20180311宣教題「偶像崇拝とは何か」要旨

旧約聖書 イザヤ書 44章10-17節
44-10  だれが神を造り、またなんの役にも立たない偶像を鋳たか。
44-11見よ、その仲間は皆恥を受ける。その細工人らは人間にすぎない。彼らが皆集まって立つとき、恐れて共に恥じる。
44-12 鉄の細工人はこれを造るのに炭の火をもって細工し、鎚をもってこれを造り、強い腕をもってこれを鍛える。彼が飢えれば力は衰え、水を飲まなければ疲れはてる。
44-13 木の細工人は線を引き、鉛筆でえがき、かんなで削り、コンパスでえがき、それを人の美しい姿にしたがって人の形に造り、家の中に安置する。
44-14 彼は香柏を切り倒し、あるいはかしの木、あるいはかしわの木を選んで、それを林の木の中で強く育てる。あるいは香柏を植え、雨にそれを育てさせる。
44-15  こうして人はその一部をとって、たきぎとし、これをもって身を暖め、またこれを燃やしてパンを焼き、また他の一部を神に造って拝み、刻んだ像に造ってその前にひれ伏す。
44-16 その半ばは火に燃やし、その半ばで肉を煮て食べ、あるいは肉をあぶって食べ飽き、また身を暖めて言う、「ああ、暖まった、熱くなった」と。
44-17  そしてその余りをもって神を造って偶像とし、その前にひれ伏して拝み、これに祈って、「あなたはわが神だ、わたしを救え」と言う。

新約聖書 ルカ福音書21:5-6
21-5 ある人々が、見事な石と奉納物とで宮が飾られていることを話していたので、イエスは言われた、
21-6 「あなたがたはこれらのものをながめているが、その石一つでもくずされずに、他の石の上に残ることもなくなる日が、来るであろう」。

宣教要旨(偶像崇拝とは何か)
そもそも十戒から始まるこの「偶像崇拝禁止」問題ほど、分かっているようで分からない戒めであり、分かったつもりになりたがる戒めであった。歴史の中でも様々な宗派やセクトの争い材料として、その時々に勝手に利用され、解釈され、争点の基準として、反対側を非難する基準として持ち出される「あいまい」な概念であった。移動の民であり、領土に守られた国家を持つ以前のモーセの時代に十戒が生れた背景から考えれば、固定した「神殿」を造ること自体が実は「偶像崇拝」である。
偶像崇拝の概念を表現しているひとつが第二イザヤ。
「だれが神を造り、またなんの役にも立たない偶像を鋳たか。」
「こうして人はその一部をとって、たきぎとし、これをもって身を暖め、またこれを燃やしてパンを焼き、また他の一部を神に造って拝み、刻んだ像に造ってその前にひれ伏す。」「その半ばは火に燃やし、その半ばで肉を煮て食べ、あるいは肉をあぶって食べ飽き、また身を暖めて言う、「ああ、暖まった、熱くなった」と。」「そしてその余りをもって神を造って偶像とし、その前にひれ伏して拝み、これに祈って、「あなたはわが神だ、わたしを救え」と言う。」イザヤ書44章10~17節
ここに描かれているのは、強い側の人間の勝手が神の居場所を造り、礼拝対象を造り、自分たちこそを聖なる者、正しい者とし、律法を増やして守らせ、神殿への捧げ物を増やし、自分たちはそこで暖をとり、奉げた生け贄を神からいただいたものとして飲み食いし、神に自分たちの安全を守らせ、祈る代わりに更なる豊かさを保証させようとする傲慢な民たちの姿だ。イエスが批判した神殿批判が偶像批判そのものである。
「聖画やイエス像、マリア像や聖人の像が偶像か偶像ではないか」などの論争は、実は礼拝形式の異なる相手を攻撃するための方便に過ぎない。

自分たちの神殿・教会の伝統や儀式を絶対化したり、自分たちに受け入れられない礼拝を異端として攻撃したりの愚かさは今日も繰り返されている。自分たちこそ偶像崇拝を排除した、聖書のみ、信仰のみ、神の恵みのみの純粋な宗教集団だと思いたがるところにすでに神中心ではない、人間中心の「偶像崇拝」がある。

○先週の出来事
あったことをなかったことにできるとたかをくくっていた為政者の自信が崩れ始めた「森友問題」。死者もでたのに「死ぬほどのことではない」とのたまう政治学者。崩れ始めるととたんに元気づくマスコミたちのありようも可笑しい。どこもかしこもどこか物見遊山。広告依存マスコミの限界か。