20180325宣教要旨「生かす律法・殺す律法」

Isaiahイザヤ書58章1-3節
彼らは言う、『われわれが断食したのに、なぜ、ごらんにならないのか。われわれがおのれを苦しめたのに、なぜ、ごぞんじないのか』と。見よ、あなたがたの断食の日には、おのが楽しみを求め、その働き人をことごとくしえたげる。
Matthew マタイ福音書9章14-17節
するとイエスは言われた、「婚礼の客は、花婿が一緒にいる間は、悲しんでおられようか。しかし、花婿が奪い去られる日が来る。その時には断食をするであろう。
宣教要旨(生かす律法・殺す律法)
律法を守ることを第一とし、それによって更に神に近づこうと律法を厳格に守り、熱心に断食し、神にその報いを求めつつ、熱心でない者たちを責め、他の人々に重荷を負わせる「律法主義者たち」が中心であったイスラエル。熱心な宗教者であり、ユダヤ教の指導者である彼らが、神の御心から実は離れていることを語り、神はイザヤに「彼らの罪を告発せよ」と語られる。
イエスの元に来たヨハネの弟子たちもまた熱心に断食していた様子。「神に近づくための厳しい修行でもある断食を師匠であるヨハネも、他の指導者たちもしているのに、イエスの弟子たちはなぜしないのか」と問いかけています。
イエスが語られた花嫁と花婿のたとえ話「婚礼の客は、花婿が一緒にいる間は、悲しんでおられようか。しかし、花婿が奪い去られる日が来る。その時には断食をするであろう」とは何なのでしょう。
花婿をイエスと看做し、花嫁を弟子たち、イエスのことばに耳を傾けている人々、として「やがて花婿であるイエスが取り去られる時が来る。その時は弟子たちや福音を聞いた人々は断食する」というように解釈されることが多いように思います。それは「あとからの」解釈と思うのです。
ここで前提になっている花嫁とはイザヤが指し示す「シオン」、理想的な神の都、終末的な神の都が前提になっていると思われます。心と体の飢餓に苦しみ、まことに父なる神の救いを求めるしかない民たちこそシオンの娘。イエスのたとえ話の中でも「やもめ」の譬えが多いが、そこに「シオンの娘」のイメージが重なっていると思うのです。「シオンの娘(ベノーット・ツィヨーン)」が今「福音」「ともに食べ物、生きる糧を分かち合う喜びの中にいる。それが婚姻の席の譬えなのでしょう。ともに糧を分かち合う、神ともにいます席がなくなれば、断食せざるを得なくなる…。古い布きれや古い葡萄酒の譬えは、「法」を個々の情況、現在という状況を超えた普遍的なルールとして上から下へ押しつける(イエスの時代の神殿政治)ものであれば、「シオンの娘」を殺す法となり、苦しみのどん底にあるシオンの娘と食べ物を分かち合う、体と心の飢餓から救う「福音」を聴くときそれは「生かす法」となる、というメッセージだと感じるのです。

臨床心理士+公認心理師=なんなのさ?

  「臨床心理士」+「公認心理師」はどこに向かおうとしているのか
書評『精神科臨床における心理アセスメント入門』津川律子著2009年

~「臨床心理士さ〜ん!医師や薬といっしょに働ける公認心理師資格も取りましょうよ」みたいな本〜

キーワード 「薬物療法の恩恵」「心理査定の標準化」「事例の定式化」「薬効判定」「治験臨床心理士」

   職場で新たに同僚となった「臨床心理士」が大切そうに読み、あちこちにメモを挿み、付箋を貼りまくっている本があり、ちょいと見せてもらったのが上記の本。著者は日本大学心理学科教授、ロールシャッハテストを専らとし「公認心理師」国家資格化推進の旗を振っていた日本心理臨床学会の「古株」。

“臨床心理士側”が、日本心理臨床学会会長に森喜朗元首相を据えるなど、なりふりかまわない”政治工作”を行い、2005年に臨床心理士と医療心理師の二資格一法案が上程寸前までいったものが、医師会(日精協等)の反対で廃案となったところから始まった関係諸団体の”大迷走”が背景にある。現状は日本臨床心理士養成大学院協議会や臨床心理士資格認定協会ははしごが外されたかたちとなり、公認心理師のみが国家資格となり、公認心理師の指定試験機関として、資格認定協会ではなく「日本心理研修センター」が指定され、病院以外の、民間や福祉や教育領域等での心理支援業務においても“医師の指示に従う”ことが第一義となりそうな風向き。

