20190512東淀川教会礼拝 イザヤ42:1-7 マルコ3:7-12 

 旧約聖書 イザヤ書42章 1-7節
わたしの支持するわがしもべ、わたしの喜ぶわが選び人を見よ。わたしはわが霊を彼に与えた。彼はもろもろの国びとに道をしめす。 彼は叫ぶことなく、声をあげることなく、その声をちまたに聞えさせず、また傷ついた葦を折ることなく、ほのぐらい灯心を消すことなく、真実をもって道をしめす。彼は衰えず、落胆せず、ついに道を地に確立する。海沿いの国々はその教を待ち望む。天を創造してこれをのべ、地とそれに生ずるものをひらき、その上の民に息を与え、その中を歩む者に霊を与えられる主なる神はこう言われる、「主なるわたしは正義をもってあなたを召した。わたしはあなたの手をとり、あなた
を守った。わたしはあなたを民の契約とし、もろもろの国びとの光として与え、盲人の目を開き、囚人を地下の獄屋から出し、暗きに座する者を獄屋から出させる。

新約聖書 mark マルコ福音書3:7-12節
それから、イエスは弟子たちと共に海べに退かれたが、ガリラヤからきたおびただしい群衆がついて行った。またユダヤから、エルサレムから、イドマヤから、更にヨルダンの向こうから、ツロ、シドンのあたりからも、おびただしい群衆が、そのなさっていることを聞いて、みもとにきた。イエスは群衆が自分に押し迫るのを避けるために、小舟を用意しておけと、弟子たちに命じられた。それは、多くの人をいやされたので、病苦に悩む者は皆イエスにさわろうとして、押し寄せてきたからである。また、けがれた霊どもはイエスを見るごとに、みまえにひれ伏し、叫んで、「あなたこそ神の子です」と言った。イエスは御自身のことを人にあらわさないようにと、彼らをきびしく戒められた。
マタイ福音書12章19-21
彼は争わず、叫ばず、またその声を大路で聞く者はない。12:20彼が正義に勝ちを得させる時まで、いためられた葦を折ることがなく、煙っている燈心を消すこともない。異邦人は彼の名に望みを置くであろう」。

 聖書から聴く 主題「イエスをカルトのリーダーに仕立てる人々
 おびただしい群衆がイエスの言葉を聞こうと集まってきた。しかし聴くよりも、むしろイエスに触って悪霊を追い出していただこうとする、直接触ってもらうことを目的とする病んでいる者も多かった。
汚れた霊どもはイエスに仕掛けをした。病んでいる人々を扇動してイエスのもとに走らせ、「彼こそ神の子だ!」と叫び、イエスを難民・熱狂集団を組織化(セクト化)させ、そのカリスマ・王・メシアに仕立てようとする企てだったのだろう。“イエスよ、あなたに依存し従属しようとしている、この悪霊に取り憑かれた数多の難民・群衆から我々悪霊を追い出し、まとめていっぺんに治してみよ!”という悪霊のメッセージが聞こえてきそうだ。イエスのエネルギーを吸い尽くすが如く「神の子よ!」と叫びながら押しかけてくる人々に向かって、自らを「我は人の子」と言い続けたのはこのためだろう。
 イエスの行動を「戦い」と理解しようとするならば、それはイエスをリーダー、頂点として集まってくる人々を教団(セクト)化し、イエスと敵対するセクト、権力者や社会秩序・宗教指導者、納税を強いてくるお上と戦うようなものではなく、一般ピープルが(弟子すらも)顔を背ける、どん尻の、生きづらさを背負わされているしんがりの個々の人を守るための戦いだった。 「癒し」とは、一人一人の肉体と魂に向かい合い、その人が神との関係を取り戻すことであり、神によってのみ生かされる新たな旅立ちを促すこと。それは預言者イザヤらが語り継いだメシア・救い主の姿でもあった。人々の往来する大路で、大声で語りかけるメシアではなく、多くの人々から離れたところで、救いを求める魂に静かに語りかける声であり、それぞれに適った癒やしのわざであり、それは弱っている細い「芦」を折ることなく支え、苦しんでくすぶって消えかかっているいのち、灯芯を消すこともない、激しいが、しかし静かな癒やし=再生のわざ。しかも選民意識の色濃いイスラエル民族のプライド・自負心を鼓舞するものでは決してなく、国境・国家や民族を超えた福音であったがゆえに、むしろ「異邦人」にこそ理解しやすい福音であったと思われる。

