東淀川教会20180617礼拝ezekiel12:13-16Luke12:34-37主題「闇を直視する力」司式:金田恆孝

旧約聖書エゼキエルEzekiel12:13-16
わたしはわたしの網を彼の上に打ちかける。彼はわたしのわなにかかる。わたしは彼をカルデヤびとの地のバビロンに引いて行く。しかし彼はそれを見ないで、そこで死ぬであろう。
またすべて彼の周囲にいて彼を助ける者および彼の軍隊を、わたしは四方に散らし、つるぎを抜いてそのあとを追う。
わたしが彼らを諸国民の中に散らし、国々にまき散らすとき、彼らはわたしが主であることを知る。
ただし、わたしは彼らのうちに、わずかの者を残して、つるぎと、ききんと、疫病を免れさせ、彼らがおこなったもろもろの憎むべきことを、彼らが行く国びとの中に告白させよう。そして彼らはわたしが主であることを知るようになる」。

新約聖書 ルカLuke福音書12:34-37
For where your treasure is, there will your heart be also. Let your loins be girded about, and your lamps burning; and be ye yourselves like unto men looking for their lord, when he shall return from the marriage feast; that, when he cometh and knocketh, they may straightway open unto him. and be ye yourselves like unto men looking for their lord, when he shall return from the marriage feast; that, when he cometh and knocketh, they may straightway open unto him.
あなたがたの宝のある所には、心もあるからである。
腰に帯をしめ、あかりをともしていなさい。
主人が婚宴から帰ってきて戸をたたくとき、すぐあけてあげようと待っている人のようにしていなさい。
主人が帰ってきたとき、目を覚しているのを見られる僕たちは、さいわいである。よく言っておく。主人が帯をしめて僕たちを食卓につかせ、進み寄って給仕をしてくれるであろう。

宣教題「闇を直視するちからを」
1992年、正統派ユダヤ教徒グループ「ナトレイ・カルタ」は、次のような声明文を発表している。「敵であるシオニストと私たちの戦いは、妥協の余地のない、まさに “神学戦争”なのである」「ユダヤ人たちが全世界に追放されたのは、神の意志によるのであって、彼らが神の律法を守らなかったためである。あらゆる苦難をへて、メシア(救世主)が到来するまでそれは続く。メシア到来によってのみそれが終わるのである。それゆえに、シオニストあるいはその関係機関が神を無視して世界中からユダヤ人たちに帰ってくるように強要するのは、ユダヤ人たちをいよいよ危険に陥れる“不敬の罪”を犯していることになる」「もしシオニストが神を無視し続けるならば事は重大である。ここ、すなわちイスラエルは地上で最も危険な場所となろう。」現代のイスラエルはすでに地上で最も危険な場所となっている。

およそ2600年前にワープしてみる。
文明の始まりは境界(ボーダー)に区切られた土地の登記と排他を基本とする国家の始まり。イスラエルもまた国家を強化することによって光り輝くイスラエルであろうとした。それは神によってのみ導かれる「イスラエル」とは相容れないものであり、主を見誤ったイスラエルを神は散らし、何が主であるかを民たちに知らせたとエゼキエルは伝える。

再び2600年後の現代に戻る。
パレスチナの人々との共存を探ることなく諸国の国策を利用して軍事国家を樹立した現代イスラエルはこれからどのような「バビロン捕囚」「離散」に向かうのだろうか。それは避けられないこと。

時代の暗闇を直視しなければならない。意識と思考を停止し、なりゆき、運命に身を委ねて流され続ける生き方もある。「その時」はいつかわからない。どのような生き方を強いられていようと、「眼を醒ましていなさい」「主の御手のわざを迎えるための灯りを点し続けよ」との主イエスの声が聞こえてくる。

○先週の出来事
新幹線3人殺傷事件小島一朗容疑者。写真は大人になることを拒否した少年、という顔。だれでもよかった、と犯行。「世界の中に居場所を求め続けることに絶望した少年は放浪の末、この世と自分に落とし前をつけるため、長野県「岡谷駅」から引き返す燃料のない特攻隊のように出陣した…そんなふうに感じる。この少年の直面していた絶望と「特攻」行動にわたしたちはどう向き合うべきかが問われている。

東淀川教会20180610礼拝イザヤ58:2-7マタイ6:16-18主題「断食しろとは言っていない」司式:金田恆孝

旧約聖書 izaya イザヤ書58章2-7節
彼らは日々わたしを尋ね求め、義を行い、神のおきてを捨てない国民のように、わが道を知ることを喜ぶ。彼らは正しいさばきをわたしに求め、神に近づくことを喜ぶ。彼らは言う、『われわれが断食したのに、なぜ、ごらんにならないのか。われわれがおのれを苦しめたのに、なぜ、ごぞんじないのか』と。見よ、あなたがたの断食の日には、おのが楽しみを求め、その働き人をことごとくしえたげる。見よ、あなたがたの断食するのは、ただ争いと、いさかいのため、また悪のこぶしをもって人を打つためだ。きょう、あなたがたのなす断食は、その声を上に聞えさせるものではない。このようなものは、わたしの選ぶ断食であろうか。人がおのれを苦しめる日であろうか。そのこうべを葦のように伏せ、そのこうべを葦のように伏せ、荒布と灰とをその下に敷くことであろうか。主に受けいれられる日と、となえるであろうか。わたしが選ぶところの断食は、悪のなわをほどき、くびきのひもを解き、しえたげられる者を放ち去らせ、すべてのくびきを折るなどの事ではないか。
また飢えた者に、あなたのパンを分け与え、さすらえる貧しい者を、あなたの家に入れ、裸の者を見て、これを着せ、自分の骨肉に身を隠さないなどの事ではないか。

