2020年8月30日 東淀川教会礼拝 イザヤ書6章 ルカ福音書22章 宣教題「汚れた唇の者なれど」宣教 金田恆孝

イザヤ書6章5-10節
5 その時わたしは言った、「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ。わたしは汚れたくちびるの者で、汚れたくちびるの民の中に住む者であるのに、わたしの目が万軍の主なる王を見たのだから」。

6 この時セラピムのひとりが火ばしをもって、祭壇の上から取った燃えている炭を手に携え、わたしのところに飛んできて、

7 わたしの口に触れて言った、「見よ、これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの悪は除かれ、あなたの罪はゆるされた」。

8 わたしはまた主の言われる声を聞いた、「わたしはだれをつかわそうか。だれがわれわれのために行くだろうか」。その時わたしは言った、「ここにわたしがおります。わたしをおつかわしください」。

9 主は言われた、「あなたは行って、この民にこう言いなさい、『あなたがたはくりかえし聞くがよい、しかし悟ってはならない。あなたがたはくりかえし見るがよい、しかしわかってはならない』と。

10 あなたはこの民の心を鈍くし、その耳を聞えにくくし、その目を閉ざしなさい。これは彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟り、悔い改めていやされることのないためである」。

ルカ福音書22章52-53節
22:52
それから、自分にむかって来る祭司長、宮守がしら、長老たちに対して言われた、「あなたがたは、強盗にむかうように剣や棒を持って出てきたのか。
22:53毎日あなたがたと一緒に宮にいた時には、わたしに手をかけなかった。だが、今はあなたがたの時、また、やみの支配の時である」。

 宣教題「汚れた唇の者」なれど

 そのひとが知らない闇の向こう側で、公ではない「模擬裁判」が行われ、その人に対する、公ではない有罪判決(唇の汚れた者・罪人・○○差別者・ミソジニスト)が下され、「交ざると危険」とばかりにそのひとの名前やら罪状が闇の中で流布されていることがある。

 そのひとがひとたび口を開くと、その罪状故に“その目で見ず、その耳で聞こうとせず” 無視されたり揶揄されたり、更に影の向こうから石つぶてが飛んでくることもある。“裏”ですでに審判、判決が下されている「しるし」だろう。

 逮捕される場面でイエスが語った“毎日あなたがたと一緒に宮にいた時には、わたしに手をかけなかった”とは、神殿前など公の場や人々の中で、彼らがどれほどイエスやその仲間たちの言葉や行いについて苦々しく思っていたとしても、それについて議論したり、その罪を明らかにしようともせず、おそらくパリサイ派を先頭に、文字通り“闇の中で”、“多勢による逮捕”という、彼らが“正義”と信じて疑わない行為に対して発せられた言葉だったと思う。記者ルカは、それに続き「今はあなた方の時、闇の支配の時」と語るイエスを描く。

 21世紀はインターネットにおける文字や絵を用いた情報の発信・共有ツールが広まると共に、高速道路や一般道路におけるNシステム(自動車撮影システム)や防犯目的として一般道路でも自動ビデオ撮影が無制限に広がっていった時代。それらはいつでも国家による個人情報の管理、行動や人間関係の把握システムに変わり得る。

 キリスト教を少し振り返っただけでも、“サタン”を指定し、それと戦う自らの宗教(セクト)を絶対化し、敵と看做した相手と戦うことを“信仰”としてきた歴史は、十字軍や魔女狩り裁判を引き合いに出さなくても、現代も続いている。

 “自分たちこそが社会的弱者、被害者の側に立ち正義を執行する者”の自負を持ち、“敵”を裁く公的ちからを求め、自分たちの尺度で“有罪”を決め、自分たちのネットワーク内とはいえ、有罪者情報を流布する行為は、国家による、反国家・反社会的人物情報を収集する公安・警察と何ら変わることはない。

  過ちを繰り返さないためにもっとも必要なことは、それぞれの唇が汚れていることを前提に、互いが直接に出会い、互いの思いを交流させ、各々のセクト(立場や派閥)に依らず、その目で見、その耳で聞き、その心で何が本当の問題かを悟り、互いが固守する論理や姿勢を悔い改め、互いが天(神)に生かされる道を探ることしかない。そのための場として教会が用いられたらと願うが、“和解のための話し合い”の場を教会に求める文化はあまりない。

 たとえ各々が罵り合う、罵声を浴びせ合うことから始まるとしても、イザヤの、“我汚れた唇の者なれど”から出発し、セラフィムに唇を浄化されることを願えば、道は開かれると思う。が、今は“闇の支配の時”なのだろう。

先週の出来事

安倍首相が辞任表明。軍事大国で世界に覇権(ヘゲモニー)を強めてきた米国に対してこれまでのような親米従属関係の首相が選ばれるのか、米国従属から脱却し日本独自の道を探る首相が選ばれるのかが関心事ではある。

