20190421 東淀川教会礼拝 イースター 宣教要旨

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2019年4月21日 復活の主日Easter<イースター礼拝 
 旧約聖書  ヨブ記 19 章25~27 節
わたしは知る、わたしをあがなう者は生きておられる、後の日に彼は必ず地の上に立たれる。わたしの皮がこのように滅ぼされたのち、わたしは肉を離れて神を見るであろう。
詩編 16 章8 -11節
わたしは常に主をわたしの前に置く。主がわたしの右にいますゆえ、わたしは動かされることはない。このゆえに、わたしの心は楽しみ、わたしの魂は喜ぶ。わたしの身もまた安らかである。 あなたはわたしを陰府に捨ておかれず、あなたの聖者に墓を見させられないからである。 あなたはいのちの道をわたしに示される。あなたの前には満ちあふれる喜びがあり、あなたの右には、とこしえにもろもろの楽しみがある。
新約聖書 マルコ福音書16章12-13節
この後、そのうちのふたりがいなかの方へ歩いていると、イエスはちがった姿で御自身をあらわされた。このふたりも、ほかの人々の所に行って話したが、彼らはその話を信じなかった。
ルカ福音書24章15節
語り合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいてきて、
彼らと一緒に歩いて行かれた。しかし、彼らの目がさえぎられて、イエスを認めることができなかった。
ルカ福音書24章:29-32節
そこで、しいて引き止めて言った、「わたしたちと一緒にお泊まり下さい。もう夕暮になっており、日もはや傾いています」。イエスは、彼らと共に泊まるために、家にはいられた。
一緒に食卓につかれたとき、パンを取り、祝福してさき、彼らに渡しておられるうちに、彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった。すると、み姿が見えなくなった。
彼らは互に言った「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか」。
 聖書から聴く 主題「再生への希望と確信」
イースターは、イエス・キリストの復活を記念する祭り。教会で最も古い祝日です。イースター(Easter)という言葉の由来は、アングロ・サクソン民族の、厳しい冬が終わり、あたたかな光の中、いのちが芽生える春が、太陽が昇る東からやってくることを祝う、に由来します。フランス語のパーク、イタリアやスペイン、スウェーデンなどで使われるギリシャ語・ラテン語のパスカは、ヘブライ語の一種でイエスが使われたであろうアラム語の “Pesach ペサハ”「過ぎ越しの祭」からきています。悔い改めの断食期間を冬になぞらえ、新たに再生するいのちの営みを祝う意味が込められています。

ヨブ記における、まさにどん底に突き落とされたヨブの絶望と呪詛にも似た果てしない論争は、神が救いの業を世のどん底から始められることを示しています。肉体が滅んで魂の自分が神の前に立ったときの、神との論争・対話を誰よりも切望し、すべてが明らかになる、魂・霊の復活の瞬間を待ち望んでいたのはヨブでした。
詩編16編もまた、肉体が滅んだのち、神の御前に立つときを、魂・霊の復活のときとして神を賛美しています。
イエスの復活についての多くの証言の中で、空っぽになった墓の証言以上に、弟子たちの証言が私たちの心を揺さぶります。ガリラヤで再び会う約束、更に、それが目で見てイエスだとわかる「復活」ではなく、あのイエスでなければ内なる心が燃え上がらなかった火だねが再び燃え上がり、この世での絶望が、決して消えることのない確信へと変わり、あのガリラヤから再びイエスとともに働くことのできる喜びに満ちた、この証言です。「ともに歩もうではないか」とのイエスの声を今日聴きましょう。

○先週の出来事(気になるニュース)
天皇の交代という「天皇家の宗教儀式」を、国の国事行為として行うと政府が発表。これに議論が沸騰しないこと自体に危機を感じる。天皇を大スターのごとく扱う「番組」も気になる。天皇を崇拝する人々が「天皇教」の信仰を持ち、献金し皇室を支えることは自由ですが、賛成も崇拝もしない、この地の住民たちの税金を使い、宗教行為を国事行為として行うことは、個人意思を無視し、全員に天皇教を強要しているはず。

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