20210530 東淀川教会礼拝 宣教要旨「全ての命は主の灯火」

本日の聖書箇所(聖書協会共同訳) 
  イザヤ書42章 1-3節
 見よ、私が支える僕(しもべ)  わたしの心が喜びとする 
わたしの選んだ者を。 わたしは彼にわたしの霊を授け  
彼は諸国民に公正をもたらす。
 彼は叫ばず、声を上げず、巷にその声を響かせない。
傷ついた葦を折らず  くすぶる灯心の火を消さず  
忠実に公正をもたらす。

  イザヤ書43章 16-17節
 主はこう言われる。すなわち海の中に道を 荒れ狂う水の中に
通り道を作られ 戦車と馬、大軍と兵を連れ出し  彼らを皆
倒して起き上がらせず  灯心の火を消すように消滅させた方。

詩編18章 029節
 主よ、あなたは私の灯をともし わが神は 私の闇を照らす。

 マルコによる福音書4章 21-23節
 また、イエスは言われた。「灯を持って来るのは、升の下や
寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。
隠れているもので、あらわにならないものはなく、
秘められたもので、明るみに出ないものはない。
聞く耳のある者は聞きなさい。」

ヨハネによる福音書9章 1-3節
さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。「先生、この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか。」 イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。
ヨハネによる福音書9章39-40節
イエスは言われた。「私がこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」
イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。

宣教要旨『全ての命は主の灯火』
 

「灯」を、命の主から与えられた「輝き」として比喩的に表現しているのは、預言者の書や諸書、詩篇などに散見される。
「灯は升の下や寝台の下に置くためではなく、燭台の上に置くためではないか」とは、どのいのちもそのままで輝くのが当然で、隠されたり損なわれたりすべきではない、と理解できる。
 しかしこの箇所を(私自身もかつてそのように講解した),多くの場合「地の塩、世の光」との関連で「キリスト教徒、クリスチャンこそ世の光、地の塩であるべき」と解釈し、そのように受け取ってきた。なぜそうなるのだろうか。古代ローマ帝国の国教であったし西欧から各地に広がったキリスト教のプライド、世をリードしようとする前衛意識からなのだろうか。イスラム教や仏教などと比較しても、この前衛意識は根深いと思われる。  
 イエスが近づきさまざまな癒やしのわざを行なったのは、燻らされ、吹き消されようとしてる灯火(人のいのち)に対してであった。イエスのわざについて大声で騒いだ者たちの伝承が記録の中に残ってはいるが、実は“巷にその声を響かせない”静かなわざであったと思われる。いのちの灯を灯すのも消すのも主の御手によるもの。それを升の下や寝台の下に隠したり折ったり吹き消してはならない。いかなる人のいのちであれ、その輝きは燭台の上にあって、いのちの主なる神の御わざを現わし、だれの目からも隠されてはならない、というのが本旨だろう。
 
 ヨハネ福音書9章1-3節が表現しているのは、イエスの“生まれつき目が見えないのは罪の結果であるとか、五体満足が罪のないしるしなどと思ってもみるな。短命が神の罰であり、長命が神の祝福のしるしなどと考えてもみるな。全ての命は神の灯であり、それぞれ異なった灯は神のわざがそれぞれに現れるためである”と理解できる。が、人間はいつでも自己中な生き物。
 今日、コロナウィルスの脅威の中で“医学的知見と医療技術への依存が高まり、データでの死亡率や生存率が基準となり、生存期間を僅かでも伸ばすことが当然、という試みが続けられている。それに依存しない、治療を受けない自由や個人意志などは吹き飛んでしまいそうな、「医療ファシズム」が起きそうな気配を感じてしまう。

先週の出来事 
 コロナウィルス感染の増減だけでなく、ワクチン情報とともに副反応(アナフィラキシー、血栓、死亡など)についても世界各地の情報が伝わってくる。これは「延命のための確率ゲーム」ではないか、とすら感じてしまう。


20210523 礼拝宣教要旨「地獄はない」

 

ペンテコステ礼拝 ~イエスによる地獄からの開放のメッセージ~

地獄についての聖書抜粋(意訳)

