2020年4月26日 復活節第三主日礼拝 ゼカリヤ書5章 マルコ福音書4章 宣教題「量っても量(計)られてもあかん」 金田恆孝

ゼカリヤ書5章 マルコ福音書4章21-25節  宣教 金田恆孝

ゼカリヤ書56−11
6
 わたしが「これはなんですか」と言うと、彼は「この出てきた物は、エパ枡です」と言い、また「これは全地の罪です」と言った。7 そして見よ、鉛のふたを取りあげると、そのエパ枡の中にひとりの女がすわっていた。8 すると彼は「これは罪悪である」と言って、その女をエパ枡の中に押し入れ、鉛の重しを、その枡の口に投げかぶせた。9 それからわたしが目をあげて見ていると、ふたりの女が出てきた。これに、こうのとりの翼のような翼があり、その翼に風をはらんで、エパ枡を天と地との間に持ちあげた。10 わたしは、わたしと語る天の使に言った、「彼らはエパ枡を、どこへ持って行くのですか」。11 彼はわたしに言った、「シナルの地で、女たちのために家を建てるのです。それが建てられると、彼らはエパ枡をそこにすえ、それの土台の上に置くのです」。

マルコ福音書4章21-25節
4:21また彼らに言われた、「ますの下や寝台の下に置くために、あかりを持ってくることがあろうか。燭台の上に置くためではないか。
4:22なんでも、隠されているもので、現れないものはなく、秘密にされているもので、明るみに出ないものはない。
4:23聞く耳のある者は聞くがよい」。
4:24また彼らに言われた、「聞くことがらに注意しなさい。あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられ、その上になお増し加えられるであろう。
4:25だれでも、持っている人は更に与えられ、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう」。

宣教題【量っても量(計)られてもあかん】
イエスはユダヤ教の中で活動された。福音書はイエスをキリストと告白する、キリスト教団がすでに成立しており、その立場から各書は各々再構成されている。イエスが語ったであろう「ことば」は、私たちの言う「旧約聖書」を背景としており、キリスト教成立以前の意味をくみ取る作業は重要である。

「升の下」「寝台の下」「灯火」とは何か。

升は穀類を量る桶でありエファと呼ばれ、凡そ22L。ルツ記では、大麦の落ち穂を拾うと1エファ(十分な量)が与えられたとの話がある。「神の国は辛子種のようなものであり、人間が量れるものではない」との言葉もある。「あなた方が量る量りで量られる」そのはかり・升は貨幣とともに世の王・為政者たちが定めたもの。灯火は油を使う貴重なもの。ならば「升の下の灯火」とは、為政者たち、豊かな者たちの資源の独占ではないのか。寝台の下の灯火も彼らによる快適な生活のための資源の独占ではないか。ならば、燭台の灯火とは、からし種のような食料であろうと資源であろうと、一緒にいる人々全体のために神から与えられているものではないのか、とのイエスの声が聞こえてくる。

 ゼカリヤ書の七つの幻の7つめに「エパ升」がでてくる。升は全地の罪だという。神からのただの恵みを人が量り、値段を決め、金がなければ手に入らない商品にする。更に、コウノトリの翼を持った二人の女性がこの升を空を飛んでバビロンに運ぶビジョンが描かれる。第三の幻の中で、測り縄をもった人が登場するが、新たに再建されるイスラエルは城壁のない町、量りのない、境界線のない町となり、「わたしはあなたがたのただ中に住む」と主は語る。富んだ者たちによる土地の独占を主は嫌う、と読める。「五つのパンと二匹の魚」の出来事は、からし種と同じ、この世の「はかりで量る常識」からは起きない奇跡である。升の下の灯火、寝台の下の灯火もこの世の罪をイエスが告発していることばとなる。