本書は、「(主治医のいない患者はほとんどいないのだから)公認心理師資格を拝受し臨床業務における医師の権威と指示のもとで社会的地位と収入を目指しましょう!」というメッセージに満ち溢れていると感じられるが、もちろん、精神病院、医師、製薬会社の三位一体体制への“忖度”ゆえか、そのような文言は明言されてはいない。

本の第一章から、診療保険点数80点が認められている、漢字熟語の習得度から知能を察る、10分でできる知能検査・JART(ジャート)を紹介している(50問の漢字の読みテスト)。言い方を変えれば、“知能検査なんてこんなもの”みたいなメッセージが隠されているか。多くの患者をパッパッと捌かなければならない病院の予診にはうってつけなのだろう。うつ病薬SSRI・セルトラリンや統合失調症薬エビリファイ、プロナンセリンの宣伝もしている。「精神科臨床にいると、いかに薬物療法が患者に恩恵をもたらすかを実感し続けている。」と熱く語る。精神科病院における医師を中心としたチーム医療の課題(電子カルテ化)やそこにおける心理の役割として、「患者の標準化されたデータ提供」や、薬効判定を荷う重要性を語る。「薬効判定研究を医師ではない者が行うのは、第三者評価という点でも信頼性を高める。」「薬剤の効果判定に協力するのは、医療チーム全体への貢献である。例えば第Ⅳ相試験(市販後調査)等も貢献できる業務領域である。」「わたしは以前、“治験臨床心理士”について書いた。…今では関東にも関西にもいる。製薬会社の担当者がわざわざ私の研究室を訪れてきて、直接に治験の手伝いを嘱まれたことさえある。」と誇らしげに語っている。製薬会社社員が手もみしながら、医師ではない、心理職に近づいてくることへの「快感」があるのだろう。

ちなみに、SMO企業(治験施設支援機関)で働くCRC(治験コーディネーター)としての臨床心理士は、SMO最大手の「EP総合」で全国163名とのこと。全体では500名以上の臨床心理士が働いていると思われる。ここでは「臨床行為」に携わることは禁じられており、「神経心理学検査」を行いながら被験者たちの不安を取り除きながら、年収350〜400万円を得ることができ、製薬会社の新薬開発のために邁進することになる。臨床を目指して臨床心理士資格を得た者にとって、そこはバラ色一丁目?それとも地獄の一丁目?

心理アセスメントについてSFA(問題解決型アプローチ)とCBT(認知行動療法)のアプローチについて述べながら、医師や医療スタッフを支援するための「心理アセスメント」の標準化が求められており、それが「ケースフォーミュレーション(事例の定式化)に繋がり、ここに「心理」の役割が重要…みたいなことが述べられている。

本書の後半は「精神科臨床における心理アセスメントの六つの視点」が各章に分けて述べられている。
①トリアージ(対処優先性の判断) ②病態水準(適応水準、知的水準など) ③疾病にまつわる要素(器質性障害、薬物や環境因など) ④パーソナリティ(認知の特徴・ストレス・コーピングなど) ⑤発達(発達の偏りなど) ⑥生活の実際(家族関係・対人関係など)、「病院臨床」に仕えるための心得が述べられている。

特に気になる「薬物」については、『患者と主治医の間を円滑につなげるのも、精神科の臨床心理士にとって重要な仕事で、目立たず、黒子のようにして、しかも薬物療法という医師の専売特許を侵すことなく、これらを上手く心理面接の中で扱っていくというのも、大事な能力であり、心理アセスメントの視点である。』と述べている;。
著者は過去、単科の精神科病院、神経科クリニック、総合病院の神経科、大学病院の精神神経科で精神科臨床に従事してきたとのこと。ならば精神病院における多くの病める人々・当事者たちに出合ってきたはずである。が、一人一人の当事者たちの顔が本書からは見えてこない。また、精神科の投薬治療によってどれほど治療効果があがったのか、投薬治療によって当事者たちが脱薬のできない薬物依存症になるリスクなどへの薬害への言及がない。家族や地域社会の人間関係・社会から切り離されて収容される当事者たちの不幸についても言及していない。なによりも「精神病」に対する精神病院自体のエビデンス(治療効果)を問い直してはいない。

「病態水準」のところで、同じ心理職から「心理検査なんてやっていて貴方は恥ずかしくないの?」と言われた経験を紹介し、「表面的に人権派を装えば、抵抗ある心理検査の代表が知能検査であろう。身長を測らなければ低身長かどうか確定できないし、今後の治療で伸びたかどうかも確定できない。」と語る。

どこまでいっても、「臨床」の主体は病院であり医師であり、そこを離れたところで「臨床」が一人歩きすることは許さない、といった一部の医師の感覚に似たもので全体が満たされている。本来の「臨床とは何か」の根本的な問いは、ここには見当たらない。