イザヤ書28章14節
 それゆえ、(預言者を)嘲る者たちよ、主(かみ)の言葉を聞け。エルサレムでこの民を支配する者たちよ。あなた方は言った。「我々は死と契約を結び、陰府と協定を結んだ。洪水がみなぎり、溢れても、我々のもとには達しない。 我々は偽り(神話)を逃れ場とし、欺き(カナンの神話、冥府の神モトを利用して)に身を隠した。」

マタイによる福音書 5章22節
しかし私は言っておく。きょうだいに腹を立てるものは誰でも裁きを受ける。きょうだいに「馬鹿」という者は、最高法院に引き渡され、「愚か者」という者は、ゲヘナの火に投げ込まれる。

マルコによる福音書9章47-48節
もし片方の眼があなたを躓かせるなら、抉(えぐ)り出しなさい。両目がそろったままゲヘナに投げ込まれるよりは、一つ目になって神の国に入る方が良い。ゲヘナでは蛆(うじ)が尽きることも火が消えることもない。

ルカによる福音書16章23節 そして金持ちは陰府で苛(さいな)まれながら目を上げると、アブラハムとその懐(ふところ)にいるラザロ(金持ちの食卓から落ちるもので飢えをしのいでいた皮膚病患者)とがはるか彼方に見えた。

宣教要旨「地獄はない」

 「地獄」とか、「天国」などのイメージは、体系化された「宗教」以前の、死後を含む人(自分自身)の、“存在不安”に根ざす原初的な感覚が生み出す普遍的なビジョンなのだと思います。

地獄、冥府、黄泉、ゲヘナ(γεεννα)、ハデス(ᾍδης)、いろんな人を恐れさせる言葉や教えが聖書にもある。

 イエスは、本来抽象的概念である「神」を、経験的、肉感的、しかも幼児にもわかるやさしい言葉で“アッバ”(とうちゃん、かあちゃん、のチャン)と表現した。決して観念的な宗教概念を広めようとしたわけではない。宗派(セクト)を作ろうとしたわけでもない。ましてや教祖になろうとしたわけでもない。イエスは実感している“活ける神”に用いられた。今日の言葉で言えば“プラグマティズム”、固有の体験、経験、肉感に根ざす言葉で神の国を語り続けたと感じる。観念(信仰)の体系から現実、人のあり方を規定しようとするパウロとは真逆なのだと思う。

“地獄はあるか”と尋ねられたらイエスはおそらく「創世記を読んだり聞いたことはないのか!
 神は光から始めて六日間で全てを創造して七日目に休まれた。神の目から見てそれは甚だ良かった(完全だった)、とある。神が地獄を作ったなんてどこにも書いてない。そんなものを作ったのは、人々を怖がらせ支配し服従させたがっている奴らだ!」と一喝して答えたと思うのです。
 

 地獄伝承はパレスチナの古代民間神話にはあったし、ゲヘナは元来、エルサレム城門の外にあった、蛆が尽きないゴミ捨て場、処刑された罪人の遺体を捨てた場所、モレクという神への幼児犠牲(人身御供)が行われた場所でもあったという(この世の地獄)。現代社会の中にもこの世の地獄の闇は広がっており、増え続ける難民で問題、パレスチナ・イスラエル問題、ファシズム政権の弾圧などなど、いくらでもあり、こっちのほうが怖いと思うのです。

 イザヤが「エルサレムでこの民を支配する者たちよ!」と攻撃している対象は、神が作ったものでもない「地獄」を、民間伝承や神話などを利用して作り上げ、人々に恐怖を与え、裁いている(死と契約を結び、陰府と協定を結んでいる奴ら)支配者たちであり、奴らは「これは民を指導するための作り話だから、自分たちには神の裁きは及ばない」などとぬけぬけと語っている!と。