○先週の出来事(気になるニュース) 
 高齢者ドライバー(嫌な造語だ…)の引き起こす事故について連報道が続いたあと、高齢者ではない女性ドライバーによって起きた大津市での信号待ちをしていた幼児達を襲った悲惨な事故(女性ドライバーバッシングも始まるか?)。もはや100キロ以上スピードの出る鉄の塊の自動車ではなく、50キロ以内の、軽自動車サイズで電気で動くゴーカートのような、見晴らしの良い、運転する人の顔が外からよく見える、ちょっと当たってもゴメンヤッシャ!で済む、屋根のない運搬車で十分と思う。でも200キロ以上出る鉄の塊をガンダム風に仕立てて200万円で売らないと「政治家の目的」である国の経済が維持できないのだろう。これは原発を維持しないと国力が維持できない、という為政者の理屈とおんなじなのじゃろう。そう言えば、ガンダム風の乗用車が増えてきた。ロシアと戦って北方領土を取り戻したいと思っている政治家もガンダム世代だったっけ?

教会・公会への展望(眼で味わう世界の礼拝)

東淀川教会から世界の公同教会を展望する

現実の教会、教派、教団、セクトの排他性、権威的独善性、歴史の中で犯してきた過ち、などを現実の中で超えていくことは絶望的に困難です。それは東淀川教会を包括している日本基督教団ひとつとってみても明らかです。

 現実の教会に失望して教会を長く離れておられる方々も多くおられます。
「ひとは祈る生きものである」のは確かです。
個人的には(神主の息子でしたが)、先人と聖書によって、にんげんごときのイメージを超えた、言葉にするなら「かみさま」とわたしをつないてくださったのが「イエス」でしたが、この「信」を絶対化したくなる傲慢さは意識し続けたい。キリスト教会が(おそらく世界で最も)罪を犯してきた宗教であり、何がどういった罪であったかを告白できる宗教であり、かつ、どうすれば過ちを繰り返さないか、防ぐことができるかを証言できる宗教のはずです。

告白、悔い改めの重たさに耐えきれないゆえに「現実」と「宗教」、ひとりひとりの「信」とを合理的に分けてしまい、居心地の良いところに救いを求め安住しようとする営みを非難する権利などだれにもありません。結婚式司式のおしごとに明け暮れているエンターテイナー「牧師」を責めることもできません。

ただ、時代やセクトや不確かな今の「わたし」を離れて、「便利な部分もある」ネットを使って、動物的な臭覚を用いて、古からの祈りの足跡を、「歴史を学ぶ」のではない、「学ばない姿勢」で垣間見ながら、バックミラーで未来を覗く、というフレーズがありましたが、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教に限らず、「祈りの場」を夢想できたらと思います。現代のまじめなキリスト者は「〜を学ぶ」というのが大好きですが、今はむしろ「学ばない姿勢」こそ必要なのだと思っています。

トップのイメージ
現代の都市生活者が求める教会はこうであるかもしれない。自然の脅威やエゴイスッティックな人間の争いからも守られやすい。そこは数多の「ライフライン」が整っていて、何よりもいのちを預けられる(かもしれない)、生死の判定ができる医師がいて、禁煙・クリーンで、アレルギー対策もしてくれて、血縁関係の軋轢からも自由になり、医師や看護師が忙しければ、カウンセラーが話を聞いてくれる。それにくらべたら、教会なんて、ご利益はないし、牧師なんて、何の役にも立たない…なんてね。
2019年 昇天後主日礼拝後の夕礼拝にて

 

20190505 東淀川教会礼拝 

旧約聖書 アモス書8章4-8節
これを聞け。貧しい者を踏みつけ、地の苦しむ者を滅ぼそうとする者たちよ。あなたがたは言う。「新月祭はいつ終わるのか。穀物を売りに出したいものだ。安息日はいつ終わるのか。。麦を売りに出したいものだ。エファ升を小さくし、分銅は重くし、偽りの天秤を使って誤魔化し、弱い者を金で、貧しい者を履物一足分の値で買い取ろう。またくず麦を売ろう。」主はヤコブの誇りにかけて誓われた。 「私は彼らが行ったすべてのことをいつまでも忘れない。」

