20210328 東淀川教会礼拝 「侮られ嘲笑された死刑囚」

    本日の聖書箇所(聖書協会共同訳)イザヤ書53章 1~12節

 私たちが聞いたことを、誰が信じただろうか。主の腕は、誰に示されただろうか。この人は主の前で若枝のように 乾いた地から出た根のように育った。彼には見るべき麗しさも輝きもなく 望ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ痛みの人で、病を知っていた。人々から顔を背けられるほど 軽蔑され私たちも彼を尊ばなかった。彼が担ったのは私たちの病 彼が負ったのは私たちの痛みであった。しかし、私たちは思っていた。彼は病に冒され、神に打たれて苦しめられたのだと。彼は私たちの背きのために刺し貫かれ 私たちの過ちのために打ち砕かれた。彼が受けた懲らしめによって 私たちに平安が与えられ 彼が受けた打ち傷によって 私たちは癒やされた。私たちは皆、羊の群れのようにさまよい それぞれ自らの道に向かって行った。その私たちすべての過ちを 主は彼に負わせられた。彼は虐げられ、苦しめられたが 口を開かなかった。屠り場に引かれて行く小羊のように 毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように 口を開かなかった。不法な裁きにより、彼は取り去られた。彼の時代の誰が思ったであろうか。私の民の背きのために彼が打たれ 生ける者の地から絶たれたのだと。彼は暴虐をなさず 口には偽りがなかったのに その墓は悪人どもと共にされ 富める者と共に葬られた。主は彼を打ち砕くことを望まれ、病にかからせた。彼が自分の命を償いのいけにえとするなら その子孫を見、長寿を得る。主の望みは彼の手によって成し遂げられる。彼は自分の魂の苦しみの後、光を見 それを知って満足する。私の正しき僕は多くの人を義とし 彼らの過ちを自ら背負う。それゆえ、私は多くの人を彼に分け与え 彼は強い者たちを戦利品として分け与える。彼が自分の命を死に至るまで注ぎ出し 背く者の一人に数えられたからだ。多くの人の罪を担い 背く者のために執り成しをしたのはこの人であった。

マルコによる福音書15章 29~34節
 そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスを罵って言った。「おやおや、神殿を壊し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ。」同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」一緒に十字架につけられた者たちも、イエスを罵った。昼の十二時になると、全地は暗くなり、三時に及んだ。
三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という意味である。

 

宣教要旨 「侮られ嘲笑された死刑囚」
もはや「悔い改め」を求めたのではなく、改善を求めたのでもなく、(古い布の破れを新しい布で繕ってももう駄目なのだ) 世に向かって「断罪」し (この神殿は強盗の巣!) 実力行使で神殿の機能を麻痺させたイエス(たち)は、不敬罪騒乱罪反逆罪等々で即逮捕されるのが当然の成り行きだが、そうさせなかった、イエスたちを慕う人々がワンサカいたため、治安部隊も手出しできなかった、ということでしょう。中心地エルサレムの中枢を麻痺させるほどの犯罪でありながら、闇の中で捕まって処刑されたのが “イエスたったひとり”だったのは、やはりミステリーなのです。
 本日は“棕櫚の主日”ですが、イエスたちがエルサレムに入城したとき、棕櫚を旗のように振りちぎり、歓声とともに出迎えた多くの人々はどこに行ったのでしょう。

 やはりユダヤ教徒イエスは、公の活動を始めたときから死刑に至るまで、イザヤ書53章が指し示した“主に打ち砕かれるメシア”への道をひた走り通した、としか理解できないのです。“神に打ち砕かれるのはたったひとりでいい” そのための“その時になったらひたすら逃げなさい” “知らないと何度でも言い張りなさい” “すっぽんぽんになって笑われても逃げなさい” “もしも疑われて捕まってひっぱたかれたら、反対側の頬も出して、やられっぱなしの情けない奴だと思われなさい”などと彼を慕ってくる人々にいつも語っていたと思うのです。更には信頼して金を預けていた仲間にも金で売られるというストーリーをユダの協力により完成し、最後は十字架の上で神に向かってわめきちらす、という醜態を演じてまで、イエスの他は誰一人捕まる者もなく、残党狩りに怯え、逃げ続けることもなかったと思うのです。イエスの世に対する断罪と、福音だけが残った。そう理解する方が納得だと思うのです。イエス(たち)は彼中心の一派(セクト)を興そうともしなかったのですが、パウロたちを中心にキリスト教が興り、無原罪のスーパースターとして祭り上げられていったとき、「侮られ、馬鹿にされ、本人もそのとき、大声で神に向かってわめき散らして処刑され、神に打ち砕かれて死ぬ姿を直視し続けることはあまりにも耐えられないことだと思います。
 イエスが断罪した「世」と、今の「世」と、何も変わっていないと感じているキリスト者(クリスチャンというよりもイエスチャン)は少なからず居ると思います。イースターに向けて、イザヤから受け継いだイエスの働きとは何であったか、ガリラヤから再出発したイエスたちの働きが、今なんであるかに想いを巡らせたい。

