20210502 東淀川教会 宣教要旨「イエスによる解放宣言」

Pocket

このエントリーをはてなブックマークに追加

 イエスの語る「罪」の内容として、肉体的にも精神的にも「奴隷でいること」「人を奴隷にすること」の意味合いが大きかったと思われる。

 イエスの公生涯、即ち世に向かって言葉を発し行動を起こしてより、十字架に至るまでのすべての活動を一言で言い表せば「解放」という言葉になると思われる。モーセに導かれてエジプト文明の奴隷状態から解放されたイスラエル(神とともに歩む民)が今再び世の「奴隷」となり、奴隷を作り出していた。イエスより7世紀以上前の預言者イザヤの書
「主なる神の霊が私に臨んだ。主が私に油を注いだからである。苦しむ人に良い知らせを伝えるため 主が私を遣わされた。
心の打ち砕かれた人を包み 捕らわれ人に自由を 
つながれている人に 解放を告げるために。主の恵みの年と 私たちの神の報復の日とを告げ 
すべての嘆く人を慰めるために。(イザヤ書61章 1-2節)


 やや今風の言葉で言えば、「心砕かれた、心傷ついた人を癒し 心や身を虜にするものから人を自由にし 自由を奪われている者を解放するために油を注がれた(指名された)者」をイエス自身の召命、神から指名された役割として受け継いだと思われる。

「主の霊が私に臨んだ。貧しい人に福音を告げ知らせるために 主が私に油を注がれたからである。 主が私を遣わされたのは 捕らわれている人に解放を 目の見えない人に視力の回復を告げ 
打ちひしがれている人を自由にし 主の恵みの年を告げる
ためである。」
 イエスは巻物(イザヤ書)を巻き、係の者に返して座られた。
会堂にいる皆の目がイエスに注がれた。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。(ルカによる福音書4章 18-21節)

 イエスによる神の国の宣教は、人の国・世の、富める者と貧しい者、力ある者と力持たない者、神に近いとされている者と神から遠いとされている者とを分かつものが何であるかが視えるようになり、言葉ではない、すべての心の本音が聴こえるようになり、かつ、この世の人間達が作り出した序列の最後尾、しんがりを守られる神の声を伝えることだった。

 耳の聞こえない者たちよ、聞け。目の見えない者たちよ、
まじまじと見よ。(イザヤ書42章18節)

あなたは多くのことを見ながら従わず、耳を開きながら、
聞くことはない。(イザヤ書42章20節)


 更に、奴隷となった対価、奴隷から抜け出すための対価はわたしが払う、あなたはもはや奴隷ではない、自由だと、イエスは一人一人に言葉と行いで宣言した。
 その対価としてイエスが引き受け支払ったのがイエス自身であり、刑罰としての十字架であり、イエス以外の誰一人にもその責を負わせないためのイエスの目論見は成功した。
主はこう言われる。あなたがたはただで売られた。
それゆえ、金を払わずに贖われる。(イザヤ書52章 3節)

 イエスが明らかにした、富める者の謎解き、力ある者の謎解き、神の前における人の序列についての謎解きは世の底辺に置かれている多くの人々を惹きつけた。それはそのまま支配者や世の仕組みに対する批判となり、イエスの十字架刑後、イエスによって目や耳が開かれた者たちは地下に潜り、かなり後になってようやく描かれ始めた福音書においても、世の秩序に対する反乱に目を光らせ、取り締まろうとする弾圧(ユダヤ教徒からのものを含む)を避けるため、イエスによる目のみえない者の癒しのわざ、耳の聞こえない者の癒しのわざへと比喩的に書き換えられていった。また、世の上の人々(上部構造)への批判ではなく、世の下の人々、哀れな貧乏人、病者、ハンディを負う者にも与えられる神さまからの恵み、という博愛、人道主義的な雰囲気をちりばめ、イエスと、イエスに従う者との復活を死後の遠い未来へ押しやる教義を打ち立てることにより、安全で穏健な団体であることを印象付けることに成功した。

 イスラエルはすでに、その選民意識により、自分たちの先祖が神によって奴隷状態から解放された者という自覚すら失っていたし、今も解放されるべき存在であることに思い至る者は少なかった。
「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にする。」
彼らは言った。「私たちはアブラハムの子孫です。今まで誰かの
奴隷になったことはありません。『あなたがたは自由になる』とどうして言われるのですか。」
イエスはお答えになった。「よくよく言っておく。罪を犯す者は誰でも罪の奴隷である。(ルカによる福音書4章 20-21節)

 ギリシャ文明、更にローマ帝国世界に向けての“イエスこそ救い主、神の子”という「新ユダヤ教」乃至は「キリスト教」を広げていくことには成功していった。が一方で、イエスがアッバ(ちゃん!)と呼んだ生ける神との直接的な関係・対話的関係や神理解も、概念的理解(真理)に置き換えられていった。
 めぐみの年(ヨベル)の規定は、土地も人も神のもの、人が所有し続けてはならない、というところから始まったはずである。イスラエルが神によって解放された民であり、神は解放の神であるとのイエスのメッセージが、イエスを十字架刑へと追いやっていったと思われる。


 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
先週の出来事
コロナウィルスに対する世界各国のワクチン接種率(百人あたり)が2.76人で世界の中でもかなり低いらしい。自国で作る能力が低い?生産国との交渉能力がない?後回しにされている? 実態がわからないまま行動制限ばかり続く。摂取したワクチンが効かないウィルスも発生しているとの情報もあった。コロナという嵐が過ぎ去った後も、直接の接触禁止、マスクと手洗いが日々の常識、エチケットになるという悪夢が頭をよぎる。街中が病院の中みたいになり、雑菌やウィルスを恐れ続け消毒やワクチンに守られる無菌室のモルモット人間‥そんな漫画あったなあ。

 

 

 

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です