20221225 クリスマス礼拝 宣教要旨「顔を上げよう」イザヤ書60章 ルカ福音書2章 担当 金田恆孝

本日の聖書箇所(聖書協会共同訳)

イザヤ書60章 1〜2節
起きよ、光を放て。あなたの光が来て 主の栄光があなたの上に昇ったのだから。

見よ、闇が地を覆い 密雲が諸国の民を包む。しかし、あなたの上には主が輝き出で 主の栄光があなたの上に現れる。

ルカによる福音書2章 8〜12節
さて、その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。
すると、主の天使が現れ、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
天使は言った。「恐れるな。私は、すべての民に与えられる大きな喜びを告げる。
今日ダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった。
この方こそ主メシアである。
あなたがたは、産着にくるまって飼い葉桶に寝ている乳飲み子を見つける。
これがあなたがたへのしるしである。」

ルカによる福音書2章 16〜20節
そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝ている乳飲み子を探し当てた。
その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使から告げられたことを
人々に知らせた。
聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。
しかし、マリアはこれらのことをすべて心に留めて、思い巡らしていた。
羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の告げたとおりだったので、神を崇め、
賛美しながら帰って行った。

Our Pray  われらの祈り(東淀川教会の祈り)


時の始まりであり 終わりであり 永遠の主なる神さま 
全ての造り主 唯一onlyであり 全てallである神さま 
すべてのいのちを導き 小さく声にならない声を聴いてくださる神さま   
『聖なる 聖なる 聖なる主よ』✕3回 (Holy) 

聖母マリアを通し我らに与えられた とりなしの主キリスト・イエス 
その十字架のもとに集うことができたことを 感謝いたします                       『主の恩寵(おんちょう)に感謝』 ✕3回 (Grace)
 
神与え 神召し給う魂を軽んじ 肉体の生命のみを重んじ  
世の声に翻弄され 主の声を聞かず 
過ちを繰り返す 日々であることを 告白致します
『我が罪を許し給え』 ✕3回 (Forgive My sins)

主の求める捧げ物は 過ちと罪を認め悔いる心  
主は帰ってきた放蕩息子を受け入れ  神の御国を思い出した盗賊を捨てられず 
悔いる者を友とし  汚れ疲れた心を洗い 新しい霊を注いでくださいます     
主の赦しと憐れみ無しに 我が道はありません     
『主よ憐れみ給え キリストよ憐れみ給え』✕3回 (Mercy)

いと高きところに栄光神にあれ 地にある神の民に平和あれ  
我らの主 天にいます主 万物創造の神よ  
神のひとり子 キリスト・イエスよ  
神の御ちからであり 神の息である聖霊よ 
主に感謝し 主を讃え 主のすべてを賛美いたします       
『グローリア グローリア グローリア』✕3回 (Gloria) 

宣教の要旨『顔を上げよう』
 イザヤの唇を通して主が語られたのは 「闇の世に主なる神は立ち上がられ 世のしんがりに立たれる」というメッセージでした。「命の主なる神にいのちを吹き込まれたあなたよ 失意の中でうずくまり 顔を下に向けるのではなく 起きて(世で唯一の あなたの)顔をあげ 光を受けなさい あなたの光の上に 主の光が輝くのだから」というメッセージです。

2022年のクリスマスのとき 私たちの前には、見たくもない現実が広がっています。人間の時間の刻み・歴史を飛び越えて、イエスのときと同じ出来事・社会的病理が広がっています。生まれた土地を追われた世界中の難民の数は増え続け、ウィルスによる伝染病は世界規模で広がり、人の免疫力は低下し、あるいは暴走し、子どもの出生率は下がり続け、貨幣を豊かに利用できる者と、利用できない貧しい者との格差は広がり、社会的ハンディを負わない強者と、老・障・病などのハンディを負う弱者の格差は広がり、助け合うための社会運動は弾圧され、個人的・セクト的・国家的テロ、戦争が続いています。神が何億年もかけて地中に閉じ込めた危険なエネルギーを人間は掘り起こし、戦争に用い、原子炉は事故を起こし放射能の被害と危険を体験しながら、エネルギー政策を理由に更に使い続ける方向に舵を切っています。まさに密雲、黒雲が空を覆っている世の姿です。

