20200927 東淀川教会礼拝 宣教題 ケッコンって何? 創世記2:24 マルコ10:6

創世記2章24節
24 それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。25 人とその妻とはふたりとも裸であったが恥ずかしいとは思わなかった。

マルコ福音書10章6-12節
10:6しかし、天地創造の初めから、『神は人を男と女とに造られた。10:7それゆえに、人はその父母を離れ、10:8ふたりの者は一体となるべきである』。彼らはもはや、ふたりではなく一体である。10:9だから、神が合わせられたものを、人は離してはならない」。10:10家にはいってから、弟子たちはまたこのことについて尋ねた。10:11そこで、イエスは言われた、「だれでも、自分の妻を出して他の女をめとる者は、その妻に対して姦淫を行うのである。10:12また妻が、その夫と別れて他の男にとつぐならば、姦淫を行うのである」。

マタイ5章27-32節
5:27『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。5:28しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。5:29もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に投げ入れられない方が、あなたにとって益である。5:30もしあなたの右の手が罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に落ち込まない方が、あなたにとって益である。5:31また『妻を出す者は離縁状を渡せ』と言われている。(申命記24:1)5:32しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、不品行以外の理由で自分の妻を出す者は、姦淫を行わせるのである。また出された女をめとる者も、姦淫を行うのである。

19:9そこでわたしはあなたがたに言う。不品行のゆえでなくて、自分の妻を出して他の女をめとる者は、姦淫を行うのである」。

マタイ福音書12章46-50節
12:46イエスがまだ群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちとが、イエスに話そうと思って外に立っていた。12:47それで、ある人がイエスに言った、「ごらんなさい。あなたの母上と兄弟がたが、あなたに話そうと思って、外に立っておられます」。12:48イエスは知らせてくれた者に答えて言われた、「わたしの母とは、だれのことか。わたしの兄弟とは、だれのことか」。12:49そして、弟子たちの方に手をさし伸べて言われた、「ごらんなさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。12:50天にいますわたしの父のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」。

19:12母の胎内から独身者に生れついているものがあり、また他から独身者にされたものもあり、また天国のために、みずから進んで独身者となったものもある。この言葉を受けられる者は、受けいれるがよい」。

 宣教題「結婚ってなんやろ」

イエスの時代、男18歳女12歳位が平均。婚約から結婚まで家族・親族・一族にとって最大の祭り。二人がペアとなることをみんなで承認し、祝うこと。同時にペアとなった男女いずれかを恋したり欲しがってはならないことを宣言する場でもあった。現代と異なるのは、互いの自由意志による契約でもなく、ペアの関係を財産の契約書のように登記するものでもなかった。姦通の罪とは本来、この一族や集団の黙契に対する違反という意味である。

 古代ユダヤにも権力者やお金持ちが複数の女性を妻として、或いは召使いとして所有する現実があり、モーセの“離縁状を渡せ”の離縁状とは、男性による「所有」から解放しなければ女性再婚もままならなかった故でしょう。

“姦通・姦淫の罪”は、多くの場合権力者やお金持ちたちが女性を「所有」したり捨てたりすることを正当化する方便として利用された。イエスは一対のペア(二人でひとつ)に対する神の祝福を語っているが、こうあるべきという倫理やそれの違反の罪を語ってはいないと思われる。

 異性に対して心の中で暗に情欲を抱くのが罪なら、人間はみんな罪人となる。人を罪に定めている人(祭司長も律法学者たちも裁判官も)みんな罪人だ、とイエスは語っている。「あなた方が子どもの時から今日まで、その目で見た女性の胸やお尻にドキドキしたり唇や身体に触れたい、触りたいなどの妄想を抱いたことがあれば、それは間違いなく姦淫の罪を犯したはずだからその目をくり抜きなさい。触りたいと思ったその手を切って捨てなさい。姦淫の罪を教えているのだから、あなた自身が本気でやりなさいよ!」とイエスは語っている。