新約聖書 マルコ福音書3章1-6節
イエスは会堂に入られた。そこに片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、安息日にその人を癒されるかどうか、窺っていた。イエスは手の萎えた人に「真ん中に立ちなさい」と言われた。そして人々にこう言われた。人々にむかって、「安息日に律法で許されているのは善を行うことか。あくを行うことか。命を救うことか。命を殺すことか。」彼らは黙っていた。
イエスは怒りを含んで彼らを見まわし、その心のかたくななのを悲しみ、その人に「手を伸ばしなさい」と言われた。そこで手を伸ばすと、その手は元どおりになった。
パリサイ人たちは出て行って、すぐにヘロデ党の者たちと、なんとかしてイエスを殺そうと相談しはじめた。

聖書から聴く   主題「ばちあたりが!」

アモスは農民だった。金を持たない人だった。お金(貨幣経済)を嫌っていた。お金の力を恐れていた。自然相手に食べ物を得て、必要なものは自分で作って、手に入れるしかないものは物々交換で手に入れていた。
 お金をたくさん手に入れることは、お金を持てない貧しい人を作り出すことだった。ことば巧みに、より安いものを高く売るのが金儲けのコツだった。周囲の人は金儲けに利用すべき人たちだった。「金さえあればなんでも手に入るし、金で人を自分の都合よく利用したり奴隷のように人を買うこともできた。貧富の差が広がるからこそ、お金に執着する人が金儲けできる。みんなが等しくお金によって豊かになることはぜったいあり得ないことだった。
 ましてや、金を稼げない者、体や脳の機能にハンディを背負っているもの、老いや病気で働いてお金を稼ぐことができない人々を見下して、貧しい者たちを見下すような傲慢が激しくなっていた。
 富める者と貧しい者との格差は露骨に激しかった。傲慢な心、債権者として債務者をどんどん増やしている経済活動に神の怒りを伝えるアモスだった。

 弱い者、貧しい者に何ら手を貸すこともなく、指一本貸そうともしない、金持ちたちに対するイエスの怒りは激しかった。「安息日などの規則を守れ、と、貧しい者たち命令する奴らに対するイエスの怒りは、逆に「弱っているもの、貧しい者をこそ「中央」に立たせ、曲がった手や足を「伸ばせ」と命令するのがイエスの癒しであった。
  世の中の下へ人を押し込める働きに対し、さらに深いところに降りて、どんぞこから人々を支え癒し続けるイエスの働きは主なる神にイエスが命じられた、休む間もない「働き」と戦いだった。

○先週の出来事(気になるニュース) 
  八島に住む人々の平安と平和を祈ることを仕事とする祈祷師(天皇)がいてもいいし、それが血縁で受け継がれていくという神話を信じる人々が宗教集団をつくるのも「信仰の自由」なのだろう。ただ、その神話をすべての人々や、そうは思わない人々に強いて、祈祷師を崇拝させることは明らかな過ちであり、明らかな罪である。

 

20190505東淀川教会礼拝 

  • 申命記5章11-14節
  • マルコ福音書2章23-28節
  • 司式・牧仕 金田恆孝

復活後第三主日礼拝 2019年5月5日
旧約聖書  申命記5章11-14節
11 あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。主はその名をみだりに唱える者を罰しないではおかないであろう。
12 安息日を守ってこれを聖とし、あなたの神、主があなたに命じられたようにせよ。
13 六日のあいだ働いて、あなたのすべてのわざをしなければならない。
14 七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたも、あなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、牛、ろば、もろもろの家畜も、あなたの門のうちにおる他国の人も同じである。こうしてあなたのしもべ、はしためを、あなたと同じように休ませなければならない。

新約聖書 マルコ福音書2章23-28節
ある安息日に、イエスは麦畑の中をとおって行かれた。そのとき弟子たちが、歩きながら穂をつみはじめた。すると、パリサイ人たちがイエスに言った、「いったい、彼らはなぜ、安息日にしてはならぬことをするのですか」。そこで彼らに言われた、「あなたがたは、ダビデとその供の者たちとが食物がなくて飢えたとき、ダビデが何をしたか、まだ読んだことがないのか。すなわち、大祭司アビアタルの時、神の家にはいって、祭司たちのほか食べてはならぬ供えのパンを、自分も食べ、また供の者たちにも与えたではないか」。
また彼らに言われた、「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない。
それだから、人の子は、安息日にもまた主なのである」。

