20240407 東淀川教会礼拝宣教要旨「神のイメージ」イザヤ書29章13−20節 マルコ福音書7章6-8節

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聖書箇所

イザヤ書29章 13〜20節

主は言われた。「この民は口で近づき 唇で私を敬うが その心は私から遠く離れている。彼らは私を畏れるが 人間の戒めを教えられているにすぎない。(13)

それゆえ、私は再びこの民を 驚くべき業によって驚かす。この民の知恵ある者の知恵は滅び 悟りある者の悟りは隠される。」(14)

災いあれ、謀を主に深く隠す者に。彼らの所業は闇の中にある。彼らは言う。「誰が我らのことを見ているか。誰が我らのことを知っているか。」(15)

あなたがたの考えは逆様だ。陶工が粘土と同じに見なされるだろうか。造られた者が、それを造った者に言えるだろうか 「彼が私を造ったのではない」と。陶器が陶工に言えるだろうか 「彼には分別がない」と。(16)

しばらくすればレバノンは果樹園に変わり 果樹園は森と見なされる。(17)

その日には 耳の聞こえない者が書物の言葉を聞き取り 見えなかった者の目が暗黒と闇から解かれて 見えるようになる。(18)

へりくだる者たちは主によって前にも増して喜び 貧しい人々は イスラエルの聖なる方によって喜び躍る。(19)

暴虐な者はうせ、嘲る者は滅び 悪事をたくらむ者はすべて絶たれる。(20)

マルコによる福音書7章 6〜8節

イエスは言われた。「イザヤは、あなたがた偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は唇で私を敬うが その心は私から遠く離れている。(6)

空しく私を崇め 人間の戒めを教えとして教えている。』(7)

あなたがたは、神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」(8)

(参考)イザヤ書6章 04ー11節

その呼びかける声によって敷居の基が揺れ動き、神殿は煙で満ちた。

私は言った。「ああ、災いだ。私は汚れた唇の者 私は汚れた唇の民の中に住んでいる者。しかも、私の目は 王である万軍の主を見てしまったのだ。」

すると、セラフィムの一人が私のところに飛んで来た。その手には祭壇の上から火箸で取った炭火があった。

彼はそれを私の口に触れさせ、言った。「見よ、これがあなたの唇に触れたので 過ちは取り去られ、罪は覆われた。」

その時、私は主の声を聞いた。「誰を遣わそうか。誰が私たちのために行ってくれるだろうか。」私は言った。「ここに私がおります。私を遣わしてください。」

主は言われた。「行って、この民に語りなさい。『よく聞け、しかし、悟ってはならない。よく見よ、しかし、理解してはならない』と。

この民の心を鈍くし 耳を遠くし、目を閉ざしなさい。目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず 立ち帰って癒やされることのないように。」

私は言った。「主よ、いつまでですか。」主は言われた。「町が荒れ果て、住む者がいなくなり 家には人が絶え その土地が荒れ果てて崩れ去る時まで。」

宣教要旨 「神のイメージ」

 自然条件とともに移動し、定住しない民たちの神観と、定住し土地を所有し拡張と利権を図る民たちの神観とは全く異なります。移動・遊牧の民にとって神は自然そのものであり、壮大な神秘であり、畏れ、慄き、敬い、感謝し、究極は運命を委ねる他ない対象です。(この二つの違いを、日本の縄文文化と弥生文化の違いにも感じています。)

 定着・土地所有の民にとっての神イメージは、民族の守護神、護国豊穣の神イメージが基本となり、国家の争いの中にあってはそれぞれの軍神に変わります。

 イスラエル12部族が一つの軍事国家となり、弱体化し南北に分かれた後も、どの強い国家と軍事同盟を結ぶかで国内が紛糾していました。預言者イザヤは、遊牧民・神とともに移動する民としての神イメージを持ち続けた預言者だったと感じます。遊牧生活には戻れないにしても、他の国、他の民族と争って自国の安寧を図ることは神の御心ではないと語り続けました。武器を農具に作り替えよ、と叫び続けました。

 人間はどこまでも恐怖とエゴの綯い交ぜ(ないまぜ)です。緊張関係においては「なおさら」です。自己や利害関係が一致する自分達を中心として神を、更には、自分たちの言葉や論理や価値観で理解しようとします。自分達以外の、敵対する者や第三者の立場に立って理解したり考えようとすることはまず不可能です。それに対してイザヤは『聞け。しかし理解するな』『見よ。しかし悟るな』と呼びかけます(イザヤ書6章9-10節)。いわば「頭で答えを導き出すな」「何をすべきかではなく、何をしてはならないかを考えなさい」「それがわからなければ何もするな」「眠っていなさい」みたいな言葉です。

 イザヤの言葉を引用するイエスは、神殿の指導者、支配者たちに都合のいい言い伝えを、神の言葉、神の言い伝え、守られるべき律法として人々に守らせようとしている、と語り、その偽善性をわかりやすく語っています。

 土地や自然を所有し、民族や国の利害や便利のために開発し独占的に利用することで、富める国と貧しい国が二極化し、軍事力による利権と安寧(平和)の確保争いが今日も「戦争」として続いていると考えられます。いま、この国では、『交戦権をもたない憲法の下では独立国家ではない』から『交戦権を持つべき』へ舵を切ろうとしているように感じられます。

 今こそ、イザヤの『聞け。しかし理解するな』『見よ。しかし悟るな』の言葉に耳を傾け、イエスの声に心を傾けたいと願います。

 

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