先週の出来事 
 米国の国際宗教自由委員会の関係者2人とカナダ人が新疆ウイグル自治区での人権侵害を訴えEUやカナダ米国が発動した中国への制裁に対して、中国への立入禁止などの報復措置が出された。あっちゃこっちゃ、仁義なき戦いでも起きそうな、かなりきな臭い匂いがする。「本気の殺し合い」「手段を選ばない戦争」に至れば、地球はあまりにも狭くなりすぎて人類共倒れにしかならないのは明白なのだろうが、コンピュータ社会の現代、人間が作ったストッパー、安全装置はどこで外れるかわからない。

20210321 東著渡川教会宣教「なんもかも捨てて逃げましょう」

受難節 第五主日礼拝 週報No 2703

創世記19章 17節
彼らを外に連れ出したとき、主は言われた。「生き延びるた

宣教主題「なんもかも捨てて逃げましょう」
 イエスが逮捕され 身近だった仲間たちが逃げ去ったとき「ひとりの若者が 素肌に亜麻布をまとってイエスについてきていたが 人々が捉えようとすると 亜麻布を脱ぎ捨てて裸で逃げてしまった」とのマルコ福音書だけの記事。
 薄い亜麻布(リネン)の肌着一枚だっただろう。イエスについてきていた若者が、イエスの仲間と見做され 逮捕されそうになったらそれを脱ぎ捨ててすっぽんぽんで逃げ出した…と。まるで甲羅を脱ぎ捨てて逃げる亀みたいな滑稽さを感じます。
周囲はあっけにとられて 大笑いし、嘲りながら、追いかけることも、逮捕しようともしなかったのでしょう。唐突に現れ 素っ裸で走り去ったこの「若者」について、著者マルコ自身とか諸説はありますが、これは著者マルコが描いた「イエスとともに行動し 逮捕され処刑されることすら覚悟していた “数多の人々”を象徴的に代表させた登場人物」だと思うのです。

 暴動にもならず イエス以外誰ひとりとして暗殺・逮捕・処刑などされなかったこと自体がミステリーです。イエスを慕って集まってくる熱心な人々に対しても、身近な仲間(弟子?)たちに対しても、その都度語っていたと思うのです。“わたしをメシア、教祖・運動のリーダーとして祭り上げ、徒党を組み、私たちを攻撃してくる勢力と 命がけで戦おうなどと決して思わないこと ヤバいと思ったら 何もかも捨てて 恥も外聞も捨てて できれば笑いを残して、ともかくスタコラサッサと逃げることに全力を尽くすべき。私たちを攻撃してくる彼らを裁くのは神に委ねるべき。私たちのルーツは遊牧民・地上を放浪してきた民・デラシネなんやから”と。イエス自身は十字架上で最後に「神に見捨てられた!」と大声で泣き叫ぶことにより失笑嘲笑を受け、暴動にもならず、その後の、復讐に立ち上がるかもしれない反乱グループに対する「残党狩り」が続くこともなかった。ユダもイエスが “身近な仲間にすら銭で売られた愚か者”として嘲笑を受け続けるための役割を果たした。
「マタイ福音書27章 有罪判決を後悔し銀貨30枚を神殿に投げ込んで首をくって死んだ」なんて、あまりに嘘くさい創作だろう。
 1970年に加川良が歌った「教訓」を懐かしく思いだした。
“♭命はひとつ 人生は1回 だから 命をすてないようにネ
あわてるとつい フラフラと 御国のためなのと言われるとネ
命をすてて男になれと 言われた時には ふるえましょうヨネ
そうよ私しゃ 女で結構 女のくさったので かまいませんよ
青くなって しりごみなさい にげなさい かくれなさい♭”
(現代なら表現者に石が飛んできそうな箇所もあるが)
 日本国憲法には国籍離脱の自由がある(憲法第22条)。あまり知られていないが、企業がどんどん海外に拠点を移しているグローバル化の時代。海外に活動や居場所を求めて流れ出していく若者が増えていくかもと夢想する。ただし鎖国時代が長かったこの国の民はグローバル化しにくいかもしれない。