 全ての造り主である神はこの闇を放置せず立ち上がられる、と神はイザヤの口を通して告げた。その声は、希望を失いかけている貧しい労働者、夜中に働く羊飼いの心に、天使の声が響き告げられた、とあります。暗闇の中のローソクの明かりのように、夜空に輝く星たちのように、確かなメッセージが響き渡り、羊飼いたちはそれを確信し、ベツレヘムに出かけ、人が眠る場所ではない馬屋の、飼い葉桶に眠る幼子イエスに出会い、神が立ち上がられたことの確信を得て希望に満たされたのです。 マリアの「全てを心に留め思い巡らしていた」とは、ヘロデ王による幼児惨殺のニュースもありましたが、主なる神に用いられる幼児の負うことになる重荷、行末、十字架への予感すら感じていたのではないでしょうか。

 全ての主なる神が、世のしんがりに立ち上がってくださった。イエスがしんがりに誕生してくださった。それは「決して失望してはならない イエスがあなたとともにいてくださる 生ける神を信じなさい」という私たちへのメッセージでもあります。

 主イエスがこの世に誕生してくださったことを祝うこのクリスマスに、神を讃美し、主イエスの導きを、今、この時に、更に求めたい。新しい年に向かって顔を上げましょう。メリークリスマス!

20221218 宣教要旨「棄民に向かうイエス」マルコ福音書5章1-20節 担当 金田恆孝

本日の聖書箇所 マルコによる福音書5章 1−20節

一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。
イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊に取りつかれた人が墓場から出て来て、イエスに会った。
この人は墓場を住みかとしており、もはや誰も、鎖を用いてさえつなぎ止めておくことはできなかった。
度々足枷や鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり足枷を砕くので、誰も彼を押さえつけることができなかったのである。
彼は夜も昼も墓場や山で叫び続け、石で自分の体を傷つけていた。
イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、
「いと高き神の子イエス、構わないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい」と大声で叫んだ。
イエスが、「汚れた霊、この人から出て行け」と言われたからである。
イエスが、「名は何と言うのか」とお尋ねになると、「名はレギオン。我々は大勢だから」と答えた。
そして、自分たちをこの地方から追い出さないようにと、しきりに願った。
ところで、その辺りの山に豚の大群が飼ってあった。
汚れた霊どもはイエスに、「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」と願った。
イエスがお許しになったので、汚れた霊どもは出て、豚の中に入った。すると、二千匹ほどの豚の群れは、崖を下って湖になだれ込み、湖の中で溺れ死んだ。
豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。人々は何が起こったのかと見に来た。
そして、イエスのところに来ると、レギオンに取りつかれていた人が服を着、正気になって座っているのを見て、恐ろしくなった。
成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれた人に起こったことや豚のことを人々に語って聞かせた。
そこで、人々はイエスにその地方から出て行ってもらいたいと願い始めた。
イエスが舟に乗ろうとされると、悪霊に取りつかれていた人が、お供をしたいと願った。
しかし、イエスはそれを許さないで、こう言われた。「自分の家族のもとに帰って、主があなたにしてくださったこと、また、あなたを憐れんでくださったことを、ことごとく知らせなさい。」
そこで、彼は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことを、ことごとくデカポリス地方に言い広め始めた。人々は皆驚いた。

 

宣教の要旨「棄民に向かうイエス」

 『(神がしんがりに立たれる。我らも)向こう岸へ渡ろう』と、イエスはガリラヤ湖の東、ゲラサ(ケルサ・ケルゲサ)に仲間とともに向かった。そこはアレクサンドロス大王の死後、部下によって建てられたデカポリス十の町の一つ。横穴式墓地の残る、崖が聳り立つ棄民収容の場所らしい。革手錠、足枷で自由を奪われ、死ねば墓に葬られるだけの“棄民の地”だった。

 大声でわめき暴れている男は、おそらく解離性多重人格(多くの人格が統合されずに敵対しつつ共存している)なのだろう。イエスは「名は何と言う?」と、固有の、一つの名を問われた。返事は、だからレギオン(おおぜい)なのでしょう。

