20210124 東淀川教会礼拝宣教要旨「燔祭とは何か」

出エジプト記13章 1〜2節
主はモーセに告げられた。「すべての初子を聖別して私に献げなさい。人も家畜も、イスラエルの人々の間で初めに胎を開くすべての初子は私のものである。」
ミカ書6章 2節
山々よ、とこしえの地の基よ 主の告発を聞け。 主はご自分の民を告発し イスラエルと論争される。
ミカ書6章 6〜8節
何をもって主にまみえ いと高き神にぬかずくべきか。焼き尽くすいけにえか、一歳の子牛か。
果たして、主は幾千の雄羊 幾万のしたたる油を喜ばれるだろうか。私は自らの背きの罪のために長子を 自らの罪のために 胎から生まれた子を献げるべきか。人よ、何が善であるのか。そして、主は何をあなたに求めておられるか。それは公正を行い、慈しみを愛し へりくだって、あなたの神と共に歩むことである。

マルコによる福音書/ 12章 29〜31節
イエスはお答えになった。「第一の戒めは、これである。『聞け、イスラエルよ。私たちの神である主は、唯一の主である。
心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
第二の戒めはこれである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる戒めはほかにない。」

 宣教題「燔祭の意味」
燔祭とは“焼き尽くす”捧げ物。人も家畜も、全ての初子を神のものとして聖別し神に捧げる、というのが燔祭の本来の意味だった。人間については、神にお返しする初子の代わりに「レビ人」が公職として主に仕えることとなったが、本来の意味は変わらない。息子イサクを燔祭として捧げよ、の命令にアブラハムが従おうとしたのも、燔祭の意味が変わらないことを示している。“人の命も動物の命も神のもの”という認識に基づいて、アイヌ民族のイオマンテ(熊祭り)では、養われた小熊を神に返す儀式が“傷のない初子”を用いた燔祭に相当すると感じられる。
 ミカ書(イザヤの時代の南ユダ国の預言者)は、信仰の形骸化とイスラエルの腐敗を糾弾した預言者。主が求めているのは初子ではなく、神の善を求め行うことだった。「人よ、何が善であるのか。そして、主は何をあなたに求めておられるか。それは公正を行い、慈しみを愛し へりくだって、あなたの神と共に歩むことである。」(ミカ書6:9) これは、イエスの“全身全霊で主なる神を愛せよ”と、“隣人を、自分自身を愛する如く愛せよ”の、これ以上ないもっとも大切な律法として表現されている。
 いのちは神のものであり神与え神取るもの。人は自ら生きるのではなく生かされるいのちのみ、という認識を徹底するものが燔祭の律法であったなら、イエスの“もっとも大切な律法”の意味は、燔祭の実質化であり、更にイエスご自身を燔祭の生け贄として捧げ、人間の傲慢を焼き尽くし、自分自身を救おうとする人間の罪をその身に負うための燔祭の準備がそこにあったと思われる。

20210117 東淀川教会礼拝宣教要旨「神の子 人の子」

旧約聖書 創世記06章 02節
神の子らは、人の娘たちが美しいのを見て、それぞれ自分が選んだ者を妻とした。
申命記32章 05節
彼らは主に対して悪を行い、その汚れのゆえに、もはや神の子らではない。よこしまで曲がった世代だ。
新約聖書マタイ福音書 5章 09節
平和を造る人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。08章 20節
イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」 
マルコによる福音書1章 1節
神の子イエス・キリストの福音の初め。
10章14ー15節
イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子どもたちを私のところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。よく言っておく。子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」