2020年8月23日 東淀川教会礼拝 創世記2章21-25節 イザヤ書3章14-17節 マルコ福音書10章1-12節 宣教要旨「祝福と戒めの取り違え」宣教 金田恆孝

創世記2章21-25節

21 そこで主なる神は人を深く眠らせ、眠った時に、そのあばら骨の一つを取って、その所を肉でふさがれた。22 主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた。23 そのとき、人は言った。「これこそ、ついにわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。男から取ったものだから、これを女と名づけよう」。24 それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。25 人とその妻とは、ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった。

イザヤ書3章14~17節
14 主はその民の長老と君たちとをさばいて、「あなたがたは、ぶどう畑を食い荒した。貧しい者からかすめとった物は、あなたがたの家にある。15 なぜ、あなたがたはわが民を踏みにじり、貧しい者の顔をすり砕くのか」と万軍の神、主は言われる。16 主は言われた、シオンの娘らは高ぶり、首をのばしてあるき、目でこびをおくり、その行くとき気どって歩き、その足でりんりんと鳴り響かす。17 それゆえ、主はシオンの娘らの頭を撃って、かさぶたでおおい、彼らの隠れた所をあらわされる。

マルコによる福音書10章1~12節
10:1それから、イエスはそこを去って、ユダヤの地方とヨルダンの向こう側へ行かれたが、群衆がまた寄り集まったので、いつものように、また教えておられた。10:2そのとき、パリサイ人たちが近づいてきて、イエスを試みようとして質問した、「夫はその妻を出しても差しつかえないでしょうか」。10:3イエスは答えて言われた、「モーセはあなたがたになんと命じたか」。10:4彼らは言った、「モーセは、離縁状を書いて妻を出すことを許しました」。10:5そこでイエスは言われた、「モーセはあなたがたの心が、かたくななので、あなたがたのためにこの定めを書いたのである。10:6しかし、天地創造の初めから、『神は人を男と女とに造られた。10:7それゆえに、人はその父母を離れ、10:8ふたりの者は一体となるべきである』。彼らはもはや、ふたりではなく一体である。10:9だから、神が合わせられたものを、人は離してはならない」。10:10家にはいってから、弟子たちはまたこのことについて尋ねた。10:11そこで、イエスは言われた、「だれでも、自分の妻を出して他の女をめとる者は、その妻に対して姦淫を行うのである。10:12また妻が、その夫と別れて他の男にとつぐならば、姦淫を行うのである」。

      宣教題「祝福と戒めの取り違い」
 生物学的には、人類の祖先は単性生殖だったらしい。つまりすべてが子どもを産むことができる「女性」。が、単性生殖の生物が同族繁殖を繰り返すとすべての子どもが同じ母からのDNAを受け継ぐことになり、単一的な環境にのみ適応できる身体となり、免疫的には外的なウィルスなどの侵入に対してどんどん弱くなってしまう。そこで生まれる子の身体の一部を変化させ、「男性」として分化させ、両性生殖により、各地に散って変化し多様化した異性同士による生殖により、多様な遺伝子と免疫力を手に入れられるようになったらしい。(男性にも乳首が残っている理由でもあるらしい)。

 イーシとイーシャとに別れ、新たな遺伝子を持つ異性と出会い、それぞれが父母から離れ、各々が互いを助け手として一体となる。「産めよ増えよ地に満ちよ」とは、アフリカから世界に散った様々な人種が互いの違いを受け入れ、文化が混じり合うことに神の祝福が与えられる、と受け止めたい。

 聖書に現れる「姦淫」の用語は、本来、神と共に歩む民(イスラエル)全体を「シオンの娘」と呼び、神なる「夫」との婚姻を目指す民が神との対話を忘れ、神ならぬものを神とし、単一の民族が他民族を力で支配し、自然を独占する傲慢な民となることを指す言葉が「姦淫」であった。

 古代の遊牧生活、移動の生活では、狩猟、交渉、戦闘などの役割と共に、群れのリーダーは屈強な男性が引き受けることが多く、群れの中で子どもや老人や女性は強い男性たちによって守られ、結果的に女性は男性に従属するもの、という制度すら多くあった。モーセの「離縁状=奴隷的な女性の立場の解放」もまたそんな文化を背景としている。

 イザヤ、そしてイエスが語る「姦淫」は、そもそも「神の民」を自称しているイスラエルそのものが神に対して「姦淫」していることこそが大問題であり、すべての人が「姦淫の民」であることを大前提としていると思われる。

 死別したり様々な理由によって離縁した男や女が新たな人と契約を結ぶことはごくあたりまえの日常風景だった。エルサレムの神殿にも“神殿娼婦(夫)”がいたという記録もある。神に対する姦淫をそっちのけにして、男女関係だけで「姦淫」を取り立てて問題としているけれど、みんなもれなく「姦淫の民」なんじゃないか? と逆に問い返していると思われる。