聖書から聴く 主題「所有の放棄こそ安息」
安息日とは、何もしてはならない、自分が自分の主人であることを放棄する、自分のための計らいを放棄する時を過ごす。神こそ我が主、という「生かされ方」に戻るときである。召使いや奴隷も義務から解き放たれる時である。事前に作っておいたものを暖めもせず冷えたまま食べる。食事の調理からも完全に離れることになる。店もタクシーもバスも止まってしまう街もある。日本の農村でも正月三日間はすべてが止まってしまう文化もあった。これもまた大切な区切り、リセットのときだったのだろう。
イエスとともに働く弟子たちが麦の穂を摘んだ。仲間の体力を保つための準備である。それを一律の規律違反として責め立てる者たちがいた。が、イエスたちにとって今は安息の時でもなければ断食の時でもない。まさに必死で働くべき時だった。

この自分や自分たちの計らいを捨てる、という安息の習慣が、余計に持ちすぎた食べ物や所有物を、集会所や礼拝所に持ち寄って神に返す、捧げる、という習慣を生んだ。仏教でいうところの「喜捨」である。所有者から非所有者へものが流れれば与える者と与えられる者との精神的格差・優劣は露骨に広がるしかない。
礼拝における献金も、バザーの献金も、本来はこの神に捧げる「喜捨」であり、食べ物に困っている者、必要なものをそれぞれの必要に応じて手に入れてよいものとなる。しかしそれを神殿の財産、富として蓄える習慣がすでに始まっていた。それにたいする怒りの声がイエスから聞こえる。

生きるための糧の分かち合い、地域における助け合い(福祉?)の本来の姿がここにあると思う。
ただし、明治以降の、国家主体による、政策としての「福祉」は、地域における助け合い・支え合いの
関係からはかけ離れたものとなってしまっている。

○先週の出来事(気になるニュース) 
天皇を中心とした時代が大きく変わる、というイメージコントロール、マインドコントロールがマスコミを使って激しく行われている。せめて、恩赦によって死刑囚の身分が100年の懲役囚にでも変わるのなら、多少コントロールされてもいいと思うのだが、それすらなさそうだ。「恩赦はあるのか?」という問いすらマスコミは発しようともしない。

ふと近づいてくる人があった

こんな夢をみた
妙に明るい雑踏の中だったように思う。ひとにぶつからないようにひとりで歩いているわたしに、ふと近づいてくる人があった。年上なのか、年下なのか、男なのか、女なのか、日本人なのか外国人なのか、知っている人のようでもあり、まったく知らない人のようでもあり、思い出せないが、なぜかとても懐かしいような雰囲気があった。
近づいてきて立ち止まり、わたしを見つめながら日本語で優しげに言うのだった。「あなたはすでに死んでいるんですよ」
遠くなったこの耳にそれははっきりと伝わり、瞬間わたしは「ああ、やっぱり!」と声にならない声で答えていた。
世の中からかなりずれてしまっていることを恐る遅る?怖れていたが、ズレているどころか、きっぱりど断絶していることを知らされて、妙に納得した気分になっている夢だった。

20190428 東淀川教会礼拝 

復活後第二主日礼拝 2019年4月28日 
旧約聖書  申命記5章11-14節
11 あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。主はその名をみだりに唱える者を罰しないではおかないであろう。
12 安息日を守ってこれを聖とし、あなたの神、主があなたに命じられたようにせよ。
13 六日のあいだ働いて、あなたのすべてのわざをしなければならない。
14 七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたも、あなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、牛、ろば、もろもろの家畜も、あなたの門のうちにおる他国の人も同じである。こうしてあなたのしもべ、はしためを、あなたと同じように休ませなければならない。
新約聖書 マルコ福音書2章23-28節
ある安息日に、イエスは麦畑の中をとおって行かれた。そのとき弟子たちが、歩きながら穂をつみはじめた。すると、パリサイ人たちがイエスに言った、「いったい、彼らはなぜ、安息日にしてはならぬことをするのですか」。そこで彼らに言われた、「あなたがたは、ダビデとその供の者たちとが食物がなくて飢えたとき、ダビデが何をしたか、まだ読んだことがないのか。すなわち、大祭司アビアタルの時、神の家にはいって、祭司たちのほか食べてはならぬ供えのパンを、自分も食べ、また供の者たちにも与えたではないか」。
また彼らに言われた、「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない。
それだから、人の子は、安息日にもまた主なのである」。
 聖書から聴く 主題「所有の放棄こそ安息なり」
安息日とは、何もしてはならない、自分が自分の主人であることを放棄する、自分のための計らいを放棄する時を過ごす。神こそ我が主、という「生かされ方」に戻るときである。召使いや奴隷も義務から解き放たれる時である。事前に作っておいたものを暖めもせず冷えたまま食べる。食事の調理からも完全に離れることになる。店もタクシーもバスも止まってしまう街もある。日本の農村でも正月三日間はすべてが止まってしまう文化もあった。これもまた大切な区切り、リセットのときだったのだろう。
イエスとともに働く弟子たちが麦の穂を摘んだ。仲間の体力を保つための準備である。それを一律の規律違反として責め立てる者たちがいた。が、イエスたちにとって今は安息の時でもなければ断食の時でもない。まさに必死で働くべき時だった。