確かに、臨床心理士資格を持っていても、収入が少なく、将来の生活設計が立てられない心理職が多い現実がベースにある。「臨床心理士と公認心理師の両方を持っていれば、医療現場では公認心理師より『上』の地位を得ることができ、明るい未来が開けますよ!」みたいな誘惑がこの本に感じられる。生活のためにもやむを得ない事情もあるだろう。薬物治療の効果を高く評価する心理職もいるだろう。
どのような現場であれ、どこから収入を得ているかとも関わりなく、臨床の原点、心痛めて病んでいる当事者の側に援助者として立ちきる覚悟があるかどうかが問われているのだろう。

死刑 執行停止法案の国会提出は可能か

第一目的は、この国に住む全ての人を対象に「広ク議論ヲ興ス」ことである。

課題としての「死刑廃止」を大前提に議論を進めるのではなく、死刑存続を求める人々との議論の接点を見失うことなく、様々な理由で議論を避けようとする人々の思いを汲みなだらも、全ての人に、日常語を基本にした議論を呼びかけたい。

 いったん死刑執行継続の手を止め、議論を広め深めるための時限立法「死刑執行停止法案」が早急に必要である。

そのため、一緒に運動を核となって担ってくれる国会議員を衆参にかかわらず一桁数でもリストアップし、上記の目的のために交渉と話し合いを進めなければならない。

死刑についての国際的潮流から議論を進めるのではなく、今日における政治的課題として取り上げるのでもなく、死刑囚の個人支援から訴えるのではなく、万民にとって避けられない、普遍的本質的な論点を取り戻したい。指標として、明治の啓蒙学者、津田真道「死刑ハ刑ニ非ズ」が書かれた時代背景、一方で死刑という「刑罰」を構築した時代の論点にまで遡りたい。 続きを読む 死刑 執行停止法案の国会提出は可能か

死刑・監獄問題の背景を探る

「日本の死刑廃止 (私的総括と展望)」

                           武田和夫

  2011年7月8日に京都自由大学において講座「日本の死刑廃止 ー私的総括と展望ー」がもたれた。講師は旧知の武田和夫氏。

 「死刑」については、情況論、政策論ばかりが目につき、本質論が論議されなくなっていると感じていたが、この講座の最初に、明治の啓蒙学者、津田真道の「死刑ハ刑ニ非ズ」の一節に出会い、本質論は最初から在ったことに改めて気付かされました。この講座での資料はとてもよくまとめられたものであり、これを講師の承諾を得て掲載させていただき、学びと考察、議論のための基礎資料にさせていただきたいと思います。

講座:日本の死刑廃止 私的総括と展望
2011,7,8 京都自由大学    武田和夫(建物管理技術者)

(講座への呼びかけ文)
死刑制度の撤廃、あるいは事実上の廃止を実現している国が世界の七割を占める現在、日本においては世論調査で死刑容認が85%を超え、死刑判決、執行も急増している。そして裁判員制度が実施されるなか、一般市民の手で死刑判決が出されるに至っている。
日本においても、死刑廃止法案が国会に提出され、あるいは死刑執行が一時期停止するなど、死刑廃止への機運が高まった時期はあったが、それが実現することなく現在に至っている。日本において死刑廃止は可能なのか。どこに障壁があるのか。
講義では、明治以降の近代法制化以降の日本の歴史のなかで、死刑廃止がどのように取り組まれたかを概観し、とりわけ’80年代以降の死刑廃止運動の経過を振り返って、各段階における問題点、論点を抽出し、司法権力の側の動向と併せて総括しつつ、現在の課題、今後の方向性を考える。
以下は配布された資料を転記したものです。 文中 ☆は武田氏の口頭によるコメント
★は金田が付記したものです。

Ⅰ.明治以降 一近代化と並行して
1880年(明治13)旧刑法の制定 執行方法を「絞首」の1種に。
変遷
仮刑律→新律綱領→改定律例へ。
執行方法は5種→3種→2種へ。死刑相当罪も減少)
★5種とは、刎 斬 磔 焚 梟刎=刎首(ふんしゅ・はねくび)
梟=梟首(きょうしゅ・さらしくび)

