190818 宣教要旨 レビ記11 マルコ7章 宣教題「うんこったれ!」牧仕・金田恆孝

旧約聖書 レビ記11章
42 すべて腹ばい行くもの、四つ足で歩くもの、あるいは多くの足をもつもの、すなわち、すべて地にはう這うものは、あなたがたはこれを食べてはならない。それらは忌むべきものだからである。43 あなたがたはすべて這うものによって、あなたがたの身を忌むべきものとしてはならない。また、これをもって身を汚し、あるいはこれによって汚されてはならない。44 わたしはあなたがたの神、主であるから、あなたがたはおのれを聖別し、聖なる者とならなければならない。わたしは聖なる者である。地にはう這うものによって、あなたがたの身を汚してはならない。45 わたしはあなたがたの神となるため、あなたがたをエジプトの国から導き上った主である。わたしは聖なる者であるから、あなたがたは聖なる者とならなければならない』」。46 これは獣と鳥と、水の中に動くすべての生き物と、地に這うすべてのものに関するおきてであって、47 汚れたものと清いもの、食べられる生き物と、食べられない生き物とを区別するものである。

新約聖書 マルコ福音書第7章14-23
7:14 それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた、「あなたがたはみんな、わたしの言うことを聞いて悟るがよい。すべて外から人の中にはいって、人をけがしうるものはない。かえって、人の中から出てくるものが、人をけがすのである。(聞く耳のある者は聞くがよい)」。イエスが群衆を離れて家にはいられると、弟子たちはこの譬について尋ねた。すると、言われた、「あなたがたも、そんなに鈍いのか。すべて、外から人の中にはいって来るものは、人を汚し得ないことが、わからないのか。それは人の心の中にはいるのではなく、腹の中にはいり、そして、外に出て行くだけである」。イエスはこのように、どんな食物でもきよいものとされた。さらに言われた、「人から出て来るもの、それが人をけがすのである。すなわち内部から、人の心の中から、悪い思いが出て来る。不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、邪悪、欺き、好色、妬み、誹り、高慢、愚痴。これらの悪はすべて内部から出てきて、人をけがすのである」。

聖書から聴く 主題「うんこったれ!」
モーセの時代に動物や魚について戒律としてタブーがあったかは甚だ疑問である。エジプトでの奴隷時代、ナイル川周辺にあって、奴隷といえども食べ物は比較的豊かであった。だからこそ、エジプト脱出後の流浪生活の貧しさに民は不平だらけだった。だから「マナ」が降った。食べるものに事欠く、子どもたちに必要なだけ食べさせることができないとき、自らの聖性をまもるために、汚れている動物や魚を拒否するような余裕すらなかったはずである。
もしもモーセの時代から食物タブーがあったならば、それは日々の宗教的儀式を執り行う祭司たちやレビ人など、儀式上、聖性を人々に求められ、かつ認めさせていた一部の人だったと考えられる。レビ記11章は彼ら自身に向けての戒律。それがパレスチナに定住し、国家を持ち、ユダヤ教を広める立場になったとき、食べ物タブーだけでなく、多くのタブーを一般の人々に、人心管理のため、神殿への恐れと依存を大きくし、食べ物が強要するようになったと思われる。
イエスの時代の祭司長や律法学者などは、国民としてのプライドを育成するためにも、神殿の支配力、影響力を高め保持するためにも、選民思想を強めるためにも、食べ物タブーだけではなく、様々なタブーを生み出した。
人々をコントロールし、ひもで縛り上げていく支配層の主張、それを押しつけて、守らせることを「信仰生活」とする人々も多くいる。イエスは、そんな自分自身を美化・聖化しようとする人々に向かって「あなたもうんこするでしょう?」「あなた方の口から出ている言葉、戒律などが、他人のうんこのように人々を我慢させている」と告発している。

○先週の出来事(気になるニュース)
最大の被害予想に基づいた台風警戒PR。飛行機も新幹線も運休予告。何かしら臨戦態勢の予行演習のように感じてしまう。「国民の被害を最小限に抑えるためのお国の処置だろう」から、予想が外れてもだれも文句は言えない。国民にはもはや自己責任で判断をすることすらできなくなっている? ならば「住民」でいいのだけれど。

190811東淀川教会礼拝 詩編1 マルコ7章 宣教題「偽善者よ 嘘つきどもよ」牧仕・金田恆孝

旧約聖書 詩編1篇1-6節
悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。
2 このような人は主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う。
3 このような人は流れのほとりに植えられた木の時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える。
4 悪しき者はそうでない、風の吹き去るもみがらのようだ。
5 それゆえ、悪しき者はさばきに耐えない。罪びとは正しい者のつどいに立つことができない。
6 主は正しい者の道を知られる。しかし、悪しき者の道は滅びる。