では灯火とは何か。「主の前に灯火を点した。主がモーセに命じられたとおりである。」出エジプト40:25

「あなたはわたしの灯火(たましい)を点し、我が神、主は私の闇を照らされます。」詩篇18:28 

今日も灯火とともに礼拝したい。

先週の出来事
「ウィルスとどう戦うか」ではなく、ウィルスとどう共存できるかを考えようという呼びかけがあり、強く共感した。文明の便利さと快適さとを得た代わりに、住居や体内の雑菌、汚れ、微生物を排除し、除草剤をまき散らし(ベトナム戦争以来)、虫も住まない自然、雑菌のいない身体を快適なものとしてしまった私たち現代人への警告のひとつがコロナウィルスとも理解できる。

2020年4月19日 復活節 第二主日礼拝 イザヤ書35章 マルコ福音書16章「再生のビジョン」宣教 金田恆孝

イザヤ書35章
1 荒野と、かわいた地とは楽しみ、さばくは喜びて花咲き、さふらんのように、
2 さかんに花咲き、かつ喜び楽しみ、かつ歌う。これにレバノンの栄えが与えられ、カルメルおよびシャロンの麗しさが与えられる。彼らは主の栄光を見、われわれの神の麗しさを見る。
3 あなたがたは弱った手を強くし、よろめくひざを健やかにせよ。
4 心おののく者に言え、「強くあれ、恐れてはならない。見よ、あなたがたの神は報復をもって臨み、神の報いをもってこられる。神は来て、あなたがたを救われる」と。
5 その時、目しいの目は開かれ、耳しいの耳はあけられる。
6 その時、足なえは、しかのように飛び走り、おしの舌は喜び歌う。それは荒野に水がわきいで、さばくに川が流れるからである。
7 焼けた砂は池となり、かわいた地は水の源となり、山犬の伏したすみかは、葦、よしの茂りあう所となる。

マルコ福音書1617-18
16:17 信じる者には、このようなしるしが伴う。すなわち、彼らはわたしの名で悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、
16:18 へびをつかむであろう。また、毒を飲んでも、決して害を受けない。病人に手をおけば、いやされる」。
16:19 主イエスは彼らに語り終ってから、天にあげられ、神の右にすわられた。
16:20 弟子たちは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主も彼らと共に働き、御言に伴うしるしをもって、その確かなことをお示しになった。〕

   宣教題【神による再生のビジョン

「信じる者には次のようなしるしが伴う。」という。しかし「しるしはヨナのしるし以外は与えられない」のだから、大魚に飲み込まれる、抗うことができない運命、百鬼・悪霊に飲み込まれるという「しるし」。蔓延するコロナウィルス災禍の中で、再生のビジョンを描きたい。

「毒蛇すら素手で掴む。毒を飲んでも害されない。」
マルコ福音書が告げる神の国への道は、悪霊と看做されるさそりやジャッカル、毒と共存する道だと思われる。善悪の二元論に立ち、悪を自分の住んでいるところから排除する道ではなかった。イエスたちの働きは、悪霊たちの本質・正体を見抜き、手なづけ、豚などの乗り移る対象、居場所を定めて命令することでもあった。それは外側から見れば“悪霊の頭”のわざと言われた。

 明治以降の西洋医療は、雑菌であれウィルスであれ、それらを「敵」とし、抗生物質などで体内から排除し、内側からの免疫力や、内側から発生する「抗体」を支えるものではなかった。現代都市における生活は「汚れ」を穢れ扱いし、清潔さで武装し、悪霊たちを敵として排除し、外に追い出す=外在化させてしまう。
人間は本来清濁併せ持つ存在であり、内側に「悪」も存在する。

 「荒野と、かわいた地とは楽しみ、さばくは喜びて花咲き、さふらんのように、2 さかんに花咲き、かつ喜び楽しみ、かつ歌う。」

 イザヤが示した神の国への道は、サソリやジャッカルが共生する砂漠の再生である。毒や雑菌を排除した「無菌室」「クリーンルーム」ではない。

 世界各地で猛威を振るうコロナ(王冠)ウィルス。ウィルスの王冠マークが、王「リーダー」を筆頭とする諸国家を象徴しているように感じてしまう。国家の庇護のもとで現代人間たちの過ごす文明生活のステージは、洗剤や薬物や抗生物質などで洗い清められ、性善説に立ち、内なる悪を認めず、外の何かに転嫁させ、悪を排除し続けてきた。
 内なる悪、内なる悪霊を認めようとせず外在化、転嫁し続けてきた矛盾が極限状態にまで来てしまったことの帰結が今という時代なのではないか。そこに現れる「しるし」はヨナのしるし。
 すでに人々は大魚の腹の中。突然変異を続けるウィルスは、早急なワクチン作りを妨げる。
 ヨナの祈りのごとく、神を我がいのちの主と告白し、すべてを主に委ねる(Let it be)ことこそ、今現在の告白ではないか。