この自分や自分たちの計らいを捨てる、という安息の習慣が、余計に持ちすぎた食べ物や所有物を、集会所や礼拝所に持ち寄って神に返す、捧げる、という習慣を生んだ。仏教でいうところの「喜捨」である。
礼拝における献金も、バザーの献金も、本来はこの神に捧げる「喜捨」であり、食べ物に困っている者、必要なものを手に入れられない人々がいただいてよいものとなる。生きるための糧の分かち合い、助け合い(福祉)の本来の姿がここにあると感じられる。
神殿に捧げられたものは、飢えた者たちや貧しい者たちが、神さまからのプレゼントとして受け取って良いものだった。しかしそれを神殿の財産、富として蓄える習慣がすでに始まっていた。それに對する怒りの声がイエスから聞こえる。
 ○先週の出来事(気になるニュース)
天皇を中心とした時代が大きく変わる、というイメージコントロール、マインドコントロールがマスコミを使って激しく行われている。せめて、恩赦によって死刑囚の身分が1長期の懲役刑にでも変わるのなら、多少コントロールされてもいいと思うのだが、マスコミは触れようとしない。

20190421 東淀川教会礼拝 イースター 宣教要旨

2019年4月21日 復活の主日Easter<イースター礼拝 
 旧約聖書  ヨブ記 19 章25~27 節
わたしは知る、わたしをあがなう者は生きておられる、後の日に彼は必ず地の上に立たれる。わたしの皮がこのように滅ぼされたのち、わたしは肉を離れて神を見るであろう。
詩編 16 章8 -11節
わたしは常に主をわたしの前に置く。主がわたしの右にいますゆえ、わたしは動かされることはない。このゆえに、わたしの心は楽しみ、わたしの魂は喜ぶ。わたしの身もまた安らかである。 あなたはわたしを陰府に捨ておかれず、あなたの聖者に墓を見させられないからである。 あなたはいのちの道をわたしに示される。あなたの前には満ちあふれる喜びがあり、あなたの右には、とこしえにもろもろの楽しみがある。
新約聖書 マルコ福音書16章12-13節
この後、そのうちのふたりがいなかの方へ歩いていると、イエスはちがった姿で御自身をあらわされた。このふたりも、ほかの人々の所に行って話したが、彼らはその話を信じなかった。
ルカ福音書24章15節
語り合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいてきて、
彼らと一緒に歩いて行かれた。しかし、彼らの目がさえぎられて、イエスを認めることができなかった。
ルカ福音書24章:29-32節
そこで、しいて引き止めて言った、「わたしたちと一緒にお泊まり下さい。もう夕暮になっており、日もはや傾いています」。イエスは、彼らと共に泊まるために、家にはいられた。
一緒に食卓につかれたとき、パンを取り、祝福してさき、彼らに渡しておられるうちに、彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった。すると、み姿が見えなくなった。
彼らは互に言った「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか」。
 聖書から聴く 主題「再生への希望と確信」
イースターは、イエス・キリストの復活を記念する祭り。教会で最も古い祝日です。イースター(Easter)という言葉の由来は、アングロ・サクソン民族の、厳しい冬が終わり、あたたかな光の中、いのちが芽生える春が、太陽が昇る東からやってくることを祝う、に由来します。フランス語のパーク、イタリアやスペイン、スウェーデンなどで使われるギリシャ語・ラテン語のパスカは、ヘブライ語の一種でイエスが使われたであろうアラム語の “Pesach ペサハ”「過ぎ越しの祭」からきています。悔い改めの断食期間を冬になぞらえ、新たに再生するいのちの営みを祝う意味が込められています。