先週の出来事

東京や大阪、名古屋など大都市でのオフィスにおけるコロナ感染の広がりは、早くであれ、ゆっくりであれ、止められそうもないと感じられる。ひとりひとりの命最優先と「建前上」いいながらも、国の経済力を支える企業活動をこの国は止めることはできないのだろう。結果的には、スウェーデンのような、全体が集団免疫を目指す方向に向かうしかないのでは、と感じられる。

2020年8月16日 東淀川教会礼拝 列王記下4章32-36節 ルカ福音書14章1-6節 宣教要旨「濃厚接触で癒やす預言者たち」 宣教 金田恆孝

列王記下43236
32 エリシャが家にはいって見ると、子供は死んで、寝台の上に横たわっていたので、
33 彼ははいって戸を閉じ、彼らふたりだけ内にいて主に祈った。
34 そしてエリシャが上がって子供の上に伏し、自分の口を子供の口の上に、自分の目を子供の目の上に、自分の両手を子供の両手の上にあて、その身を子供の上に伸ばしたとき、子供のからだは暖かになった。
35 こうしてエリシャは再び起きあがって、家の中をあちらこちらと歩み、また上がって、その身を子供の上に伸ばすと、子供は七たびくしゃみをして目を開いた。
36 エリシャはただちにゲハジを呼んで、「あのシュネムの女を呼べ」と言ったので、彼女を呼んだ。彼女がはいってくるとエリシャは言った、「あなたの子供をつれて行きなさい」。

ルカによる福音書14章1-6節
14:1ある安息日のこと、食事をするために、あるパリサイ派のかしらの家にはいって行かれたが、人々はイエスの様子をうかがっていた。
14:2するとそこに、水腫をわずらっている人が、みまえにいた。
14:3イエスは律法学者やパリサイ人たちにむかって言われた、「安息日に人をいやすのは、正しいことかどうか」。14:4彼らは黙っていた。そこでイエスはその人に手を置いていやしてやり、そしてお帰しになった。
14:5それから彼らに言われた、「あなたがたのうちで、自分のむすこか牛が井戸に落ち込んだなら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか」。14:6彼らはこれに対して返す言葉がなかった。

      宣教題「濃厚接触で癒やす預言者たち」

 預言者エリアを養った貧しい母子家庭の息子が死んだときの癒やしもそうですが、エリシャの癒やしのわざもまた「濃厚接触」による癒やしでした。その身を生命活動を停止した少年に隅々まで重ね、一体化する行為でした。少年の病を我が身に移し、我が身のいのちを少年に注ぎ出す行為である。身体を自身の体温で温め、歩き回りながら祈り続け、また身体を少年に重ね、少年が癒やされなければエリシャもまた癒やされずともに死ぬという、文字通り必死の覚悟による行為なのでしょう。

  ここに出てくるエリシャに仕えていた「ゲハジ」は、欲に目が眩んで皮膚病になりエリシャの元を去った人です。イスラエルのヨラム王の頃、北方の強国アラムの王に仕える軍司令官であり異教徒であり重い皮膚病に悩むナアマンがエリシャに癒やしを求めたとき、顔も見ないで「ヨルダン川で七回身を洗いなさい」とエリシャから告げられ、ぞんざいな癒やしと感じて怒り帰ろうとしますが、部下の助言でエリシャの言葉に従い癒やされ、神の働きを感じ、もとの国に戻ってもエリシャの教える神に従おうとします。

 身を重ねての癒やしとは正反対の、言葉だけの癒やしですが、救いを求めたナアマン司令官を、たとえ敵国であろうと主が憐れまれることに確信があったのでしょう。神のなさったわざゆえに、お礼の品々を受け取ろうとしなかったエリシャに代わり、黙って、高価な品々を受け取ろうとし、エリシャの怒りを受け、ナアマンの皮膚病が移り、エリシャの元を去った「ゲハジ」の悲しい姿があります。「貧乏な自分たちが、癒やされた金持ちからの贈り物を受け取ってなぜ悪い!との思いが、神の働き、エリシャの信仰を裏切ったことになったのでしょう。(列王記下5章) 結婚式のバイトなどで生活費を稼いでいる牧師たちにもグサッと突き刺さる箇所です。

 ルカ福音書の、安息日にファリサイ派の家に食事に招かれてそこに「水腫」を煩っている人がおり、イエスが「安息日に苦しんでいる人を癒やすことは正しいことか?」と問い、手を置いてその人を癒やした、という記事があります。

 ファリサイ派はローマの総督と繋がり、イエスを捉えようとしていた一派です。水腫の人を癒やした記事はここだけです。本人が癒やしを求めたわけでもありません。「水腫」は肺水腫であれ、腹水であれ、下肢が膨れる病であれ、「富んで膨れ上がって病んでいるローマ帝国側」を象徴していると感じられるのです。

