20210627 礼拝宣教要旨「みんな神の子」宣教担当 金田恆孝

本日の聖書箇所(聖書協会共同訳) 宣教タイトル「みんな神の子」
(創世記1章 26節) 神は言われた。「我々のかたちに、我々の姿に人を造ろう。そして、海の魚、空の鳥、家畜、地のあらゆるもの、地を這うあらゆるものを治めさせよう。」

(創世記3章 22節) 神である主は言われた。「人は我々の一人のように善悪を知る者となった。さあ、彼が手を伸ばし、また命の木から取って食べ、永遠に生きることがないようにしよう。」 

(詩編82編1-8節) 賛歌。アサフの詩。神は神の集いの中に立ち 神々の間で裁きを下される。 「あなたがたはいつまで不正に裁き悪しき者におもねるのか。弱い人やみなしごのために裁き 苦しむ人や乏しい人を義とせよ。 弱い人や貧しい人を救い 悪しき者の手から助け出せ。」 彼らは知らず、悟らず 闇の中をさまよう。 地の基はことごとく揺らいでいる。 
私は言った。「あなたがたは神々。あなたがたは皆、いと高き方の子。 しかし、あなたがたは人間のように死に 高官の一人のように倒れる。」 神よ、立ち上がり、地を裁いてください。あなたはすべての国民をご自分のものとされます。

(ヨハネによる福音書10章 30-39節)
(イエスはお答えになった。)「私と父とは一つである。」 
ユダヤ人たちは、イエスを石で打ち殺そうとして、また石を取り上げた。 イエスは言われた。「私は、父から出た多くの善い業をあなたがたに示してきた。そのどの業のために、石で打ち殺そうとするのか。」 
ユダヤ人たちは答えた。「善い業のことで、石で打ち殺すのではない。神を冒瀆したからだ。あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ。」 
イエスは言われた。「あなたがたの律法に、『私は言った。あなたがたは神々である』と書いてあるではないか。 神の言葉を託された人たちが、『神々』と言い(言われ)、そして、聖書が廃れることがないならば、 父が聖なる者とし、世にお遣わしになった私が、『私は神の子である』と言ったからとて、どうして『神を冒瀆している』と言うのか。 もし、私が父の業を行っていないのであれば、私を信じなくてもよい。 しかし、行っているのであれば、私を信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父が私の内におられ、私が父の内にいることを、あなたがたは知り、また悟るだろう。」
 そこで、ユダヤ人たちはまたイエスを捕らえようとしたが、イエスは彼らの手を逃れて、去って行かれた。

宣教要旨『みんな神の子』宣教担当 金田恆孝
 創世記の初めから神は「我々」と、複数形の人格的な神としてご自身を紹介している。万物、全ての始まり、いのちの創造主として神を認知するならば、その宇宙観(コスモロジー)は“創造主・絶対・唯一の神”に至るのは道理である。onlyである。一方で、不可知であり多様であり神秘としか言いようのない驚きの被造世界やいのちへの畏怖から出てくるのはallである。すなわち、“在る”神は「allでありonlyである神」という理解が根底にあったと思われる。
 イスラエルの民という“我々”の理解、神との契約に生きる民という民族的自己理解(アイデンティティ)を守り続けるために他の神々を排斥し続け、onlyを掲げるのも道理であった。
 我の神、我々の神を高く掲げることにより、“我”や“我々”が善悪の基準となり、神から選ばれた民(選民)としての思い上がり、我や我々以外を異邦人や異端として差別し排斥していく傲慢に至るのも道理である。


 この傲慢さが神の子たちの中に「弱者」を作り出している罪を理解し、神は弱者とされた神の子たちの尊厳を回復しようとしておられ、その回復によって、傲慢の闇に沈んでいる我々、神の子たちを救い出そうとしておられる。この神の働きを手伝え! というのが詩篇82の趣旨でろう。


 マルコ、マタイ、ルカ福音書という共観福音書が編集された70-90年前後は、生まれた「キリスト教」の宗派、セクトを絶対唯一の信仰として高く掲げることが至上命題であり、イエス伝承もこの命題に限定されながらイエス伝を再構成・編集されたため共観福音書と呼ばれた。やや遅れて出されたヨハネ福音書はギリシャ文化の影響を受け、“神の子イエスの教え”を神学的理論的に再構成していると思われるが、それと同時に、共観福音書から漏れた、重要視されなかったイエスの言葉を拾い上げていると思われます。その一つが、「我、我々の神を絶対視することにより陥る傲慢の罪」であったと思われます。自分たち以外の神理解が“神を冒涜している”と非難、攻撃する傲慢さです。