ヨブ記における、まさにどん底に突き落とされたヨブの絶望と呪詛にも似た果てしない論争は、神が救いの業を世のどん底から始められることを示しています。肉体が滅んで魂の自分が神の前に立ったときの、神との論争・対話を誰よりも切望し、すべてが明らかになる、魂・霊の復活の瞬間を待ち望んでいたのはヨブでした。
詩編16編もまた、肉体が滅んだのち、神の御前に立つときを、魂・霊の復活のときとして神を賛美しています。
イエスの復活についての多くの証言の中で、空っぽになった墓の証言以上に、弟子たちの証言が私たちの心を揺さぶります。ガリラヤで再び会う約束、更に、それが目で見てイエスだとわかる「復活」ではなく、あのイエスでなければ内なる心が燃え上がらなかった火だねが再び燃え上がり、この世での絶望が、決して消えることのない確信へと変わり、あのガリラヤから再びイエスとともに働くことのできる喜びに満ちた、この証言です。「ともに歩もうではないか」とのイエスの声を今日聴きましょう。

○先週の出来事(気になるニュース)
天皇の交代という「天皇家の宗教儀式」を、国の国事行為として行うと政府が発表。これに議論が沸騰しないこと自体に危機を感じる。天皇を大スターのごとく扱う「番組」も気になる。天皇を崇拝する人々が「天皇教」の信仰を持ち、献金し皇室を支えることは自由ですが、賛成も崇拝もしない、この地の住民たちの税金を使い、宗教行為を国事行為として行うことは、個人意思を無視し、全員に天皇教を強要しているはず。

20190414 東淀川教会礼拝 

2019年4月14日 棕櫚の主日礼拝

旧約聖書  創世記21章14-18節
そこでアブラハムは明くる朝はやく起きて、パンと水の皮袋とを取り、ハガルに与えて、肩に負わせ、その子を連れて去らせた。ハガルは去ってベエルシバの荒野にさまよった。
やがて皮袋の水が尽きたので、彼女はその子を木の下におき、
「わたしはこの子の死ぬのを見るに忍びない」と言って、矢の届くほど離れて行き、子供の方に向いてすわった。彼女が子供の方に向いてすわったとき、子供は声をあげて泣いた。
神はわらべの声を聞かれ、神の使は天からハガルを呼んで言った、「ハガルよ、どうしたのか。恐れてはいけない。神はあそこにいるわらべの声を聞かれた。立って行き、わらべを取り上げてあなたの手に抱きなさい。わたしは彼を大いなる国民とするであろう」。

新約聖書 マタイ11:16-17
今の時代を何に比べようか。それは子供たちが広場にすわって、ほかの子供たちに呼びかけ、『わたしたちが笛を吹いたのに、あなたたちは踊ってくれなかった。弔いの歌を歌ったのに、胸を打ってくれなかった』と言うのに似ている。
マタイ11:25-27
そのときイエスは声をあげて言われた、「天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました。父よ、これはまことにみこころにかなった事でした。すべての事は父からわたしに任せられています。そして、子を知る者は父のほかにはなく、父を知る者は、子と、父をあらわそうとして子が選んだ者とのほかに、だれもありません。
聖書から聴く 主題「大人のことばはいらない」

 

女性による、子を求めること、授かること、守り育むこと、失うこと、にまつわる「願い・喜び・悲しみ・怒り・忍耐」等々の激しさ、凄まじさは、男性には理解を超えるもの。うかつに立ち入れないもの。
うまずめ(石女)の「ことば」が産めた女や男たちから産めない女に投げつけられる。投げつけられた一人がサラだった。アブラムの跡継ぎのため、召使いの女を夫に与えたのもサラだった。アブラムの跡継ぎを産んだハガルが、跡継ぎの守護者としてふるまい、サラに遠慮しなかったことも、ハガルの勝者的ふるまいや、ハガル、イシュマエル、アブラムの三人が笑い合っている姿がどれほどサラを苦しませ続けたかも想像に難くない。サラがハガルを虐め続け、やがて子を諦めていたサラ90歳に子が授かったとき、辱めから救われたサラはハガルとイシュマエルを虐め追い出す。15歳とはいってもまだ子どもだったイシュマエルを病が襲う。不幸のどん族にあって母は息子の死を直面しきれず遠く離れて泣き続ける。どん底の嘆きを聞き届けた神はこの母子を救う。
「立場の異なる当事者」同士はどうしても競い合い、争い、悲惨な被害が生み出されやすい。しかし、怒りを和らげ悲しみを分かち合ってくれ、喜びの時には心から笑い合えるる仲間がずっといてくれたら、人間の愚かさゆえに生み出される被害は、最小限に抑えられていくのではないか。そのためには、理性的な大人の言葉や政治や法律や警察や裁判所が必要なのではなく、損得抜きに友達でいられる「こどものこころ」に勝るものはないのだろうと思う。
○先週の出来事(気になるニュース)
年号とともに時代が変わる、という幻想が、商売の景気づけのようにまき散らされている。政治と宗教は利用し合ってはならない、との原則が政教分離。その戦後民主主義の大原則すら消えかけている。