新約聖書 matai マタイ福音書 6:16-18
Moreover when ye fast, be not, as the hypocrites, of a sad countenance: for they disfigure their faces, that they may be seen of men to fast. Verily I say unto you, They have received their reward. But thou, when thou fastest, anoint thy head, and wash thy face;
that thou be not seen of men to fast, but of thy Father who is in secret: and thy Father, who seeth in secret, shall recompense thee.

また断食をする時には、偽善者がするように、陰気な顔つきをするな。彼らは断食をしていることを人に見せようとして、自分の顔を見苦しくするのである。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。あなたがたは断食をする時には、自分の頭に油を塗り、顔を洗いなさい。それは断食をしていることが人に知れないで、隠れた所においでになるあなたの父に知られるためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いて下さるであろう。

宣教題「主は断食しろとは言っていない」
紀元前の昔から「ともに神に祈る」儀式は発生していたし、罪を告白する、懺悔する、悔い改める、自分自身を戒める、自分を罰する、などの思いから、「断食」する行為は自然発生的に各宗教の、各個々人の中で行われていた。ゾロアスター教、ユダヤ教、正教会、キリスト教、イスラム教、ヒンドゥー教、仏教など、宗派を問わず、あった。
そこに共通しているのは、「断食」が、守らなければならない儀式、信仰を続ける上で不可欠な義務としてあるのではなく、あくまでも各々の個人の内側から自発的に発生し、行われ始めたものと思われる。イスラム教に於けるラマダーンなどいっせいに行う習慣もあるが、違反をとがめるなものではなく、あくまでも各々の自主性に委ねられている、自然発生的な、個人的な「行為」として、自分自身へのけじめとして、或いは固有の課題として行われていたように感じられる。
それがいつの間にか、神への応答の儀式として、或いは、みんな守らなければならない戒律として義務づけられるようになり、「これだけ断食をしているのに、なぜ神は聞き届けてくださらないのか」などの祈りに見られるように、「神との取引条件」化してしまった「断食」の姿がある。
自分自身が生き方を変えよう、これまでの生き方をリセットしようとしたとき、断食によって心と身体とをまとめてリセットしようとする行為は、野生動物が洞穴で疾病から回復しようとする姿に近いと感じられる。
マタイ福音書のことばは、「あなたが勝手に行う「断食」を自分の信仰のPRに使うな。」という意味であり、「頭に油して顔を洗え」とは、きちんと身を整えて、空腹であることを周囲に悟られるべきではない」というメッセージだと思われる。
理解し合うこと、理解されることを求めたがる弱い私たちではあるが、反省とか悔い改めとは、他者に理解されるべきこととは異なる。ましてや、信仰の証明、神と取引する条件などになるはずもない。隣人に理解されることを求めない強さが欲しい。

○先週の出来事「行旅死亡人(こうりょしぼうにん)」とはどこかで野垂れ死んでいて、身元不明なまま行政によって遺骨化され忘れられていく人々であり、年間の自殺者数とほぼ同じくらいの統計数になるとのこと(官報に記載)。ニュースにすらならない数多の「死」が私たちの身近にあって、殆ど見向きもされていない、見向きもしていない現実にあらためて心が痛む。

東淀川教会20180603礼拝 創世記21:14-19マルコ11:22-26 主題「祈るまえにすることが」司式:金田恆孝

 

われらの祈り our pray
全ての始まりであり 終わりであり ΑアルファでありΩオメガであり
唯一であり 全てであり 永遠の主 いのちの主 ここから出でてここに帰る まことの光である神さま
『聖なる 聖なる 聖なる主よ』 ×3回 (holy)

聖母マリアを通して我らに与えられた救い主キリスト・イエス
その十字架の元に集うことができたことを感謝いたします。
『主の恩寵(おんちょう)に感謝』×3回 (grace)

私は「言葉」と「思い」と「行い」によって多くの罪を犯し、
更に心を頑なにし、傲慢であったことを告白致します。自分自身を愛するように隣人を愛せなかったことを告白致します。
『我が罪を赦し給え』×3 (forgive my sins)

主の求められる生け贄は打ち砕かれたこころ。主は悔い改め、帰ってきた放蕩息子を受け入れ、あなたの御国を思い出した盗賊を捨てられず、罪を告白した者を友とし、汚れた心を洗い、新しい霊を注いでくださいました。主のあわれみに感謝。
『主よ あわれみ給え キリストよ あわれみ給え』×3回(Mercy)

