20210425 東淀川教会 宣教要旨「血統幻想」

復活節 第四主日礼拝 労働聖日

本日の聖書箇所(聖書協会共同訳)
サムエル記上8章 9〜11節
この日以来、サウルはダビデに猜疑心を募らせた。次の日、神からの悪い霊がサウルに激しく降り、彼は家の中でわめき叫んだ。ダビデはいつものように琴を手にして奏でた。サウルは槍を手にして、「ダビデを壁に突き刺してやる」と言って、槍を投げた。しかし二度ともダビデは身をかわした。
サムエル記下5章 13節
ダビデはヘブロンから移った後、エルサレムでも側女や妻をめとったので、彼にはさらに息子や娘が生まれた。
列王記上第11章1節〜8節
11:3 彼(ソロモン)には七百人の王妃としての妻と、三百人のそばめがあった。その妻たちが彼の心を転じた。
マルコによる福音書2章 26節
エブヤタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司たちのほかには食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」
マタイによる福音書6章 29節
しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。

宣教要旨『血統幻想』
 イスラエル12部族の人々は強い王と強い国家を求めた。
 王となったサウルは、人々に人気のあるダビデが王の座を狙っていると思いダビデを殺そうとつけ狙った。
王となったダビデには複数の妻、側室がいた。部下の妻に恋し、部下を危険な戦場に送り、彼の妻を自分のものとした。
多くの息子の一人、アブシャロムは父ダビデに反乱し、父の側室10名を寝取り、王位を奪おうとした。母親の策略で王位を得たソロモンには七百人の王妃と三百人の側室がいた。
「知恵のソロモン」と呼ばれたが、惚れた女たちの「宗教」と「文化」「珍しいもの」を積極的に取り入れた結果だった。ソロモンの死と共に国は分裂し、北イスラエル王国も滅び、やがて南ユダ王国も滅び、イスラエルの人々は再び奴隷状態に戻っていった。
 そもそも預言者サムエルは王政に反対だったが、イスラエルの人々の、王を求める声に負けて、サウルに油を注いだ。いったん王が立てられると、強い軍人であることと周辺諸国への支配が求められ、王の血統を絶やさないための夫人たち、側室たちが許され、女たち、そこから生まれた息子や娘たちの策略にも翻弄され、破滅へと向かう当然の成り行きとなる。やりたい放題の王を理想化するのは源氏物語の光源氏を理想化するに似ている?
 
 そもそも「神の選び」が、人間の「血統」となるはずもないが、「権力」と「富」と「奴隷」を手に入れると、血縁の者以外には渡したくなくなるのが人間の本質なのだろうか。逆の視点から見れば、政治権力であれ、カリスマ的指導者であれ、宗教の指導者であれ、“血統”による立場の継承・相続があれば、血統幻想を利用した「嘘」でしかない。イエスのダビデやソロモンなどについての言葉は、まさにこの「嘘」とその「虚」の本質を人々にわかりやすく伝えるものだったと思われます。

先週の出来事 
蔓延防止対策が、人々が外に出て酒を飲むこと自体を禁止しようと目論んでいる? 人はずっとお行儀よく振る舞い続けることは(そうしなければヤバイと分かっていても)無理だろう。憂さ晴らしのおしゃべりとお酒がストップされたら、これ以上お行儀よくしていられない人々による隠れた場所でのおしゃべりと酒呑みと鬱憤の発散が余計に闇の中で広まっていくと感じる。
 

 

20210418東淀川教会宣教要旨「象徴?ヤバイヤバイ」

、本日の聖書箇所(聖書協会共同訳)
サムエル記下6章 1~8節
ダビデはさらに、イスラエルの精鋭三万をことごとく集めた。
ダビデは、彼に従うすべての民と共にバアレ・ユダを出発し、「ケルビムの上に座す万軍の主」という名で呼ばれる神の箱をそこから運び上げた。
彼らは丘の上のアビナダブの家から神の箱を新しい車に載せ、運び出した。アビナダブの息子ウザとアフヨがその新しい車を御していた。
彼らは丘の上のアビナダブの家から神の箱を運び出した。アフヨが箱の前を進んでいた。
ダビデとイスラエルの家は皆、主の前で糸杉の楽器、琴、竪琴、タンバリン、鈴、シンバルを奏でた。
だが、一行がナコンの麦打ち場にさしかかったときである。牛がよろめいたので、ウザは神の箱の方に手を伸ばし、箱を押さえた。
すると主の怒りがウザに対して燃え上がり、神はウザが箱に手を伸ばしたということで、彼をその場で打たれた。彼は神の箱の傍らで死んだ。
ダビデも怒りに燃えた。主がウザに対して怒りをあらわにされたからである。その場所はペレツ・ウザと呼ばれて今日に至っている。