身体を商売の手段として生計を立てるしかない人を姦淫罪に定めようとする秩序側の人間たちに対して、「罪人であるあなたがたがこの人を罪に定めて石を投げられるハズがない」とのメッセージを発していたと思われる。

 のちに、「キリスト教」が成立し、勢力が拡大していくなかで、人々は新たな「契約に基づくあらたな律法」「倫理」を求めるようになった。それとの調和を図ろうとする努力は読み取れるし、新たな倫理性を打ち立てたからこそ、ローマの国教として受け入れられることになったと思われる。

 イエスの活動を罪(或いは異常者)とし、家族親族で引き取って黙らせないと一族みんなの責任となるぞ!みたいな恫喝があったと思われる。それに対してイエスは血族なんぞを超えた敬うべき父母、大切な兄弟関係があることを指し示す。それは血族に縛られている人々にとっての解放であった。

 また、人は結婚するのが当然とか、男が女を所有し保護する、とか、女とは子を産むもの、などの“時代が作り出した”概念や規定を、神が定めたものではないとして本質的に「無効」であることを宣言していると思われる。

先週の出来事
TIME誌が選んだ「最も影響力のある100人」に入った大坂なおみさんと伊藤詩織さん。実名でその身を晒して被害を明らかにし、加害者を訴えているにもかかわらずこの国の司法は加害者を不起訴処分とした。ジャーナリストとしての彼女の行動に拍手を送ると同時に、いまこの不起訴処分にあきれかえり、「もっとも影響力がなくなった日本」を正しく表現している。

 

2020年9月20日 東淀川教会礼拝

イザヤ書43章1節
43:1イスラエルよ、あなたを造られた主はいまこう言われる、「恐れるな、わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの名を呼んだ、あなたはわたしのものだ。

マタイ福音書18章12-14節
18:12あなたがたはどう思うか。ある人に百匹の羊があり、その中の一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、その迷い出ている羊を捜しに出かけないであろうか。
18:13もしそれを見つけたなら、よく聞きなさい、迷わないでいる九十九匹のためよりも、むしろその一匹のために喜ぶであろう。18:14そのように、これらの小さい者のひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではない。

ルカ福音書15章4-10節
15:4「あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。その一匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか。
15:5そして見つけたら、喜んでそれを自分の肩に乗せ、
15:6家に帰ってきて友人や隣り人を呼び集め、『わたしと一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うであろう。
15:7よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天にあるであろう。
15:8[また、ある女が銀貨十枚を持っていて、もしその一枚をなくしたとすれば、彼女はあかりをつけて家中を掃き、それを見つけるまでは注意深く捜さないであろうか。
15:9そして、見つけたなら、女友だちや近所の女たちを呼び集めて、『わたしと一緒に喜んでください。なくした銀貨が見つかりましたから』と言うであろう。
15:10よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、神の御使たちの前でよろこびがあるであろう」。

東淀川教会礼拝 イザヤ書43章1節 マタイ福音書18章12-14節 ルカ福音書15章4-10節 
宣教題 
「たったひとりと対話する神」宣教 金田恆孝

 アブラハムの一族は移動の民、遊牧民であり、本来は国を持たずに移動する人々だった。イエスの時代も巨大な国はあり、それとどう付き合うか、関わるかは大きなテーマだった。
 イスラエルを「神が支配する国」と読むのは本来ではない。国は人間が作り出したものである。神と挌闘したヤコブに与えられた名の意味は「命がけの挌闘=必至の対話=神と対話しつつ歩む生き方」が本来の意味に最も近いと思われる。

 99匹と一匹の羊の話はマタイ福音書とルカ福音書に現れる。両福音書が参考にした「イエス語録・Q資料」からの引用と思われる。全体あっての個、全体主義的視点から見れば100分の一だが、唯一の個あっての全体、個を欠かして全体在らず、という個人主義をイエスが対比的に語っていたのでしょうか。そうではないでしょう。百匹の羊はかけがえのない家族、仲間を表し、百匹の羊の一匹が行方不明になったことの「困った度」は「わたしたち」全体の困りごと、たから見つかれば全体で喜び祝うことになる。人と人との関係を前提とするのが「人間」、個人のpersonを越えた言葉。そこには「神が与えた人で、不要な、邪魔な人はいない」という人間観を指し示している。

