2020年7月19日東淀川教会礼拝 創世記3章 ルカ福音書13章 宣教題「国家ではなく神の国を」

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創世記3章7節
7 すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。

エレミヤ書8章12−15節
12 彼らは憎むべきことをして、恥じたであろうか。すこしも恥ずかしいとは思わず、また恥じることを知らなかった。それゆえ彼らは倒れる者と共に倒れる。わたしが彼らを罰するとき、彼らは倒れると、主は言われる。13 主は言われる、わたしが集めようと思うとき、ぶどうの木にぶどうはなく、いちじくの木に、いちじくはなく、葉さえ、しぼんでいる。わたしが彼らに与えたものも、彼らを離れて、うせ去った」。14 どうしてわれわれはなす事もなく座しているのか。集まって、堅固な町にはいり、そこでわれわれは滅びよう。われわれが主に罪を犯したので、われわれの神、主がわれわれを滅ぼそうとして、毒の水を飲ませられるのだ。15 われわれは平安を望んだが、良い事はこなかった。いやされる時を望んだが、かえって恐怖が来た。

ルカ福音書13章1-9節
13:1ちょうどその時、ある人々がきて、ピラトがガリラヤ人たちの血を流し、それを彼らの犠牲の血に混ぜたことを、イエスに知らせた。13:2そこでイエスは答えて言われた、「それらのガリラヤ人が、そのような災難にあったからといって、他のすべてのガリラヤ人以上に罪が深かったと思うのか。13:3あなたがたに言うが、そうではない。あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう。13:4また、シロアムの塔が倒れたためにおし殺されたあの十八人は、エルサレムの他の全住民以上に罪の負債があったと思うか。13:5あなたがたに言うが、そうではない。あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう」。13:6それから、この譬を語られた、「ある人が自分のぶどう園にいちじくの木を植えて置いたので、実を捜しにきたが見つからなかった。13:7そこで園丁に言った、『わたしは三年間も実を求めて、このいちじくの木のところにきたのだが、いまだに見あたらない。その木を切り倒してしまえ。なんのために、土地をむだにふさがせて置くのか』。13:8すると園丁は答えて言った、『ご主人様、ことしも、そのままにして置いてください。そのまわりを掘って肥料をやって見ますから。13:9それで来年実がなりましたら結構です。もしそれでもだめでしたら、切り倒してください』」。

     宣教題「国家ではなく神の国を」
 イエスの時代、巨大ローマ帝国の直接間接支配、ヘロデ大王の息子たちの支配、国家間の利権争いなどにより、かつてのイスラエル民族の信仰・自治は翻弄され社会秩序は混乱していた。国家とは何なのか?神への信仰と国家との関係は?等避けられない問題に人々は悩まされていた。 

国家とは、あらゆる冷ややかな怪物のなかで最も冷ややかなものである。それはまた冷ややかに嘘をつく。」ニーチェ『ツァラトゥストラはかく語りき』

 マタイ福音書とマルコ福音書で、“イエスが空腹を覚え、実がなっていないイチジクの木に向かって、「これからのち、おまえには実がならないように」と命じた”という箇所があります。唐突な記事ですが、これは“実のならないイチジク”の背景を省略せざるを得なかったと解すべきと思われます。

 エレミヤ書8章では、イスラエルの民を守り導いてきた神の御心に背き罪を犯したので、大地が主の恵みを産出しなくなったことを、実のならないブドウの木とイチジクの木で象徴的に表現している。しかしイエスがイスラエルの民に悔い改めを語るのではなく、直接イチジクの木に命じる場面はあまりにもリアルであり、暗喩に込めた、直接記述しにくい背景があまりに重いことを示唆しています。

 ルカ福音書では総督ピラトのイスラエル民の礼拝への暴虐、エルサレム神殿の金庫から金を奪う事件があったり、ヘロデの息子たちによる傀儡政権の横暴によるおびただしい犠牲が続き、支配者たちに対する民衆の抑えがたい怒り、命がけの抵抗・暴動が背景にあったと思われます。特にローマの総督ピラトの名は、ローマに布教を進めるうえで隠したかったことの一つだったはずだが、隠しきれず、ルカ福音書の記者は軽く触れています。 

 形ばかりであれ信仰秩序の中心である神殿と議会サンヘドリンはあったが、中心のサドカイ派(200家族の貴族、大祭司たち)はローマに従属し、その支配に抵抗できないばかりか、ローマの貨幣とユダヤ貨幣の交換業務を独占し利益を得ていた。民族主義のファリサイ派もサドカイ派に従属していた。(今日の日本と米国の関係に似ているか?)後にローマに対する反乱を起こしたゼロタイ派に加わる人々は、イエスの周りに集まった人々と重なっていると思われます。

 罪の結果としての不毛の象徴が、ブドウの木ではなく、なぜ「イチジクの木」だけが取り沙汰されたのか。

 ユダヤ人であれば誰でも知っている天地創造物語。人が男と女とに分けられ、神の命令に反して知恵の実を食べた結果、裸でいることが恥ずかしくなりイチジクの葉を腰に巻いた、とあります。イチジクは“恥かくし”のツールでもあった。イスラエルの人々を襲っていた飢饉にも目を塞ぎ、ローマやヘロデの息子たちの徴税に苦しんでいる人々に対し、更に神殿税や律法に定められた罪滅ぼしの奉献を課し、虐殺、家族離散、ローマや周辺列強国の奴隷になるしかない人々にも目を背け、自己保身、神殿の保身と、利己的な利益誘導、建て前と本音の乖離などのなりふりかまわない生き延び方を隠して、“すべてを神に捧げ、禁欲的に清く正しく生きています”みたいなあつかましさに対して、文字通り“恥知らず!”のメッセージをイエスは語っていたのではないか。

先週の出来事

世界の大富豪80人超が13日、新型コロナウイルス流行からの復興支援のため、超富裕層への課税を大幅に強化すべきだと公開書簡で各国政府に呼び掛けた、とのこと。世界の超富裕層26人が世界人口の総資産の半分に等しい富を持っている、らしい。その国の大富豪がその国家の経済的地位を支えており、国家も大富豪の経済戦略に寄与する相互依存関係ならば、司法・立法・行政の“公僕”たちも明治頃の政治家にならい、収入0で頑張る人も出てくる? あり得ないか。

 

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