先週の出来事
非常事態宣言なるものの対象が、主要都市から全国に広がった。国民ひとりにつき、徴税したお金の中から10万円を戻すそうな。このまま収束に二年以上が必要だった場合、国家体制はどうなるのか。王たちは逃げ出すのだろうか。(ヨハネ福音書12章31 今こそこの世が裁かれるとき。今、この世の支配者たちが追放される。逃げ出す。)

2020年4月12日復活節第1主日(イースター)礼拝 ヨナ書1章 マタイ福音書12章 宣教題「大魚からの復活」宣教 金田恆孝

ヨナ書1:14
14
 そこで人々は主に呼ばわって言った、「主よ、どうぞ、この人の生命のために、われわれを滅ぼさないでください。また罪なき血を、われわれに帰しないでください。主よ、これはみ心に従って、なされた事だからです」。15 そして彼らはヨナを取って海に投げ入れた。すると海の荒れるのがやんだ。16 そこで人々は大いに主を恐れ、犠牲を主にささげて、誓願を立てた。17 主は大いなる魚を備えて、ヨナをのませられた。ヨナは三日三夜その魚の腹の中にいた。21 ヨナは魚の腹の中からその神、主に祈って、2 言った、「わたしは悩みのうちから主に呼ばわると、主はわたしに答えられた。わたしが陰府の腹の中から叫ぶと、あなたはわたしの声を聞かれた。8 むなしい偶像に心を寄せる者は、そのまことの忠節を捨てる。9 しかしわたしは感謝の声をもって、あなたに犠牲をささげ、わたしの誓いをはたす。救は主にある」。
10 主は魚にお命じになったので、魚はヨナを陸に吐き出した。
マタイ福音書12章38-45節
12:38そのとき、律法学者、パリサイ人のうちのある人々がイエスにむかって言った、「先生、わたしたちはあなたから、しるしを見せていただきとうございます」。2:39すると、彼らに答えて言われた、「邪悪で不義な時代は、しるしを求める。しかし、預言者ヨナのしるしのほかには、なんのしるしも与えられないであろう。12:40すなわち、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中にいるであろう。12:43汚れた霊が人から出ると、休み場を求めて水の無い所を歩きまわるが、見つからない。12:44[そこで、出てきた元の家に帰ろうと言って帰って見ると、その家はあいていて、そうじがしてある上、飾りつけがしてあった。12:45[そこでまた出て行って、自分以上に悪い他の七つの霊を一緒に引き連れてきて中にはいり、そこに住み込む。そうすると、その人ののちの状態は初めよりももっと悪くなるのである。よこしまな今の時代も、このようになるであろう」。

宣教題【大魚の腹からの復活】要旨
 本日はイースター、復活日記念礼拝です。しかも世界レベルでウィルスの広がりに大災難の最中の復活日です。(本日の礼拝は、通常の礼拝参加者は非常事態宣言もあり、来られず、新しい参加者一名のみの礼拝でした。)
 国によっては医療崩壊でトリアージ(治療の順番を決める)を口実にいのちの選別すら行われている様子。許されることではない。ウィルスの生命力は、空中で数時間、ものに付着したら数日間生きているとのこと。完全に防ぐなら、家族といえども離れて、誰とも話さず、解凍・加熱した食材のみで腹を満たし、体は手袋やマスクや服でガードし、それらも毎回消毒しなければならない。不可能と思われる。

 預言者ヨナさんはエゴの塊となって人々とのかかわりから逃げ続けていたのに主に捕まった。災難は自分のせいだとして自ら生け贄となった。死の直前、大魚の腹の中で主なる神こそ真実であると告白しすべてをゆだねた。そこに“復活”が起こった。

