20210509 東淀川教会宣教要旨 「つまずきの石」

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復活節 第六主日礼拝
イザヤ書52章12節
 急いで出なくてもよい。 逃げるようにして行かなくてもよい。 主があなたがたの前を行き イスラエルの神がしんがりとなるからだ。

イザヤ書58章8節
 その時、曙のようにあなたの光は輝き出し あなたの傷は速やかに癒やされる。 あなたの義があなたを先導し 主の栄光があなたのしんがりを守る。

マタイによる福音書18章7節
 人をつまずかせるこの世に災いあれ。つまずきは
必ず来るが、つまずきをもたらす者には災いがある。

マルコによる福音書9章 41-47節
 よく言っておく。あなたがたがキリストに属する者だという理由で、一杯の水を飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」

「また、私を信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、ろばの挽く石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまうほうがはるかによい。

 もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨てなさい。
もし、片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨てなさい。
もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。

宣教要旨『つまずきの石』
 福音書の伝える「小さな者」とは、明らかに社会的弱者を指している。子ども、ハンディを負う者、病人、老人、難民、囚人、弱い立場にある人々‥彼らをありのままに生きることをさせない、負い目を負わせるものなど「躓かせる石」は数え切れないほどそこらじゅうにある。イエスが伝えた主なる神は、社会の最も最後尾に置かれている彼らを支えている神、社会の底辺にいる人々を更に下から支えて神を語り続けた。個人にとっての巨大な社会は、いつの時代も社会的弱者にとって様々な困難を次から次へと押し付けてくる。

 「躓いて倒れている人に一杯の水を持って駆けつける」とは、イエスが語った「自分自身を愛するように隣人を愛する」ことの象徴的な表現だろう。なのに、彼らを躓かせる石を置く者たち。あるいは「助けますよ」と言いながら「ここにいたら危険だから施設、隔離場所に入りなさい」などと、排除するためのシステムに押し込めてしまう人々。そんな人々や排除のシステムに対してイエスは憤る。彼らがやがて神の前に立った時、神の怒りにちぢみ上がり、“置いたつまずきの石の何十倍もの石臼にくくりつけられて死んだ方がまだマシだった”と後悔することになるだろう、というわかりやすいイエスのお話だったと思われる。
 神が息を吹き込んだ動植物、人間たちにいらない「いのち」はない。なのに、これは悪い手、悪い眼、いらない足、などと裁く奴らは誰だ!っていう子どもに理解しやすいイエスの話。

 “この手が” “この足が” “この眼が” などの話は、体にとって不要な、邪魔な部分はないように、人類にとって要らない邪魔な人間はいないのに、切り捨てたり、排除したり、裁いたりする社会のシステムや、邪魔者扱いする人間たちに対して「あなたの体の中で邪魔な部分があるというのなら、あなたがそれを自分で切り捨てたらどうだ!」とつめよっているイエスの言葉なのです。

 なのに、イエスの、弱い立場の人々を躓かせる石への言葉を、人間個人内部の事にし、躓かせる石を“罪への誘惑”などとねじ曲げ、「あなたが完全な人間として神さまの前で合格するためには、罪の原因、誘惑の元になる悪い手や足や目を切り捨てでも、罪を犯さない良い魂を残しなさい」などと、一切を個人責任にしてしまう解釈がキリスト教世界でも頻繁に用いられた。ウィルスに感染することも個人責任になりそうな世の中の、最も生きづらさに押し潰されそうな時だからこそ、社会の中の弱者をこそ下から、あるいは背後から支えている神であることを、改めて聖書から聞き取りたい。

先週の出来事
茨城境町の家族殺傷事件。埼玉県三郷市在住の岡庭由征容疑者(26歳無職)が逮捕。顔も氏名も素っ裸で報道され、確定犯扱い。怪しいだけで動機も証拠も殆ど不明なまま無理矢理立件して冤罪を生み出しそうな雲行きで恐ろしい。

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