死刑にあたる罪として、皇室に対する罪、外患罪(絶対的死刑)、内乱罪を加える。

死刑廃止論津田真道(まみち)1829-1903(啓蒙学者)の死刑論」
『明六雑誌』に発表
①改善刑の立場から、死刑はその目的に合致しない
「死刑ハ刑二非ズ」
②一般予防的効果がない
③文明国家に相応しくない
☆津田はフリーメーソンの一員だったという説がある。
植木枝盛(えもり)1857-1892(自由民権運動家)
「世界ノ万国ハ断然死刑廃ス可キヲ論ズ」 『愛国新誌』に連載
人民に殺害・残酷の精神を造成する死刑の弊害を説く。
『東洋大日本国国憲案』(立志社憲法調査局として起草)
第四五条「日本ノ人民ハ何等ノ罪アリトモ生命ヲ奪ハサルべシ」
行刑実務家による死刑廃止論
佐野 尚「死刑を以て犯罪を圧止するの駁説を読む」
『大日本監獄雑誌』山崎柳蔵「死刑論」
『同』ペッカリーアの死刑廃止論、死刑存廃論の検討
小河滋次郎「廃死刑論」(『監獄協会雑誌』に連載)
「獄事談」「刑法改正の二眼目一死刑及刑の執行猶予」
→監獄の改良と死刑廃止を論じる
留岡幸助 「死刑廃止論」(『同』)

死刑廃止の立法活動
1891(明24)第一回帝国議会
刑法案審査特別委に大逆罪と尊属殺人を除く死刑の廃止動議

1900(明33)第一四回帝国議会
三好退蔵らによる死刑廃止法案(部分的)衆議院で審議未了

1901(明34)第一五回帝国議会
貴族院刑法改正委員会で審議、否決

1902(明35)第一六回帝国議会
衆議院刑法改正委員会で審議 死刑に制限を加える結論
本会議で全面的死刑廃止法案  (衆議院、貴族院)→否決

1907(明40)第二三回帝国議会
現行刑法への改正
花井卓蔵 死刑と無期刑廃止、懲役三○年を最高刑とする
法案提出 →否決
☆花井は弁護士出身。一人一党主義。第三代検事総長。
『何人も見る権利あり今日の月』の句を残す。

1910年(明治44)「大逆事件」24名中12名執行
死刑拡大するナチスドイツと共に戦争の道へ

1910年(大正10)刑法改正諮問結果として治安防衛的な四条の
死刑追加 →(1940年仮案へ)

1925年(大正14)治安維持法公布

1928年  緊急勅令で死刑を導入

2.戦後 一民主化とともに
木村亀二(かめじ)(1897-1972)(刑法学者)
新憲法の死刑存置は戦争放棄の思想と矛盾すると批判

1946年(昭21)『死刑論』
「死刑を保存しているか否かは、その国の文化の高さを示す尺度だとせられている。」
冒頭でフランス革命・ロベスピエールの死刑廃止論(1790年)を紹介。残酷な刑のあるところに犯罪が頻発する例として日本を挙げている。
「…真理と正義の見地からは、社会が万端の準備を整えて命ずるところの死刑の執行は、個人によってではなく国民全体によって合法的形式の下に行われるところの卑劣な殺人行為であり、公然たる犯罪以外では ない。」

1948年(昭和23)3月12日
最高裁判大法廷判決(死刑合憲判決)
「生命は尊貴である。一人の生命は全地球より重い」と言いつつ、
第13条「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」を、生命権の剥奪を予想していると解釈。

 更に、第31条「何人も、法律の定める手続きによらなければその
生命若しくは自由を奪われ、又はその他の刑罰を科せられない」を、法律の定める手続きにより生命を奪う刑罰を科することを定めているとした。

 更に、第36条「公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる。」については、執行の方法がその時代と環境において人道上の見地から一般に残虐性を有するものと認められる場合、火あぶり、はりつけ、等であるとした。

補足意見:
「その制定当時における国民感情を反映して右のような規定を設けたにとどまり、死刑を永久に肯定したものとは考えられない。」
正木 亮(あきら)(1892?1971)(弁護士)
「刑罰と社会改良の会」を組織  季刊誌『社会改良』発行
『死刑 消え行く最後の野蛮』(1956昭31)
平安時代三四七年間の「死刑廃止」を紹介

「安定し平和な時代には死刑は不要」 →しかし、当時は「安定」でも「平和」でもなかった。権力が非力だったため。
但し、(仏教が広まっていた当時)罪人の赦免は権力にとって「徳行」であった。

1956年(昭和31)
「刑法の一部を改正する法律案」(死刑廃止法案)
提出 羽仁五郎、市川房枝ら47名の参議院議員による
提出理由
冒頭「人の生命は尊貴なものであります。人の生命は畏敬されねばなりません。この普遍的基本原理の上に、自由と平和への愛が生まれ文化が形成されていくものと信じます。」
…15の条文全てにおいて「死刑」を削除すべし →1958年第28回国会で審議未了、廃案