新約聖書 マルコ福音書第7章9-13節
また、言われた、「あなたがたは、自分たちの言伝えを守るために、よくも神のいましめを捨てたものだ。
モーセは言ったではないか、『父と母とを敬え』、また『父または母をののしる者は、必ず死に定められる』と。
それだのに、あなたがたは、もし人が父または母に
むかって、あなたに差上げるはずのこのものはコルバン、
すなわち、供え物ですと言えば、それでよいとして、
その人は父母に対して、もう何もしないで済むのだと言っている。
こうしてあなたがたは、自分たちが受けついだ言伝えに
よって、神の言を無にしている。また、このような事を
しばしばおこなっている」。

聖書から聴く 主題「偽善者よ 嘘つきどもよ」

ナザレのイエスが、神殿政治の支配者たちや、ヘロデ王たちや、ローマ帝国から、すなわち「力ある者たち」権力や財力や、人々を動かすことのできる立場を持っている人間を怒らせ、嫌われ、彼らから攻撃を受けたもっとも大きな原因は、彼らを恐れぬ攻撃力、その影響力にあったことは確か。「悪人よ!」「加害者よ!」という、正義の立場からの断罪ではない。「偽善者よ!」の叫びは「嘘つき!」に似て、とっても厳しく、容赦なく相手に突き刺さる非難であろう。
「ひとを裁いてはならない。あなたがたが裁かれないためである」というメッセージは、「許せ!」「七の七倍も許せ」のメッセージとともに、良薬のごとく聴衆の心に響くものでした。が、このイエスがかなり発したであろう「偽善者よ」メッセージは、見事なまでに、「高いところ・ステータスの高い」ところにいる人々を明らかに「断罪している」と思われます。

社会的地位の高い人々が、上から目線で、「低いところにいるしかない人々」をコントロールするために用いた手段は「律法」の、支配者にとって都合のいい解釈の押しつけ、「執行」でした。

“悪しき者の計略に歩まず、罪人の道に立たず、嘲る者の座に座らぬ者は、幸いなり”
まず「悪しき者の計略」を見抜く力が必要です。それを周囲の人々にわかりやすい比喩表現で、多くの人々にやさしい言葉で描いてみせる。そして、人間の世界の「高いところ」に君臨する“彼ら”をとても激しく糾弾しているイエスがそこにいます。

○先週の出来事(気になるニュース)
高齢出産となる芸能人クリステルさんと小泉進次郎議員の結婚発表。有名有望な政治家の子種をゲットしたクリステルさんに芸能人票を一票。がマスコミが小泉進次郎議員の実母と彼の弟三男について、何を忖度したのか、何も聞かないことが不気味。
進一郎氏ご本人が「いろいろ家族問題がありましたから」と言っているのに何も突っ込もうとしない。ゴシップ命のマスコミ失格だろう。

190804東淀川教会礼拝 イザヤ28章 マルコ7章 宣教題「自分だけを清めたい人々」牧仕・金田恆孝 

旧約聖書 イザヤ書29:9-15節
あなたがたは知覚を失って気が遠くなれ、目がくらんで盲となれ。あなたがたは酔っていよ、しかし酒のゆえではない、よろめけ、しかし濃き酒のゆえではない。主が深い眠りの霊をあなたがたの上にそそぎ、あなたがたの目である預言者を閉じこめ、あなたがたの頭である先見者をおおわれたからである。それゆえ、このすべての幻は、あなたがたには封じた書物の言葉のようになり、人々はこれを読むことのできる者にわたして、「これを読んでください」と言えば、「これは封じてあるから読むことができない」と彼は言う。またその書物を読むことのできない者にわたして、「これを読んでください」と言えば、「読むことはできない」と彼は言う。 主は言われた、「この民は口をもってわたしに近づき、くちびるをもってわたしを敬うけれども、その心はわたしから遠く離れ、彼らのわたしをかしこみ恐れるのは、そらで覚えた人の戒めによるのである。それゆえ、見よ、わたしはこの民に、再び驚くべきわざを行う、それは不思議な驚くべきわざである。彼らのうちの賢い人の知恵は滅び、さとい人の知識は隠される」。わざわいなるかな、おのが計りごとを主に深く隠す者。彼らは暗い中でわざを行い、「だれがわれわれを見るか、だれがわれわれのことを知るか」と言う。

