20210404 東淀川教会イースター礼拝「ネバーギブアップ・神の国」

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讃美歌 512我が魂の 533奇しき主の光 0.575 球根の中には

本日の聖書箇所(聖書協会共同訳)
マタイ福音書28:7 節
「あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。」
ルカ福音書24章13−16節
 この日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村に向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいて来て、一緒に歩いて行かれた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。

ルカ福音書24章30−32節
一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、祝福して裂き、二人にお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は互いに言った。「道々、聖書を説き明かしながら、お話しくださったとき、私たちの心は燃えていたではないか。」

マルコによる福音書6章 41−44節
 イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで祝福し、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆にお分けになった。人々は皆、食べて満腹した。そして、パン切れと魚の残りを集めると、十二の籠いっぱいになった。パンを食べた人は、五千人であった。

 イースター礼拝 「ネバーギブアップ・神の国」

 失意の中にある人々に告げられた、イエスの復活についての最初の証言は、「ガリラヤでお目にかかれる」であり、エマオへの道で、復活したイエスと出会っても、それが誰かわからなかった、と。

 イエスがあらかじめ語っていたように、イスラエル(神とともに歩む民たち)の罪を神は「人の子」に負わせ、殺され、ヨナのように三日目によみがる。もともとの、ナザレのイエスの姿ではなく、見知らぬ人の姿をとったり、「イエスの十字架は我がためなり」と告白する人の中に住まれたり、さまざまなかたちで神の国を求める人々とともに歩み続けておられる。

 アブラハムもイサクもヤコブも神とともに生きて働いている(ルカ20章)イエスもまた人の子の罪の対価として、生贄として殺され、肉体を超えて復活し、神の国のために働き続けられる。

 イエスを唯一の救い主、メシアとし、それまでの「イスラエル」「ユダヤ教」とは別に新しいキリスト教が誕生し、「教会」を設立したイエスは天にあって神の右におられ、「教会」がイエスの身体として存在し機能し、終末の時は、イエスが地上に再臨し、死んだキリスト者も復活する、という信仰は、パウロ以降の、厳しい迫害の中で生まれた信仰的なビジョンです。

 イエスは、神を証し、世の奴隷とされる人々を解放し、人々を導き続けたアブラハム、イサク、ヤコブやエリヤや預言者たちとともに今も生きて働いており、地上の国や民族や宗教を超えて、ユニバーサルな神の国を目指す働きへと私たちを招いておられます。

 究極の希望である「神の国」がマルコ福音書6章に実現した5千人の食事に表れている。富んだ者たちから貧しくされた人々、強い人々から弱い者とされている人々、土地所有や国々から追われた者、汚れた者としてはじかれている者、病んでいる者、囚われている者、地の民、非人として爪弾きされている者、この世の難民たちがイエスのもとに集まった時、五つのパンと二匹の魚が、5千人以上の人々を満腹にさせ、たくさんあまった、と。

 神さまの愛は、地上の人々の全てのお腹を満たしてあまりある。
隣人を自分自身の如く大切な存在として、喜びや生きる苦しみ、悲しみを分かち合おうとするとき、生かし合おうとするとき、地上天国は実現すると。 そのために、ガリラヤから再出発されたイエスは、仲間たち、友人たちと共に今も働き続けて、歩み続けておられる。

 地上の旅を終えても、時を超えた神の国を実現する旅へと私たちを招いてくださっていると信じます。どれほどの暗闇の中を歩んでいても、希望が見いだせない地上の旅であろうと、神の国を決して諦めてはなりません。ネバー・ギブアップです。主イエスが先を歩んでおられるのですから。

先週の出来事 俳優 田中邦衛が天に召された。「北の国から」が役者として最も光っていたと思う。社会不適応で、北に追われ、生き方は不恰好で口下手だが、損得抜きで「自分よりも隣人を愛する」実直な生き方を貫いた「古の民」の姿を見事に演じた。

宣教担当 金田恆孝

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