死刑囚の闘い
松下今朝敏、代理人弁護士・向江埠悦(しょうえつ)の行政訴訟(1958年7月提起)
「現行死刑執行方法を以て執行される義務のないことを確認する」旨を求める。
憲法第31条の「法律の定める手続き」が監獄法に具体的に示されていない。現行の頸の周りに紐をかけ自己の体重によって締め窒息する」のは「絞首」ではなく「縊首」(えいしゅ)である。
「死刑が地球より重しとされた生命の剥奪であるということからみて、紋首でありさえすれば如何なる方法をとってもよろしいというような事を許していると解する訳にはいかないのである。(中略)それが憲法の要請なのである。→仮処分申請により判決まで松下氏の死刑執行が停止
1961年12月最高裁で棄却

孫斗八の闘いと平峯判決
「文書図画等閲読禁止処分に対する不服事件」
大阪地裁1958年8月20日判決「特別権力関係」のもとでも、その存立目的から合理的に不可欠と考えられる範囲を逸脱し、社会通念上著しく妥当を欠いている場合、要するに違法に人民の基本的人権を侵害するがごとき場合に鯛法救済を求めることができるとして、発信差し止め、新聞購読禁止などの処分を無効とした。

判決理由第三・死刑囚について:「…死刑制度は、これを存置する合理的理由に乏しく、死刑の廃止はもはや日時の問題だと思われる。原告は少しばかり早く生まれ、少しばかり早く犯したがゆえにその刑罰を背負わされたものということができよう。…死刑囚の刑の執行に至るまでの拘置生活において、人たるに値する生活を保障すべき度合が、未決拘禁者以下であってよい法律的、道義的理由は皆無である。」

この裁判の控訴審最中である1963年7月15日、孫斗八は突然「運動だ」と舎房から連れ出され、そのまま死刑台に拉致され、「だまし討ちにするのか!」と全力で抵抗するなかを無理やり処刑された。

法務省の復讐と「昭和38年通達」
1963年 孫斗八の処刑の直前である3月15日、法務省は一片の「通達」で監獄法(旧法)の死刑囚処遇規定を覆した。死刑囚に対する処遇に異議を申し立て、民事法廷で一部勝訴までかちとった孫斗八に対する報復と失地回復をはかったのである。

ここで法務省は監獄法第9条の解釈を明らかに間違えている。
(旧)監獄法9条「本法中別段の規定あるものを除く外刑事被告人に適用すべき規定は(拘禁、仮拘禁、留置、監置及び)死刑の言渡を受けたる者に準用す。」とは、別に規定がない場合は刑事被告人に適用する規定を死刑確定者にも準用する、という意味である。

接見、信書授受を規定する第45,46条は第1項で「在監者」一般には「之ヲ許ス」とし、第2項で受刑者、監置者には「別段の規定」を設けて制限している。従ってそれ以外の在監者(刑事披告人を含む)には制限のない第1項を適用するので、死刑確定者にもこれを準用するはずである。

ところが、法務省昭和38年通達は「…死刑確定者には監獄法上被告人に対する特別の規定が存する場合、その準用があるものとされているものの」(そんなことはどこにも書いてない!)「接見又は信書の発受については、同法上特別の規定は存在せず」(だから「在藍者」の規定を連用するのである!)「その制限は専らこれを監獄に拘置する目的に照らして行われるべきものと考えられる」(法務省の勝手な解釈である)となっている。

つまり、条文をありもしない内容に勝手に読み替えた一片の「通達」によって、国会審議も経ずに法律の内容を法務省の意図どおりに変更したのである。

◎法律の内容を「通達」で改変するこの「昭和38年通達」は、その存在すら明らかにされず、1985年(昭和60)の国会質問でやっと明るみに出た。

◎1983年から1989年にかけて次々と再審無罪をかちとった免田栄氏、赤堀政夫氏らはまだ接見、文通を制限されてはいなかった。1980年頃からの死刑確定者に対して、親族としか接見・文通できないという制限が加えられ始めた。このため赤堀氏以降の死刑再審の道が困難を極めている。

◎2005年(平成17)年「刑事施設及び受刑者の処遇に関する法律」が国会で可決され、翌年5月いわゆる「刑事主要施設法」として施行、明治以来97年間続いた監獄法は改正され、死刑囚を含む受刑者の接見、文通の制限も緩和された。このためかつての法務省通達の理不尽な内容を追及する必要性もなくなったかに見えた。

しかし拘置所の裁量による死刑確定者の交通権の制限がまたも繰り返されようとしており、あらためて法務省による死刑確定者処遇の歴史を洗い直すことが必要ではないかと思われる。