新約聖書 マルコ福音書第7章1-7節
さて、パリサイ人と、ある律法学者たちとが、エルサレムからきて、イエスのもとに集まった。そして弟子たちのうちに、不浄な手、すなわち洗わない手で、パンを食べている者があるのを見た。もともと、パリサイ人をはじめユダヤ人はみな、昔の人の言伝えをかたく守って、念入りに手を洗ってからでないと、食事をしない。また市場から帰ったときには、身を清めてからでないと、食事をせず、なおそのほかにも、杯、鉢、銅器を洗うことなど、昔から受けついでかたく守っている事が、たくさんあった。そこで、パリサイ人と律法学者たちとは、イエスに尋ねた、「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言伝えに従って歩まないで、不浄な手でパンを食べるのですか」。イエスは言われた、「イザヤは、あなたがた偽善者について、こう書いているが、それは適切な預言である、『この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間のいましめを教として教え、無意味にわたしを拝んでいる』。

 聖書から聴く 主題「自分だけを清めたい人々」
イザヤ書第29章
29:1ああ、アリエルよ、アリエルよ、ダビデが営をかまえた町よ、年に年を加え、祭をめぐりこさせよ。(ああ、エルサレムよ、エルサレムよ)(ダビデがかつて、陣営を構えた町よ)※アリエル、ヘブライ語で「神のライオン」を意味することば。旧約聖書にあるエルサレムの別称でもある。※ダビデが陣を置いた都エルサレムを暗示するものとしてその名が登場する。※冠をかぶったライオンがいる。
滅びようとしていることも知らず、神を利用して.、自分たちはこの世で最強のライオンであると思い込んでる傲慢になってしまったこの国を嘆いている。
神が沈黙しているのではない。神を沈黙させているのがこの国である。「鈍くなれ。盲目になれ。酒に酔え。神が先見者、預言者たちを眠らせ、黙らせる」

国家的な祭・オリンピックに酔わせ、お笑い芸人の活動を反社会的行為として大騒ぎし、緊張関係にある最も近い兄弟の国へのバッシングを続けている。イザヤ29章はそのまま現代日本に見事に当てはまっている。

この「ゴーマン君」は自分たちこそが正義であり、倫理であり、汚れから最も遠い人間として「手を洗い続ける」。食事前に手を洗わないイエスや仲間たちを汚れた人々とあげつらう。自分たちの行いが神に喜ばれることか、神を悲しませ、あるいは怒らせているかを思わなくなっている者たちほど、自分たちは神の義にもっとも近い者、社会的存在としてふるまっている。現代の「地の民・アムハーレツ」も抵抗の声をあげられずにいる。かつて「神々」に祈っていた人々も、先細りの教団勢力、セクトを維持拡大することに熱心で、自ら祈ることをやめている。

祭どころではない、地の民の悲惨な現実、正常な国家の部品になれる者・オーディナリな人と欠陥のある部品や不良品がますます整然とふるいにかけられている、この末期的症状を末期的症状とも感じていない、権力と財力と「お墨付き」に守られていると信じて疑わないアリエルはどう滅んでいくのだろうか。

○先週の出来事(気になるニュース)
自分たちが神に代わる正義であり、この国が正義の国であることを示すためにと、また死刑が執行された。強盗殺人罪などに問われた庄子幸一死刑囚(64)と、福岡県で女性3人を殺害して金品を奪ったなどとして強盗殺人罪などに問われた鈴木泰徳死刑囚(50)。この安倍政権下で三八名が死刑(十字架刑)。これも末期症状のおおきなしるしであろう。

190728 東淀川教会主日礼拝 詩編68 マルコ6章 宣教題「パンと医師を求める人々」牧仕・金田恆孝

旧約聖書 詩篇68篇2-9節
68:2 神は立ち上がり、敵を散らされる。神を憎む者は
御前から逃げ去る。
68:3 煙は必ず吹き払われ、蝋は火の前に溶ける。神に
逆らう者は必ず御前に滅び去る。
68:4 神に従う人は誇らかに喜び祝い/
御前に喜び祝って楽しむ。
68:5 神に向かって歌え、御名をほめ歌え。雲を駆って
進む方に道を備えよ。その名を主と呼ぶ方の御前に喜び勇め。
68:6 神は聖なる宮にいます。みなしごの父となり/
やもめの訴えを取り上げてくださる。
68:7 神は孤独な人に身を寄せる家を与え/捕われ人を
導き出して清い所に住ませてくださる。
背く者は焼けつく地に住まねばならない。
68:8 神よ、あなたが民を導き出し/荒れ果てた地を
行進されたとき
68:9 地は震え、天は雨を滴らせた/シナイにいます神の
御前に/神、イスラエルの神の御前に。

