20201026 礼拝宣教要旨 「だれもがかけがえのない人の子」

エゼキエル書317
「人の子よ、私はあなたをイスラエルの家の見張りとした。私の口から言葉を聞いて、私からの警告を彼らに伝えよ。

マルコ福音書1319-23
19
 それらの日には、神が天地を造られた創造の初めから今までなく、今後も決してないほどの苦難が来るからである。

20 主がその期間を縮めてくださらなければ、誰一人救われない。しかし、主はご自分のものとして選ばれた人たちのために、その期間を縮めてくださったのである。
21
 その時、『見よ、ここにメシアがいる』『見よ、あそこだ』と言う者がいても、信じてはならない。
22
 偽メシアや偽預言者が現れて、しるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちを惑わそうとするからである。だから、気をつけていなさい。一切のことを、前もって言っておく。」

マタイ福音書2427

27 稲妻が東から西へひらめき渡るように、人の子もそのように来るからである。

宣教題「誰もかけがえのない人の子」

 預言者エゼキエルは祈りの中で神さまからの声を聞いたのでしょう。この神とともに歩む民たちの、その歩み方について、誤った方向に行かないよう、見張り、時には警告を発するための役割を言いつかった。預言者は複数いて、今日で言うところの“学術会議”のような役割を果たしていたと思われます。預言者の活動を為政者否定したり選別したりはできないのが大原則です。

 ここでいう「人の子」とは、“エゼキエルよ、ただの人であるあなたにこの役割を任命する”というような意味合いだったと思われます。

 イエスの時代、希望など持てない、神への信仰を見失いかけていた時代。生きにくさと不安におびえていた人々は世の人々を救ってくれるリーダーを心から求めていたと思います。その現れがメシア待望、ダビデ王の再来、神の子待望でした。奴隷状態だったイスラエル民族をエジプトから導き出したモーセのイメージもそこに重ねられていたと思われます。いわば“スーパースター”を渇望していた。

  イエスやその仲間たちの行いやことばに引き寄せられ集まってきた人々の多くは“貧しい人々”、けがれ人、地の民と呼ばれた人々が多く、彼らはイエスの言葉に、あなたこそメシアだ、神の子だ、ダビデ王の化身だ、などと褒めそやしたことは容易に想像できます。そういった期待混じりの讃美に対して、イエスが応答したのが、“人の子”であり、何の資格も能力も立場もない、母の胎内より生まれた“ただのひと”の意味であったと思われます。ただの人こそ神にとってかけがえのないひと。イエスは逆に「メシアとして世に現れた者」「世のリーダーと呼ばれる者」「神は私にこう言われた…だから私に聞き従いなさい」などと、人々を従属させよう、従わせよう、コントロールしようとするカリスマ的な人、それを中心とした熱狂的な集団などを徹底的に警戒しようと人々に語りかけています。

 ただの人の苦しみをその身に負ったイエスの十字架処刑以後、イエスこそメシア、キリストであるとの信仰が広まっていったとき、イエスが口癖のように応答していた「人の子」は、世の終わりに、稲妻のように現れ、世を新たにする救世主を示す新しい言葉になってしまったと思います。

先週の気になるニュース

神戸市西区の精神科病院「神出病院」(かんでびょういん)患者虐待事件を受け、市議会は病院関係者や家族知人など虐待を知った人の自治体への通報義務を法で定めるよう国に求める意見書を採択。監獄も精神病院も入管施設も、世の闇となっているところに光も風もよく通るようにする責任は私たちにあると思います。

20201018 礼拝宣教要旨「癒やしは人のわざに非ず」

列王記上1717-22
17 これらの事の後、その家の主婦であるこの女の男の子が病気になった。その病気はたいそう重く、息が絶えたので、18 彼女はエリヤに言った、「神の人よ、あなたはわたしに、何の恨みがあるのですか。あなたはわたしの罪を思い出させるため、またわたしの子を死なせるためにおいでになったのですか」。19 エリヤは彼女に言った、「子をわたしによこしなさい」。そして彼女のふところから子供を取り、自分のいる屋上のへやへかかえて上り、自分の寝台に寝かせ、20 主に呼ばわって言った、「わが神、主よ、あなたはわたしが宿っている家のやもめにさえ災をくだして、子供を殺されるのですか」。21 そして三度その子供の上に身を伸ばし、主に呼ばわって言った、「わが神、主よ、この子供の魂をもとに帰らせてください」。22 主はエリヤの声を聞きいれられたので、その子供の魂はもとに帰って、彼は生きかえった。