 『何が神に喜ばれる行いか、生き方かを人間が人間に向かって決めるのは可笑しいだろ?』『異なった信仰であっても、或いは信仰していなくたって、神さまに喜ばれる行い、生き方をしている人はいる、ってなぜ思えないのか?』『神に命を吹き込まれた人は、神にとって全てかけがえのない神の子なんじゃないの?』そんなイエスの声が聞こえてくるように思うのです。

先週の出来事 L大阪で開催予定だった「表現の不自由展」が“安全が保証できない”の理由で開催中止に。原発問題、天皇制、慰安婦像など妨害によって公開や開催できなかった作品などを展示予定だった。吉村大阪知事が取り消しに賛成の意思表明。知事の職は府内の表現の自由を守る立場だったのでは?

20210620 礼拝宣教要旨「難民の神」宣教担当 金田恆孝

本日の聖書箇所(聖書協会共同訳) 
イザヤ書5章7節
主は公正(ミシュパト)を待ち望んだのに そこには、流血(ミスパハ)。正義(ツェダカ)を待ち望んだのに そこには、叫び(ツェアカ)。
エレミヤ書 22章 3節
主はこう言われる。公正と正義を行い、搾取されている者を虐げる者の手から救いなさい。寄留者、孤児、寡婦を抑圧したり虐待したりしてはならない。また無実の人の血をこの場所で流してはならない。
エゼキエル書18章 21節
しかし、悪しき者が自分の犯したすべての罪から立ち帰り、私のすべての掟を守り、公正と正義を行うなら、必ず生きる。死ぬことはない。
イザヤ書/ 52章 12節
急いで出なくてもよい。/逃げるようにして行かなくてもよい。/主があなたがたの前を行き/イスラエルの神がしんがりとなるからだ。
マタイ福音書 25章 35-36節
あなたがたは、私が飢えていたときに食べさせ、喉が渇いていたときに飲ませ、よそ者であったときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに世話をし、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。
25章 40節
そこで、王は答える。『よく言っておく。この最も小さな者の一人にしたのは、すなわち、私にしたのである。』
25章 45節
そこで、王は答える。『よく言っておく。この最も小さな者の一人にしなかったのは、すなわち、私にしなかったのである。』

宣教タイトル「難民の神」

 北イスラエル王国が滅んだ後、南ユダ王国国家の民として「ユダヤ人」と呼ばれることはあったが、自分たちの信仰が「ユダヤ教」という意識はまずなかったと思われる。今日的な言い方で言えば、イスラエルの民の、「イスラエル教」というのが正しいことになるのだろう。

 難民としてメソポタミアを出発したアブラハム、イサク、ヤコブ…モーゼが導いた出エジプト、放浪とカナン侵略、亡国、そして流民・ディアスポラとなったイスラエルの歴史はその始まりからずっと“難民史”だった。

カナン侵略後の部族連合体から、やがて王を立て(神(主)に導かれるよりも強い王に導かれることを願った)、国家を作って以後、預言者たちはイスラエル(神とともに歩む民)から「公正」と「正義」が失われたことを叫び続けた。イザヤ書5章7節の「主は公正(ミシュパト)を待ち望んだのに そこには、流血(ミスパハ)。正義(ツェダカ)を待ち望んだのに そこには、叫び(ツェアカ)」というのは預言者たちの共通の認識であったと思われる。

 ミシュパト(公正)は旧約聖書の中で400回以上も登場する重要な言葉で、「裁き」とも訳されるが、今日的な言い方で言えば「神の公正・被造物や人間と神との調和・秩序」であり、具体的には「助け合い生かし合う道理」のような意味合いと思われる。公正(ミシュパト)と、十戒を中心とする正義(ツェダカ・ツェデク)(270回以上登場)は律法を貫く柱であり、公正と正義が失われた時代に、イザヤが告げたのは、高い天や強い王とともにいる「神」ではなく、世が作り出す強者・弱者の序列の最後尾、どん底にいて “しんがり”をこそ守る神、しんがりからミシュパトを回復される神というメッセージだったと思うのです。
 カナン侵略後に作られたのは“逃れの町”であった(民数記35:24)。「殺すな」の十戒のため、復讐の連鎖・流血を止める手段でもあった。「いかなる寡婦も孤児も苦しめてはならない。」(出エジプト記22:21も、「葡萄を摘み取るとき、後で積み残しを集めてはならない。それは寄留者、孤児、そして寡婦のものである」(申命記24:21)も、難民、貧しい者の別表現であり、公正を回復するためのメッセージだったと思われる。