 イエスの語る例え話に出てくるゲヘナ(地獄)も、イエスが地獄はあると思っているから語っている言葉ではなく、ましてや、“あなたの中にある悪を、眼をえぐり出すほどの覚悟で統治しなさい”などと上から語りかけているのではなく、人々を“地獄”で脅しながら神殿娼婦を利用している支配者層に向けて、「お前たちの片目が女を見て欲情したなら、或いは片手が悪さをしたら、あんたらの語っている「地獄」に行かないために、その片目を抉り出し、片手を切り捨ててみせたらどうだ!」という辛辣な批判の言葉だったと思うのです。言い方を代えれば、支配者たちが人々をコントロールするために使っている「道具」としての言葉を逆手にとって、批判として使う、もっと言えば、遊んじゃっているように思います。それが支配者たちをより怒らせているし、その「道具」によって捌かれ、縛られ、苦しめられてきた弱い立場の人々の心を解放していくメッセージだったと思うのです。
 地獄について、ペトロの第二の手紙2章4節「神は、罪を犯した天使たちを容赦せず、暗闇という縄で縛って地獄に引き渡し、裁きに向けて閉じ込められました。」などがあり、「天国・地獄」という二元論は古代神話から始まる原始的理解が、イエスの処刑以後に形成されたキリスト教の中にも入り込んで、信じて救われる人・信じないで救われない人、という二元論を作り出してきました。現代でも「イエス・キリストを信じなければ地獄に堕ちる」などと脅しているキリスト教の教派はたくさんあるし、現代、それらがますます声高になっていると感じます。


 イエスの福音(喜びの知らせ)は“だれもが神、アッバによって命を吹き込まれた神の子なんだ。だから死んだらだれもがアッバのもとに帰るんだ”という、明るいシンプルなメッセージだったと思うのです。ただし、「地獄」を語り、恐れさせ、人を裁いてきた人たちは、自分たちの作った「ゲヘナ・地獄」に落ちてしまうのかもしれませんが。


 先週の出来事 
 米バイオ製薬モデルナが、日本で承認された同社製の新型コロナウイルスワクチンについて、日本での生産を検討、とのニュース。これって、“日本車ではダメだから米国企業のアメ車を日本で日本人のために生産します”みたいな話

20210516 東淀川教会 礼拝宣教要旨「アーメン」

本日の聖書箇所(聖書協会共同訳)
申命記27章15〜26節
民に隠れて安置した彫像鋳造を拝む者は呪われる。
父と母をないがしろにする者は呪われる。「以下、それぞれに『民は皆、「アーメンと言いなさい」』が続く。ー省略ー
隣人の地境を移す者は呪われる。
盲人を道で迷わせる者は呪われる。
寄留者、孤児、寡婦の権利を侵す者は呪われる。
父の妻 妻の母 動物 姉妹と寝る者は呪われる 
隣人をひそかに打ち殺す者は呪われる。
賄賂を受け取り、人を打ち殺して無実の血を流す者は呪われる。
この律法の言葉を守り行わない者は呪われる。
民は皆、「アーメン」と言いなさい。

詩編72章19節
栄光に輝く主の名をとこしえにたたえよ。栄光が全地を満たしますように。アーメン、アーメン。

アーメン。人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も,すべて赦される。 (マルコ3, 28)

アーメン。子供のように神の国を受け入れる人でなければ,決して そこに入ることはできない。(マルコ10, 15)

アーメン。およそ女から生まれた者のうち,洗礼者ヨハネより偉大 な者は現れなかった。しかし,天の国で最も小さな者でも,彼よりは 偉大である。(マタイ11, 11) (滝 澤 武 人訳)

宣教要旨「アーメン」

一般の人々が「キリスト教」と聞いて、最初にイメージするのは、十字架、イエス・キリスト、 アーメン、が圧倒的に多いのだろう。本日はこの「アーメン」について。

ヘブライ語: אָמֵן‎アーメーン ギリシア語: ἀμήν アミン  英語の二つの発音 [ˌɑːˈmenアーメン] [ˌeiˈmenエイメン]
 申命記では、司式者が律法を告げ、会衆が“そのとおり”“承認します”の意味でアーメンを唱える。イエスは最初にアーメンから語り出した。

 慣例をひっくり返している、実はトンデモナイ言い方なのです。でも、イエスは、“にんげんの言葉よりも、文字よりも まず最初から 神の「ことば」があったし、今も先にある” 神の言葉によって万物と命が作り出されたと書いてあるではないか“ “わたしもあなた方も、神の言葉によって作り出されたから、今、こうして、ここにいるのだ” “だからアーメンが先になるんだ” ‥みたいな言い方をしたんじゃないか、って想像します。