マルコによる福音書12章 17節
イエスは言われた。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」彼らは、イエスの答えに驚嘆した。

宣教要旨『象徴? やばいヤバイ』 

12部族に分かれていたものを軍事的に統一するために、中立で、要害に地であるエルサレムをカナン系エブス人から奪い、エルサレムに首都に定め、ヘブロンからエルサレムに移った。
(エルサレムはもともとユダヤ人の土地、なんて主張は、歴史の、ほんの1時期の一段面に過ぎない)

シナイ山で神から与えられた十戒が記されているといわれるイスラエルの神の臨在の象徴であった神の箱を、軍事目的、戦場に神の箱を担ぎ出して戦意を鼓舞するため、この新都エルサレムに持ち込むことにした。
 神との契約を思い出し続けるためであり礼拝の対象であったものを、イスラエル統一国家の「軍神」の象徴とし、派手な神輿に乗せ、錦の御旗を掲げ、練り歩き、ラッパやいろんな楽器をかき鳴らし、祭りの興奮とともにイスラエル12部族の統一と戦意高揚を図った。
 運び込む途中に牛がよろめき、神の箱がズレて落ちそうになったので部下のウザが慌てて抑えた。祭司や祭儀に仕える職にない者が直接手に触れたため、という表向きの理由で、ウザは死んでしまう。いわば「ケチ」がついたので、いったん別の場所に安置し、のちにエルサレムに運び込んでいる。
 ダビデは一方で神聖政治による統一国家を成立させた、政治と宗教にまたがる英雄として描かれる一方で、神を軍事利用した、その過ちについても聖書は語り続けている。本来、神を軍神として政治利用することは明らかな偶像利用、「偶像崇拝」であろう。

 日本の「天皇」もまた、兵・軍隊を組織し、征夷大将軍を任命するなど、その成立過程を眺めれば、初めから、そしてずっと「軍神」だった。敗戦とともに、天皇を頂点とする軍事国家から、戦争を放棄した民主国家へと変貌するためには、戦争を指揮した過ちを反省し、「天皇」を、人々の平安を祈り続ける神官として崇拝する、一つの民間宗教として残ったならば、皇族にも平安が訪れたと思われる。皇族が好きな人々がいてもいい。天皇が好きな人々がいていい。が、“国家の象徴” “軍神”とすべきではなかった。
  軍神の象徴とし、利用し続けようとするからこそ、戦死者を英霊として祀る「靖国神社」が残ることになった。
 イエスの「神ものは神に、皇帝のものは皇帝に」は、「神のもの」と「世の権力者のもの」を決して混ぜてはならない、はっきり分けなければならない、と聞こえる。皇帝による支配のため神を利用することや、神を軍神とすることへの否定をも語っていると思われる。
 キリスト者とは、キリスト教の歴史の過ちをより自覚し、置かれた時代の中で、過ちを繰り返さないための預言者の役割を果たしたい。

先週の出来事
 トリチウムを含む汚染水を希釈して海に流すという発表に、中国外務省に「安全なら自分で飲んでみれば?」といわれ麻生財務相「飲めるんじゃないんですか?」と応答。せめて「これから国会の飲料水、我が家の飲料水に使う」くらい言うべきではなかったか。