宣教題「神の子 人の子」
モーセの時代から“神の子たち”は自分たちイスラエル民族を指し示していた。神の言葉に従うべき神の子であるからこそ「神の子たち」に対する厳しい言葉が士師や預言者たちによって語られ続けた。(申命記32:5)
 共観福音書のなかで最も早くに成立したマルコ福音書は、すでに“イエスこそメシア”との教団・教会の告白、信条から始まっている。イエスだけを特別視する告白が、メシア=神の子という言葉遣いに変わっていたと思われる。が、イエスは「神の子・人の子」の言葉をどう使っていたのでしょうか。
 イエスの時代の前提として、律法を人々に守らせる、コントロールする側の上級な人々は「神の子」「選ばれた民」としてのプライドを持っており、そうではない人々を「ただの人の子」「穢れた地の民」など「下級な民」と看做し、インドのカースト制のような「上層・下層・層の外側」などの人間観はすでに成立していたわけです。 イエスをメシア、救い主、世の新たな指導者として「あなたこそ神の子だ」と叫ぶ人々に対し、「私は人の子…」と切り返していたと思われます。が、“よく言っておく。子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない”(マルコ福音書10章15節)は、“誕生した人の子たちは神さまにいのちを吹きこまれ、生かされているのであり、全ての人は例外なく神の子である”との宣言からしか出てこない人間理解。本来神の子である人間を神の子・人の子と分けたり、地の民、穢れた人、異邦人など区別・差別・疎外しているあなた方こそ、“神の子”に対して甚だしく罪を犯している!との批判を投げ続けていたことになります。イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」(マタイ福音書8章20節)とは、イエスが自分自身のことを指して言っていると理解するよりも、“人の子”という言葉が、ユダヤ教本来の“神の子”からも、枕を高くして眠ることのできる“神の子”たちから疎外され、社会保障からも排除されている人々を指しており、イエス自身もまた“人の子”たちのしんがりに立たれることの宣言としての言葉であったと聞こえるのです。

(参考箇所)
1:ヨブ記/ 01章 06節
ある日、神の子らが来て、主の前に立った。サタンもその中に来た。

マラキ書/ 02章 15節
主は、肉と霊を持つただ一つのものを造られたではないか。そのただ一つのものとは何か。神の子孫を求める者ではないか。あなたがたは、自分の霊に気をつけるがよい。/若い時の妻を裏切ってはならない。

マタイによる福音書/ 04章 06節
言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。/『神があなたのために天使たちに命じると/彼らはあなたを両手で支え/あなたの足が石に打ち当たらないようにする』と書いてある。」

マタイによる福音書/ 08章 29節
突然、彼らは叫んだ。「神の子、構わないでくれ。まだ、その時ではないのにここに来て、我々を苦しめるのか。」

ルカによる福音書/ 22章 70節
そこで、皆の者が、「では、お前は神の子か」と言うと、イエスは言われた。「私がそうだとは、あなたがたが言っている。」

先週の出来事

コロナインフルエンザウィルスの正体もわからないままリスク予測と対策でパニック状態。その中で変異型が生まれ、更に危険な鳥インフルエンザの脅威も伝わってきます。一人ひとりが自分らしさを守り、互いを危険視することなく守りあう工夫をするしかないのでしょう。
東淀川教会としては、礼拝前の会堂消毒を致します。フェイスガード、マウスガード、扇子、マスクなどをご用意しています。各自のご判断でご利用ください。換気については、寒さもあり、玄関を少し開けたままにしておきます。意見交換をしながら礼拝を続けたいと思います。


20210110 東淀川教会礼拝宣教要旨「疫病への祈り」

民数記16章46ー48節 Numbers
16:46モーセはアロンに言った、「あなたは火ざらを取って、それに祭壇から取った火を入れ、その上に薫香を盛り、急いでそれを会衆のもとに持って行って、彼らのために罪のあがないをしなさい。主が怒りを発せられ、疫病がすでに始まったからです」。 Moses said to Aaron, “Take your censer, and put fire from off the altar in it, and lay incense on it, and carry it quickly to the congregation, and make atonement for them; for wrath has gone out from Yahweh! The plague has begun.”16:47そこで、アロンはモーセの言ったように、それを取って会衆の中に走って行ったが、疫病はすでに民のうちに始まっていたので、薫香をたいて、民のために罪のあがないをし、Aaron did as Moses said, and ran into the midst of the assembly; and behold, the plague has begun among the people: and he put on the incense, and made atonement for the people.16:48すでに死んだ者と、なお生きている者との間に立つと、疫病はやんだ。 He stood between the dead and the living; and the plague was stayed.

使徒行伝1章13-14節 Acts
1:13彼らは、市内に行って、その泊まっていた屋上の間にあがった。その人たちは、ペテロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと熱心党のシモンとヤコブの子ユダとであった。When they had come in, they went up into the upper room, where they were staying; that is Peter, John, James, Andrew, Philip, Thomas, Bartholomew, Matthew, James the son of Alphaeus, Simon the Zealot, and Judas the son of James.
1:14彼らはみな、婦人たち、特にイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちと共に、心を合わせて、ひたすら祈をしていた。All these with one accord continued steadfastly in prayer and supplication, along with the women, and Mary the mother of Jesus, and with his brothers.