戦後第一次死刑廃止運動の衰退と 「吉展ちやん誘拐殺人事件」
1958年(昭和33)「死刑廃止法案」廃案
1963年(昭和38)「吉展ちやん誘拐事件」
犯人は身代金を略取したまま逃亡。犯人からの電話録音を一般に放送。
1965年(昭和40)別件で服役中の小原保を任意取調べ、自供させた。帝銀事件で無実の平沢氏を自白させた「名刑事」平塚八兵衛による取り調べ、「犯人自供」で二年越しとなったこの事件の大報道が戦後第一次死刑廃止運動の衰退に拍車をかけたのではないかと思われる。

1971年(昭和46)正木亮死去、翌年『社会改良』廃刊 3.80年代以降一国家・社会を問う

1979年(昭和54)5月27日「死刑制度撤廃に向けて」討論集会
救援連絡センター主催、約30名結集一新しい流れの始まり「無実の死刑囚」主体か「有実の死刑囚」への死刑反対を軸にするのか、様々な思考の混在する中で、次第に個々の死刑囚支援」が焦点に。

永山裁判闘争は「永山氏だけを支援すればよいのか」と孤立化 死刑廃止の会 日本死刑囚会議=麦の会発足

1981年(昭和56)8月21日永山則夫氏、高裁で無期減刑判決
11月「死刑は止めて」集会は死刑廃止運動の現状を反映
→有名人・文化人中心の集会となる。運動部分(死刑廃止の会、麦の会)は脇役に。 →永山裁判減刑判決を無視

減刑(検察側上告)以降、最高裁係属の死刑事件審理が、永山裁判上告審の結果を待って2年間停止。
「死刑存廃を決する判決」に。 →永山裁判弁護団は高裁判決を「情状判決」と理解し、「改俊の情を強調するため事実の弁解をしない」方針で臨んだ。

1983年(昭和58)7月8日 最高裁判決内容「第二審判決は…はなはだしく刑の量定を誤ったもので、これを破棄しなければいちじるしく正義に反する」

しかし「個別死刑裁判」への関心が、以降1984年から開始された最高裁死刑事件審理に集中。 二件の確定判決の後、冤罪を主張する晴山広元氏の審理が弁護団の強力な弁護活動により、1985年に弁論が行われた後判決に至らず。

次に予定されていた企業爆破事件審理は、弁論予定が86年6月から11月7日に延期、さらに被告らは弁論延期を主張、支援連絡会議が弁護団の説得をはじめる。

最高裁は死刑廃止運動による支援が顕著な二被告(秋山氏、木村氏)の弁論期日を決定(秋山氏は職権で期日を指定)、1ケ月間に三件の弁論を設定して突破を図ったが、11月7日(企業爆破)弁護団の交渉で延期(翌年2月の開催を裏で約束) 11月28日(秋山氏)弁論を受けるという弁護人を被告が説得し辞任させる 12月18日(木村氏)弁護団が延期請求、裁判所はやむなく延期。三件全てを延期させた。(この年、死刑確定者ゼロ)

この連続闘争で、全国各地の企業爆破関連裁判支援者と死刑廃止運動が共闘、死刑廃止運動が全国化する契機となるとともに個別死刑囚支援の輪が広がっていった。

刑法改正の動き ‘80年代当初、日弁連や人権団体にとって憂慮すべき政府の動向は、1974年に法制審で決定された草案に基く「刑法改正」の動きであった。

この草案は、犯罪を行った精神障害者を治療ではなく刑事処分である「保安処分」に処する、常習累犯の規定を新設し不定期刑を導入する、などの治安立法的色彩が強く、学者、日弁連、人権団体など各方面から批判を受けた。

他方、死刑相当罪のうち殆んど適用のない数罪を減らすなど、死刑廃止の国際世論も意識しており、見方によっては、将来の死刑廃止を見越して死刑に代る保安処分制度を導入しようとしたともとれる。

しかしながら欧州で先行する保安処分が実効性を失いつつあるなかで、’85年(中曽根政権)頃から自民政府の方向性は、保安処分をあきらめ死刑強化一本に絞られていった。法改正自体は全条文の口語化(’95年)以外は部分的改正に留まった。
死刑廃止運動内部では「死刑廃止の代りに保安処分を認めよう」という発言もあったが、ほとんど支持を得られなかった。