 イエスはそれを子どもにもわかる言葉で語ったと思われる。「神さまに作られた人間が善悪を知る木、価値判断の実を食べて、勝手に価値を決めるようになってね。更に国を作って、国の王が作ったお金がなければ水も食べ物も着るものも得られなくなってね。病気を癒すベッドもなく、邪魔になったら隔離されてしまう。神さまはお金なんか作らなかったのに、金持ちと貧乏人、より守られる人とより守られない人とのピラミッド、序列ができてしもうた。神さまはお金や国や地位がない人(貧しい人 難民)とともにしんがりにおられ、しんがりが苦しむことは、ミシュパト(公正・神さまとの調和)が失われていることであり、調和を回復するためにしんがりを守っている神さまを苦しめてることなんや」みたいな話をしたと思うのです。


犬飼道子氏。「難民」の視点から聖書を捉え直し、多数の聖書解釈の本とともに世に出た「人間の大地」は日本の若者の、南北問題、難民問題のバイブルとなった。私も聖書について多くの示唆を与えられました。「世界の裕福な3割の人々(先進諸国)が世界の7割の食べ物を買い占め、工場で作られ売買される製品の9割を買い占めて、お金がなければ手に入らないようにしている。貧しい7割の人々(後進諸国)は、3割の食料と1割の製品で生活を成り立たせなきゃならない。これは正義(ツェダカ)ですか? 公正(ミシュパト)ですか?と本の中から読者に問いかけた。聖書におけるこの言葉の重さを犬養道子氏から学んだ。


 世に衝撃を与えた「南北問題」。これをもとに学習会を行った教会も多かったが、「南北問題」について、“科学的ではない”とまともに取り合おうとしなかった学者たちや政治家たちが多かった。それは有吉佐和子の「複合汚染」に対しても、水俣病を告発する人々に対しても浴びせられた決まり文句だった。『科学的に、と言うのはファシストの常套句。人生は科学ではない。』とは高木俊介氏(病んでいる人を精神病院に収容することを「治療」とする考え方を批判している精神科医)の名セリフ。

 第二次世界大戦中、リトアニアの日本国総領事館に赴任していた杉原千畝。ナチス・ドイツの迫害によりポーランドなど欧州各地から逃れてきた難民たちの窮状に直面し、外務省からの訓令に反して1940年に6千枚以上のビザ(通過査証)をばらまいた。アフガニスタンで銃殺された中村哲医師もまたイエスの弟子と感じる。かような有名人ではなくとも、身近な“難民”のために心を砕き支えようとする目立たない人々はまだまだ多いと信じる。


 貧富の格差はますます広がり戦争や迫害で難民となっている人は世界中で推定で八千万人を超え過去最高となり、コロナ禍の中で締め出しが激しくなっている。私たちの周りにいる「難民」は、ネット情報社会の中でますます隠され目立たなくなっていると感じる。

主イエスとともに神の国を仰ぎ求め、御心に叶う道を祈り求めたい。

先週の出来事 

安倍晋三前首相の強い指導力で実現した台湾への英アストラゼネカ(AZ)製のワクチン寄贈で15日から高齢者を中心にAZ製の接種が始まったが、18日までの4日間で優先接種を受けた高齢者42人が死亡とのこと。もらった人が悪かったのか?と現地で混乱が起きている様子。いやはや。

20210613 礼拝宣教要旨「自分の命」とは 宣教担当 金田恆孝

列王記上19章4節 

彼自身は荒れ野の中を一日の道のりほど歩き続け、一本のえにしだの木の下にたどりついて座った。エリヤは自分の命が絶えるのを願って言った。「主よ、もうたくさんです。私の命を取ってください。私は先祖にまさってなどいないのですから。」

マタイによる福音書16章25−26節
自分の命を救おうと思う者は、それを失い、私のために命を失う者は、それを得る。

たとえ人が全世界を手に入れても、自分の命を損なうなら、何の得があろうか。人はどんな代価を払って、その命を買い戻すことができようか。

 宣教要旨「自分の命」とは
「自分の命」についての言葉遣い、訳し方について福音書の中に「ゆらぎ」がある。
危険を避け、肉体を守ることで守ろうとする「自分の命」(医学でのバイタル)と、神に与えられ神に育まれ神に任せるしかない、むしろ「神が自分に与えた魂」(ソウル)とか、精神(スピリッツ)と訳したい「自分の命」である。

 マタイ福音書の「自分の命を救おうと思う者は、それを失い、私のために命を失う者は、それを得る。」と
「たとえ人が全世界を手に入れても、自分の命を損なうなら、何の得があろうか。」は一見矛盾にも見える。