 強大な軍事力で周辺諸国を支配し、「ローマ市民」資格をもつ人々は労働を奴隷にさせ、倦くほどの贅沢な食事のため肥満や糖尿病に悩んでいたとの記録もあります。

 「神に生かされること」と「謝儀や食料や軍事力や医療や財産や保険などに生かされること」の分岐点はどこにあるのでしょう。エリシャとゲハジについて、イエスの言葉について、あらためて主の言葉を聞きたいと願います。

先週の出来事

 韓国の元徴用工訴訟の訴状受け取り自体を拒否している日本政府。訴状内容が一般に公開されていない。日本国政府側の言い分はともかく、訴えられている内容を詳細に知る義務は私たちにあると思うのですが、ほとんど報道されません。インド洋の島国モーリシャス沖で三井商船が運航する大型貨物船が座礁し大量の燃料が流出した大事故。環境非常事態宣言がモーリシャスから発信されている。コロナ騒動で東京都などから出される○△□宣言より緊急事態だと思われる。広島・長崎の「過ちは繰り返しません」の宣言の核心部分、「過ちを防ぐためにはどうしたらいいのか」のこころそのものが薄らいでしまっていると感じてしまう。

2020年8月9日 東淀川教会礼拝 イザヤ書2章1-5節 マタイ福音書22章1-14節 宣教要旨「王権国家へのメッセージ」 宣教 金田恆孝

イザヤ書 第2章1-5節
1 アモツの子イザヤがユダとエルサレムについて示された言葉。
2 終りの日に次のことが起る。主の家の山は、もろもろの山のかしらとして堅く立ち、もろもろの峰よりも高くそびえ、すべて国はこれに流れてき、
3 多くの民は来て言う、「さあ、われわれは主の山に登り、ヤコブの神の家へ行こう。彼はその道をわれわれに教えられる、われわれはその道に歩もう」と。律法はシオンから出、主の言葉はエルサレムから出るからである。
4 彼はもろもろの国のあいだにさばきを行い、多くの民のために仲裁に立たれる。こうして彼らはそのつるぎを打ちかえて、すきとし、そのやりを打ちかえて、かまとし、国は国にむかって、つるぎをあげず、彼らはもはや戦いのことを学ばない。
5 ヤコブの家よ、さあ、われわれは主の光に歩もう。

マタイ福音書22章1-14節
22:1イエスはまた、譬で彼らに語って言われた、
22:2「天国は、ひとりの王がその王子のために、婚宴を催すようなものである。
22:3王はその僕たちをつかわして、この婚宴に招かれていた人たちを呼ばせたが、その人たちはこようとはしなかった。
22:4そこでまた、ほかの僕たちをつかわして言った、『招かれた人たちに言いなさい。食事の用意ができました。牛も肥えた獣もほふられて、すべての用意ができました。さあ、婚宴においでください』。
22:5しかし、彼らは知らぬ顔をして、ひとりは自分の畑に、ひとりは自分の商売に出て行き、
22:6またほかの人々は、この僕たちをつかまえて侮辱を加えた上、殺してしまった。
22:7そこで王は立腹し、軍隊を送ってそれらの人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。
22:8それから僕たちに言った、『婚宴の用意はできているが、招かれていたのは、ふさわしくない人々であった。
22:9だから、町の大通りに出て行って、出会った人はだれでも婚宴に連れてきなさい』。
22:10そこで、僕たちは道に出て行って、出会う人は、悪人でも善人でもみな集めてきたので、婚宴の席は客でいっぱいになった。
22:11王は客を迎えようとしてはいってきたが、そこに礼服をつけていないひとりの人を見て、
22:12彼に言った、『友よ、どうしてあなたは礼服をつけないで、ここにはいってきたのですか』。しかし、彼は黙っていた。
22:13そこで、王はそばの者たちに言った、『この者の手足をしばって、外の暗やみにほうり出せ。そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう』。
22:14招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない」。

      宣教題「王制国家へのイエスのメッセージ」

 共観福音書が成立した時代は、ローマなど王を頂点とした国に、各派(セクト)が潰されないよう、「王制」との調和を図ることが大きな課題だった。当時の王制と調和を図りつつイエスの王制へのメッセージを残す苦労が隠されていると思われる。

 イザヤ書における「諸々の国のあいだを裁き」。これは「すべての国々の関係を裁く正義」の実現を目指した「国連」。そのビルの前にあるイザヤ碑文のことばであるとのこと。すべての民が至上の主権者であり、国は他国と戦うことを止め、あらゆる武器は生活用具に変えられる…国々は移動自由な、各自治に基づく村々に変わっていく…イザヤのビジョンは武装放棄の先にある。

 イエスは明らかに名もなき草の民を服従追従させる王制についての断罪を止めなかった。十字架以後福音書記者たちは、王制を認めたうえで、良い王、悪い王、神の国の王、といったイメージにイエスの宣教を変化させることに苦心惨憺したと思われる。