宣教題「疫病への祈り」
  疫病(はやり病い)はいつの時代もとても恐ろしいものだった。モーセの時代、いつ誰がどうなるかわからない天災や疫病の前で、指導者は事態を見極めつつ、疫病のもつ「毒性」「感染力」「潜伏期間」「回復期間」などを直感的に把握し、災難を全ての人々に対する「神からの怒り、警告、メッセージ」として謙虚に受け止め、安息日の戒めを用いて「籠もるべき人とその期間」「個人の行動の制限」「集団行動の制限」「互いの距離の取り方」「身辺の清潔」などを細かに指示していたようです。モーセやアロンによる状況の変化に応じた仕切り方、細則などに対し、身内から感染者がでた人々、特にそれまで周囲の人々を仕切ってきたレビ人たちから「自分たちのことは自分たちで決める」と、モーセらの「仕切り」に逆らった人々もいた。モーセはアロンに命じて香を焚き、香炉を用いて危険な人々と危険ではない人々とを分け、距離を取らせた。従わなかったグループから疫病に倒れていったようです。
 人間は祈る動物です。宗教の本義は「祈り」です。災難のまっただ中だからこそ、「先に死んだ者への祈り」「床に伏している者への祈り」「恐れ怯えている者への祈り」「回復した者による感謝の祈り」などを示し導いていくことが「宗教指導者」に求められます。祈りの中で各々が自分の置かれた状況や危険性を感じ取り、身の処し方を判断するようになる。その祭具のひとつが危険な人々とそうでない人々との距離を保つツールとしての香炉であったようです。
 一部のお寺で「ウィルス退散」の護摩供養を静かに行っているようですが、宗教界全体としては「人の集まりやすい宗教施設における集会そのものを控える」として、病や不安を抱える人々が放置され、祈りの場をもてずにいるのが現状のように感じます。宗教者の働きを何もせず、国や医師の判断や指示任せにしたまま、宗教施設や宗教指導者の保全と維持のみに心を砕いているように感じられます。
 集う人々が、互いに疑心暗鬼にならぬよう、それぞれの危険性に応じて、分けながら、それぞれの、異なる祈りを取り次いでいくことが宗教指導者に求められていると思うのです。何よりも、祈りによってこそ、災難を受け止め、悩み苦しみや嘆きを分かち合い、乗り越えていく「ちから」が与えられるのであり、そこにこそ“宗教”の本義があると思うのです。

先週の出来事
北朝鮮の金正恩委員長は開催中の第8回朝鮮労働党大会で「米国を屈服させる」と報告し,米首都を射程に収める核・ミサイルの開発を進める方針も示した,とのニュース。チャプリンの映画「独裁者」で、椅子の高さをとなりと競い合い、ついには天井にぶつかってしまう場面を思い出した。大国同士の泥仕合の狭間で、周辺諸国に対し、高みから研いだナイフを見せびらかし、ナメとったら刺すぞ!と言い続ける委員長?「大統領の就任式にはでない」とゴネる米国大統領?元慰安婦・徴用工問題で隣国、韓国裁判所の判決に対し、身を正すこともせず鼻にも引っかけない態度に出た日本国首相? おとなはいない?

20210103 東淀川教会礼拝宣教要旨「濃厚接触の癒やし」

イザヤ書 24章 17~20節
地に住む者よ/恐怖と落とし穴と罠があなたに臨む。
恐怖の叫びから逃れる者は落とし穴に落ちる。/落とし穴の中から這い上がる者は罠に捕らえられる。/天の水門は開かれ、地の基は震え動く。地は裂けに裂け/地は破れに破れ/地は揺れに揺れる。
地は酔いどれのようによろめき/仮小屋のように揺れ動く。/地の背きは地の上に重く/地は倒れて再び起き上がることはない。

マルコによる福音書7章 32~37節
人々は耳が聞こえず口の利けない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。
そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾を付けてその舌に触れられた。
そして、天を仰いで呻き、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。
すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきりと話すようになった。
イエスは人々に、このことを誰にも話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。
そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」

