子は、失われたものを救うために来たのである。
あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残して、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。よく言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。そのように、これらの小さな者が一人でも失われることは、天におられるあなたがたの父の御心ではない。」「きょうだいがあなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところでとがめなさい。言うことを聞き入れたら、きょうだいを得たことになる。聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の人の証言によって確定されるようになるためである。

宣教の要旨「奴隷の鎖を逃れるために」
 マタイによる福音書16章19節「私はあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上で結ぶことは天でも結ばれ、地上で解くことは天でも解かれる。」とは、言い替えれば、“キリスト教徒こそが(だけが)天国に繋がり、天国の内容を作ることができる”と語っているように感じます。これはイエスの処刑後30年以上も後になって書かれたもので、著者マタイが関係する「キリスト教会」に人々を招くための“教会の希望”、“教会の神学”を表現したものと思われます。
 旧約聖書の出エジプト記は、衣食住やお金と引き換えにエジプトの王の奴隷状態にあったイスラエル人の解放の物語です。お金や食べ物や安全な生活よりも、たとえ貧しくとも「神の子」としての尊厳と、神とともに歩む民(イスラエル)であることを取り戻そう、取り戻させようとした再出発だと思います。

 飢饉や災害で借金してお金の奴隷になることもあります。戦争で負けた兵士が敵の奴隷となることもよくありました。窃盗や傷害などの罪で有罪になると、懲役、服役という奴隷状態で、鎖に縛られながら何年もかけて働き、被害の弁済、賠償をする場合もあります。
 納得の上で一定期間、お金の奴隷状態になることはあるでしょうが、悪意によって罠にハマり、有罪とされ、奴隷状態に陥ることもいっぱいあったと思います。
 申命記19章は、悪意や偽証によって不当な奴隷状態に陥らないよう、判決が出る前に、仲間たちが証言し、事実を明らかにし、守りあう道を示しています。

 イエスの語ったであろう「結ぶ」「繋ぐ」「解く」などの言葉は、ヘレニズム、ギリシャ文化の影響を受けた観念的、抽象的なことではなく、目の前にある具体的なこと、人を奴隷として縛る鎖、紐、縄を表していると思われます。
 お金持ちや社会的な身分の高い人や、強い味方に守られている人は、お金や人の奴隷になりにくいのですが、家柄も身分もお金もない、社会的に弱い立場の人ほど、騙されたり、借金や、罠にハマって奴隷状態に陥ったりしやすいものです。現代風に言えば、“弱い立場の者や正直者ほど馬鹿を見る”ってことは、私たちの身の回りにいっぱいあります。「神は、99匹の普通の羊ではなく、そこから迷い出した、はみ出た、はみ出された、群れについていけない一匹をこそ支えられる。そのために私(イエス)は用いられている、というメッセージ。

「自分で自分を護るしか方法がない隣人が不当に訴えられそうになったら、隣人や友が証言し、代弁し、罪人とされないよう、忠告し、助言し、孤立して絶望したり自暴自棄にならないよう励まし、守り合い、祈り合おうではないか」と言うのが、イエスの言葉だったと思うのです。

先週の出来事

民主主義って、動物でも持っている個々の思想(思い計らい)を個々人が優先する、できる、それを認め合う考え方だろうと思うのです。今回は「既成の体制依存・利権防衛勢力・全体主義」VS「一人ひとりの思想優先(民主主義)」の選挙、民主主義を建前ではなく実質化しなければヤバいと感じるのです。今回は特に、「選挙に行かなければならない」と感じるのです。自分の思想を表現できない中国や香港、北朝鮮、ミャンマーなど、抗議の声すらかき消されている国々の現実が隣にあり、諦めの不参加は許されない気がするのです。

20211017 Sunday Service 宣教題「選別の時代に」担当 金田恆孝

本日の聖書箇所(聖書協会共同訳)
イザヤ書 57章 15節
高みにおられ、崇められ 永遠におられる、その名が聖である方が こう言われる。私は高く、聖なる所に住み/打ち砕かれた人、低められた人と共にいて 低められた人の霊を生き返らせ 打ち砕かれた人の心を生き返らせる。



マルコによる福音書2章 1〜12節
数日の後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡った。大勢の人が集まったので、戸口の辺りまで全く隙間もないほどになった。

 イエスが御言葉を語っておられると、四人の男が体の麻痺した人を担いで、イエスのところへ運んで来た。しかし、大勢の人がいて、御もとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根を剝がして穴を開け、病人が寝ている床をつり降ろした。イエスは彼らの信仰を見て、その病人に、「子よ、あなたの罪は赦された」と言われた。

ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中で考えた。
「この人は、なぜあんなことを言うのか。神を冒瀆している。罪を赦すことができるのは、神おひとりだ。」

イエスは、彼らが考えていることを、ご自分の霊ですぐに見抜いて、言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。
この人に『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。
人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、体の麻痺した人に言われた。

「あなたに言う。起きて床を担ぎ、家に帰りなさい。」
すると、その人は起きて、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚嘆し、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を崇めた。

宣教の要旨「選別の時代に」
 復活し、今もこの世で私たちの前を歩んでくださっている主イエスのことばを「今、ここで」わたしたち一人ひとりに語られていることばとして聴きたいと願います。
「主なる神は、世にあって打ち砕かれた人、低められた人と共にいて、低められた人の霊・魂を生き返らせ、打ち砕かれた人の心を生き返らせる」とイザヤは語ります。主イエスは、神の言葉を実現するための働きを続けられました。
麻痺と、それが「罪」の結果であると宣言されている人を放っておけず何とかしたい友人4人がイエスのもとに運んできた。その「友の苦しみを何とかしたい」と立ち上がった思いをイエスは「信仰」と言い、「原因の罪は神が許した」と宣言した。病を診断し、病名を付け、原因の因果関係を決め、処置や処遇を決めるのは祭司長(現代なら医師)だった。社会の健常者と病者を選別し分けるシステムを無効にするイエスの行いは反社会的行為だ、と思っている学者たちに向かってイエスは語ります。「神殿が律法で定めている罪と病の因果関係を一応認め、それに配慮したから、信仰により罪が許された、と宣言したのだ。そんな神殿の権威や診断や病との因果関係を無視したら、こうなるよ」「人間なら誰でも隣人の苦しみを分かち合い、ともに癒されようとするなら、(診断など関係なく)主なる神は癒してくださることを知らせよう」と言い、「立って担架を担ぎ、歩いて家に帰りなさい」と言うと、彼は歩き出した。
 現代社会は「高度な生き辛い社会」となり、「社会不適応者」が増え、保護・治療・福祉などの“きれいごと”のもとに、子どもから老人まで様々な診断名・分類・処遇が濫発される「選別社会」が進行していると感じられる。出生数は減少しながら不登校児童は増加し続け、発達障害、自閉症などの診断のもと、“支援のための選別”、子どもへの向精神薬投与も増え続けている。“きれいごと”のために多額な予算が使われるのは社会の損失、と英雄気取りで行われた相模原障害者施設45人殺傷事件が私たちに突きつけている問いはあまりに重たい。
  人は誰でも神の子。一人の生きづらさを何とかしたいと立ち上がる隣人たちの働きへと私たちはイエスから招かれている。

先週の出来事
 愛媛県新居浜市で1年以上“盗撮止めろ、電波攻撃を止めろ”など双方から被害の相談を受けていたにもかかわらず、「具体的加害被害の実態が不明」と警察が事件化を防ぐための対処をせず3人の死亡者を出した事件。民事不介入の原則で、人と人との争いに警察が介入しにくいのだろうか? 事件後ではなく、事件化予防のために動く警察であるためには何が変わらねばならないのか?

 

20211010 Sunday Service 宣教題「人が作った地獄」担当 金田恆孝

本日の聖書箇所(聖書協会共同訳)
列王記下23章7節
また、主の神殿の中にあった神殿男娼の家を破壊した。そこは女たちがアシェラのために布を織っていた場所でもあった。
列王記下23章10節
さらにベン・ヒノム(ヒンノム)の谷にあるトフェト(生贄の祭壇)を汚した(無効化)。誰もモレク(神)のために、息子や娘に火の中をくぐらせる(生贄にする)ことのないようにするためであった。

マタイによる福音書7章 13節
「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道も広い。そして、そこから入る者は多い。
マタイによる福音書23章15節
律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたがた偽善者に災いあれ。あなたがたは、改宗者を一人つくろうとして、海や陸を巡り歩くが、改宗者ができると、自分より倍も悪いゲヘナの子にしてしまう。

マルコによる福音書9章 47-48節
もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両目がそろったままゲヘナに投げ込まれるよりは、一つの目になって神の国に入るほうがよい。ゲヘナでは蛆が尽きることも、火が消えることもない。

※ヨシヤ王 ユダ王国のBC640-609年の王 形骸化し堕落した世俗的ユダヤ教から、神との契約関係に戻るための宗教改革を行い、異教の神々への崇拝、人身御供などを終わらせた。エジプトとの戦いで死亡。

ゲヘナ (Gehenna)は、ヒンノムの谷を意味するヘブライ語のゲーヒンノーム(גי(א)-הינום)を語源とするギリシャ語ゲエンナ(γεεννα)に由来する語。