• マルコ福音書925-29

9:25イエスは群衆が駆け寄って来るのをごらんになって、けがれた霊をしかって言われた、「おしとつんぼの霊よ、わたしがおまえに命じる。この子から出て行け。二度と、はいって来るな」。
9:26すると霊は叫び声をあげ、激しく引きつけさせて出て行った。その子は死人のようになったので、多くの人は、死んだのだと言った。
9:27しかし、イエスが手を取って起されると、その子は立ち上がった。
9:28家にはいられたとき、弟子たちはひそかにお尋ねした、「わたしたちは、どうして霊を追い出せなかったのですか」。
9:29すると、イエスは言われた、「このたぐいは、祈によらなければ、どうしても追い出すことはできない」。

 

   宣教題「癒やしはひとのわざに非ず」

 喋れず聞こえずてんかんの症状をいつも引き起こす子ども。イエスにできた癒やしのわざが弟子たちにはできなかったのはなぜかと弟子が問うている場面。
「このたぐいは、祈によらなければ、どうしても追い出すことはできない」の「祈」は何か。預言者エリアは息が絶えた子の母親から、不幸をもたらした人として責められる。

※教会の堂守を長年していると、もっとも心を配り力を尽くした相手から、最も激しく責められることはままある。

 亡くなった子に自らの身体を重ね、ひとつとなり、神に一蓮托生の運命を委ね祈った。その姿は、人々を襲った不幸をもたらした責任者として海に沈められ、大魚に飲み込まれ、生死を神にゆだねつつ、神のわざを讃美したヨナの姿と重なる。
「邪悪で不義な時代は、しるしを求める。しかし、ヨナのしるしのほかには、なんのしるしも与えられないであろう」マタイ16:4

 日本における「山伏」の語源は、重い心の病を負った人と山を巡り、山に伏して共に寝る、すなわちふたりの生死を山に預け、死を覚悟しつつ再生を祈る荒行に由来すると学んだ。

 エリアが病を癒やしたのではない。預言者たちが癒やしたのではない。イザヤが癒やしたのではない。イエスが癒やしたのではない。預言者は死に直面している「小さき者」を支えるため、自らを捧げ物として、生け贄として、死に差し出し、死の淵から「滅ぶべき“我々”に対し」神のちから、再生のわざ、いのちが新たに吹き込まれる神のわざが起こることを願った。そこに「共苦」と「受苦」のわざがあったればこその「神のわざ」が起こったと理解できる。

 現代では脳の傷や奇形、先天性代謝異常(酵素の欠損)による発達障害、発作を伴う重度心身障害などの診断となるのでしょう。現代社会では、本来病気や怪我の治療を行う医師が、治らないハンディに対しても診断し指導するという、医師をトップとする行政による福祉政策という仕組みになってきています。生きにくさを分かち合い、軽減し合う「共苦」の人間関係、家族や地域や顔見知りによる助け合いはますます見失われていくような気がします。

 医師や公認心理師、社会福祉士、介護福祉士、精神保健福祉士、介護支援専門員(ケアーマネージャー)、訪問介護員(ホームヘルパー)などなど、弱者に対する職種の細分化・専門化(資格化)が進むほど、身体の命を守るためと医療が優先されながら、魂が軽んじられ、サービスをする側もサービスを受ける側もなぜか貧しく、医療機器や介護機器は発達してもやはり生きにくく、互いの関係が不幸になっているのは何故でしょうか?