国連人権委への働きかけ 国連人権規約を批准している日本政府は、国内の人権状況に関して5年に1回、報告書を提出し審査を受ける義務を負う。各国政府は、政府報告と民間NGOの報告を併せて提出する。しかし日本政府は、政府だけで報告を出し、民間は独自にカウンターレポートを提出した。死刑の運用に関する政府報告は事実と異なり、不誠実なものであった。

1988年の審査に対する政府報告の死刑条項に関する部分に対して、死刑廃止運動がカウンターレポートを提出、日本代表が各国委員から厳しく批判された。 委員会は最終コメントで「死刑判決の驚くべき増加に対する憂慮」を表明。また「多くのNGOやグループがそれぞれの立場から日本の人権問題への関心を呼び起こした」と、民間グループの活動を評価。以降、国連人権委は審査の都度日本政府に死刑廃止に向けた措置を講ずること等を勧告。

1988年8月 第一回死刑廃止運動全国合宿
(全国救援活動者交流会分科会として)

1989年9月 第二回死刑廃止全国合宿(62名)
以降単独で開催

1989年12月16日 国連総会で「死刑廃止条約」を可決。

1990年2月   死刑廃止国際条約の批准を求めるフォーラム90
発足 12月10日 フォーラム90、死刑執行停止連絡会議、アムネスティ日本支部共催で1300人集会(日比谷公会堂)

1991年2月 大阪かたつむりの会主催「寒中死刑大会」700名結集
1992年3月 第2回フォーラム
仏死刑廃止時の法相バダンテール氏を招聘
1993年5月 刑法学会で死刑廃止アピールが提起、約100名署名へ
1993年7月 アジアフォーラム開催
(フィリピン、香港、台湾、韓国代表団を招聘)
1989年11月以降の死刑執行が停止

1993年3月26日
法相後藤田正晴が「法秩序がゆるがせになる」と死刑執行
→全国一五都市で抗議集会
後藤田執行の問題点 国連死刑廃止条約を受けた状況の中で執行が止まり、死刑存廃が問われている時にただ「法秩序」を言うだけで、議論を回避した。
死刑執行に慎重を期するための法務省権限を「執行する職務」にすり替えた。
執行3名のうち1名は明らかに統合失調症を発症しており、これこそ法務大臣が職権で執行を止めるべき状態だった。  それまでに四国フォーラムが街頭で「死刑いる・いらない」を端的に問うアンケートを実施し、「いらない」が多いという結果が出ていた。
後藤田氏は自伝で、このアンケートに言及し、「死刑賛成が多かった」と虚偽の記述をしている。

1995年3月 オウム真理教サリン事件

1997年8月 永山則夫処刑 世論調査について
問題点:「死刑に賛成か反対か」と端的に訊かず、「どんな場合でも死刑を廃止しようという意見に賛成ですか」という訊き方をする(1994年以降は、「どんな場合でも死刑は廃止すべきである」「場合によっては死刑もやむを得ない」の選択となる)。
さらには、この質問の前に「凶悪犯罪は増えていると思うか」という質問を行って、殺人事件が漸次減少傾向にある現実とかけ離れた結果(「ふえている」1980年 84.1%、1989年90.8%)を得ており、このような調査対象者の主観が前提となったかたちで、上記の質問に入っている。事実上の誘導尋問である。

調査結果の比較(%)
存置 (うち将来廃止)①  廃止② 分らない ①+②の合計
75年  56.9 ・・・・・・・・・・・( 8.6) ・・・20.7・・・ 22.5・・・・・・・・・ 27.3
80年  62.3 ・・・・・・・・・・・( 7.6) ・・・14.3・・・23.4・・ ・・・・・・・ 20.1
89年  66.5 ・・・・・・・・・・・(10.4) ・・・15.7・・・17.8・・・・・・・・ ・25.0
94年  73.8 ・・・・・・・・・・・(29.2) ・・・13.6・・・12.6・・・・・・・・・ 42.2
99年  79.3 ・・・・・・・・・・・(30.0) ・・・ 8.8・・・11.9・・・・・・・・・ 38.8
04年  81.4 ・・・・・・・・・・・(25.8)  ・・・6.0・・・12.5・・・・・・・・ ・31.8
10年  85.6 ・・・・・・・・・・・(29.3) ・・・ 5.7・・・ 8.7・・・・・・・・・ ..35.0

「凶悪事件」キャンペーンの中で存置派は増え続けているが、そのなかでも「死刑廃止」と、「将来は廃止してよい」の合計が‘80年から94年にかけて増加しており死刑廃止運動の影響が窺える。

‘90年代に運動が壁に直面して以降、これも後退気味となるが,10年の調査ではまた増加に転じている。これは社会的に死刑問題への関心は広がっていることの反映ではないか.。