 ルカ福音書では、悔い改めに主眼が置かれ、見失われた一匹の羊の話は「信仰のない者=一人の罪人が悔い改めるなら」=イエスを自分の救い主として委ね、救われなさい、という方向にリードしている。

ルカ福音書では更に、「失われた銀貨」の話をつなげ、貨幣(国が発行する交換価値の象徴)をかけがえのない大切なものとして語り、国家を前提とした経済生活を大前提にしている。

 パウロになると「一人ひとりは教会という全体の身体の一部分であり、かけがえのない存在である」という教会論になります。{コリントの信徒への手紙一12章)

 イエスが子どもや大人たちに語っていた「1匹と99匹の羊」はどんなんだったでしょう。おそらく100人が、子どもにも顔と名前を覚えられる、ひとつの群れ、いとつの村としてイメージしやすい単位だったと思います。

一匹の羊と99匹の羊、羊飼いの話は、羊=信者、羊飼いは牧師(教会)、などという、パッチワークのような解釈にくれぐれも心理誘導されませぬように。羊飼いは「神」であり、羊は「人間」です。何人周囲にいようと、100人いようと、70億人いようと、神はたったひとりを探し、たった一人と向かい合い、呼んでくださる、応答してくださる神なんだ、というのが大前提です。

「世界がもし100人の村だったら」2001年池田香代子著は、米国イリノイ州のドネラ・メドウス教授がネットで流した「世界がもし1000人の村だったら」が100人に縮小された本。“世界63億人がもし100人に縮めると、52人が女性で48人が男性、30人が子どもで70人が大人で7人がお年寄りで、90人が異性愛者で10人が両性愛者で、70人が有色人種で30人が白人、…17人が中国語、9人が英語、8人がヒンディー語とウルドゥー語、6人がスペイン語、6人がロシア語、4人がアラビア語を話し、… 75人は食べ物の蓄えがあり、25人は不十分で、17人はきれいな水が飲めません、1人が大学教育を受け、2人がコンピュータを持っています、14人は文字が読めません、米国の6人がすべての富の60%を持っていて、74人が38%を持ち、20人が残りの2%を分け合っています。この村を救うにはこの本を読んでいるあなたです”という内容の本。この本の更に元になっているのが、国連の仕事をしていたキリスト者、犬飼道子氏の“世界の食料、エネルギーなどの資源や富の四分の三は世界の先進国四分の一の人々が握っている、という、地球の南北問題を扱った「人間の大地」1983年出版 という本でした。これらの本の一番始め、ルーツはイエスのお話だったんじゃないか、って思っています。でも現代のグローバリズムはこういう世界理解を無意味にしていくのでしょうか。

先週の出来事
大坂なおみテニス選手による黒人差別へのマスクを使った抗議行動に思わず拍手。Black Lives Matter(BLM)運動。黒人差別が原因で犠牲となった7人の名前を刻んだ7枚のマスクを用意し、勝ち上がるたびにマスクと共に黒人差別に対する抗議メッセージを発信。スポーツに政治を持ち込んだ、などの彼女への批判に対し、逆に「勝つための刺激になった」と決して負けないツイート。すごい!