宣教題「濃厚接触で癒やすイエス」
 コロナはラテン語で「冠」。不可視の、太陽の周りにある、太陽表面よりもはるかに高温のガスの層。地球にとっては「恵み」。それが現在の地球上の人間たちにとってはアベコベに「恐怖」の代名詞になっている。
 2001年には抑圧され続けてきたイスラム世界から資本主義の繁栄を象徴する建造物に憤怒の自爆攻撃が行われた。現代文明のシンボルに突き刺さり、瓦解させ、軍事力に支えられた巨大国家が虚栄と隠蔽に満ちていることを告げていた。しかし大国からの軍事的報復で更なる隠蔽が続いた。2011年のメルトダウンは科学文明がもつ危険かつ脆弱な実体を暴露したが、情報と数字の操作で「大したことはない」と偽装された。2020年のコロナと呼称されたウィルスは、その毒性ではなく「感染力の大きさ」が人間たちをパニックに陥れた。軍事力を基礎に発展してきた国家のシステム、自然科学/医学技術、文明の制度を堅牢な高層ビルに喩えれば、高層ビルを形成しているコンクリートやライフラインや空調システムが、ウィルスが出入りできる、腐食や地震によるヒビ、穴だらけで、自然災害やウィルスから人を守るものではないという綻びを感じた人々は、穢れから身を守るために互いに疑心暗鬼になり疎外関係を構築する。地球のプレートは動き続けており、微生物やウィルスも人間の思惑を超えて変異・変化する。イザヤ書の「地に住む者よ/恐怖と落とし穴と罠があなたに臨む。」は、被造世界への畏怖を忘れてはならないことを私たちに告げている。
もはや自然は創造主への畏怖と感謝の対象ではなく、ウランを利用した原子炉のごとく、開けてしまったパンドラの箱から得られる便利さや軍事力を享受しながら、必死に強者の手によってコントロールしなければならない、生体にとっては恐怖の対象でしかないという感覚はますます深まっている。

 イエスの時代にもウィルス、悪霊、穢れへの恐れと対処方法が定められていた。手を洗い、体を洗い、衣服を洗い、自分自身を「聖別」すればするほど、穢れへの妄想が果てしなく広がっていく。穢れと思われるものや、穢れた人とを自分から外側に遠ざけ、門を閉め、行動を制限し、隔離し、「閉じ込める」ことが第一となる。
 が、イエスは逆に穢れた人のもとを訪れ、直接触れ合い、イエス自身にその穢れを移そうとされる。…指を両耳に入れ、その唾液で相手の舌を潤したとは、それ以上考えられないほどの「濃厚接触」である。そして宣言の言葉が「エッファタ(開けよ)」だった。「ひとを閉じ込めるな。あなた自身を隠すな。人間関係から自分を閉じ込めるな。体と心を世に向かって、ひとに向かって開け!まず、わたしが受け止める!」と。イエスの言葉が人々に衝撃だったからこそ、これぞイエス、というメッセージであったからこそ、日常用語であったアラム語で書き記された。
 コロナと名付けられたウィルスの流行はしばらくして(予測は不可能ですが)収まるのだろう。また新たなウィルスが流行したとき、「マスク」を超えたウィルスバスターツールが生み出されそうな恐怖がある。

先週の出来事

東京都と隣接する県に「緊急事態宣言」が発令されようとしている。ますます戦時統制、総動員体制に近づいている? そのうちICチップが入っている「マイナンバーカード」を首からぶら下げていないと警官から職質される時代になるのはさほど先ではないと感じる。反抗した者はからだにチップが埋め込まれる?