 イエスたちに助けや救いを求める“こころ”や、怒りや悲しむ“こころ”や、死を願う“こころ”などが溶け合うことなくぶつかって発熱しています。

 心理療法の中に“一喝療法”があります。噴出するマグマのように暴れる心の中心に向かって大声で、通る声と言葉で一喝するのです。助けを求めている“こころ”もあるからこそ通じ届く「声」なのです。大勢の群衆に向かって舟の上から声を届けることのできる大声をイエスは持っていました。

「レギオン」にはもう一つの意味がありました。古代ローマ帝国軍団の大部隊の名称。騎馬兵300人を含む5千人以上の兵士団。イエス誕生後のAD6年。ローマ帝国への納税を拒否したガリラヤのユダを中心とした反乱軍が蜂起し、鎮圧され、殺された人々がガリラヤ街道沿いに2000本の十字架に見せしめで架けられた事件が記録されています。
 “その男から出た「憤怒の穢れた霊」が2000匹の豚に入って溺れ死んだ”とは、この「悲しい蜂起」に散っていった魂たちが重ねられていると思われます。

「この地から追い出さないでくれ」の願いとは、愛する友や家族などのところに帰りたい願いがあるのでしょう。その願いを応援するイエスたちや仲間たちとは異なり、彼らを邪魔者と感じ、あるいは恐れて、帰ってきてほしくない、同じ村や街にいてほしくない、棄てたい人々も(現代も)いるのです。
「そこで、人々はイエスにその地方から出て行ってもらいたいと願い始めた。」
イエスたちの行為は歓迎されず「出ていってくれ」と追われたのです。

 今の時代と何も変わらない「現実」があります。

 

先週の出来事

 裸で暴れて愛知県岡崎署留置場に11月25日から勾留されていた男が革手錠や戒具で百時間以上全身拘束され、後頭部を便器に突っ込んだまま12月4日死亡した事件が起こった。食事や、糖尿病の治療薬も与えられず死亡診断書は脱水症。現代の棄民政策は私たちのすぐ横にあることに改めて身震いする。

20221211 東淀川教会 レビ記11章 マタイ福音書15章10〜13節 Malo mori quam foedari 宣教担当 金田恆孝

本日の聖書箇所

レビ記11章 7節
豚、これはひづめが割れて、完全に分かれているが、反芻しないので、あなたがたには汚れたものである。

レビ記11章 10節
しかし水に群がるものや、水の中に住むすべての生き物のうち、海や川にいても、ひれやうろこのないものは、あなたがたにはすべて忌むべきものである。

レビ記11章20節
羽があって四本足で歩き、群がるものはすべて、あなたがたには忌むべきものである。

マタイによる福音書/ 15章 10−13節
それから、イエスは群衆を呼び寄せて言われた。「聞いて悟りなさい。

口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである。」

その時、弟子たちが近寄って来て、「ファリサイ派の人々がお言葉を聞いて、つまずいたのをご存じですか」と言った。

イエスはお答えになった。「私の天の父がお植えにならなかった草木は、みな根こそぎにされる。

宣教の要旨「食べ物はみ〜んな清いよ」

 戦争に明け暮れ、国を失い、バビロンにて捕囚の民となり、異国の、衣食住すべてに及ぶ多様な宗教観、文化の中で過ごすことになったとき、他国ゆえ衣・住はままならないにせよ、イスラエル人のイスラエル人らしさ(アイデンティティ)を守るために、信仰・言葉だけでなく、食習慣や食べ物のタブーを厳格に守ることで、自分たちの独自性・固有性を確認し、体と心に刻み続けたわけです。それが「ケガレから身を守る」「神に選ばれた民としてのプライドを保つ」ことだと自己規定し続けたわけです。蹄が割れているとか、反芻するとか、鱗があるとかないとか、それ自体に合理的な意味があったわけではないのです。
 エルサレムに戻ることができた後も、衣食住全てにわたってケガレないための様々な規定・律法を守り続けました。その規定を守らないことは、民族としてのプライドを失うことであり、ケガレることだった。ラクダもタヌキもうさぎもイノシシも豚もワシもタカも爬虫類も。羽があって四本足で歩き群がるものとは昆虫を指しているようですが、イナゴは良い、とは、大量発生するイナゴは大事なタンパク源だったと思われます。