20190407 東淀川教会礼拝 

2019年4月7日 受難節第5主日礼拝

旧約聖書  Jonah ヨナ書3章1-6節
時に主の言葉は再びヨナに臨んで言った、「立って、あの大きな町ニネベに行き、あなたに命じる言葉をこれに伝えよ」。
そこでヨナは主の言葉に従い、立って、ニネベに行った。ニネベは非常に大きな町であって、これを行きめぐるには、三日を要するほどであった。ヨナはその町にはいり、初め一日路を行きめぐって呼ばわり、「四十日を経たらニネベは滅びる」と言った。そこでニネベの人々は神を信じ、断食をふれ、大きい者から小さい者まで荒布を着た。このうわさがニネベの王に達すると、彼はその王座から立ち上がり、朝服を脱ぎ、荒布をまとい、灰の中に座した。

新約聖書 Luke ルカ福音書10章8-15節
どの町へはいっても、人々があなたがたを迎えてくれるなら、前に出されるものを食べなさい。そして、その町にいる病人をいやしてやり、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。 しかし、どの町へはいっても、人々があなたがたを迎えない場合には、大通りに出て行って言いなさい、『わたしたちの足についているこの町のちりも、ぬぐい捨てて行く。しかし、神の国が近づいたことは、承知しているがよい』。 あなたがたに言っておく。その日には、この町よりもソドムの方が耐えやすいであろう。わざわいだ、コラジンよ。わざわいだ、ベツサイダよ。おまえたちの中でなされた力あるわざが、もしツロとシドンでなされたなら、彼らはとうの昔に、荒布をまとい灰の中にすわって、悔い改めたであろう。しかし、さばきの日には、ツロとシドンの方がおまえたちよりも、耐えやすいであろう。ああ、カペナウムよ、おまえは天にまで上げられようとでもいうのか。黄泉にまで落されるであろう。
 聖書から聴く  主題「滅んじゃうよ!」
ヨナさん。箸より重いいものを持つのがいやで、怠け者で、どうせ文句を言われるから長く働くのも嫌いで、一カ所で生活していたら飽きてきて、旅に出たり放浪したり。自分からしゃべるのも面倒で、何かを言われても軽く冗談で流して話を打ち切り、フラフラ生きているので、「フーテンのヨナさん」と呼ばれていたんじゃないだろうか……。わたしのヨナさんのイメージはそんな人物像です。そんな「世捨て人」みたいな人ですが、どこか遠くから心の底に語りかけてくる声を聞き続け、返事をしたり、反論したり、お願いをしたり、考えたりと、「対話」を続けていたようです。それは決して無視できない、耳を塞げない、「聖霊の声」としか他に言いようのない声でした。ヨナさんに聖霊から「人を困らせ病ませ弱らせている町があるから、この町は神さまに滅ぼされるぞ、と告げなさい」との指示があったのですが、そんなことしたらどんなひどい目に遭うか想像できたので、「そんなん無理!」とばかりに逃げ出すのです。……大魚の腹の中に飲み込まれて死の淵をさまよったあと、悔い改めて聖霊の声に従って“悪のニネベ”の町で滅びを町中で宣告しましたが、なんとニネベの町は、あろうことか悔い改めてしまって、神が滅ぼすことをやめたので、ヨナさんの面目丸つぶれだった、という記録です。
イエスが働く仲間に、行った先々の町での心得を語る場面で、「聴く耳を持たない人々に語っても無駄(豚に真珠)だから、ここの汚れを他にもって行くべきではない、というメッセージや、サンダルの底の汚れを払い落として、決別しなさい」という言葉はとても心に残ります。さてさて、現代ですが、弱い者、病んでいる者を量産している、格差がどんどん広がっている社会ですが、強い力や金やライフラインに守られていると思っている多数派はイエスの仲間たちの声には決して耳を傾けないのでしょう。
○先週の出来事(気になるニュース)
新年号が「令和」ではなく「西暦」になったら、どんなにいいだろう!と願いましたが、“時代は天皇とともにある”という「信仰」のPRはとっても強いもので、異論を挟む余地なし、といった雰囲気が醸し出されています。