先週の出来事 
 茨城県東海第2原発について水戸地裁は運転差し止め判決。愛媛県の伊方原発は差し止め取り消し。司法というよりも原発行政そのものがただいま「責任」から遁走中…なのだろう。

めに逃げなさい。振り返ってはならない。低地のどこにも立ち止まってはならない。山へ逃げなさい。滅ぼされないためです。」

マルコによる福音書 13章 14節
「荒廃をもたらす憎むべきものが、立ってはならない所に立つのを見たら――読者は悟れ――、その時、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。

マルコによる福音書14章 50〜52節
弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。
一人の若者が、素肌に亜麻布をまとってイエスに付いて来ていた。人々が捕らえようとすると、亜麻布を捨てて裸で逃げてしまった。


 

 

20210314 宣教要旨「死者の声を聴く」

(聖書協会共同訳)
イザヤ書2 4
主は国々の間を裁き多くの民のために判決を下される。彼らはその剣を鋤にその槍を鎌に打ち直す。国は国に向かって剣を上げずもはや戦いを学ぶことはない。
He shall judge between the nations, And rebuke many people; They shall beat their swords into plowshares, And their spears into pruning hooks; Nation shall not lift up sword against nation, Neither shall they learn war anymore.(国連前広場 イザヤの碑文)
イザヤ書31章 1節
災いあれ、助けを求めてエジプトに下り馬を頼みとする者に。彼らは戦車の数が多く騎兵が強力であることに頼りイスラエルの聖なる方に目を向けず主を求めようともしない。

マルコによる福音書11 1518
それから一行はエルサレムに来た。イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを覆された。
また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった。
そして、人々に教えて言われた。「こう書いてあるではないか。『私の家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。』ところが、あなたがたはそれを強盗の巣にしてしまった。」
祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと謀った。群衆が皆その教えに心を打たれていたので、彼らはイエスを恐れたからである。

宣教要旨「死者の声を聴く」
人間の意識の基本は今をどう生き延びるかで、危険を回避し食べ物と睡眠を確保しようとする。自分だけでなくかけがえのない愛する者を守ろうとする。そのためには奴隷状態に甘んじるか否かは二の次の選択となる。

 紀元前8世紀のイザヤは、モーセにより奴隷から脱出した民が再び巨大軍事国家の奴隷・兵士となっていることを告げ、武器を農具に打ち変えよと語る。

 イエスは民の隷属化と生産物の収奪に神殿(宗教)が大きな役割を果たしていることを厳しく責めて具体的な行動を起こした。今日で言えば「反社」、テロ行為であろう。

 東日本大震災・原発事故から10年目の報道特集が各局で組まれていた。それぞれの被災地にあって心の傷が未だ癒えない人々、市町村の復興に努力している人々。しかし、故郷に帰還を諦めた人々、帰還したくても帰還できない人々の声を特集している報道はほとんどなかった。

 天災は死者とともに乗り越えてきたし、これからも乗り越えていける。が、人災は戦争であれ殺人であれ、経緯と責任が明らかになり、過ちを繰り返さないための道が開かれない以上、乗り越えていくことは困難である。もしも天災のみで原発事故・放射能汚染がなければ、十年目の風景はまったく違っていたと思われる。故郷に愛着があっても子どもたちや愛する人々を汚染の危険に晒したくない避難者は多かったと思われる。しかも、広島や長崎の被爆者たちが二度と過ちは繰り返しませんのメッセージを今も発し続けているのに比べ(それがどれほど国内で共有されているかは別として)、「No More 原発・核災」の声を被災地・被災者が挙げられない現実が続いている。低線量の外部被曝・外部より十倍多いといわれる内部被曝であれ、東北被災地の身体とそしてこころを確実に蝕んでいると思われる。汚染水の処理も汚染物の処理もいまだ方向が見えない。「核燃」は米日世界戦略の中で不可欠なエネルギーとして推進が図られてきた。「核災」の多少を問わず日本国家の軍事戦略上今後も変わることはないのだろう。イザヤ書31章1節の「災いあれ、助けを求めてエジプトに下り馬を頼みとする者に。」は、米日世界戦略=米国の巨大軍事力への従属そのままであろう。
 本来は殺された、死んでいった魂、黙したまま天に帰った人たちの思いを呼び出してその声を聴くことが宗教者の役割だったし、今も変わぬ「つとめ」だろうと思う。宗教者としての自分の無力さを痛感する。