先週の出来事 
 中曽根元総理の合同葬儀に際し、国公立大学や中央官庁、最高裁裁判所などに弔旗の掲揚や黙祷を求める通達が内閣から出されていた件。忖度の強制? 「総理」とは、「公僕」「公務員」「国民への奉仕者」ではなく、国民が仰ぎ見る日本帝国の元帥であり、元元帥の死は国民こぞって哀悼の意を表すのが当然、という感覚がまかりとおっているのでしょうか。

獄中者支援について

 
 

 東淀川教会の前任牧師である向井武子牧師に東淀川教会赴任以前から声をかけられ、大阪市都島にある大阪拘置所の死刑囚数名に対して「生きる」ための支援を細々長々と続けてきました。その中の一人西川正勝とは養子縁組をし、元々の本籍を同じくするわたしの親族に迷惑をかけないようにするため現住所に本籍を移し、家族の一人として一生向き合っていく覚悟でした。
 ほとんどの死刑囚が親族家族やかつての知人友人から関係を断たれ、刑務所ではなく拘置所の独房で死刑執行を待つ身となるため、程度の差はあれ「拘禁」による精神的な病を負うことになります。中には日本語すら忘れてしまうこともあります。

 私がそうであったように、殺させない、生きる道に同行しようと支援を志す人はいるのですが、一番大きな課題は『支援者側』にありました。一言で言えば「メサイアコンプレックス」の為せる業です。特にキリスト者に多いのです。この世の闇、世界のどん底に置かれている孤立無援の人に対する救い主(メシア)、理想的な母性としてのマリアになろうとする情熱、願望です。これがかなり「厄介」なのです。
 私が出会った『死刑廃止運動はするが、個別支援はできないしやらない』と断言する人は、このメサイアコンプレックスの為せる業によって疲労困憊させられた人が多かったのです。特に獄中者が男性で、支援者が女性の場合(逆のパターンもあるのでしょうが)に、この問題が多く起こるのです。

 私の場合も、養子縁組で金田となっていた正勝を以前から支援していた(本も出していた)女性の策動(彼女は決して表立っては動きません)により、いきなり本人が私の支援について難癖をつけ、養子縁組み解消を本人に言わせました。「私は死んでも、一緒に罪を償い続けるぞ」と、その要求を撥ね付けましたが、背後にいた彼女が私費で弁護士を雇い、『死刑囚の希望を撥ね付け、心の安寧を乱している』として裁判を起こす旨の通達を弁護士が送りつけてきました。私の正勝への支援が以前からの支援者である彼女の存在と関係を無視しているように感じたのでしょう。裁判にエネルギーを費やす余裕もなく、縁組み解消に同意しました。その正勝もとうとう執行されてしまいました。

 メサイアコンプレックスの問題は、支援者と獄中者が他の誰よりも深いところで、排他的な「一対」の関係を作ろうとしてしまうことです。恋愛感情と同じです。「嫉妬」が動き出します。「依存」させようとします。「愛で支配」しようとします。闇の中の「自我」を救出することで、自分の「自我」を確立しようとする、仏教的な言い方をすると、一種の業(ごう)が深い現象です。複数・多数の支援者により獄中者が「メシア」になってしまう場合もあります。私が最初に支援に加わった山野さんもそのタイプでした。

 死刑判決の報道が流れると、必ず支援申し込みの手紙が獄中の本人に届きます。教会員の「加納さん」もそうでした。向井武子牧師に相談しつつ、私にも何度か支援について相談がありました。が、記事の内容にもあるように、この支援が加納さんの夫婦関係、家庭を壊していく方向に進むと感じられ、そのことを本人に説明しながら獄中者支援の仕方を考え直すように話しました。それ以後、私には相談しなくなり、夫と別居し、ついには名古屋拘置所の近くへ転居してしまい、死刑が執行され、彼女が癌になり、大阪に戻ってきて療養生活になってからも連絡はありませんでした。教会員の一人が彼女のことを心配し訪問するなど心を配っていました。