20190331 東淀川教会礼拝 

2019年3月31日 受難節第3主日礼拝
旧約聖書  イザヤ書35章3-6節
35:3あなたがたは弱った手を強くし、よろめくひざを健やかにせよ。
35:4心おののく者に言え、「強くあれ、恐れてはならない。見よ、あなたがたの神は報復をもって臨み、神の報いをもってこられる。神は来て、あなたがたを救われる」と。
35:5その時、目しいの目は開かれ、耳しいの耳はあけられる。
35:6その時、足なえは、しかのように飛び走り、おしの舌は喜び歌う。それは荒野に水がわきいで、
さばくに川が流れるからである。

新約聖書 マタイ福音書11章1-6節
11:1イエスは十二弟子にこのように命じ終えてから、町々で教えまた宣べ伝えるために、そこを立ち去られた。
11:2さて、ヨハネは獄中でキリストのみわざについて伝え聞き、自分の弟子たちをつかわして、
11:3イエスに言わせた、「『きたるべきかた』はあなたなのですか。それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか」。
11:4イエスは答えて言われた、「行って、あなたがたが見聞きしていることをヨハネに報告しなさい。
11:5盲人は見え、足なえは歩き、らい病人はきよまり、耳しいは聞え、死人は生きかえり、貧しい人々は福音を聞かされている。
11:6わたしにつまずかない者は、さいわいである」。

 聖書から聴く  主題「奇跡」
ユダヤ人の歴史家であるフラウィウス・ヨセフスによって書かれた古代ローマ帝国側資料「ユダヤ戦記」にはイエスについての記載はないが、 『ユダヤ古代誌』第XVII巻3章3節(通算第63-64節)にわずかだが記載が残っている。
(第63節)さてこの頃、イエスス(イエス)という賢人 — 実際に彼を人と呼ぶことが許されるならば — が現れた。彼は奇跡を行う者であり、また、喜んで真理を受け入れる人たちの教師でもあった。そして多くのユダヤ人と少なからざるギリシア人とを帰依させた。彼こそはクリストス(キリスト)だったのである。
(第64節)ピラトス(ピラト)は、彼が我々(ユダヤ人)の指導者たちによって告発されると、十字架刑の判決を下したが、最初に彼を愛するようになった者たちは、彼を見捨てようとはしなかった。すると彼は三日目に復活して、彼らの中にその姿を見せた。既に神の預言者たちは、これらのことや、さらに、彼に関するその他無数の驚嘆すべき事柄を語っていたが、それが実現したのである。なお、彼の名にちなんでクリスティアノイ(キリスト教徒)と呼ばれる族は、その後現在に至るまで、連綿として残っている。
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そこでイエスを【奇跡を行う者】であり、彼こそイスラエルが待望してきたメシアであるとの記載がある。

 イザヤ書での奇跡についての記載
その時、目しいの目は開かれ、耳しいの耳はあけられる。
その時、足なえは、しかのように飛び走り、おしの舌は喜び歌う。
バプテスマのヨハネが派遣した弟子の問いに、
11:4イエスは答えて言われた、「行って、あなたがたが見聞きしていることをヨハネに報告しなさい。
11:5盲人は見え、足なえは歩き、らい病人はきよまり、耳しいは聞え、死人は生きかえり、貧しい人々は福音を聞かされている。」と、ありありと今奇跡が行われていることをイエスは淡々と語る。

今、現代社会はこのような「奇跡」を奇跡と感じるだろうか。
今、ここに集っている私たちが祈り求める「奇跡」とは何なのだろうか。今、私たちが取り戻すべき祈りとは何なんだろうか。
その「いのり」から教会の礼拝のあり方を求めていきたい。

○先週の出来事(気になるニュース)
内閣府が3月29日した、中高年の引きこもり数が61万3000人というニュース。しかも4分3は男性。自殺者数年間2万人、行方不明者年間8万5千人。
まるで「きれいっぽい病院内で衰弱死を待つ老人」みたいな世相なのだろう。