 それを訳するときに「はっきり言っておく」などと訳しているが、そのまま「アーメン、…」(主なる神の言葉が先だ! あなた方の承認が必要なわけではない!)というイエスの語気の強さ、トンデモナイイエスの言い方を伝えるために、ここは「アーメン!」からの言葉を、そのままを書き残して欲しかった。

アッバ 「被造物、全ての命の生みの親、とうちゃん・かあちゃんの(ちゃん)」これも、トンデモナイ表現だったわけで、これもそのまま書き記して欲しかった。 「全ての生命はすべて「ちゃん」の子なんやで」
Amen !アッバ(親なる神)は子らの犯すどんな罪でも許してくださる。なのに子が子を裁くなんておばかさん。
Amen!アッバ(親なる神)を忘れた子は親を探せない。親の元に帰った方がいいよ。
Amen 偉大なバプテスマのヨハネは「悔い改めなければ神の国に入れない・帰れない」と言った。が、神の国では無条件にありのまんまで神の子なのだ。「ありのままで神の子」の方が、条件付きの神の子よりもちゃんに近いのだ。」そういう意味なのだろう。

「Amen」オーティス・レディングが歌う「アーメン」について
Amen, uh, A-Amen, uh
A-Amen, Amen, Amen, everybody, now
This little life of mine I’m gonna let it shine
Even in my home son, I said what dad
I’m gonna let it shine, let me tell you
A-Amen, will you help me ……..

 オーティス・レディングのアーメンからは、命の作り主である神の輝きを 作られて今ここにある この小さな命が 神様のひかり取り戻したいのです、という祈りが感じられる。

米津玄師が歌っている「Amen」について

馬がアスファルトの上を走る
現代の街はフラスコの中の風景
迷い込んで泣いていた昔
悲しい思い出はいらない 美しい思い出を
ママ パパ この世に生まれたその意味を教えて
そして 祈りの言葉を 教えて欲しい

目に写るものは 「ある」けれど ともにある というリアリティは 一体の現実感は 失われているのだろう

街も 近い町も すれ違う人々も 世の中も とても 遠くて よそよそしい 

「社会不適応」の「こころ」こそが ありのままの「こころ」…

 米津玄師の歌は 「アーメン」を探し求めている歌 と感じられる。

アーメンは だれもかれもわたしもあなたも神の子という、生かされ、生きていることの喜びを共有共感する言葉なのでしょう。
あなたは神を信じますか? ⇨ amen だけでいい
それはどんな信仰ですか? ⇨ amen だけでいい

 

先週の出来事 

世界あちこちで「悪い虫」が騒いでいる?
指導者を誹謗するビラ配布で北朝鮮、高射砲など前方配置
。イスラエル軍はパレスチナ自治区ガザに地上から砲撃を開始。
 運転開始40年超え福井県内原発3基を巡り福島県杉本知事は再稼働に同意すると表明。

悪い虫の正体は?虫下し薬は?

20210509 東淀川教会宣教要旨 「つまずきの石」

復活節 第六主日礼拝
イザヤ書52章12節
 急いで出なくてもよい。 逃げるようにして行かなくてもよい。 主があなたがたの前を行き イスラエルの神がしんがりとなるからだ。

イザヤ書58章8節
 その時、曙のようにあなたの光は輝き出し あなたの傷は速やかに癒やされる。 あなたの義があなたを先導し 主の栄光があなたのしんがりを守る。

マタイによる福音書18章7節
 人をつまずかせるこの世に災いあれ。つまずきは
必ず来るが、つまずきをもたらす者には災いがある。

マルコによる福音書9章 41-47節
 よく言っておく。あなたがたがキリストに属する者だという理由で、一杯の水を飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」

「また、私を信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、ろばの挽く石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまうほうがはるかによい。

 もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨てなさい。
もし、片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨てなさい。
もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。

宣教要旨『つまずきの石』
 福音書の伝える「小さな者」とは、明らかに社会的弱者を指している。子ども、ハンディを負う者、病人、老人、難民、囚人、弱い立場にある人々‥彼らをありのままに生きることをさせない、負い目を負わせるものなど「躓かせる石」は数え切れないほどそこらじゅうにある。イエスが伝えた主なる神は、社会の最も最後尾に置かれている彼らを支えている神、社会の底辺にいる人々を更に下から支えて神を語り続けた。個人にとっての巨大な社会は、いつの時代も社会的弱者にとって様々な困難を次から次へと押し付けてくる。