 獄中者支援の原則は、外の声を中に届け、中の声を外に届けることが中心で、支援は開かれた対話(オープンダイアローグ)の中で互いが生きることを支援し合うことだと思います。支援者みんなが認めた、或いは戦術としての婚姻、縁組みはあると思いますが、閉じた関係、二人だけの関係、獄中結婚は避けるべきだと思っています。

 死者にむち打つことになりはしないかと心配はありますが、たぶん、今頃は神さまのもとで、ふたりが笑い合う身近な関係となり、平安を得ていると信じ祈ります。

「教会員Kさんの獄中者支援」についての中日新聞社記事はメニューからご覧下さい。

20201011 東淀川教会礼拝 宣教要旨 つまずかせるもの マルコ9:41-42 

箴言記2925
人を恐れると、わなに陥る、主に信頼する者は安らかである。

マルコ福音書94142
だれでも、キリストについている者だというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれるものは、よく言っておくが、決してその報いからもれることはないであろう。

また、わたしを信じるこれらの小さい者のひとりをつまずかせる者は、大きなひきうすを首にかけられて海に投げ込まれた方が、はるかによい。

マタイ福音書1867
しかし、わたしを信ずるこれらの小さい者のひとりをつまずかせる者は、大きなひきうすを首にかけられて海の深みに沈められる方が、その人の益になる。

この世は、罪の誘惑があるから、わざわいである。罪の誘惑は必ず来る。しかし、それをきたらせる人は、わざわいである。

宣教題「つまずかせるものは何か」

 マルコ福音書では、渇いている人に水一杯を持って駆け寄る心が祝福され、逆に、小さい、幼い心を躓かせる、罠にはめる心を厳しく断罪している。神に生かされていることを無心に喜び、出会った人々を愛そうとする、渇いている人の元に一杯の水を差し出す幼子の心に人々を注目させ、この幼子の心に不条理を強い、躓かせるものは何かを人々に厳しく問いかけている。

同じ記事がマタイ福音書になると「世は人を躓かせるから不幸だ」となる。“自分たちは悪くはないが、世の中が悪い”となる。長いものには巻かれるしか仕方ないという方便が成り立つ。

ルカ福音書になると「つまずきは避けられない、だが、それをもたらす者は不幸だ」の記事に変わる。みんなつまずいておとなになるんだよ ひとをつまずかせる者は神が罰せられるから不幸になるんだよという因果論で問い続けることを諦めさせてしまう。キリスト教が古代ローマ帝国や周辺諸国に浸透していく中で教団(セクト)を守りながら教えを広めていくために取り込んでいったダブルスタンダード(建て前と本音の二重性)、トリプルスタンダード(異なる教えとの妥協)「ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、私自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました」。(第一コリント920)

日本学術会議に任命されなかった6名の学者は安保法制に反対する人、立憲デモクラシーの会、沖縄米軍基地に反対する人、治安維持のための共謀罪に反対する人など。

 政府にとっての“つまずきの石”はあらかじめ取り除きたいという意図が見え見え。科学者たちはかつて軍事・戦争に協力してきた反省から、国家の過ちを監視する「知」の立場を守ろうとしてきた。が監視の勢力がますます小さくさせられようとしている。

「人を恐れると、わなに陥る、主に信頼する者は安らかである。」箴言記2925

「あなたはわたしの魂を死から、わたしの目を涙から、わたしの足をつまずきから助け出されました。」詩篇116編8節

 幼き心、ちいさくされている者の心を守るため、つまずかせるものに対して人々が集まり、わいわいがやがやと話し合う。教会がそんな「わいわいがやがや」の場になったらと願う。

先週の出来事

ロシアやスペインでコロナ感染が広がり、スペインでは非常事態宣言。ワクチンも効かない? 不安を「夢」で払い落とそうと目論み「世論操作」する勢力はあるけれど、来年のオリンピックも絶望的ではないのかと感じてしまう。