2020年9月13日 東淀川教会礼拝 

創世記19章24-26節
主は硫黄と火とを主の所すなわち天からソドムとゴモラの上に降らせて、 これらの町と、すべての低地と、その町々のすべての住民と、その地にはえている物を、ことごとく滅ぼされた。しかしロトの妻はうしろを顧みたので塩の柱になった。

レビ記2章13節
あなたの素祭の供え物は、すべて塩をもって味をつけなければならない。あなたの素祭に、あなたの神の契約の塩を欠いてはならない。すべて、あなたの供え物は、塩を添えてささげなければならない。

民数記18章19節

イスラエルの人々が、主にささげる聖なる供え物はみな、あなたとあなたのむすこ娘とに与えて、永久に受ける分とする。これは主の前にあって、あなたとあなたの子孫とに対し、永遠に変らぬ塩の契約である」。

マタイによる福音書5章13節
あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである。

マルコによる福音書949-50
人はすべて火で塩づけられねばならない。塩はよいものである。しかし、もしその塩の味がぬけたら、何によってその味が取りもどされようか。あなたがた自身の内に塩を持ちなさい。そして、互に和らぎなさい」。

ルカによる福音書1434-35
[塩は良いものだ。しかし、塩もききめがなくなったら、何によって塩味が取りもどされようか。土にも肥料にも役立たず、外に投げ捨てられてしまう。聞く耳のあるものは聞くがよい」

2020年9月13日 東淀川教会礼拝 創世記19章 レビ記2章 マタイ福音書5章 マルコ福音書9章 ルカ福音書14章 宣教題「塩の契約・人間らしさ」
 三共観福音書でも共通しているように、塩を巡ってのイエスの話はとても多かったと思うのです。 聖書には神与え給う「人間らしさ」のような言葉はありませんが、そのような内容であったのではと想像しているのです。
 神は命を与え育む主であり、神への応答が礼拝であり、そこで捧げられる捧げ物は本来食べ物に事欠く貧しい者に分かち与えられた。互いに生かし合うためのシステムであり十分の一献金と同じ考え方だった。穀物などの食べ物の献品には塩を添えた。生かされ生かし合う神との契約は「塩の契約」だと言われる。これは日本文化の「塩の清め」と繋がる考え方と言える。創世記におけるソドムの町が乱れて滅ぼされたという。これに由来するソドミー(性の乱れ)は人間関係の本質的な乱れを示す。町への思いを断ち切れずに振り返った娘が塩の柱になったという物語は、ソドムの町が神に清められることの象徴と感じられる。

 塩は神が与えた、命を守り育む大切なものであり、腐敗を防ぎ、味付けし、重要なミネラルを与える貴重品。マタイ福音書とルカ福音書は、塩の効き目を失った(塩の契約から外れた=信仰から外れた)者への厳しい裁きが語られている。「地の塩、世の光」を教会の働きとして描くことに大きいウェイトが置かれている。

 マルコ福音書での“火で塩漬け”という、捧げ物についての具体的処理方法は不明だが、必要に応じて火で加熱し、塩水で茹で、腐敗を防ぎ、安全性を保ち、良い味付けをし、食べる人のために塩を添えるなどの配慮を示していると思われる。イエスは神が人を育み守る象徴としての塩の話をしながら、互いに生かし合う、互いに和らぎ合うこと、今日的な(かなり失われていることばではあるが)「人間らしさ」ということばに寄せる人間観について語っているように思われる。

 五大栄養素の①タンパク質②油脂③炭水化物④ビタミン⑤ミネラルなど。塩はこの様々なミネラルを含んでいるものが天然の塩である。人体にとっての必須ミネラル(ナトリウム、マグネシウム、リン、カリウム、カルシウム、クロム、マンガン、銅、亜鉛、セレン、モリブデン、ヨウ素、ケイ素等々)などが含まれているこの天然の塩が貨幣と同じ価値を持って遠くに運ばれていた。

 天然の塩に含まれる様々なミネラルは、心身の諸機能のバランスを計り、固有の自己免疫機能を支えるものと言われます。私自身の身体もそうですが、現代の食生活や体内に取り入られる化学物質、薬品などにより、自然から守られるべきバランスがかなり崩れているように思います。