本日のマタイ福音書の箇所は、王制の本質についてイエスの語った言葉が多く秘められている。

 ※王制は軍人と武器武力に依ってこそ成立し、収奪した富と徴税によって得た富を上手に操作し、恩恵と恐怖で地域の人々の目と心を自分に向けさせる。

 ※王は王や王家に係わる慶弔とその儀式に人々の目を向けさせ、セレモニーに参加させ、王家を讃え、王家の喜びを民の喜びとし、王家の悲しみを民の悲しみとし、死ぬまでの忠誠を誓わせる。

 ※王家に貢献した者、王に表彰された者は恩恵が約束され、特別な地位が約束される。が、このセレモニーに参加しない者、恩恵を喜んで拝受しない者は反逆者として罰せられたり殺される。

 ※服従しているふりをしても、王家に対して忖度しない者、王家に対する礼節をわきまえない者は恩恵や保障から排除されるか、追放される。

 ※王制は王や王家に喜んで従う者たちがいないと成立しない。食べ物やお金などでほっぺたをひっぱたいても人を集め、追従する人数の多さが王の価値を決定する。逆に言えば、人々が王から“回れ右”で逃げだし、王の下に留まらなければ王制は崩壊してしまう。

 このような、目に見えない「強者」と「弱者」の関係を、ユーモラスに、子どもにもわかる視覚的なイメージを用いて人々に伝えたと思われる。

 そんなイエスたちのメッセージが、いつの間にか「神の国に招かれる者は多いが選ばれる者は少ない」というメッセージの方向に曲げられている。ルカによる福音書ではこの王が“貧しい人々やハンディを負っている人々をこそ招く良き王”としてメシアイメージと重ねられて表現されている。

 何かで訴えられた場合は、警官に捕まるか裁判所に行く前に、相手と和解した方がいい(警官に捕まったり裁判で裁かれたらひどいことになる)とか、右の頬を打たれたら、左の頬を差し出した方がダメージは少ない、などの“助言”は、王や王家や追従者たちを軽んじては危険だよ、という隣人への慈しみに満ちているが、イエスたちは、草の民に対する加害者たちへ、「悔い改めよ」とのメッセージとともに、批判のメッセージを主なる神から託された預言者的な役割として、あの十字架まで止めようとはしなかったと思うのです。

先週の出来事

原爆傷害調査委員会(げんばくしょうがいちょう原爆傷害調査委員会(Atomic Bomb Casualty CommissionABCC)とは原子爆弾による傷害の実態を詳細に調査記録するために、広島、長崎への原子爆弾投下後後に米国が設置した民間機関。そこで検査された人たちの証言を報道番組で聞いた。日本の医師や研究者たちも動員されたが、治療もせず、検査を拒否しようとしても“協力しないと軍法会議”と脅され、解剖された検体も写真データも検査データも米国に持ち去られ、科学者、医師たちによる加害行為は戦後も続いた。“原爆は戦争を終わらせるため” “被爆者の調査は医学の発展のため”という加害“当事者”の感覚は今も続いているし、更に米国側の“リメンバー・パールハーバー”、「我々をヒロシマ、ナガサキの加害者と言うが、先にとんでもない攻撃を仕掛けた、太平洋戦争をおっぱじめたのは日本であり、真珠湾攻撃で殺された数多の無念を我々は決して忘れない」との“現在の証言”に触れて、武器弾薬爆弾以上に“戦争を継続拡大させるもの”にあらためて触れた思いでした。

2020年8月2日東淀川教会礼拝     ヨナ書章6-11節マルコ福音書4章30-32節 マルコ福音書13章14-19節宣教題宣教題「さばきのときはいつか」

ヨナ書4章6-11節
時に主なる神は、ヨナを暑さの苦痛から救うために、とうごまを備えて、それを育て、ヨナの頭の上に日陰を設けた。ヨナはこのとうごまを非常に喜んだ。ところが神は翌日の夜明けに虫を備えて、そのとうごまをかませられたので、それは枯れた。やがて太陽が出たとき、神が暑い東風を備え、また太陽がヨナの頭を照したので、ヨナは弱りはて、死ぬことを願って言った、「生きるよりも死ぬ方がわたしにはましだ」。しかし神はヨナに言われた、「とうごまのためにあなたの怒るのはよくない」。ヨナは言った、「わたしは怒りのあまり狂い死にそうです」。主は言われた、「あなたは労せず、育てず、一夜に生じて、一夜に滅びたこのとうごまをさえ、惜しんでいる。ましてわたしは十二万あまりの、右左をわきまえない人々と、あまたの家畜とのいるこの大きな町ニネベを、惜しまないでいられようか」。

マルコ福音書4章30-32節
また言われた、「神の国を何に比べようか。また、どんな譬で言いあらわそうか。それは一粒のからし種のようなものである。地にまかれる時には、地上のどんな種よりも小さいが、まかれると、成長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張り、その陰に空の鳥が宿るほどになる」。