宣教の要旨「人が作った地獄」
 地獄(ヘゲナ・ヒンノム)は、死後の世界でも罰として行くどこかの恐ろしい世界でもなく、エルサレム旧市街の南の低地に広がる、「聖なる」者たちが作り出した、目の前の現実の場所だった。イエスたちの「エルサレム入城」が、どの門から入ったかは不明だが、イエスが語った「狭き門から入れ」から考えると、エルサレム城壁の八つの門(黄金の門 ライオンの門 ヘロデ門 ダマスカス門 新門 ヤッフォ門 シオン門 糞の門)のうち、最も狭い「糞の門」が入城した門と思われる。紀元前600年頃、ユダ王国のヨシア王が「契約の書」発見を機に、エルサレム神殿を中心の堕落し切ったユダヤ教を、神との契約の原点に帰れ!とばかりに宗教改革を行なった。自分たちで勝手に律法や言い伝えを増やし、救われるための条件を人々に押し付けて利益を得ており、それらが信仰をつまずかせている、と改革を迫った。エルサレム城壁内にあった神殿男娼・神殿娼婦の家を撤去し、外部から持ち込まれたご利益信仰や、偶像崇拝、人身御供を要求するモレク神、金持ちが財力で罪が清められ聖人と呼ばれる“お札”のような慣行を廃止した。イエスの言葉として記されている「もし片方の目が(片方の手が)あなたをつまづかせるなら切り捨てなさい」は、イエスによる神殿批判と、悪しき行いをやめさせたヨシア王による宗教改革を重ねていると思われる。
 エルサレム神殿やエルサレム城壁内を「聖別し清く保ために」清くないもの(糞尿、ゴミ、死骸など)を糞門から運び出し、ヒンノム(地獄の谷)に捨てさせた。「汚れた民・地の民」は地獄の谷に住み、城壁内、神殿に行くためには(糞の門)を通るしかなかった。イエスは、この世の「穢れ」を作りだし、排除することで「聖域」が成り立っているならば、聖なる領域から排除された「最も小さくされている者」たちこそ、神に招かれている、神の国に近いと語ったと思われる。イエスたちがこの「糞の門」からエルサレムに入城したであろうことは、のちに成立した「美化されたキリスト教」にとってはふさわしくないものとして記述が省かれたと思われるのです。

 

先週の出来事

 れいわ新撰組山本太郎氏が東京8区で立候補を表明。ショックで立憲民主党の吉田候補が寝込んだ、のニュース。野党統一候補についての事前調整がうまくいっていなかったのだろうけれど、「ショックで寝込む」ようなヤワではこれまでの保守勢力と正面から戦える資質を持っていないと思うのだけれど。

20211003 SundayService 宣教題「糞門」担当 金田恆孝

本日の聖書箇所(聖書協会共同訳)
ネヘミヤ記 3章 13節
谷の門を修復したのはハヌン、そしてザノアの住民である。彼らはそれを再建し、扉と錠とかんぬきを取り付けた。そして糞の門まで千アンマにわたって城壁を修復した。

マタイによる福音書7章 13節
「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道も広い。そして、そこから入る者は多い。

マルコによる福音書7章 14-15節
それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、私の言うことを聞いて悟りなさい。
外から人に入って、人を汚すことのできるものは何もなく、人から出て来るものが人を汚すのである。」

※エルサレム神殿 8つの門のうち一番小さい門が南側にある糞門(不浄門)。外の低地にはヒンノムの谷が広がっていた。ここに城壁内部のゴミ、糞尿が運び出された。動物の死体、人間の遺体の焼却もここでなされた。この谷に非人(地の民)、皮膚病、食肉業者、皮なめし業者、羊飼いの仮住まい、遊女、徴税人などの住まいがあった。別名ゲヘナ(地獄)の谷。

 

宣教の要旨「糞門」別名 不浄門
 イエスの言葉「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道も広い。そして、そこから入る者は多い。」
  ここを、“神の御心を行うものは少数者”であり、“迫害される少数の、神の御心を行うキリスト者”というふうに自分たちのことを観念的に理解するようになったのは、キリスト教が発生してからのこと思われます。
 
 イエスが「小さき門」と語ったのは、ネヘミア書にも記されている、エルサレム市街を取り囲む城壁のうち、南側に設けられた、ロバの荷車がやっと通れる、高さ2メートルほどの、ゴミや糞尿、死体などを運び出すための門、そして最下層の人々が出入りを許されていた「糞の門」のことだったと思われます。