新約聖書 マルコ福音書6章53-56節
6:53彼らは海を渡り、ゲネサレの地に着いて舟をつないだ。

6:54そして舟からあがると、人々はすぐイエスと知って、

6:55その地方をあまねく駆けめぐり、イエスがおられると聞けば、どこへでも病人を床にのせて運びはじめた。

6:56そして、村でも町でも部落でも、イエスがはいって行かれる所では、病人たちをその広場におき、せめてその上着のふさにでも、さわらせてやっていただきたいと、お願いした。そしてさわった者は皆いやされた。

聖書から聴く 主題「パンと医者を求める人々」

ガリラヤ湖東岸から西岸にイエスたちが帰ってきたニュースは町々村々隅々に駆け巡った。イエスたちがどう動くのか、どこを訪ねるのかの情報を集め、要所要所の広場などに、治療してほしい病人たちを戸板に乗せて並べ始めた。
しかもイエスとともに働く仲間たちを頼ってはいなかった。ただイエスのみに触りたくて、触ってほしくて、病人や怪我人たちを並べていった。
ヨハネによる福音書の6章26節を並行して読めば、人々はパンと魚の奇跡を知って、“尽きぬパン”それ自体を今、求めているのであり、戸板で運ばれ、屋根に穴を開けて吊り下ろした病人が癒やされた奇跡を通して、何でも治してくれるスーパードクター・イエスを求めているのであり、だから、病人たちを戸板に載せて広場に並べ、イエスに“丸投げ”し続けた。
イエスとともに行動していた仲間たちも、イエスに依存し、イエスに責任を委ねながら、同労者としてではなく、弟子という立場に甘んじて、人々がイエスのみに依存して、尽きぬパン、スーパードクターの働きを求めるがままにし、それぞれが直接立ち上がられた神に応答し、自己責任で働くことをなかなかしなかったと思われます。
それは現代のキリスト教徒たちも同じなのでしょう。イエスの取り次ぎによって、自分自身が神の前に立ち、祈り(対話と応答)を続けるのではなく、イエスにすべてを丸投げして、イエスに更なる十字架を更に負わせ、自己中心な依存だけを繰り返しているのが「正しい信仰」だと誇っているわたしたちの姿があると思われる。

○先週の出来事(気になるニュース)
吉本新喜劇の「反社会的勢力」云々から仕事と金をもらったという話。そもそもお笑い芸人自体が反社会的存在であり、「反社会的お笑い芸人を目指した段階で、自己責任、自分がひとり社長であり、会社組織の一員、サラリーマンではない。
このドタバタをどう喜劇材料として全体をまとめるかどうかに吉本の命運がかかっているのだろう。

 

190721東淀川教会礼拝 詩編40 マルコ6 宣教要旨「わたしにぶらさがるな」牧仕・金田恆孝

旧約聖書 詩篇40篇1-7節
40:1 「慰めよ。慰めよ。わたしの民を。」とあなたがたの神は仰せられる。
40:2 「エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その労苦は終わり、その咎は償われた。そのすべての罪に引き替え、二倍のものを主の手から受けたと。」
40:3 荒野に呼ばわる者の声がする。「主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。40:4 すべての谷は埋め立てられ、すべての山や丘は低くなる。盛り上がった地は平地に、険しい地は平野となる。
40:5 このようにして、主の栄光が現わされると、すべての者が共にこれを見る。主の口が語られたからだ。」
40:6 「呼ばわれ。」と言う者の声がする。私は、「何と呼ばわりましょう。」と答えた。「すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。40:7 主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。40:8 草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」

新約聖書 マルコ福音書6章45:-48
6:45 それからすぐ、イエスは自分で群衆を解散させておられる間に、しいて弟子たちを舟に乗り込ませ、向こう岸のベツサイダへ先におやりになった。
6:46 そして群衆に別れてから、祈るために山へ退かれた。
6:47 夕方になったとき、舟は海のまん中に出ており、イエスだけが陸地におられた。
6:48 ところが逆風が吹いていたために、弟子たちがこぎ悩んでいるのを
ごらんになって、夜明けの四時ごろ、海の上を歩いて彼らに近づき、そのそばを通り過ぎようとされた。
6:49 彼らはイエスが海の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。
6:50 みんなの者がそれを見て、おじ恐れたからである。しかし、イエスはすぐ彼らに声をかけ、「しっかりするのだ。わたしである。恐れることはない」と言われた。
6:51 そして、彼らの舟に乗り込まれると、風はやんだ。彼らは心の中で、非常に驚いた。