 そんな民族的プライド、選民意識を保つ、清らかさを保つための食べ物タブーのきまり、それ自体の「無効」をイエスが宣言してしまったのです。「親である神さまが、子である人々に清めて与えてくださっているのだから、口に入る食べ物は清い!」「○○はケガレている、などと人々に語って教え、守らせているている、あなたがたの口が人々をケガしている!」「食べる前に手を洗うか洗わないかなんて、どうでもいいことだろ!」と言い切っちゃった。聞いていた多くの難民たち、律法に縛られてきた人々にとっては、まさに「革命的な解放宣言」であり、それは口伝えに一気に、まさに「福音」として広まっていったわけです。
 しかも「神さまが植えた、命を吹き込んだんじゃないものは、神さまが根こそぎ取り除かれる」と切り返した、とあります。言い換えれば、親なる神さまが、清めて与えている以外の、ヤバイ食べ物は、神さまが取り除いてくださる、人を守り続けてくださっている、神さまの大きな守りの中にいるんだ!という宣言であり、食べ物タブーは、神さまの守りを軽視しているという批判でもあります。

 更にさらに、“そんな規定を作って人々にも守らせるあなた方は、神さまより偉いのでしょうか!”という切り返しでもあったわけです。おそらくユーモアたっぷりに、楽しく語ったのだと思います。しかしそれは、法を守らせる側の人々、神殿で力を持っていたファリサイ派の人々、律法学者たちに“喧嘩を売った”ことになり、「ファリサイ派の人々はイエスの言葉につまずいた」なんて生やさしいことではなく、イエスは反乱の煽動者であり、国家秩序を揺るがすものであり、イエスたちを決して赦すわけにはいかない!という断絶宣言をしたのです。

Malo mori quam foedari マロ・モリ・クアム・フォエダリ ラテン語で「ケガされるくらいだったら死んだほうがマシ」「不名誉より死を」という有名な音葉があるようですが、この、死よりも恐ろしい「ケガレ」感覚は、とても本質的な、厄介な、処理しきれない、刻印される感覚なのです。「ナンセンス!」などと言葉で切り捨てられないのです。それによって本当に死を選ぶ人もいますし、一生続くトラウマ・心的外傷となって本人が苦しめられ続けることもいっぱいあります。

 イスラム世界でヒジャブ(スカーフ)で顔を隠すことが女性をケガレから守っている、守られていると信じている人々がいるのも確かです。その規定、律法に対して抗議デモを行なった人や、この規定を拒否した人が有罪とされ殺されている今の現実があります。
 他国のこととして笑ってはいられません。この国でも、動物の肉や皮を捌き、人々に食糧として、或いは製品として届ける職業の人々を「ケガレ」として忌み嫌ってきた歴史があります。表面上は“差別用語禁止”とか、“差別禁止運動・教育”が行われても、ケガレという言葉の背景にある、恐怖と防衛意識は根が深いのです。

 昨今のコロナウィルス、変異株の感染や、感染者たちに対しても、「ケガレ感覚」はいとも簡単に蘇ります。神さまに守られているという信頼すら、どっかに飛んでいってしまいます。マスクをしていない人を人類の「敵」とみなす人たちもいます。

 そんな恐怖や防衛反応を笑い飛ばす、もっと大きな神さまからの守りや祝福を取り戻させてくれる、気づかせてくれるイエスの言葉・福音と、その行いを私たちの身近な具体的人間関係の中から蘇らせたいと願います。

先週の出来事

「子どもの声がうるさい」という住民の声で公園廃止が決まった長野市の遊園地。「ケバ立つ心たち」が孤立している。対立する関係の調整・調停を裁判所で試みても、疎外関係の回復に向かうことはないと思われます。やはり、子供たちの遊びの時間や場所を狭めたり制限することは、あってはならないことだと思います。大人たちのこころが激しくケバだってる時代。子どもたちと遊びながら、新たな道を探ることはもはやできないのだろうか。


20221204 宣教要旨「神の女性イメージ」ホセア書6章6節 マタイ福音書12章1−8節 宣教担当 金田恆孝

本日の聖書箇所

ホセア書6章 6節
私が喜ぶのは慈しみであって いけにえではない。神を知ることであって 焼き尽くすいけにえではない。
さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂いたが、癒やし 我々を打たれたが、包んでくださる。