  何を自分の命とするかは自分で選び取らなければならず、どちらも得ることはできない、日和見的に自分の命を守ることはできない、命懸けで決定しなければならない、という緊張感が根底(ベース)にある。

 背景にはローマ帝国の迫害、ヘロデ王一派からの迫害、神殿及びユダヤ教各派からの敵視・迫害などに囲まれていたための緊張があった。

 復活したイエスこそメシア、律法の成就、預言の完成、そしてまもなく訪れるであろう終末に生者と死者、救われる者と救われない者を分けるのがイエス・キリスト。「あなたはこの世の、バイタルとしての生命を優先しますか? それとも神に選ばれる、選民としての「永遠の生命」を優先しますか?‥みたいな二者択一を迫る「自分の命」理解の萌芽(芽生え)が生まれていた。今日でも、福音派と呼ばれる熱心なグループの最大の課題は、この終末(世の終わり)に備えること、となる。その終末観には各派によって差はあるが。

 現代社会。ピラミッド型社会や貨幣経済に支えられた文明そのものを敵視し、社会に対して蜂起・叛乱を試みた熱狂集団もたくさん現れた。あるいは、カリスマ的な教祖を中心にした熱狂的な集団がいくつも生まれた。それらがかつての“村落共同体”に代わる「助け合い、運命を共にする仲間」となっている場合も多い。

 今日では「カルト」という言葉が流行し、「似非(えせ)宗教」「反社会的な集団」というレッテルとして機能していることが多い。明治以降の西洋化に合わせて作られた「宗教」の概念そのものが実は曖昧なものであり、本物か似非かを区別する定義はない。古いものを本物、新しいものを似非・新興宗教・カルトと区別するのも暴挙である。すると統一協会やオーム真理教などの事件を背景に「カルト」とは社会や国家を乱すもの、という理解が一般的になりつつある。「カルト」を語る社会学者は、反社会性、反国家性ではなく、“人権侵害”をキーワードにして「カルト」監視活動を行なっている者も多い。「その集団が法的人権を守っているか否か」が「カルト」判断の一つの指標として判断され続ける結果、「カルト」の監視活動が、国家の人権定義、国家の治安維持活動に寄与していく可能性は大きい。

 統一協会、オーム真理教などによる犯罪行為も多く世に知られたが、形を変えながら強かに残っている。どれほど非難・批判に晒されても、裁判に負けても、消えないビジョン、核心的な信条は残っているし、そこ以外に身の置き場がない人々も多くいるのも現実である。

 独裁的指導体制のもとで国家そのものが熱狂集団化し、カルト国家とも呼ばれ、反対する者たちを粛清している現実もある。反国家ではないが、教祖の「反医学」「反電磁波」「反精神医学」「反自然破壊」を教義の柱としている宗教的集団(セクト)もある。宗教でなくても、社会変革ではなく自己変革を迫る「自己啓発セミナー」も相変わらず盛んである。原発事故以来、放射能被害を訴える人々を「放射能カルト」と非難する人々もいる。善悪を分ける便利なレッテルとしての「カルト」がもたらした功罪は大きい。

 ワッチタワー(エホバの証人)の明石順三は聖書に基づき戦争に反対し、1939年に治安維持法で逮捕され懲役刑となった。1945年終戦で釈放されたが、米国による戦争を肯定する米国「エホバの証人本部」を批判したため除名された。


 その集団が悪か善かの判断、判決を下す以前に、その運動を担う一人一人が心理誘導によって集団を絶対化し、教祖や集団の部品となり一兵士となっているのか、それともいかなる理想を共有しているのか、自分の生き方としての主体的な選択なのかについて、本人を含む周囲の人々による話し合い、さまざまな角度からの検証がとても大切なことと思われる。かつて私自身も従事した、熱狂集団参加者への“説得活動”が目指したのもそこだったと感じている。

先週の出来事
(CNN) 中国の研究チームは10日、南西部の雲南省でコウモリから新たなコロナウイルスを複数発見したと明らかにした。この中には、新型コロナウイルス感染症を引き起こすウイルス「SARS―CoV―2」に現時点で遺伝的に2番目に近い可能性があるウイルスも含まれる、とのこと。やはりコウモリ由来だったのか。これって、武器としても使えるのかな? 鳥インフルエンザ、豚コレラ、コウモリのコロナウィルス‥現代の人類は焼却処分や消毒や隔離やワクチンに守られなければならない、限りなく弱い生き物になりつつあることの証拠と感じられる。