聖書から聴く 主題「わたしにぶらさがるな」

イエスはご自身を中心とした教団を、ユダヤ教の宗派を作ろうとしていたのでしょうか。信仰の教祖、リーダーとして信徒を増やそうとしていたでしょうか。イエスは「キリスト教」を広めたのでしょうか。ともにいたのは福音を伝え働く仲間だったのでしょうか。それとも「弟子」でしょうか。
その後、イエスをメシア、救い主とする信仰共同体・教団が形成され、キリスト教が様々なかたちで広がっていきましたが、十字架を境としてそこには「歴史的事実」と「信仰としての心的事実」の大きな断絶があります。
ガリラヤ湖北東岸ちかくの「地の民」が多いベトサイダで「五つのパンと二匹の魚」から始まる大規模な食事会があり、その後、疲れ切っていただろう仲間たちを先にガリラヤ湖北西岸のカファルナウムに先に帰らせ、イエスにしがみつこうとする、癒やされようとする人々の世話をひとりでし、解散させて、山の中でひとりで礼拝を行われ、後からイエスもひとりで西岸に向かっていた箇所です。
彼らが乗っていた舟が逆風で進めなくなっていた、とは、彼らがあまりにイエスに依存し、指示待ちで、それぞれが世と向き合う、自立した、それぞれの姿勢を持ち得ていなかったことを表していると思われます。
イエスが水の中か岸辺か、一人で先に進んでいった。彼らが逆風か、何らかの理由で前に進めなくなっていたのを横目に、通り過ぎようとされた。この記録はマルコ福音書のみですが、彼らとイエスとの関係を行間に表現していると思われます。イエスを見て「幽霊だと思い、おじ恐れた」とは、ひたすら主なる神に用いられて働いているイエスと、イエスにぶらさがって盲従しようとしている彼らとの“おおきな隔たり”があったのでしょう。『困っているわたしたちを放っておくのか』とパニック状態だったのでしょう。
親が見えなくなって泣き叫ぶこどもと変わらないのでしょう。
地の民として世の凹みに落とし込められている人々。
「主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。40:4 すべての谷は埋め立てられ、すべての山や丘は低くなる。盛り上がった地は平地に、険しい地は平野となる。」の福音のため働き続けるイエスと、そのイエスにしがみつき、ぶらさがろうとする仲間たち。ヨハネ福音書15章を待つまでもなく、はじめから仲間を「友」と呼んでいたと思われるのです。「わたしにぶらさがってはいけない」とのイエスの声が聞こえるのです。

○先週の出来事(気になるニュース)
韓国の徴用工問題。ねじれにねじれまくっているが、そもそも、徴用された韓国の人々と徴用した日本企業の間の問題。なぜ国が訴えられている企業を飛び越えて「国に売られたケンカ」みたいな反応を示し続けるのか? 訴えられている企業たちがまず歴史的事実を踏まえて応答すべき。国の後ろに隠れて、「戦争だったから仕方なかった」とか、「国が日本企業の悪行もチャラにしてくれたハズ」なんて理屈はチガウのでは? 経済第1の国もまた「主権在企業」の感覚なのだろうか。

190714東淀川教会礼拝 宣教題「主は我を緑の野に伏させ」牧仕 金田恆孝

旧約聖書 詩篇27
主はわが牧者なり われ乏しきことあらじ
主はわれをみどりの野にふさせ
いこいの汀(みぎわ)にともないたもう
主はわが魂を活かし 御名のゆえをもて
我を正しき道にみちびきたもう
たといわれ死のかげの谷を歩むとも わざわいをおそれじ
なんじ 我とともにいませばなり
なんじの笞(しもと) なんじの杖 われをなぐさむ
汝、わが仇(あだ)のまえに わがために宴(えん)をもうけ
わが頭(こうべ)に油をそそぎたもう
わが酒杯(さかずき)はあふるるなり
わが世にあらんかぎりは かならず恵みと憐れみと
我にそいきたらん われはとこしえに主の宮に住まん

新約聖書 マルコ福音書6章37-44節
6-38 And he saith unto them, How many loaves have ye? go and see. And when they knew, they say, Five, and two fishes. 6-39 And he commanded them that all should sit down by companies upon the green grass. 6-40 And they sat down in ranks, by hundreds, and by fifties. 6-41 And he took the five loaves and the two fishes, and looking up to heaven, he blessed, and brake the loaves; and he gave to the disciples to set before them; and the two fishes divided he among them all.6-42 And they all ate, and were filled.6-43 And they took up broken pieces, twelve basketfuls, and also of the fishes. 6-44 And they that ate the loaves were five thousand men.
するとイエスは言われた。「パンは幾つあるか。見てきなさい」。彼らは確かめてきて、「五つあります。それに魚が二ひき」と言った。
そこでイエスは、みんなを組々に分けて、青草の上にすわらせるように命じられた。人々は、あるいは百人ずつ、あるいは五十人ずつ、列をつくってすわった。それから、イエスは五つのパンと二ひきの魚とを手に取り、天を仰いでそれを祝福し、パンをさき、弟子たちにわたして配らせ、また、二ひきの魚もみんなにお分けになった。 みんなの者は食べて満腹した。
そこで、パンくずや魚の残りを集めると、十二のかごにいっぱいになった。パンを食べた者は男五千人であった。