 不義な時代に世はしるし(エビデンス・確かさ)を求めるが、ヨナのしるし以外は与えられない、とイエスは語った。「自分は悪くない、罪はないのに、なぜこんなひどい目に遭わなければならないのか」「悪いのは何か・誰か」「どうしたら災難から逃れられるか」等の喧噪・パニックが続くのだろう。自分や自分たちだけを守ろうとし、疑わしい人を排除し、清められた場所に、もっと悪い7つの霊が戻り集まってくる、とのたとえ話は、現代の「健康・正常」神話に基づく社会病理を示していると感じられる。
 教会は復活の主イエスの体であろうとするなら、すべての人に開かれている祈りの場であり、執り成しの主イエスに癒やしとちからを求めるファミリーの場である。教会を閉じることはできない。教会はそこに集う一人ひとりに仕える立場である。礼拝の集いが危険かどうかは各々の判断と工夫による。教会こそが、現在の災難、危険、不安、人間の過ちについて、誰をも排除しない、開かれた対話が行われる場所でありたい。

先週の出来事
マスクもアルコール消毒薬も手に入らない。小中学校も5月まで閉じる様子。こりゃ、ほんとうに大魚の腹の中状態。どんな状況であろうと、自分だけは大魚の外にいようとする、人と人とを分断する悪しきパワーを警戒せねばならない。

2020年4月5日 受難節第六主日礼拝 申命記32章 マルコ福音書7章14節 宣教題「わたしがサタンの頭なら」宣教 金田恆孝

申命記32章15-18、23-24節
15 しかるにエシュルンは肥え太って、足でけった。あなたは肥え太って、つややかになり、自分を造った神を捨て、救の岩を侮った。16 彼らはほかの神々に仕えて、主のねたみを起し、憎むべきおこないをもって主の怒りをひき起した。17 彼らは神でもない悪霊に犠牲をささげた。それは彼らがかつて知らなかった神々、近ごろ出た新しい神々、先祖たちの恐れることもしなかった者である。18 あなたは自分を生んだ岩を軽んじ、自分を造った神を忘れた。
23 わたしは彼らの上に災を積みかさね、わたしの矢を彼らにむかって射つくすであろう。24 彼らは飢えて、やせ衰え、熱病と悪い疫病によって滅びるであろう。わたしは彼らを獣の歯にかからせ、地に這うものの毒にあたらせるであろう。

マルコ福音書3章22-27節
3:22また、エルサレムから下ってきた律法学者たちも、「彼はベルゼブルにとりつかれている」と言い、「悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出しているのだ」とも言った。
3:23そこでイエスは彼らを呼び寄せ、譬をもって言われた、「どうして、サタンがサタンを追い出すことができようか。3:24もし国が内部で分れ争うなら、その国は立ち行かない。3:25また、もし家が内わで分れ争うなら、その家は立ち行かないであろう。
3:26もしサタンが内部で対立し分争するなら、彼は立ち行けず、滅んでしまう。
3:27だれでも、まず強い人を縛りあげなければ、その人の家に押し入って家財を奪い取ることはできない。縛ってからはじめて、その家を略奪することができる。

ヨハネ福音書7章19節
7:19モーセはあなたがたに律法を与えたではないか。それだのに、あなたがたのうちには、その律法を行う者がひとりもない。あなたがたは、なぜわたしを殺そうと思っているのか」。7:20群衆は答えた、「あなたは悪霊に取りつかれている。だれがあなたを殺そうと思っているものか」。

      宣教題【私がサタンの頭なら】
神の守りを心の底から願いつつ生きていた時代とは異なり、衣食住に不安がなくなり国家体制に守られたイスラエル(エシュルン・神に愛された者)は傲慢となり、戒めを形骸化させ、信仰は自尊心の飾りとなり、犯している罪を認めず、力と虚飾の世界を甘受していた。そんなイスラエルに神は怒り、滅ぶべきものを再生のため滅ぼすと主は語る。彼らは飢えて、やせ衰え、熱病と悪い疫病によって滅びるであろう。わたしは彼らを獣の歯にかからせ、地に這うものの毒にあたらせるであろう。」の言葉は現在の私たちに突き刺さってくる。