20210411東淀川教会宣教要旨「主に任せよ 汝が身を」

本日の聖書箇所(聖書協会共同訳)
レビ記13章 37〜40節
もし疥癬(かいせん)は元のままで、そこに黒い毛が生えているなら、疥癬は治ったのである。その人は清い。祭司はその人を清いと言い渡す。
男であれ女であれ、皮膚に斑点、すなわち白い斑点ができたなら、祭司が調べる。光沢のない白い斑点なら、それは皮膚に生じた白皮症だから、その人は清い。
頭に毛がない場合、その人は禿げているのであって清い。
詩編91編 1〜6節
いと高き方を隠れ場とする者は全能者の陰に宿る。私は主に申し上げる「わが逃れ場、わが城 わが神、わが頼みとする方」と。
まことに主はあなたを救い出してくださる。鳥を捕る者の網から死に至る疫病から。
主は羽であなたを覆う。あなたはその翼のもとに逃れる。主のまことは大盾、小盾。
夜、脅かすものも昼、飛び来る矢もあなたは恐れることはない。
闇に忍び寄る疫病も真昼に襲う病魔も。
マルコによる福音書14章 03節
イエスがベタニアで、規定の病を患っているシモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、その壺を壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。

復活節 第二主日礼拝 宣教要旨「主に任せよ 汝が身を」
 2020年1月から始まったコロナウィルスの本質はインフルエンザウィルスと同じだがその毒性が強い、と言われている。1918年(大正7年)スペイン風邪の時は、世界で5億人が感染し、4500万人が死亡。日本でも人口の43%が感染し、約39万人が死亡し収束に2年かかったとのこと(今日現在コロナウィルス感染者1.35億人死者292万人)。そのとき、国内は大きな不幸に見舞われ大パニックになっていたかと言えばそうでもなく、スペイン風邪の時ですら、年間死亡者数の第一原因は結核だったとのこと。現在の状況と比べてもはるかにとんでもない状況だったわけです。
 ちょうど、NHKテレビドラマで永井荷風原作の「流行感冒」で当時の様子を描いていました。マスクなどの防衛策は各自で工夫したようですが、ロックダウンなどもなく、蔓延防止策で国が人々の行動を統制するためやっきになるようなこともなく、みんなでパニック状態になる度合いも現在より低くかったと感じます。
 ベースに流れている風潮・感覚としては、誰が悪いというわけでもない、大地震と同じような天災であり、誰のせいでもありゃしない、どれほど気を付けていても「なるようにしかならない」「死ぬときは死ぬ」let it be みたいな心情・覚悟があったのではと感じます。

 レビ記における皮膚病・感染症について書かれたものを読むと、その“診断”があまりに大雑把なのに驚かされます。これで「汚れている」「治った(清まった)」など判断されたらたまらん、と思うのですが、実はもともと診断基準などなく、文字化されなかった、口伝の、先祖からの知恵、大雑把な伝承だったものです。ただ、誰かが最終判断と宣言をせねばならず、それが祭司の役目だったわけです。汚れた時の対策は一週間単位の自己隔離が伝染を防ぐ方法であり、現代とさほど変わりません。

 皮膚の色が白くなったら、或いは毛が生えてきたら治ってきた証拠、なんてのも面白いのですが、「ハゲは病気じゃない」などの記述は、ユーモラスな老賢人の知恵が人々に癒しと安心を与えていたと思うのです。

 死への恐怖を抱えながら病の床で祈るとき、“主の御翼のもとに”(詩篇91篇)と祈ったようですが、主に癒されることを願いながら、願いが叶わず魂が天に昇るときは精霊が鳥となってわたしを運んでくださるという覚悟と希望の両方を含む祈りだったのでしょう。

 ベタニアの「規定の病を患っているシモンの家」と書かれています。祭司長の指定・規定により、家ごと隔離され、近寄ってはいけないとされていたところでイエスたちによる食事会?宴会?が行われたとすれば、それ自体は社会の側からすれば反社会的行為になり、イエスたちのがわからすれば癒やしのわざであったことになります。
 一人の女(かつてイエスに癒された)がイエスの頭に注ぎかけた香油とは、治癒のための薬、包帯の役割を持ち、願い叶わず天にあげられるときには、全身を洗い清めるためのものでもあったようです。“もっとも大切な隣人への手当て”そのものだったと思うのです。

 イエスの語った、自分自身を愛するごとく隣人を愛せよ、の実践とは、疲労や空腹で倒れていると思われる者があれば一杯の水を持って駆けつけること。怪我か病気で倒れていると思われる者に対しては香油を持って駆けつけること。そして主なる神への祈りを共有すること。それこそが愛…そんなメッセージがあったように思われます。


先週の出来事 原発処理水の海洋放出が目前に迫っている。その先に、古くなった原発の再稼働計画も予定されている。ミャンマーでは軍事政権に抗議する多くの人々が次々と処刑されたり銃殺されている。今の大変なことは? コロナ騒動なんて実は小さいことかな?