聖書から聴く 主題「主は我を緑の野に伏させ」
マルコ福音書によると、この箇所はイエスや弟子たちが「貧しい人々」を訪れたのではなく、彼らが休もうとしている、さみしい祈りの場、休息の場に、勝手に先回りをして押しかけてきたことになっている。おとなの男だけで5千人とありますから、女こども含め二万人以上の人が集まっていたのでしょう。今日の難民キャンプのようなイメージでしょうか。イエスや仲間達の休憩場所を勝手に襲われたのだから、さっさと追い返していい。ある程度受け入れたとしても夕方になれば、夕食も寝るところも自己責任でバイバイするのが事前だろう。が、イエスは彼らの様子を見てそれをせず、弟子達に「食べ物を与えようではないか」と言う。
男一人が1家族とするなら5千家族。それを100家族か50家族毎に分け、整然と配置させたようです。おそらく、全体から見える小山、或いは大きな岩の上のうえでイエスは五つのパンと二匹の魚を神に捧げる「儀式」を執り行ったと思われます。
神に捧げた5つのパンと二匹の魚が、神からの恵みに変えられ、5千家族のお腹を充分に満たし、殘りをそれぞれが持ち帰ることができるほどたくさん余った、とあります。
「五つのパンと二匹の魚がどう変化したか」とか、「イエスがどんな奇跡を起こしたか」と、つい考えてしまいがちですが、イエスではなく「神が奇跡を起こされた」と解釈する方が自然でしょう。
現在世界には6500万人の難民がおり、これは第二次世界大戦の戦死者数とほぼ同じだといわれます。“悲惨な戦争”は今も続いていることになります。
「二匹の魚と五つのパン」は自然を通して与えられる恵みとしての食物と、天然の恵みを人間の手で工夫・加工したものを現していると考えられます。
排他的な国家作り、国境の壁づくりが“悲惨な戦争”を持続させていることを各国が気づき、悔い改め、経済戦争から撤退し、神からの恵みをわずかずつでも神さまに委ねていけば、「悔い改めたニネベの町」になることができると思います。
これだけ過疎の村や過疎の島がたくさんあるのに、世界の難民を受け入れ、自活の援助をすることがこの国でなぜできないのでしょう。国境の壁をつくろうとしているどこかの国と同じなのでしょうか。

○先週の出来事(気になるニュース)
所沢市の中学校で同級の友人を友人宅で殺害した事件。同じ中学校で一昨年は電車への飛び込み自殺、去年は屋上からの飛び降り自殺と続いていたとのこと。
2004年6月1日午後、長崎県佐世保市の市立大久保小学校で、6年生の女子児童が同級生の女児にカッターナイフで切り付けられて死亡した事件。2014年、高校1年生の女子生徒(15)が、同学年の友人(15)の後頭部を鈍器のようなもので多数回殴り首を絞めて殺害し、首と手を切り落とし、腹を裂き解体した事件。所沢市と佐世保市、何か共通の闇がありそうな気がする。いや、共通の闇はもっともっと広範囲に染み出していると思う。

 

190707 東淀川教会礼拝宣教題「「人を避け風に吹かれる場所」

東淀川教会礼拝宣教題「「人を避け風に吹かれる場所」宣教要旨 牧仕金田恆孝

旧約聖書 ヨナ書 4章3-11節
3 それで主よ、どうぞ今わたしの命をとってください。わたしにとっては、生きるよりも死ぬ方がましだからです」。
4 主は言われた「あなたの怒るのは、よいことであろうか」。
5 そこでヨナは町から出て、町の東の方に座し、そこに自分のために一つの小屋を造り、町のなりゆきを見きわめようと、その下の日陰にすわっていた。
6 時に主なる神は、ヨナを暑さの苦痛から救うために、とうごまを備えて、それを育て、ヨナの頭の上に日陰を設けた。ヨナはこのとうごまを非常に喜んだ。
7 ところが神は翌日の夜明けに虫を備えて、そのとうごまをかませられたので、それは枯れた。
8 やがて太陽が出たとき、神が暑い東風を備え、また太陽がヨナの頭を照したので、ヨナは弱りはて、死ぬことを願って言った、「生きるよりも死ぬ方がわたしにはましだ」。
9 しかし神はヨナに言われた、「とうごまのためにあなたの怒るのはよくない」。ヨナは言った、「わたしは怒りのあまり狂い死にそうです」。
10 主は言われた、「あなたは労せず、育てず、一夜に生じて、一夜に滅びたこのとうごまをさえ、惜しんでいる。
11 ましてわたしは十二万あまりの、右左をわきまえない人々と、あまたの家畜とのいるこの大きな町ニネベを、惜しまないでいられようか」。