 近くにいるのは、味方する者だけではなく、イエスたちを敵視するイスラエル人に監視され続けていた。悪霊に取り憑かれている、との表現は、戦中戦後であれば“アカにかぶれている”とか、アナーキストとか、テロリストとか、反社会勢力、ヤクザみたいな言葉になるのだろう。口が利けないわけではないが、喋れなくなっていた人がイエスによって言葉で会話したり発言するようになった。数多の沈黙によって成り立っている擬制の体制もある。見えるのに見えないことにして成り立っている社会もある。イエスたちの「神の国」伝道は、神とともに歩まなくなったイスラエル=エシュルンを告発し続けることばであった。

 “もしも、わたしたちが「神の国」=正義を語り、人々をたぶらかしている悪霊の軍団ならば、そしてわたしが悪霊の頭だと言うのならば、わたしだけを逮捕し、ふん縛ってしまえば、みんなを蹴散らすこともでき、あんたらが「神の国」=正義を奪い返すこともできるんじゃないのか” この箇所はそんなふうに理解することができると思われる。

先週の出来事
どれほど医療技術が発達しても、人は死に向かっており、「死に至る病」の前に人は、医師は、どんなに抗っても必ず敗北する現実がある。なのにウィルスパニックに陥り、死者すら“ゾンビ”扱いされ、葬儀もできず焼却処分されている国々の現実もある。今こそ祈りの時ではないか。

変わらない“収容所列島”2020

 わたしが40年ほど前に某精神病院に勤務していた頃と「精神病院」の実体は何も変わっていない。犯罪を訴えた人々の努力により、たまたま“発覚”しただけであり、発覚していない犯罪の方が、氷山の海中部分ほど大きいことは断言できる。

朝日新聞デジタル 2020年3月4日 記事より

患者にキス強要・放水…看護師ら虐待容疑「反応面白い」
 入院中の患者同士でキスをさせたほか、水をかけたり監禁したりなどの虐待をしたとして、兵庫県警は4日、神戸市西区神出町勝成の精神科病院「神出(かんで)病院」の元看護助手、和田元規容疑者(27)と看護師5人を準強制わいせつや暴力行為等処罰法違反などの疑いで逮捕し、発表した。和田容疑者は「反応が面白くてやった」と供述。いずれも容疑を認めているという。

 捜査1課によると、ほかに逮捕されたのは、いずれも同病院看護師の橋本涼平(26)、船引健志(33)、高橋斉史(34)、曽我部聡(41)、武田剛士(33)の各容疑者。6人は勤務歴約3~6年で、主に夜間に勤務していたという。発表では、和田、橋本、船引の3容疑者は2018年10月31日未明、50代と60代の男性患者同士にキスさせるわいせつ行為をさせた疑いがある。
 また、和田、高橋、曽我部の3容疑者は昨年9月20日夜、70代の男性患者をトイレで椅子に裸で座らせ、ホースやバケツで水を浴びせるなど暴行を加え、同月25日夜、和田、高橋、武田の3容疑者は60代の男性患者を病室の床に寝かせ、落下防止柵付きのベッドを逆さまにして覆いかぶせ、約20分間監禁した疑いがもたれている。 被害者は計3人で、重度の精神疾患で抵抗できない状態だったという。
 県警が昨年12月、別の強制わいせつ容疑で和田容疑者を逮捕した際、押収したスマートフォンに院内での虐待の動画があったという。動画は他にも複数あるといい、県警は長期にわたり患者を虐待していた疑いがあるとみて調べている。

2020年3月29日受難節第五主日礼拝 申命記6章 マタイ6章・ルカ福音書11章 題「主の祈り・私が赦した分だけ」宣教 金田恆孝

申命記6章4-7節
4 イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である。5 あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない。
6 きょう、わたしがあなたに命じるこれらの言葉をあなたの心に留め、
7 努めてこれをあなたの子らに教え、あなたが家に座している時も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、これについて語らなければならない。