20201004 東淀川教会礼拝 宣教要旨 銭ってなんでしょう マタイ6:24 ルカ16:10

創世記2316-19節 
16 そこでアブラハムはエフロンの言葉にしたがい、エフロンがヘテの人々の聞いているところで言った銀、すなわち商人の通用銀四百シケルを量ってエフロンに与えた。17 こうしてマムレの前のマクペラにあるエフロンの畑は、畑も、その中のほら穴も、畑の中およびその周囲の境にあるすべての木も皆、18 ヘテの人々の前、すなわちその町の門にはいるすべての人々の前で、アブラハムの所有と決まった。19 その後、アブラハムはその妻サラをカナンの地にあるマムレ、すなわちヘブロンの前のマクペラの畑のほら穴に葬った。

マタイ福音書624-25節
6:24だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。

6:25それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。

ルカ福音書1610-13
16:9またあなたがたに言うが、不正の富を用いてでも、自分のために友だちをつくるがよい。そうすれば、富が無くなった場合、あなたがたを永遠のすまいに迎えてくれるであろう。
16:10小事に忠実な人は、大事にも忠実である。そして、小事に不忠実な人は大事にも不忠実である。
16:11だから、もしあなたがたが不正の富について忠実でなかったら、だれが真の富を任せるだろうか。
16:12また、もしほかの人のものについて忠実でなかったら、だれがあなたがたのものを与えてくれようか。
16:13どの僕でも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない」。

 

宣教題「銭って何でしょう」
 江戸も東京も、都会は出稼ぎのための街でした。
♭“東京はいいところさ 眺めるなら申し分なし 住むなら青山に決まってるさ 銭があればね”
高田渡(銭がなけりゃ)
 銭がなくても人間らしく助け合って暮らせるならそれが一番。銭がなければ生きられず銭を稼ぐために東京に出稼ぎし日雇い労務者となり家族バラバラになる…戦後の高度経済成長は人材提供の後進地方と、ホワイトカラー中心の先進都市との格差を基礎として成り立っていたと思う。

 聖書に最初に出てくる銭はアブラハムが死んだ妻サラの墓を銀400シケルで購入した出来事。本来は土地所有しない遊牧民が妻の墓のために土地購入した。一族の記念塔のごとき感覚か。当時は貨幣は国が発行した価値保証の貨幣ではなく、金、銀、銅や宝石などそれ自体の交換・使用価値そのものだった。1シケルは一ヶ月分の労働賃金、穀類50kgほどか。

 マタイ福音書では、何を食べようか何を飲もうかと思い煩うな。どうやって稼ごうかと、お金のことで思い煩うな、つまり、お金を得るために悩んではならないし、出稼ぎのために家族がばらばらになったりしてはならない、お金で不幸になる人を増やしてはならない、が中心的なメッセージであった。

 イエスたちのメッセージは、神に生かされること、自然に生かされることと、お金、金銀財宝に生かされることは相容れないこととして語っている。お金は富む者と貧しい者を作り出す。神はただで地上を与えてくださっているが、銭がなければ人間らしく生きていけない社会そのものが間違っている、というメッセージだったと思われる。「貧しい者はさいわい」とは、神によって生かされることを第一義とし、「お金で得られる幸福のために思い煩う人々」への、思い煩うな、のメッセージだった。

 ルカ福音書では、国家が発行する貨幣に依存し、もっと豊かな生活を求めることと、神によって生かされることのダブルスタンダードな姿勢がはっきりと打ち出されている。経済活動で強者や貧者の格差を作り出しても、不正に集めた富であってもそれで友を得ることや助け合うことは良いこと、とのメッセージが感じられる。いわば“建て前と本音の二重性”を肯定的に評価している。

 「小事に忠実な人は、大事にも忠実である。」とは、資本主義経済において、雇い主が賃金労働者として人を雇う場合などの、“良い使用人” 尺度、哲学がそこに語られているように思われる。

先週の出来事

新型コロナウイルスの感染が確認された米国のトランプ大統領。病気になることで自分の傲慢さに気づき謙虚さを身につけるチャンスになるが、テレビ討論を見る限り、かなり難しそう。むしろ米国大統領のゴーマンさがそのまま米国や日本におけるごう慢さの表れと感じる。「わたしは強い国の強い王なのだ!」みたいな。