新約聖書 マルコ福音書6章30-31節
6:30さて、使徒たちはイエスのもとに集まってきて、自分たちがしたことや教えたことを、みな報告した。
6:31するとイエスは彼らに言われた、「さあ、あなたがたは、人を避けて寂しい所へ行って、しばらく休むがよい」。それは、出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。
6:32そこで彼らは人を避け、舟に乗って寂しい所へ行った。
6:33ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見、それと気づいて、方々の町々からそこへ、一せいに駆けつけ、彼らより先に着いた。

 聖書から聴く 主題「人を避け風に吹かれる場所」

私たちが夜寝るのは、安全な場所で心と体を休めて安らぎの中で眠りたいのであり、空腹時に食事をすると同じように、元気を回復するために必要な、大切かつ不可欠な、生理的な習慣です。普段の心身の疲れはこれで回復できるのですが、たましい(霊、魂)の疲れや混乱や痛みは、寝て回復するものではないようです。

自分自身の痛みのみならず、愛すべき隣人の重荷を自分の
重荷であるがごとく感じ、その先の不安も共有してしまうとき、どこかで、自分の重荷・持ち物と、隣人の持ち物の分類をしつつ、神さまとの語り合いの中で「主なる神による取りなしと癒やし」を求めることが欠かせません。

「人々から離れた、寂しいところ」が実はだれにとっても必要なのだと思うのです。
例えば千メートル以下の山の中で、小さな川の傍で、瞑想したり、お祈りしたり、鮮しい風に吹かれることがとっても重要なのだと思います。

イエスもご自身をリセットするとき、人々から離れて寂しい場所で安息しながら神に祈っていたようです。
そこで行われる神さまとの対話、祈りは、実はなりふり構わない、誰にも気をつかわなくていい場所を確保するのが現代ではとても難しいのかもしれません。
山に抱かれた、小さな川のある場所で、 或いは海に向かう小さな入り江で、或いは人目につかないビルの屋上で、神さまとの対話ができたらどんなにいいだろうと思います。

神さまから逃れようとして神さまに捕まり、悔い改めて神さまに從ったのに、神さまから裏切られ、とうごまの木の下で安らいでいたのにとうごまの葉まで枯れてしまって、“もう死んだほうがましだ!”と神に叫んだとき、不思議な神の声が聞こえてきました。 私たちも一緒に耳を傾けましょう。

○先週の出来事(気になるニュース)
選挙が近づいているのに、“選挙って、なんてくだらない、うっとおしいことなんだ!”と感じて投票に行く気がまったく起きないのです。ギリシャ時代の町単位の政治みたいな。100人の町があって、100人が出し合う税金の使い道を100人で議論し合い、その使い方をどの政治家に任せるのか等を議論し、政治にも直接関わっていくことができたら、どんなに選挙は大切なものになるだろうとは思うのですが、現代の選挙はつまらないセクト争いのみ。希望など持てそうもない。まあ、セクト争いでいちばん元気になるのも人間なのだから仕方ないじゃないか…なんて声が聞こえそう。

190630 東淀川教会 礼拝宣教題「静かで壮絶な物語」

20190630 東淀川教会礼拝 宣教要旨 牧仕 金田恆孝
旧約聖書 創世記38章6-11
6 ユダは長子エルのために、名をタマルという妻を迎えた。
7 しかしユダの長子エルは主の前に悪い者であったので、主は彼を殺された。
8 そこでユダはオナンに言った、「兄の妻の所にはいって、彼女をめとり、兄に子供を得させなさい」。
9 しかしオナンはその子が自分のものとならないのを知っていたので、兄の妻の所にはいった時、兄に子を得させないために地に洩らした。
10 彼のした事は主の前に悪かったので、主は彼をも殺された。
11 そこでユダはその子の妻タマルに言った、「わたしの子シラが成人するまで、寡婦のままで、あなたの父の家にいなさい」。彼は、シラもまた兄弟たちのように死ぬかもしれないと、思ったからである。それでタマルは行って父の家におった。