マタイによる福音書6章
6:12わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。

ルカによる福音書11章
11:4わたしたちに負債のある者を皆ゆるしますから、わたしたちの罪をもおゆるしください。わたしたちを試みに会わせないでください』」。
11:5そして彼らに言われた、「あなたがたのうちのだれかに、友人があるとして、その人のところへ真夜中に行き、『友よ、パンを三つ貸してください。
11:6友だちが旅先からわたしのところに着いたのですが、何も出すものがありませんから』と言った場合、
11:7彼は内から、『面倒をかけないでくれ。もう戸は締めてしまったし、子供たちもわたしと一緒に床にはいっているので、いま起きて何もあげるわけにはいかない』と言うであろう。11:8しかし、よく聞きなさい、友人だからというのでは起きて与えないが、しきりに願うので、起き上がって必要なものを出してくれるであろう。
11:9そこでわたしはあなたがたに言う。求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。

宣教題【主の祈り・私が赦した分だけ】
イエスが語った第一の戒め、「心を尽くし力を尽くし…主なる神を愛せよ」のもとは申命記の6章4節からのくだりである。私たちが唱えている「主の祈り」はここから始まり、全体としてはマタイ福音書6章、 ルカ福音書11章が原型である。その中で、ひとつのセンテンス、まとまりの「私の罪を赦してください」と、「私に対する他者の罪を赦します」の関係にどうしても疑問が残る。カトリック教会の「主の祈り」では「わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします」と単純に併記されている。一種の決意表明とも感じられる。プロテスタントの教会では「我らに罪を犯す者を我らが赦す如く我らの罪をも許し給え」と、“如く、~のように”が間を繋いでいる。私が人を赦すことと、自分自身の罪の赦しを求めることの関連性にそれでもやっぱり疑問が残る。「人の罪をあまり許せていない私は、主に自分の罪の赦しを求める資格はないのではないか」とか、或いは「私が他人の罪を許しているのでと、よくもぬけぬけと祈ることができるものだ」という疑問や不安や自己嫌悪すら感じてしまう。それであるならば、ここは、“主の眼から見て、私に対する人の罪を私が赦せている分だけ、私の罪をお赦しください”と唱える方がはるかにスッキリする。隣人をさほど赦してもいないのに、私だけたくさん赦してくださいと願うのはおかしいし、赦されていない課題がたくさんあることを自覚できるだけ幸いであろう。

 困っている貧しい友人を家に泊め、提供する食事を調達するため、他の貧しい友人に食べ物の融通をお願いし、断られても必死にお願いすれば、多少なりとも調達できるかもしれない。真剣に求め続けたら何か得られるだろう。イエスの語る「求めよ。されば与えられる」は、“何かが変わる”という言い方でもあろう。
 合理的判断を捨てて求め続けることは、一種の誓願を立てることでもある。カトリック教会の「黙想」の中で、願いを立てて、そのための条件を立てること自体を「信仰の訓練」として教会全体で意識的かつ積極的に行っているところもある。祈り・願いの条件を自分から提示する、誓願を立て、そのために断食をする、とか、好きな食べ物を断つ、とか、好きな趣味をしばらく止めるとか、なにがしかの我慢を条件・誓いとして願いを立てることが多い。 

 許せない!という怒りを持続し続けている人、或いは怒りをすら生きるエネルギーにしている人も多い。やはり赦せない思いがあまりに大きいのならば、赦せない相手にどう変わってほしいのか、願いを立てて、自分の叶えていただきたい願いを吟味し、それにみあうだけの、自分に対する誓いをたてるという「誓願」は、生き方の変革にもつながり、自分の信仰の訓練になると思われる。

先週の出来事
 ウィルスの感染経路や濃厚接触者を割り出すために、個々人の所有する携帯電話についているGPS機能をフル活用し、行政や警察などが中心となって、個々の行動や人間関係を記録し続けること、完全な監視体制が真剣に検討されているとのこと。国家総動員体制のためのインフラ作りを感じる。
かなりヤバい状況である。