エルサレム糞の門


 他の7つの広い門とは最上級の上品な人々が出入りした「黄金の門」、「義人を自認する人のヘロデ門」、ローマ軍人用「ダマスコの門」などをはじめ、用途によって分けられた門だったのでしょう。

 南側に小さく設けられた「糞門」の前には、低地の「ヒンノムの谷」が広がっていた(別名ゲヘナ 地獄の谷)とあります。この谷にアムハーレツ(地の民、非人)、伝染病患者、肉食業者、皮なめし業者、羊飼いの仮住まい、遊女、徴税人などの住まいもあったと思われます。

 イエスは、この糞門から神殿に詣でよう、と呼びかけていると思われます。神殿の中、エルサレム市街を清く清潔に保つために糞尿、汚物、ごみを糞門からヒンノムの谷に向かって出していたのでしょう。すると、マルコ福音書7章14−15節の「外から人の口に入って汚すものはない。むしろ人から出てくるものが人を汚す」という言葉が違ったメッセージとして聞こえてくるのです。「自分たちこそ正しく清いと思っている上品な人々の糞尿が糞門から運び出され、彼ら自身が、そして神殿中心のエルサレムそのものが「清くない人々・非人、地の民」を作り出している!というイエスのメッセージだったのではないでしょうか。

ヒンノムの谷について調べていて、フィリピンのゴミの山(スモーキーマウンテン)で出会った、家族の収入を支える子どもたちの目の輝きを思い出しました。或いは最後の瞽女として報道された小林ハルさんのことを連想しました。今日の風潮からいえばどちらもこどもたちに対する“虐待”であり、私たちは「子どもへの教育を」、「福祉政策を」と叫んで、問題を理解しているつもりになりがちです。

 相対的な経済力、という意味での「貧しい国々」で大人に混じって働いている子供達は多いわけですが、私が出会ったフィリピンではスカベンジャー(ゴミ拾い)、トライシカット(自転車タクシー)、トライシクル(オートバイタクシー)など、家族や同胞を食べさせるために働いている子どもたちが今も多くいます。

 最後の瞽女として、映画にもなった明治33年1900年生まれのハルさんは3ヶ月目に白内障で失明。2歳で父親病死。喘息で病弱な母がハルさんに対して炊事洗濯裁縫など鬼のような生活指導。温みを感じられなく“継母”と思っていたそうです。5歳から瞽女修行、8歳で瞽女巡業に参加。10歳の時母が肺炎で衰弱。死を悟った母がハルさんを呼び最後の別れをした時もハルさんは涙ひとつ出なかったと。祖母はハルに向かって「役立たずのハルがトメ(母親)に代わって死ねばいい!」と叫んだとのこと。母の温みは知らなかったが、母の言葉、「はたらくとははたをらくにすること」「いい人と歩けば祭り、悪い人と歩けば修行」「人様に甘えてひもじいフリ、かなしいフリ、辛いフリをしてはならない」「苦しみや災難は全て修行」との母の教えとともに瞽女の修行を続けた。瞽女仲間に金を取られ、暴行を受け、独立後に縁組した養子と死別したりと散々な瞽女時代を過ごす。が、ハルさんを支え続けたのは仲間でもなく、親方でもなく、母トメさんの厳しい言葉だったとのこと。幼女との死別の後も何人か頼まれて幼女を養子とし、瞽女を育てている時、厳しく接しなければならないこと、心を鬼にしなければならない時があった、その時、母トメの、継母のような冷たく厳しい接し方の背後にあった本当の温みがようやく理解でき、たくさん泣いた、とのこと。トメさん自身が病弱で、盲目ゆえに親族にも見放され社会からも邪魔者扱いされるだろう娘ハルに対して、娘が生きていくためにできることを短い間に教え込んだ母の思い。
 周囲の人の善意を求め、周囲から可愛がられるように躾け、社会の助けを乞いながら広い門へ我が子を押し出していく道を選ばず(当時すでに盲学校はあった)、「狭い門」へと送り出した母トメの思いに、イエスの言葉とともに心を馳せたい。

 「自分」や「自分たち」の豊かさを維持するために貧しい人々、国々を作り出している現代の南北問題。
「自分」や「自分たち」の清さ、先進国、良い人ぶりを維持するために、後進国、難民、「普通の人々」以下を作り出している現代も構造は同じなのでしょう。 

先週の出来事

加藤官房長官のコメント 「政権が代わっても全ての拉致被害者の一日も早い帰国実現に向け、あらゆるチャンスを逃すことなく全力で行動するとの政府方針に変わりはない」って…  公用語としての日本語はすでに死んでいる。「変わりはない」って、何にもできないことに変わりはないってこととしか聞こえない。