新約聖書 マルコによる福音書6章17-28節
このヘロデは、自分の兄弟ピリポの妻ヘロデヤをめとったが、そのことで、人をつかわし、ヨハネを捕えて獄につないだ。それは、ヨハネがヘロデに、「兄弟の妻をめとるのは、よろしくない」と言ったからである。
そこで、ヘロデヤはヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた。それはヘロデが、ヨハネは正しくて聖なる人であることを知って、彼を恐れ、彼に保護を加え、またその教を聞いて非常に悩みながらも、なお喜んで聞いていたからである。ところが、よい機会がきた。ヘロデは自分の誕生日の祝に、高官や将校やガリラヤの重立った人たちを招いて宴会を催したが、そこへ、このヘロデヤの娘がはいってきて舞をまい、ヘロデをはじめ列座の人たちを喜ばせた。そこで王はこの少女に「ほしいものはなんでも言いなさい。あなたにあげるから」と言い、さらに「ほしければ、この国の半分でもあげよう」と誓って言った。そこで少女は座をはずして、母に「何をお願いしましょうか」と尋ねると、母は「バプテスマのヨハネの首を」と答えた。するとすぐ、少女は急いで王のところに行って願った、「今すぐに、バプテスマのヨハネの首を盆にのせて、それをいただきとうございます」。王は非常に困ったが、いったん誓ったのと、また列座の人たちの手前、少女の願いを退けることを好まなかった。
そこで、王はすぐに衛兵をつかわし、ヨハネの首を持って来るように命じた。衛兵は出て行き、獄中でヨハネの首を切り、盆にのせて持ってきて少女に与え、少女はそれを母にわたした。

聖書から聴く 主題「静かで壮絶な物語」
聖書を開くとき、神の聖なる御わざを知ろうとして、「聖なる書」から勧善懲悪的な教訓を引き出そうとしたり、イエスの血統に意味づけしたがったりします。が、バイブルとは元々「テキスト」記録されたもの、という意味で、矛盾に満ちた人間達の、矛盾そのままの姿が描かれています。
イエスの系図には異邦人の女性達が登場します。タマルもそのひとりです。長男の嫁だったのですが長男の死後次男の嫁に指定されますが、それを拒否した次男が死に、三男の嫁になるはずでしたが、不吉な女と思われたのか、実家に返されてしまいます。居場所を失ったタマルは遊女に化けて義父ユダに近づき子種をゲットして、パレスとザラが生まれ、神さまからの祝福を受けます。

ヘロデ・アンティパスはナバテア王アレタスの娘と政略結婚していた。へロディアは夫の異母兄弟ヘロデ王に近づき、ヘロデの妻と自分の夫を追い出し、王妃の座につきました。このことでバプテスマのヨハネはヘロデ王を公然と律法違反者として告発していました。目障りなヨハネを牢屋に入れましたが、民衆の絶大な人気ゆえ、処置に困っていました。
ヘロデ王の誕生祝いパーティで招いたお客達の前でへロディアの娘、サロメが妖艶な踊りを披露し、招かれた主賓たちから拍手喝采を浴びたため、客の前で、サロメが望むものはなんでも与えようと約束してしまいます。母へロディアにとってもっとも邪魔な存在だった「バプテスマのヨハネの首をいただきたい」と娘に言わせたのです。

ギュスターヴ・モローの、妖艶な姿のサロメと、首だけになって輝いて宙に浮いているヨハネ、そのヨハネを指さし、死を宣告しているようなサロメの姿は強烈な印象を放射しています。多くの画家達にとっても、このへロディア・サロメによるヨハネ殺害のテーマは繰り返し作品化され続けました。
聖書のこのダイナミズム、操り操られる人間模様を直視しながら、聖書と向かい合いたい。
イエスたちによる、仲間たちとともに始めた、この世の最後尾に置かれた人々を支えよう、という「最後尾運動」が始まった頃のことだと思われます。ヨハネ虐殺の報はイエスの仲間だけではなく、ヨハネを慕っていた民衆にとってあまりに大きな痛手だったと思うのです。

○先週の出来事(気になるニュース)
草津温泉の「湯長」が訪れた湯治客の問診を行っていることについて、話題沸騰している中で、湯長の問診を「宗教みたい」と批判している一部報道があった。「宗教」とは「怪しい」と同義語らしい。人間の怪しさに比べたら「宗教」ごときの怪しさなんてたいしたことはないのだが。それにしても、古から伝えられ継承されてきた「医者ごときにはできない」癒やしのわざが「医療幻想」によって踏みにじられていく…そう感じているのは一握りの少数者だけだろうか。