先週の出来事

フィリピンドゥテルテ大統領の独裁体勢下、尋問も起訴も裁判もなく麻薬関連を疑われた人々が次々と自警団(大統領直属の武装組織)や警官により射殺されている報道。そのこと自体、フィリピン国内で報道されているか、人々に知られているかは別として、それでも民衆の支持率が非常に高いことの背景に横たわっているフィリピンの闇の深さをあらためて痛感する。

20210307 宣教要旨「ユダの密かな任務」

本日の聖書箇所 (聖書協会共同訳)

マルコ福音書1418-21
一同が席に着いて食事をしているとき、イエスは言われた。「よく言っておく。あなたがたのうちの一人で、私と一緒に食事をしている者が、私を裏切ろうとしている。」 弟子たちは心を痛めて、「まさか私のことでは」と代わる代わる言い始めた。 イエスは言われた。「十二人のうちの一人で、私と一緒に鉢に食べ物を浸している者だ。 人の子は、聖書に書いてあるとおりに去って行く。だが、人の子を裏切る者に災いあれ。生まれなかったほうが、その者のためによかった。」

ヨハネによる福音書/ 13 25-27
その弟子が、イエスの胸元に寄りかかったまま、「主よ、誰のことですか」と言うと、 イエスは、「私がパン切れを浸して与えるのがその人だ」とお答えになった。それから、パン切れを浸して取り、シモンの子イスカリオテのユダにお与えになった。 ユダがパン切れを受けるやいなや、サタンが彼の中に入った。イエスは「しようとしていることを、今すぐするがよい」と言われた。

マルコによる福音書/14 43-50節
そしてすぐ、イエスがまだ話しておられるうちに、十二人の一人であるユダが現れた。祭司長、律法学者、長老たちの遣わした群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。イエスを裏切ろうとしていたユダは、「私が接吻するのが、その人だ。捕まえて、逃がさないように連れて行け」と、前もって合図を決めていた。
ユダは、やって来るとすぐにイエスに近寄り、「先生」と言って接吻した。 人々は、イエスに手をかけて捕らえた。

弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。

マタイによる福音書 275

そこでユダは銀貨30枚を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。

マルコによる福音書 1534

三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ,サバクタニ」これは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」といいう意味である。

宣教テーマと要旨『ユダの密かな任務』

裏切る者がこの中にいる… その者は生まれてこない方が良かった… 
 イエスの言葉としては違和感を感じるのです。命を吹き込むのは神。生まれてこない方が良かった命はあり得ない。これは“意図的作為的な呪いのセリフ”だと思うのです。
 イエスは逮捕され殺されること 殺されることを予め予告していた。その時が近づき、暴動が起こることは十分予測された。イエスがもっとも悩んでいたことは、誰も巻き込まないで、たったひとりで処刑されるためにはどうあればいいか、であったと思うのです。ユダは会計担当であり、信頼されていた仲間です。「…その時が来たら逃げなさい」と何度も仲間たちには語ったいた。「私とのことを何度聞かれても、何度でも“知らない”と言いなさい」と言っていたと思うのです。更に、執拗な、イエスを許せないユダヤ教の重鎮たち、神殿のお偉いさんたちの怒りをどうなだめるか、ローマから派遣されている軍隊との衝突を避けるにはどうすればいいかをイエスは考えていたと思うのです。そのために仕組まれた計画は、惨めなイエスを演出し、信頼している仲間からお金のために裏切られる、仲間たちは「知らない」と言って逃げ去る、そして十字架に架けられてもエリアは現れず、神も助けようとせず、イエスが「なぜ私は見捨てられたのですか!」と大声で泣き叫びつつ死んでしまう…敵視していた人々が呆れかえるほど惨めで哀れな偽メシア、男となる…そのためには裏切り者“ユダ”の役割が欠かせなかった、と思うのです。ユダは、身近な仲間たちにも知られず、イエスとの間で交わされた極秘の約束を果たしたと思うのです。

 福音書が書き記されたのは“事件”が沈静化し、イエスにつながる反乱分子などいないことが常識となった以降であり、最後に書かれたヨハネ福音書がわずかに“しようとしていることを今すぐしなさい”との、イエスの合図があったことをほのめかすように記している。それによってイザヤによって預言された(53章)ことが実現したことになります。

先週の出来事 
週報を書いているとき、尼崎教会で知り合った、バイク仲間でもあったT君が20年ぶり?で会いに来てくれた。車の中には二歳くらいの長女。帝塚山大学で心理学准教授とのこと。よい仕事をしているであろうことを直感した。主の導きと出会いに感謝。嬉しかった。