いと高きところに栄光神にあれ 地にある神の民に平和あれ
我らの主 天にいます主 全能の父なる神よ
神の一人子 救い主キリスト・イエスよ
神のひかりであり、神の御ちからであり 神の息である聖霊よ
あなたを崇め、あなたに感謝し、讃美を捧げます。
『グローリア グローリア グローリア』(gloria)×3回 アーメン
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旧約聖書 創世記Genesis 21:14-19
そこでアブラハムは明くる朝はやく起きて、パンと水の皮袋とを取り、ハガルに与えて、肩に負わせ、その子を連れて去らせた。ハガルは去ってベエルシバの荒野にさまよった。やがて皮袋の水が尽きたので、彼女はその子を木の下におき、「わたしはこの子の死ぬのを見るに忍びない」と言って、矢の届くほど離れて行き、子供の方に向いてすわった。彼女が子供の方に向いてすわったとき、子供は声をあげて泣いた。神はわらべの声を聞かれ、神の使は天からハガルを呼んで言った、「ハガルよ、どうしたのか。恐れてはいけない。神はあそこにいるわらべの声を聞かれた。立って行き、わらべを取り上げてあなたの手に抱きなさい。わたしは彼を大いなる国民とするであろう」。神がハガルの目を開かれたので、彼女は水の井戸のあるのを見た。彼女は行って皮袋に水を満たし、わらべに飲ませた。

新約聖書 マルコ福音書Mark 11-22-26
マタイ6-12 And forgive us our debts, as we also have forgiven our debtors. わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。
ルカ11-4 And forgive us our sins; for we ourselves also forgive every one that is indebted to us. わたしたちに負債のある者を皆ゆるしますから、わたしたちの罪をもおゆるしください。
マルコ11:22-26
イエスは答えて言われた、「神を信じなさい。よく聞いておくがよい。だれでもこの山に、動き出して、海の中にはいれと言い、その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら、そのとおりに成るであろう。そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう。
また立って祈るとき、だれかに対して、何か恨み事があるならば、ゆるしてやりなさい。そうすれば、天にいますあなたがたの父も、あなたがたのあやまちを、ゆるしてくださるであろう。もしゆるさないならば、天にいますあなたがたの父も、あなたがたのあやまちを、ゆるしてくださらないであろう。

ヘブル人への手紙11章1
「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」Now faith is assurance of things hoped for, a conviction of things not seen.

宣教題「祈る前にすることあるやろ」
教会でともに唱える「主の祈り」。マタイ福音書では「私達に負債(罪)のある者を赦しましたから、私達の負債(罪)を許してください」と、隣人に対する私達の赦しは過去形である。ルカ福音書では、私達に負債のある者を皆ゆるしますから、私達の罪をも許してください」と、隣人への赦しは未来形である。これは、「立って祈るとき、だれかに対して、何か恨み事があるならば、ゆるしてやりなさい。そうすれば、天にいますあなたがたの父も、あなたがたのあやまちを、ゆるしてくださるであろう。もしゆるさないならば、天にいますあなたがたの父も、あなたがたのあやまちを、ゆるしてくださらないであろう。」との、イエスのことばに対する応答であろう。
マタイ福音書で言えば「私達が過去から今日までに隣人の負債を赦した分だけ、赦してもらえる」というニュアンスが大きい。ルカ福音書では、隣人の負債を赦しますから、という決意表明のようになっており、今後私達による隣人への赦しがなければ、私達の罪も許されないことを覚悟する、というニュアンスが含まれる。
マルコ福音書の記述は、「神に赦しや憐れみを求めて祈る前に、することあるだろう」というニュアンスがにじみ出ている。
人は自身が隣人にとって加害者であり、自分自身にとって「どうしようもない馬鹿・罪人」であることに気付かざるを得ないし、程度の差はあれ自己嫌悪・葛藤(コンプレックス)を抱え続け、神(天・仏)に赦しや憐れみを求める。自分を好きでたまらないユーフォリア(自己愛者)ではいられない。共同で集って祈る宗教(セクト)化・儀式化していくとき、儀式・定式としての「祈り方」が課題となる。が、イエスは、「祈る前にすることあるだろう?」と応答される。
ハガルが樹の下に置いた我が子の衰弱死を直視できず木から離れたとき、子イシュマエルが泣き、神はその鳴き声をまことの祈りとして聞かれた。必至の状況で生きようとした赤子の声こそ祈りだった。
「祈る前にすることあるだろう?」のイエスの声を今こそ聴きたい。

○先週の出来事
「ことば」と「行い」について、某国の首相も政治家も嘘だらけ。広報も嘘だらけ。嘘を裁くはずの検察も嘘だらけ。「信」をどこにおけばよいのかわからなくなっている。「信」がなくなれば、信仰もなくなってしまう? 信じる対象がなくて人は生きていけるのか? みんなで自閉症になれば、現実は怖くない?