マルコ福音書13章14-19節
荒らす憎むべきものが、立ってはならぬ所に立つのを見たならば(読者よ、悟れ)、そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げよ。屋上にいる者は、下におりるな。また家から物を取り出そうとして内にはいるな。畑にいる者は、上着を取りにあとへもどるな。その日には、身重の女と乳飲み子をもつ女とは、不幸である。この事が冬おこらぬように祈れ。その日には、神が万物を造られた創造の初めから現在に至るまで、かつてなく今後もないような患難が起るからである。

宣教題「さばきのときはいつか」
月から見れば地球に住む70億の人々の貧富の差は激しく難民の数は激増し温暖化で氷河の氷は溶け、海水の温度は上昇し、季節風の流れも海流の流れも変化している様子。日本でも2004年から人口減少に向かい始めている。

風邪やコロナウィルスなど感染性ウィルスが体内に入ったときの過剰免疫反応(サイトカインストーム)は、現代という時代の病理を反映していると感じる。文明の便利さや清潔さ、医療技術の変容、遺伝子操作、選択的不妊治療などに守られるほど、天然の野性的な生命力はますます失われている。核競争は今も続き軍縮への道も不明なまま。“神さまはこんな人類の罪をいつまでもほおっておかんじゃろ…”という畏れは広がっていると想う。巨大な原子力ではなく、とうごまよりからし種よりはるかにに小さいウィルスが恐怖とともに世界中の人間関係、つながりを曖昧にし、分断化ている。

 イエスの“からし種”のたとえ話は、この世の巨大・微少、価値・無価値、強い・弱いなどの「ものさし」を神はひっくり返される。大きな木になる「からし種」とは反対に、巨大なローマ帝国も一晩で萎んでしまうという両面を含んでいる。世界も一つのウィルスで滅び得る。

 神の求める最低限の「人間らしさ」すら失ったとき、神は世を罰せられる、という感覚は、ノアの箱舟だけでなく、世界中に普遍的に語り継がれ伝承された感覚である。“その時は山に向かって逃げよ”とは、洪水、地震、戦争など様々な災害が想起される。

「神の国」については聞く者によって異なる多様なイメージはあった。神の国到来が近い、「神によるこの世の裁きが近い」=驚くべき神のこの世への介入への待望もあったと思われる。

 イエスが預言者として最後にエルサレムに赴き、イスラエル民族の罪、ユダヤの罪、ローマの罪などを断罪したとき、当然イエスは反乱者として処刑されるが、神が信じがたい形で介入されることをイエスご自身も願っていた、とするならば、最後の「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(なにゆえ見捨てられたか!)も合点がいく。が、それすらもイエスを預言者として呼び出した主なる神の計画の内だったのなら、更に十字架の重たさが増していく。

 「不要不急な勝手な徘徊は禁止」 第一次大戦後、スペイン風邪が国境を越えて大流行(パンデミック)し、5億人が感染し、移動が許可制になり、5千万人が死んだあと、収束してもその閉塞状況、他者・隣人不信から人類は第二次世界大戦に向かい始めたという解釈も成り立つらしい。
「神求める人間らしさ」とは何かを考えながら、祈り求めながら、この先を見届けるためにも、もうしばらく生かされたい。

先週の出来事
友人が40年以上主催してきたテント芝居が都市からも地方からも上演を断られ芝居ができなくなっている。医療崩壊の危機が叫ばれているが、それ以上に“そこに行けば気狂いピエロみたいに腹の底に給ったマグマを発散できる”「精神の健康さ」を守る場自体が緩慢な死に向かっているように感じられる。

 

2020年7月26日 東淀川教会 礼拝 雅歌2章15節エゼキエル書第13章1~4節ルカによる福音書13章31~32節 宣教題「おばかなきつねさんじゃね」

雅歌2章15節
15 われわれのためにきつねを捕えよ、ぶどう園を荒す小ぎつねを捕えよ、われわれのぶどう園は花盛りだから」と。

エゼキエル書13章1~4節
1 主の言葉がわたしに臨んだ、2 「人の子よ、イスラエルの預言者たちに向かって預言せよ。すなわち自分の心のままに預言する人々に向かって、預言して言え、『あなたがたは主の言葉を聞け』。3 主なる神はこう言われる、なにも見ないで、自分の霊に従う愚かな預言者たちはわざわいだ。4 イスラエルよ、あなたの預言者たちは、荒れ跡にいるきつねのようだ。

ルカによる福音書13章31~32節
13:31
ちょうどその時、あるパリサイ人たちが、イエスに近寄ってきて言った、「ここから出て行きなさい。ヘロデがあなたを殺そうとしています」。13:32そこで彼らに言われた、「あのきつねのところへ行ってこう言え、『見よ、わたしはきょうもあすも悪霊を追い出し、また、病気をいやし、そして三日目にわざを終えるであろう。
13:33しかし、きょうもあすも、またその次の日も、わたしは進んで行かねばならない。預言者がエルサレム以外の地で死ぬことは、あり得ないからである』。