2020年3月22日受難節第四主日礼拝 エゼキエル書36章マタイ福音書6章 主題「主の祈り」1 宣教 金田恆孝

エゼキエル書36章22-27節
22それゆえ、あなたはイスラエルの家に言え。主なる神はこう言われる、イスラエルの家よ、わたしがすることはあなたがたのためではない。それはあなたがたが行った諸国民の中で汚した、わが聖なる名のためである。23 わたしは諸国民の中で汚されたもの、すなわち、あなたがたが彼らの中で汚した、わが大いなる名の聖なることを示す。わたしがあなたがたによって、彼らの目の前に、わたしの聖なることを示す時、諸国民はわたしが主であることを悟ると、主なる神は言われる。24 わたしはあなたがたを諸国民の中から導き出し、万国から集めて、あなたがたの国に行かせる。25 わたしは清い水をあなたがたに注いで、すべての汚れから清め、またあなたがたを、すべての偶像から清める。26 わたしは新しい心をあなたがたに与え、新しい霊をあなたがたの内に授け、あなたがたの肉から、石の心を除いて、肉の心を与える。27 わたしはまたわが霊をあなたがたのうちに置いて、わが定めに歩ませ、わがおきてを守ってこれを行わせる。

マタイ福音書6章9-14節
6:9だから、あなたがたはこう祈りなさい、天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。6:10御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。6:11わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください。6:12わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。6:13わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください。6:14もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。

宣教題【主の祈り】1

礼拝には必ず唱えられる「主の祈り」
旧約聖書、申命記6章4節「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。心を尽くし魂を尽くし力を尽くして主なる神を愛せよ。」「聞け・シェマ」から始まる祈りの基本。その祈りは、これまでに主の名を汚した、汚れからの、罪人からの、マイナスからの出発であることを申命記及びエゼキエル書のシェマ、主の祈りは伝える。いわば死に瀕しているこの民が、赦され、回復し、新たに歩むにはこれしかない、という緊張を帯びたシェマなのである。主なる神が、汚れ穢れ死にかけている民を清める、と宣言してくださる。守り歩ませる、と宣言してくださる。それへの応答が主の祈りである。
 回復のためにはまず食べ物が不可欠。イエスはそこに“日毎の、今日の食べ物を与えてください”を付け加えられた。古代のように、食べ物が自然から、神さまからの恵みとして誰でもただで受け取れる、収穫できる、分かち合える時代ではなくなっていた。食品はすべて商品化され、お金がなければ手に入らなくなっていた。人間が“便利”のために作り出した“お金”がなければ、食べ物が手に入らない、お金が“障壁”となっていた。

「貧しい者は幸い」「お金がない者は幸い」が実現するとは、神さまからの恵みを、そのまま、ダイレクトに受け取ることのできる神との関係、人間関係を取り戻すことでもある。それを取り戻す「わざ」が、“五つのパンと二匹の魚”の奇蹟でもあった。

 人間の、便利のために作り出した貨幣が、神との関係、人間同士の関係における“障壁”でもあり、人々を分断し、貨幣がなければ食い物すら手に入らない、その障壁を人間たちが乗り越えようとするときに、奇蹟が起こる。それが、分かち合い、許し合い、守り合い、祈り合う実践が、神の愛への応答、信仰となる。

 神ありの時代を神なしで過ごしている時代、罪の集積としての歴史を積み重ねてきた現代。じつは瀕死状態のマイナスからの出発であることを自覚し、共有し続けていきたい。

先週の出来事
 日本国内のコロナウィルス感染者数が1000名を超えたとの報道。大阪市と兵庫県の交通・往来を自主的に止めるよう規制まで。国家総動員体制へのデモンストレーションが続きそう。そうだ。原発大事故がいまだ集束していないにもかかわらず原発の運転を止めようともしないこの国で、米日軍事協定の人身御供として沖縄が差し出され続けているこの国で、まさにこれを悔い改めのための長期的安息日、外で働かず、家にこもって断食と祈りのときを過ごす期間に切り替えられたら、と真剣に思う。