 現代の深刻な病である自己免疫関連疾患(膠原病、リウマチ、癌、アトピー、無精子症状、筋無力症など)は体内のミネラル、ホルモン、化学物質の乱れに由来しているとの学説が古くから語られてきた。また、体内をリセットするための温泉療法や断食療法(ファスティング)が試みられてきた。古くはインドのヨガ・断食療法や、帝政ローマにおけるプルタルコスが提唱した断食療法など古から現代まで、特定の部位、特定の病気を治療する西洋医学とは別に、患者一人ひとりの側に立って個人全体の内的バランスを取り戻すためのサポートを行っている医院や病院もある。有害余分なミネラルや科学物質を排出し、自己免疫機能をリセットすることに重点があると思われる。

 自身の自己免疫反応の異常に基づく疾病について、合成副腎皮質ホルモン(ステロイド)が開発され、“夢の治療薬”として用いられてきた歴史があった。本来は個人の内的な必要から作り出されるホルモンを、身体の外側で合成し、外部から恣意的に体内に入れること自体、疾患に対する無理なコントロールとも思われる。それによって多くの副作用(骨粗鬆症、糖尿病、消化器の潰瘍、感染症、肺炎、精神病など)が引き起こされ、ステロイドの軽減、抗体(IFT CFT DNA等)との関係調整が困難な課題となっているとのこと。部位の治療ではなく、身体全体、生活全体を見直し、全体のバランスを図るのは、東洋医学が課題としてきた治療法であり、その一つとしてのファスティング(断食)による体内のリセット療法は、一人ひとりをじっくり長期的に見守ることのできる医療機関や医師、専門家でなければできない。薬害、オーバードーズが課題となっている現代で、“たったひとりの側に立つ医療”が求められているように感じられる。

先週の出来事

 コマーシャルは嫌いなのですが、テレワークを進める企業の宣伝で、「都市に集まること、満員の通勤電車に我慢することは必要でしょうか。テレワークで人々が各地方に散っても仕事ができればそのほうがよい」みたいなコマーシャルでした。これは面白い、と感じました。一国として考えるのではなく、飛騨国、信濃国、甲斐国、琉球国、陸奥国など各地方が国として自治を取り戻し、今の国の業務は最大限縮小し、人々がぐっすり寝て生活するための生活保護、安全保安管理業務、パスポートを発行する業務に専念する、なんてのはおもしろいと思う。

 

2020年9月6日 東淀川教会礼拝 宣教題「男と女のダイナミズム」 

創世記21章9-17節
9 サラはエジプトの女ハガルのアブラハムに産んだ子が、自分の子イサクと遊ぶのを見て、
10 アブラハムに言った、「このはしためとその子を追い出してください。このはしための子はわたしの子イサクと共に、世継となるべき者ではありません」。
14 そこでアブラハムは明くる朝はやく起きて、パンと水の皮袋とを取り、ハガルに与えて、肩に負わせ、その子を連れて去らせた。ハガルは去ってベエルシバの荒野にさまよった。
15 やがて皮袋の水が尽きたので、彼女はその子を木の下におき16 「わたしはこの子の死ぬのを見るに忍びない」と言って、矢の届くほど離れて行き、子供の方に向いてすわった。彼女が子供の方に向いてすわったとき、子供は声をあげて泣いた。
17 神はわらべの声を聞かれ、神の使は天からハガルを呼んで言った、「ハガルよ、どうしたのか。恐れてはいけない。神はあそこにいるわらべの声を聞かれた。

マタイ福音書1章1-19節

1 アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。

2 アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちを、

3 ユダはタマルによってペレツとゼラを、ペレツはヘツロンを、ヘツロンはアラムを、

5 サルモンはラハブによってボアズを、ボアズはルツによってオベドを、オベドはエッサイを

6 エッサイはダビデ王をもうけた。ダビデはウリヤの妻(バテシバ)によってソロモンをもうけ、

16 ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。

18 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。

19 夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。

宣教題「男と女のダイナミズム」副題「女よ 泣いている場合ではない」

 聖書における女の悲しみは、アブラハムの妻サラに追い出された借り腹の女、ハガルの嘆きだった。イエスの系図に出てくるタマルは夫と死別した売春婦で義父ユダを誘惑して子種をゲットし生活の場を獲得した。ラハブは売春婦で異教徒だが侵入者イスラエルとの戦いでエリコの町を裏切り敵であるイスラエルを侵入させ、勝利に導いた寝返り者。ルツは夫と死別した異邦の民モアブ人。ボアズと再婚し良妻賢母の鏡のような女。ウリヤの妻、バテシバはダビデを誘惑し夫ウリヤを殺害させ、王妃となった女。