 「躓いて倒れている人に一杯の水を持って駆けつける」とは、イエスが語った「自分自身を愛するように隣人を愛する」ことの象徴的な表現だろう。なのに、彼らを躓かせる石を置く者たち。あるいは「助けますよ」と言いながら「ここにいたら危険だから施設、隔離場所に入りなさい」などと、排除するためのシステムに押し込めてしまう人々。そんな人々や排除のシステムに対してイエスは憤る。彼らがやがて神の前に立った時、神の怒りにちぢみ上がり、“置いたつまずきの石の何十倍もの石臼にくくりつけられて死んだ方がまだマシだった”と後悔することになるだろう、というわかりやすいイエスのお話だったと思われる。
 神が息を吹き込んだ動植物、人間たちにいらない「いのち」はない。なのに、これは悪い手、悪い眼、いらない足、などと裁く奴らは誰だ!っていう子どもに理解しやすいイエスの話。

 “この手が” “この足が” “この眼が” などの話は、体にとって不要な、邪魔な部分はないように、人類にとって要らない邪魔な人間はいないのに、切り捨てたり、排除したり、裁いたりする社会のシステムや、邪魔者扱いする人間たちに対して「あなたの体の中で邪魔な部分があるというのなら、あなたがそれを自分で切り捨てたらどうだ!」とつめよっているイエスの言葉なのです。

 なのに、イエスの、弱い立場の人々を躓かせる石への言葉を、人間個人内部の事にし、躓かせる石を“罪への誘惑”などとねじ曲げ、「あなたが完全な人間として神さまの前で合格するためには、罪の原因、誘惑の元になる悪い手や足や目を切り捨てでも、罪を犯さない良い魂を残しなさい」などと、一切を個人責任にしてしまう解釈がキリスト教世界でも頻繁に用いられた。ウィルスに感染することも個人責任になりそうな世の中の、最も生きづらさに押し潰されそうな時だからこそ、社会の中の弱者をこそ下から、あるいは背後から支えている神であることを、改めて聖書から聞き取りたい。

先週の出来事
茨城境町の家族殺傷事件。埼玉県三郷市在住の岡庭由征容疑者(26歳無職)が逮捕。顔も氏名も素っ裸で報道され、確定犯扱い。怪しいだけで動機も証拠も殆ど不明なまま無理矢理立件して冤罪を生み出しそうな雲行きで恐ろしい。

20210502 東淀川教会 宣教要旨「イエスによる解放宣言」

 イエスの語る「罪」の内容として、肉体的にも精神的にも「奴隷でいること」「人を奴隷にすること」の意味合いが大きかったと思われる。

 イエスの公生涯、即ち世に向かって言葉を発し行動を起こしてより、十字架に至るまでのすべての活動を一言で言い表せば「解放」という言葉になると思われる。モーセに導かれてエジプト文明の奴隷状態から解放されたイスラエル(神とともに歩む民)が今再び世の「奴隷」となり、奴隷を作り出していた。イエスより7世紀以上前の預言者イザヤの書
「主なる神の霊が私に臨んだ。主が私に油を注いだからである。苦しむ人に良い知らせを伝えるため 主が私を遣わされた。
心の打ち砕かれた人を包み 捕らわれ人に自由を 
つながれている人に 解放を告げるために。主の恵みの年と 私たちの神の報復の日とを告げ 
すべての嘆く人を慰めるために。(イザヤ書61章 1-2節)


 やや今風の言葉で言えば、「心砕かれた、心傷ついた人を癒し 心や身を虜にするものから人を自由にし 自由を奪われている者を解放するために油を注がれた(指名された)者」をイエス自身の召命、神から指名された役割として受け継いだと思われる。

「主の霊が私に臨んだ。貧しい人に福音を告げ知らせるために 主が私に油を注がれたからである。 主が私を遣わされたのは 捕らわれている人に解放を 目の見えない人に視力の回復を告げ 
打ちひしがれている人を自由にし 主の恵みの年を告げる
ためである。」
 イエスは巻物(イザヤ書)を巻き、係の者に返して座られた。
会堂にいる皆の目がイエスに注がれた。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。(ルカによる福音書4章 18-21節)