20201227 東淀川教会礼拝宣教要旨「滅びと再生」

民数記19章 17〜20節
汚れた者のためには、汚れを清めるために焼いた雌牛の灰の一部を取って器に入れ、その上に湧き水を加える。
次に、身の清い者がヒソプを取ってその水に浸し、天幕、すべての器、そこにいた人々に振りかけ、また、骨、犠牲者、死体、墓に触れた者に振りかける。
身の清い者が、三日目と七日目に汚れた者に振りかけ、七日目にその者を清める。その者は、七日目に自分の衣服を洗い、水で体を洗うと、夕方には清くなる。
しかし、汚れた者が身を清めないなら、その者は会衆の中から絶たれる。主の聖所を汚したからである。その者は、清めの水が振りかけられていないので汚れている。



マルコによる福音書1章 06〜9節
ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、ばったと野蜜を食べていた。
彼はこう宣べ伝えた。「私よりも力のある方が、後から来られる。私は、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。
私は水であなたがたに洗礼(バプテスマ)を授けたが、その方は聖霊で洗礼(バプテスマ)をお授けになる。」
その頃、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼(バプテスマ)を受けられた。

マルコによる福音書1章 13〜15節
イエスは四十日間荒れ野にいて、サタンの試みを受け、また、野獣と共におられた。そして、天使たちがイエスに仕えていた。
ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」と言われた。

宣教要旨 主題「滅びと再生」

 ガリラヤから「イエス」という男が現れた。その頃、自ら汚れて(穢れて)いることを認め、悔い改め清めるための水によるバプテスマを行っているヨハネを訪れ、彼はバプテスマを受けた。
 古くから“穢れ”とは、人の利己的な行い(動物を屠る、男女の営み、その他)であり、快楽であり、伝染するウィルスであり、悪霊であり、怨霊であり、生活の汚れであり、皮膚の垢のように身も心も穢すもの。今日のように科学的な分類(ウィルス、毒物、タブーを犯した罰、等々)に分けることはしなかった。人はときおり身と心を洗い、汚れを洗い流さなければならない生き物だった。生まれたばかりの赤ん坊が出産時の汚れを洗い流して祝福されるように、人も生きるために身についた汚れを洗い清め、祝福された姿に戻る。

 熱心なユダヤ教徒は、安息日や祭りの日の前に、ミクヴェ(ユダヤ教できよめの儀式に使われる水槽)に身体を浸すという古い習慣を守っていた。
 「『バプティゾー』というギリシャ文字は、洪水に飲み込まれる、水の下に入ってしまうことであり、イエスの受けたバプテスマも、“無原罪のイエス”などではなく、穢れた者として自身を死に引き渡す行いだった。身を清めるための一時的な儀式や象徴的行為ではなかった。イエスがその後40日間荒野で試みを受け、野獣とともにいた、とは、長期間何も食べずまったく無防備なまま、生死を神に委ねた行為は、日本における修験者の、生死を山の神に委ねる行為と同じである。

 イエス自身はバプテスマを人に施す行為は行ってはいない。バプテスマのヨハネが攻撃され逮捕されて、その攻撃が自分自身にも向かってくることを覚悟しながら、ひたすら神に用いられる生かされ方へと突入していった。穢れている人々・アムハーレツ、地の民と呼ばれる人々の多くいるガリラヤ地方へと赴き、人々の穢れを直接その身に移し引き受ける行為を為し、神から引き離されている人々を再び神へと取り成すわざを為しつつ、神の国宣教を行っていった。

 コロナ禍の中で自殺志願者が急増している様子。自殺者も行方不明者も増加中。ネットの中で死に方についての会話が広がり、それに起因する犯罪も増加中。2017年に男女9人の遺体が見つかった事件で死刑判決を受けた白石隆浩被告も記憶に新しい。彼自身も当初は自殺願望からネットで仲間を募り、頼ってくる女性たちを利用して自分の自殺を先延ばしできることを発見?してしまい、殺害と遺体処理、金品強奪を繰り返したと思われます。集まってくる人も自分自身も生きる希望は失っているんだから、というのが屠殺行為の自己弁護、いいわけなのでしょう。刹那的なスリルと快感も味わったのでしょう。被告自身の“壊れ方”はまさにネット社会の、生き方も死に方も見えなくなっている「今」を表現していると思われます。死刑制度は白石隆浩氏にとっては、暴走の結末、オトシマエをつけてくれる自殺幇助の役割なのだろうと思います。

先週のできごと
作詞家なかにし礼さん死去、作詞家で作曲家の中村泰士さん死去。世代を超えた大衆歌謡のなかで多くの人々が口ずさみたくなる歌、それぞれの人生を「人生劇場」として、役者として、言葉にしてくれる歌詞とメロディを届けてくれた貴重な人たちが亡くなっていく。赤提灯で、或いは堤防に腰掛けコップ酒片手に歌える歌がなくなっていく。