宣教題「おばかなきつねさんじゃね」

 ヘロデ・アンティパスは紀元前4年の大王の死から紀元後39年まで、ガリラヤ地方とペレア地方を統治した傀儡政権の王。彼を批判していたバプテスマのヨハネを殺害した王でもある。ファリサイ派とヘロデ派がそれぞれにイエス殺害を組織決定し、協力して成し遂げることを両組織間で約束していた(パリサイ人たちは出て行って、すぐにヘロデ党の者たちと、なんとかしてイエス(たち)を殺そうと相談しはじめた。マルコ36節)。ローマも含め三つ巴の謀略の中でイエスたちはエルサレムに向かった。王や国家にとってイエスたちの神の国の宣教は同時に地上の国家への否定と映った。「雛が自分の道を歩む」ことを邪魔する巨大な力に抗して、民族を超え、剣を鋤に変える=非戦の誓いを共有し、神に生かされ救われたと信じる一人一人が自分の意思で集まり、それぞれ自分の道を歩むという「神の国」の始まりをイエスは信じ語り続けた。当時のイスラエルはアメリカの傘の下で独立国の体裁を保つ日本と同様と思われる。

 新たに発見された「ユダ福音書」は人間が神の知に至る道(仏教で言えば完全な解脱に至る道)を説くグノーシス主義から書かれたもの。イエスたちの神の国運動に新たな光を当てるものとは言いがたいが、イエスについては一つの光を当てていると思われる。

 第一章 イエスは地上に現れてから人間の救いのために神のしるしと大いなる奇跡を行なった。一方で義の道を歩む者がおり、一方でそむきの道を歩む者がいるなかで、12名の仲間を集め、世について、最後に起こるであろうことについて語り始めた。イエスはこの12名に神の子としての自分のことを語らず、人の子として語った。12名の中にいるイエスと出会った人々はそこに「子どものようなイエス」を見ていた。

 ある日、ユダヤでこの12名が断食をし、しかめっ面をしながら一堂にきちんと座し、感謝の祈りをおごそかに捧げているのを見て笑った。12名の仲間は怒って「なぜ我らの感謝の祈りを笑うのですか。我らは正しいことをしているのを笑い飛ばすのですか」と言うとイエスは「まじめくさった顔しているけど、あなたがた一人ひとりが親なる神の前で、子として自分の意思でそれらを行なっているのではないよね。神さまはこれらの儀式によって、人間から讃美を受けなければ怒り出すような神さまじゃあないんだよねえ。(意訳)

 イエス像として浮かんでくるのは、子どもとして振る舞い子どもにもわかる易しいことばで神の国を語り続けたこと。そして人々の愚かさに対して「怒るイエス」像ではなく、笑い飛ばすイエス像が浮かんでくるのです。

 

先週の出来事
コロナウィルスの正体は未だに不明なまま。重症化、死亡のリスクについて大きく二つの意見がある。日本の重症化(サイトカインストーム)、死者数は欧米の1%以下。日本では現在結核による死者数の方が上回る。BCG接種もあり、抗体免疫以前の自然免疫が強い様子。児童や若者の重症化はほとんどないから感染を恐れるな、との意見。一方では安全とは言い切れないから最大限の防衛をすべきとの意見。悲しいのは、「それぞれが自己責任で判断しましょう」の考え方自体が、懲罰はないにせよ、ほとんど許されない雰囲気になってしまっていることなのだ。

2020年7月19日東淀川教会礼拝 創世記3章 ルカ福音書13章 宣教題「国家ではなく神の国を」

創世記3章7節
7 すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。

エレミヤ書8章12−15節
12 彼らは憎むべきことをして、恥じたであろうか。すこしも恥ずかしいとは思わず、また恥じることを知らなかった。それゆえ彼らは倒れる者と共に倒れる。わたしが彼らを罰するとき、彼らは倒れると、主は言われる。13 主は言われる、わたしが集めようと思うとき、ぶどうの木にぶどうはなく、いちじくの木に、いちじくはなく、葉さえ、しぼんでいる。わたしが彼らに与えたものも、彼らを離れて、うせ去った」。14 どうしてわれわれはなす事もなく座しているのか。集まって、堅固な町にはいり、そこでわれわれは滅びよう。われわれが主に罪を犯したので、われわれの神、主がわれわれを滅ぼそうとして、毒の水を飲ませられるのだ。15 われわれは平安を望んだが、良い事はこなかった。いやされる時を望んだが、かえって恐怖が来た。