 イスラエル民族は男の族長に導かれ移動してきた家父長制、男系で歴史を記す民。(神の子)イエスの系図に登場する売春婦、異邦人、スパイ、王を誘惑し夫を殺害させる凶悪な(?)女、などが登場する。系図ではないが、バプテスマのヨハネを殺害させたへロディアの娘(サロメ)は冷血で美しい少女として繰り返し語られ描かれてきた。

 以下は桑原重夫氏の「歴史とテキスト」を参考、引用させていただいた。マタイ福音書におけるイエスの系図の中に「ふさわしくない女」が含まれていることについて、内村鑑三や塚本虎二などは「罪人を招き赦す神」が示されていると語る。或いは、異邦人、混血を包含する新しい、真のイスラエルがそこに描かれている、という主張もある。或いは、イエスの母マリアはヨセフと一緒になる前にすでに身籠もっていたのであり、神のみわざは人の理解を超えるもの、というメッセージもある。更に近年、女性解放(フェミニズム)の立場から、「マタイの福音書には、差別抑圧されてきた女性の社会的地位向上に向けた先進的な捉え方がある」というふうに主張する聖書学者たちもいる。

 聖書に書かれたものを「尊重」し、政治的課題である「女性解放」の論理が聖書にあるのだから、それを聖書から導き出そうとするフェミニズム運動はずれていると思われる。
 しかし、マタイ福音書自体は伝統的なユダヤ人だけでなく、ギリシャ文化にちらばっているイスラエルの民や異邦人に向けて書かれており、男中心、家父長制に根ざしてはいるが、血統主義、男だけを人として数える感覚からはすでに外れているが、「新しいイスラエル」という選民主義、国家主義に貫かれている。

それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、 あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。」マタイ28章19-20節
 現代に置き換えれば、「天皇を中心とするならば、蝦夷地も日本、琉球も日本、女性にも参政権」として統合してきた歴史に似ている。

 国家の改善、政治課題を聖書と結びつける流れは注意すべきと思う。国家戒壇、キリスト教の国教化などはもってのほか。

 1840~1930年頃、米国の禁酒、禁煙、公娼廃止、純潔運動をリードしたのはドライと呼ばれるプロテスタント諸派、メソジスト、バプテスト、長老派の諸教会で、政府が(上から)道徳を定めなければならない、という主張だった。道徳は国家が定めるものではないと反対したのはウェット、ローマカトリックと聖公会、ルーテル教会など。日本に入った「ドライ」の流れが、日本キリスト教婦人矯風会となり、禁酒、禁煙、婦人参政権、公娼廃止運動から、現代では従軍慰安婦問題、女性国際戦犯法廷、男女共同参画などを作り出してきたと思われる。「男もいろいろ女もいろいろ」枠にはまらないダイナミズムこそ重要。 イエスの「神の国」メッセージは、人のあり方や道徳・倫理を国が上から定め、下がそれを支える「全体主義」とは真逆な方向にあると思われる。

先週の出来事
次期の内閣は第三次安倍内閣なのでしょうか。しなければならないことを何もしなかったことが引き継がれるのでしょうか。なにもできない、何もしないことがこの国の今置かれている実情なのでしょうか。先祖や死者との交流であるお盆の行事も、地域の神々を社から担ぎ出し一緒に道を練り歩く祭りも、教会のバザーも、夏を共に送る花火大会もストップしたまま、何もできない2020年はどうなるのでしょうか。未だ終戦と言いつのり終わったことにしたがっている国がちゃんと敗戦するための「なにもできない1年」だったら本物の民主主義が生まれるかも知れない。