20210404 東淀川教会イースター礼拝「ネバーギブアップ・神の国」

讃美歌 512我が魂の 533奇しき主の光 0.575 球根の中には

本日の聖書箇所(聖書協会共同訳)
マタイ福音書28:7 節
「あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。」
ルカ福音書24章13−16節
 この日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村に向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいて来て、一緒に歩いて行かれた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。

ルカ福音書24章30−32節
一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、祝福して裂き、二人にお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は互いに言った。「道々、聖書を説き明かしながら、お話しくださったとき、私たちの心は燃えていたではないか。」

マルコによる福音書6章 41−44節
 イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで祝福し、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆にお分けになった。人々は皆、食べて満腹した。そして、パン切れと魚の残りを集めると、十二の籠いっぱいになった。パンを食べた人は、五千人であった。

 イースター礼拝 「ネバーギブアップ・神の国」

 失意の中にある人々に告げられた、イエスの復活についての最初の証言は、「ガリラヤでお目にかかれる」であり、エマオへの道で、復活したイエスと出会っても、それが誰かわからなかった、と。

 イエスがあらかじめ語っていたように、イスラエル(神とともに歩む民たち)の罪を神は「人の子」に負わせ、殺され、ヨナのように三日目によみがる。もともとの、ナザレのイエスの姿ではなく、見知らぬ人の姿をとったり、「イエスの十字架は我がためなり」と告白する人の中に住まれたり、さまざまなかたちで神の国を求める人々とともに歩み続けておられる。

 アブラハムもイサクもヤコブも神とともに生きて働いている(ルカ20章)イエスもまた人の子の罪の対価として、生贄として殺され、肉体を超えて復活し、神の国のために働き続けられる。

 イエスを唯一の救い主、メシアとし、それまでの「イスラエル」「ユダヤ教」とは別に新しいキリスト教が誕生し、「教会」を設立したイエスは天にあって神の右におられ、「教会」がイエスの身体として存在し機能し、終末の時は、イエスが地上に再臨し、死んだキリスト者も復活する、という信仰は、パウロ以降の、厳しい迫害の中で生まれた信仰的なビジョンです。

 イエスは、神を証し、世の奴隷とされる人々を解放し、人々を導き続けたアブラハム、イサク、ヤコブやエリヤや預言者たちとともに今も生きて働いており、地上の国や民族や宗教を超えて、ユニバーサルな神の国を目指す働きへと私たちを招いておられます。

 究極の希望である「神の国」がマルコ福音書6章に実現した5千人の食事に表れている。富んだ者たちから貧しくされた人々、強い人々から弱い者とされている人々、土地所有や国々から追われた者、汚れた者としてはじかれている者、病んでいる者、囚われている者、地の民、非人として爪弾きされている者、この世の難民たちがイエスのもとに集まった時、五つのパンと二匹の魚が、5千人以上の人々を満腹にさせ、たくさんあまった、と。

 神さまの愛は、地上の人々の全てのお腹を満たしてあまりある。
隣人を自分自身の如く大切な存在として、喜びや生きる苦しみ、悲しみを分かち合おうとするとき、生かし合おうとするとき、地上天国は実現すると。 そのために、ガリラヤから再出発されたイエスは、仲間たち、友人たちと共に今も働き続けて、歩み続けておられる。

 地上の旅を終えても、時を超えた神の国を実現する旅へと私たちを招いてくださっていると信じます。どれほどの暗闇の中を歩んでいても、希望が見いだせない地上の旅であろうと、神の国を決して諦めてはなりません。ネバー・ギブアップです。主イエスが先を歩んでおられるのですから。

先週の出来事 俳優 田中邦衛が天に召された。「北の国から」が役者として最も光っていたと思う。社会不適応で、北に追われ、生き方は不恰好で口下手だが、損得抜きで「自分よりも隣人を愛する」実直な生き方を貫いた「古の民」の姿を見事に演じた。

宣教担当 金田恆孝