4.現状と今後 2.000年以降.死刑判決が激増するとともに、「無差別殺人事件Jが頻発する。
1999年 池袋路上、下関駅で通り魔殺人事件

2001年 池田小学校事件  児童8人を殺害、15人に重軽傷

2002年 長崎で12歳の少年が幼女を殺害

2007年 土浦事件(8人殺害)秋葉原事件(7人殺害)

一審の死刑判決数と死刑執行数
一審死刑判決
……………..’96   ’97   ’98   ’99   ’00   ’01   ’82   ’03   ’04   ’05   ’06   ’07   ‘08
判決数……..1……3……7…….8….14…10….18….13….14….13…13…….4……5
執行数    6……4……6…….5……3…..2……2……1……2…..1…..4…….9….15

‘93年の執行再開後、増加していた死刑執行は、一時沈静化の傾向を見せたが、これは死刑確定者の再審請求を支援する動きとも関連している。
しかし死刑判決の絶対数に押され、更には‘07年に法相鳩山邦夫の「ベルトコンベア一発言(執行を自動的に進める方法を考えてはどうか)」があり、執行が急増している。

司法改革の実態 1996年
法務省、「司法制度改革」で「終身刑導入」めざすと発表
終身刑の導入は表向き直ぐに姿を消し、翌年与党3党(当時自民、保守、公明)が検討を開始。
この方向性が公明党によって死刑廃止運動に伝えられ、呼応する動きが出る →「司法改革」路線は死刑と無期の間に終身刑を入れて死刑を安定化させるもの。
死刑廃止運動は「死刑を廃止し代替刑としての終身刑」に期待
→2002年議員連盟事務局案は「死刑と無期の間に終身刑」で運動側混乱
<法案提出は自民党保守派に潰される→この段階では現状維持で十分と判断?

1999年 法務省、「陪審制導入」を掲げる
→「裁判員制度」に変質し2009年より実施:
市民よる裁判の監視ではなく、死刑強化の現状に市民を加担させるもの
死刑事件の弁護に対するバッシング

2007年 光市母子殺害事件上告審を巡って、ニュースショー番組が報道をエスカレート、進行中の審理内容に立ち入って感情的な批判を繰り返し、タレント弁護士が無責任に弁護団の「懲戒請求」を煽り立てた。

★2007年11月 少年院送致の対象年齢14歳以上を、おおむね12歳以上に引き下げる法律案が自民・公明両党の賛成で可決。

2009年裁判員制度開始市民が手ずから犯罪者を死刑にする状況を現出

国際的な動き
日本国内とは対照的に、全面的死刑廃止国95、通常犯罪のみの死刑廃止国9、 10年以上執行のない事実上の廃止国35、合計139カ国が事実上死刑廃止となり、存置58カ国を大きく上回る(‘09年現在)。

死刑廃止世界会議の開催
2001年以来4回開催世界死刑廃止連盟結成(2002年NGOのネットワーク 日本も参加) 毎年「世界死刑廃止デー」(10月10日)を設定 →何が問題か→運動を取り巻く状況→この国のあり方…

●「大衆的な異議申し立てを徹底的に無視し、却下し、異端視する政治文化」それは反原発、反公害等あらゆる運動に対して共通する。
●「政治風土一般ではなく、特権部分と結んでそれを強力に進める勢力の存在」死刑制度においても常に「巻き返し」を図る最高検の存在がある。

●最高検一法務省は死刑廃止を求める国際機関の勧告に一切耳を貸さないばかりか、国連人権委の審査に対して、「死刑執行」で応えるようなことをする。→運動側の課題

●状況分析の弱さ?司法改革による「終身刑導入」に対する混乱

●真のネットワーク化が実現できず「東京」に依存する体質の克服が必要

●今の社会状況に対する有効な死刑廃止の訴えが足りない
明治期の死刑廃止=死刑存続の社会的悪影響を強調
戦後の死刑廃止=民主憲法の精神と生命の尊貴を訴え

‘80年代以降の死刑廃止=全ての人が共に生きる社会を目指す

今後の展望

○ あらゆる運動に共通の壁があることが、あらゆる運動をひとつに結ぶ →全体的視野を獲得し、国家社会の根本的変革へ

○ 上からの改革」に頼らず、地域、生活の場における協働により具体的な変革を

○ 日本の国際的評価の低下、相次ぐ冤罪問題による検察の権威失墜は、国際人権機関に対する法務官僚の居直りに影響するか?

○ 死刑囚と共に生きるという原点に還るとともに、様々な領域に出かけて自分の言葉で訴えることが必要。

○ 死刑制度に対する関心は確実に広がっている。

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