 イエスによる神の国の宣教は、人の国・世の、富める者と貧しい者、力ある者と力持たない者、神に近いとされている者と神から遠いとされている者とを分かつものが何であるかが視えるようになり、言葉ではない、すべての心の本音が聴こえるようになり、かつ、この世の人間達が作り出した序列の最後尾、しんがりを守られる神の声を伝えることだった。

 耳の聞こえない者たちよ、聞け。目の見えない者たちよ、
まじまじと見よ。(イザヤ書42章18節)

あなたは多くのことを見ながら従わず、耳を開きながら、
聞くことはない。(イザヤ書42章20節)


 更に、奴隷となった対価、奴隷から抜け出すための対価はわたしが払う、あなたはもはや奴隷ではない、自由だと、イエスは一人一人に言葉と行いで宣言した。
 その対価としてイエスが引き受け支払ったのがイエス自身であり、刑罰としての十字架であり、イエス以外の誰一人にもその責を負わせないためのイエスの目論見は成功した。
主はこう言われる。あなたがたはただで売られた。
それゆえ、金を払わずに贖われる。(イザヤ書52章 3節)

 イエスが明らかにした、富める者の謎解き、力ある者の謎解き、神の前における人の序列についての謎解きは世の底辺に置かれている多くの人々を惹きつけた。それはそのまま支配者や世の仕組みに対する批判となり、イエスの十字架刑後、イエスによって目や耳が開かれた者たちは地下に潜り、かなり後になってようやく描かれ始めた福音書においても、世の秩序に対する反乱に目を光らせ、取り締まろうとする弾圧(ユダヤ教徒からのものを含む)を避けるため、イエスによる目のみえない者の癒しのわざ、耳の聞こえない者の癒しのわざへと比喩的に書き換えられていった。また、世の上の人々(上部構造)への批判ではなく、世の下の人々、哀れな貧乏人、病者、ハンディを負う者にも与えられる神さまからの恵み、という博愛、人道主義的な雰囲気をちりばめ、イエスと、イエスに従う者との復活を死後の遠い未来へ押しやる教義を打ち立てることにより、安全で穏健な団体であることを印象付けることに成功した。

 イスラエルはすでに、その選民意識により、自分たちの先祖が神によって奴隷状態から解放された者という自覚すら失っていたし、今も解放されるべき存在であることに思い至る者は少なかった。
「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にする。」
彼らは言った。「私たちはアブラハムの子孫です。今まで誰かの
奴隷になったことはありません。『あなたがたは自由になる』とどうして言われるのですか。」
イエスはお答えになった。「よくよく言っておく。罪を犯す者は誰でも罪の奴隷である。(ルカによる福音書4章 20-21節)

 ギリシャ文明、更にローマ帝国世界に向けての“イエスこそ救い主、神の子”という「新ユダヤ教」乃至は「キリスト教」を広げていくことには成功していった。が一方で、イエスがアッバ(ちゃん!)と呼んだ生ける神との直接的な関係・対話的関係や神理解も、概念的理解(真理)に置き換えられていった。
 めぐみの年(ヨベル)の規定は、土地も人も神のもの、人が所有し続けてはならない、というところから始まったはずである。イスラエルが神によって解放された民であり、神は解放の神であるとのイエスのメッセージが、イエスを十字架刑へと追いやっていったと思われる。


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先週の出来事
コロナウィルスに対する世界各国のワクチン接種率(百人あたり)が2.76人で世界の中でもかなり低いらしい。自国で作る能力が低い?生産国との交渉能力がない?後回しにされている? 実態がわからないまま行動制限ばかり続く。摂取したワクチンが効かないウィルスも発生しているとの情報もあった。コロナという嵐が過ぎ去った後も、直接の接触禁止、マスクと手洗いが日々の常識、エチケットになるという悪夢が頭をよぎる。街中が病院の中みたいになり、雑菌やウィルスを恐れ続け消毒やワクチンに守られる無菌室のモルモット人間‥そんな漫画あったなあ。