マタイによる福音書12章 1-8節
その頃、ある安息日にイエスは麦畑を通られた。弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めた。
ファリサイ派の人々がこれを見て、イエスに、「御覧なさい。あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている」と言った。
そこで、イエスは言われた。「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。
神の家に入り、祭司のほかには、自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べたではないか。
また、安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならないと、律法にあるのを読んだことがないのか。
言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある。
『私が求めるのは慈しみであって、いけにえではない』とはどういう意味か知っていたら、あなたがたは罪もない人たちをとがめなかったであろう。
人の子は安息日の主なのである。」

宣教要旨 「神の女性イメージ」

(預言者ホセア) 北イスラエル王国の民たちが、経済の豊かさを求めてイスラエルの信仰を捨てようとしていた時(バール信仰で表現されている)、神殿娼婦で子ども三人いた女ゴメルを守るために妻として受け入れ、ゴメルから裏切られた後も子どもたちを我が子として守った預言者、というイメージです。“慈しみと赦しの主は決して民を見捨てない。主のもとに帰ろう”がホセアのメッセージだった。ホセアの言葉を引用し、イエスが語っている神、主のイメージは、男性的な、父なる神のそれではなく、女性的、母性的神のイメージです。服従させ捧げ物を求める神、裁く神ではなく、慈しみ、赦し、支え、待つ慈愛の神イメージです。

 マタイ12章。イエスの仲間たちは移動中の空腹を麦の穂を摘み、手で揉んで食べていた。監視していたファリサイ派の人々がそれを律法違反、違法行為としてあげつらい、イエスに詰め寄った。イエスは、ダビデ王の行為や神殿における祭司の暗黙の特権などを例にとって、人のために律法があり、律法のために人があるのではないこと、食べ物についての律法を守ることよりも、神の恵みを分かち合い、いただき、飢えを満たし合うことこそ神に喜ばれることと語ります。
 イエスが引用した預言者ホセアのメッセージ“主なる神が求めるのは いけにえ(犠牲)ではなく 隣人への慈しみである”の神イメージは、明らかに「父」ではなく「母」なる神イメージです。日本神話の天照大神は女性ですから、日本人にも理解しやすいと思います。

 何よりもイエスの神への祈り、呼びかけの始まり「アバ」は、幼児言葉であり、父・母両方を含む、日本の幼児言葉「ちゃん!」に近いと思われます。心理学では理想的男性イメージを「アニムス」、理想的女性イメージを「アニマ」と呼んでいますが、身体の違い、身体機能の違いとは別に、人の心は元来その両方を内包していると思われます。人の体であえて表現しますと、道具を使う右手が男性的役割、受け止める、支える左手が女性的役割とも言えます。人は両方の機能、両方の心を持っています。創世記でも、イーシ・イーシャに分けられる前のアダムは両性具有の「人」です。

キリスト教は遊牧民・イスラエル民族の「男性主導」文化を受け継ぎ、信仰や教義も男性主導に傾く傾向があった。パウロもそうです。この偏りを補ってきたのが「マリア信仰」だったと思います。そこから分かれたプロテスタント教会は、マリア信仰を受け継がなかったためカトリック以上に男性主導の感覚に陥りがちだと思われます。LGBTQや同性婚などの心の性、体の性の問題が議論されていますが、性差から生じる諸問題については、伝統や慣例・風習、生まれ育まれてきた感覚からではなく、双方の違いへの理解、尊敬(リスペクト)を土台に調和が目指されるべきなのでしょう。体は別々でも、心は「両性具有」が本質だと思われます。
 神は最も高いところから下を見下ろす神ではなく、世の、この世界の最後尾、しんがりにいてくださり、貧しい者、小さくされている人たちを支えて導かれる、というイザヤやホセアやイエスの教えてくださった神・主のイメージを、強い国を求める男性イメージが暴走しかけている現代だからこそ、見失わず、取り戻していきたいと願います。

先週のできごと

テレビでサッカーW杯を盛り上げている最中に、岸田政権は、休止原発の再稼働を加速させる方針を打ち出した。更に、軍事力関連では専守防衛の枠を超えてミサイル発射基地を叩くための「敵基地攻撃能力保有」を打ち出した。まるで自己制御能力を失って暴走を始めたロボットのような政局の危険を感じます。