20210606  宣教要旨「神の子・人間の回復」宣教担当 金田恆孝

創世記1章 26-28節
神は言われた。「我々のかたちに、我々の姿に人を造ろう。そして、海の魚、空の鳥、家畜、地のあらゆるもの、地を這うあらゆるものを治めさせよう。」
神は人を自分のかたちに創造された。/神のかたちにこれを創造し/男と女に創造された。
神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて、これを従わせよ。海の魚、空の鳥、地を這うあらゆる生き物を治めよ。」

創世記3章 7節
すると二人の目が開かれ、自分たちが裸であることを知った。彼らはいちじくの葉をつづり合わせ、腰に巻くものを作った。

マルコによる福音書1章 16-18節
イエスは、ガリラヤ湖のほとりを通っていたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「私に付いて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。


ルカによる福音書5章 8-11節
これを見たシモン・ペトロは、イエスの膝元にひれ伏して、「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間です」と言った。
とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。
シモンの仲間、ゼベダイの子ヤコブとヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。

ヨハネによる福音書1章 43-48節
その翌日、イエスはガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、「私に従いなさい」と言われた。
フィリポは、アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身であった。
フィリポはナタナエルに出会って言った。「私たちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。ナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」
ナタナエルが、「ナザレから何の良いものが出ようか」と言うと、フィリポは、「来て、見なさい」と言った。
イエスは、ナタナエルがご自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」
ナタナエルが、「どうして私を知っておられるのですか」と言うと、イエスは答えて、「私は、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われた。
48:ヨハネによる福音書/ 01章 49節
ナタナエルは答えた。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」

宣教要旨『神の子・人間の回復』

 イエスの「従ってきなさい。あなたを人間を漁る漁師にしよう。」のメッセージにはずっと違和感があった。
 福音書が書き記された50〜60年頃はパウロのガラテヤ人への手紙が書かれた頃であり、すでにユダヤ教から離れて“キリスト教団”が形成され始めていた。イエスがともに働く仲間を求めた姿と、自分たちが“イエスこそ再臨のメシア”と宣教し、キリスト教団の仲間を増やす姿が重なってしまうのは止むを得ない。今日でも「伝道」とは「教会員を増やすこと」と心得る方々は多い。だから“人間を漁る(getする)漁師にしよう”の表現になったと思われる。だがイエスは新しい派閥を起こそうとしなかったし、人を集めて派閥(セクト)のリーダーになろうともしてはいなかった。イエスがともに働く仲間を求めた、その働きとは、最初に人間が創造された時の姿、被造世界を守る役割を任された神の似姿としての人間らしさ、尊厳を取り戻すことだったと思われる。
 イエスの時代、イスラエルの民としての誇りも、ユダヤ教徒としての自負も二重三重の支配のもとで人間としての尊厳も蹂躙され、多くの人々が難民化していた。イエスは大勢に対し、まとめて洗礼を授けなかった。多くの病人をまとめて癒すこともなかった。イエスはより多くの苦しみを負わされている人々の方へ近づいて、それぞれの場で、一人一人に福音を伝え、神の似姿としての尊厳、祝福を取り戻すよう働きかけた。そこに“回復”の出来事、奇跡が起こった。
 ヨハネ福音書にのみ出てくる“いちじくの木の下のナタナエル”とは、創造された時の人間の姿を暗喩していると思われる。

 現代日本。大人子ども含め百万人以上ががひきこもる、社会不適応の病める社会。世界には160万床の精神病床があり、日本の人口比率2%から見れば3万2千床位となるはず。が実際は35万床もあり。治療目的(平均20日間)以上に社会を守るための隔離(一年以上入院20万人)床となっている。
 イタリアのトリエステ市では、治療に熱心な医師を中心に精神病院を廃止した。病院の代わりに開始したのが、それぞれの地域における助け合い(友人・ボランティア・医師・介護士・ケアワーカー・心理士など)であり、病める本人の生活の場に駆けつけるアウトリーチ、オープンダイアローグのアプローチだった(手を貸すことができる者が手を貸し、立場を超えて心を交わす作業)。本人の住む場所に出掛ける助け合い。それは江戸時代までのこの国のアプローチ(修験道、東洋医学、手当、民間療法)でもあった。

先週の出来事 (自閉生活)小学生4万人 中学生11万人
15〜39歳54万人 40〜64歳61万人 計およそ130万人‥
(2020年度内閣府推計)人間が社会不適応なのか、社会が人間不適応?なのか。生きづらさだけは確実に深く広がっている。人新世(アントロポセン)に静かに落下していく道なのだろう。