ルカ福音書13章1-9節
13:1ちょうどその時、ある人々がきて、ピラトがガリラヤ人たちの血を流し、それを彼らの犠牲の血に混ぜたことを、イエスに知らせた。13:2そこでイエスは答えて言われた、「それらのガリラヤ人が、そのような災難にあったからといって、他のすべてのガリラヤ人以上に罪が深かったと思うのか。13:3あなたがたに言うが、そうではない。あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう。13:4また、シロアムの塔が倒れたためにおし殺されたあの十八人は、エルサレムの他の全住民以上に罪の負債があったと思うか。13:5あなたがたに言うが、そうではない。あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう」。13:6それから、この譬を語られた、「ある人が自分のぶどう園にいちじくの木を植えて置いたので、実を捜しにきたが見つからなかった。13:7そこで園丁に言った、『わたしは三年間も実を求めて、このいちじくの木のところにきたのだが、いまだに見あたらない。その木を切り倒してしまえ。なんのために、土地をむだにふさがせて置くのか』。13:8すると園丁は答えて言った、『ご主人様、ことしも、そのままにして置いてください。そのまわりを掘って肥料をやって見ますから。13:9それで来年実がなりましたら結構です。もしそれでもだめでしたら、切り倒してください』」。

     宣教題「国家ではなく神の国を」
 イエスの時代、巨大ローマ帝国の直接間接支配、ヘロデ大王の息子たちの支配、国家間の利権争いなどにより、かつてのイスラエル民族の信仰・自治は翻弄され社会秩序は混乱していた。国家とは何なのか?神への信仰と国家との関係は?等避けられない問題に人々は悩まされていた。 

国家とは、あらゆる冷ややかな怪物のなかで最も冷ややかなものである。それはまた冷ややかに嘘をつく。」ニーチェ『ツァラトゥストラはかく語りき』

 マタイ福音書とマルコ福音書で、“イエスが空腹を覚え、実がなっていないイチジクの木に向かって、「これからのち、おまえには実がならないように」と命じた”という箇所があります。唐突な記事ですが、これは“実のならないイチジク”の背景を省略せざるを得なかったと解すべきと思われます。

 エレミヤ書8章では、イスラエルの民を守り導いてきた神の御心に背き罪を犯したので、大地が主の恵みを産出しなくなったことを、実のならないブドウの木とイチジクの木で象徴的に表現している。しかしイエスがイスラエルの民に悔い改めを語るのではなく、直接イチジクの木に命じる場面はあまりにもリアルであり、暗喩に込めた、直接記述しにくい背景があまりに重いことを示唆しています。

 ルカ福音書では総督ピラトのイスラエル民の礼拝への暴虐、エルサレム神殿の金庫から金を奪う事件があったり、ヘロデの息子たちによる傀儡政権の横暴によるおびただしい犠牲が続き、支配者たちに対する民衆の抑えがたい怒り、命がけの抵抗・暴動が背景にあったと思われます。特にローマの総督ピラトの名は、ローマに布教を進めるうえで隠したかったことの一つだったはずだが、隠しきれず、ルカ福音書の記者は軽く触れています。 

 形ばかりであれ信仰秩序の中心である神殿と議会サンヘドリンはあったが、中心のサドカイ派(200家族の貴族、大祭司たち)はローマに従属し、その支配に抵抗できないばかりか、ローマの貨幣とユダヤ貨幣の交換業務を独占し利益を得ていた。民族主義のファリサイ派もサドカイ派に従属していた。(今日の日本と米国の関係に似ているか?)後にローマに対する反乱を起こしたゼロタイ派に加わる人々は、イエスの周りに集まった人々と重なっていると思われます。

 罪の結果としての不毛の象徴が、ブドウの木ではなく、なぜ「イチジクの木」だけが取り沙汰されたのか。

 ユダヤ人であれば誰でも知っている天地創造物語。人が男と女とに分けられ、神の命令に反して知恵の実を食べた結果、裸でいることが恥ずかしくなりイチジクの葉を腰に巻いた、とあります。イチジクは“恥かくし”のツールでもあった。イスラエルの人々を襲っていた飢饉にも目を塞ぎ、ローマやヘロデの息子たちの徴税に苦しんでいる人々に対し、更に神殿税や律法に定められた罪滅ぼしの奉献を課し、虐殺、家族離散、ローマや周辺列強国の奴隷になるしかない人々にも目を背け、自己保身、神殿の保身と、利己的な利益誘導、建て前と本音の乖離などのなりふりかまわない生き延び方を隠して、“すべてを神に捧げ、禁欲的に清く正しく生きています”みたいなあつかましさに対して、文字通り“恥知らず!”のメッセージをイエスは語っていたのではないか。

先週の出来事

世界の大富豪80人超が13日、新型コロナウイルス流行からの復興支援のため、超富裕層への課税を大幅に強化すべきだと公開書簡で各国政府に呼び掛けた、とのこと。世界の超富裕層26人が世界人口の総資産の半分に等しい富を持っている、らしい。その国の大富豪がその国家の経済的地位を支えており、国家も大富豪の経済戦略に寄与する相互依存関係ならば、司法・立法・行政の“公僕”たちも明治頃の政治家にならい、収入0で頑張る人も出てくる? あり得ないか。