東淀川教会20180603礼拝 創世記21:14-19マルコ11:22-26 主題「祈るまえにすることが」司式:金田恆孝

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われらの祈り our pray
全ての始まりであり 終わりであり ΑアルファでありΩオメガであり
唯一であり 全てであり 永遠の主 いのちの主 ここから出でてここに帰る まことの光である神さま
『聖なる 聖なる 聖なる主よ』 ×3回 (holy)

聖母マリアを通して我らに与えられた救い主キリスト・イエス
その十字架の元に集うことができたことを感謝いたします。
『主の恩寵(おんちょう)に感謝』×3回 (grace)

私は「言葉」と「思い」と「行い」によって多くの罪を犯し、
更に心を頑なにし、傲慢であったことを告白致します。自分自身を愛するように隣人を愛せなかったことを告白致します。
『我が罪を赦し給え』×3 (forgive my sins)

主の求められる生け贄は打ち砕かれたこころ。主は悔い改め、帰ってきた放蕩息子を受け入れ、あなたの御国を思い出した盗賊を捨てられず、罪を告白した者を友とし、汚れた心を洗い、新しい霊を注いでくださいました。主のあわれみに感謝。
『主よ あわれみ給え キリストよ あわれみ給え』×3回(Mercy)

いと高きところに栄光神にあれ 地にある神の民に平和あれ
我らの主 天にいます主 全能の父なる神よ
神の一人子 救い主キリスト・イエスよ
神のひかりであり、神の御ちからであり 神の息である聖霊よ
あなたを崇め、あなたに感謝し、讃美を捧げます。
『グローリア グローリア グローリア』(gloria)×3回 アーメン
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旧約聖書 創世記Genesis 21:14-19
そこでアブラハムは明くる朝はやく起きて、パンと水の皮袋とを取り、ハガルに与えて、肩に負わせ、その子を連れて去らせた。ハガルは去ってベエルシバの荒野にさまよった。やがて皮袋の水が尽きたので、彼女はその子を木の下におき、「わたしはこの子の死ぬのを見るに忍びない」と言って、矢の届くほど離れて行き、子供の方に向いてすわった。彼女が子供の方に向いてすわったとき、子供は声をあげて泣いた。神はわらべの声を聞かれ、神の使は天からハガルを呼んで言った、「ハガルよ、どうしたのか。恐れてはいけない。神はあそこにいるわらべの声を聞かれた。立って行き、わらべを取り上げてあなたの手に抱きなさい。わたしは彼を大いなる国民とするであろう」。神がハガルの目を開かれたので、彼女は水の井戸のあるのを見た。彼女は行って皮袋に水を満たし、わらべに飲ませた。

新約聖書 マルコ福音書Mark 11-22-26
マタイ6-12 And forgive us our debts, as we also have forgiven our debtors. わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。
ルカ11-4 And forgive us our sins; for we ourselves also forgive every one that is indebted to us. わたしたちに負債のある者を皆ゆるしますから、わたしたちの罪をもおゆるしください。
マルコ11:22-26
イエスは答えて言われた、「神を信じなさい。よく聞いておくがよい。だれでもこの山に、動き出して、海の中にはいれと言い、その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら、そのとおりに成るであろう。そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう。
また立って祈るとき、だれかに対して、何か恨み事があるならば、ゆるしてやりなさい。そうすれば、天にいますあなたがたの父も、あなたがたのあやまちを、ゆるしてくださるであろう。もしゆるさないならば、天にいますあなたがたの父も、あなたがたのあやまちを、ゆるしてくださらないであろう。

ヘブル人への手紙11章1
「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」Now faith is assurance of things hoped for, a conviction of things not seen.

宣教題「祈る前にすることあるやろ」
教会でともに唱える「主の祈り」。マタイ福音書では「私達に負債(罪)のある者を赦しましたから、私達の負債(罪)を許してください」と、隣人に対する私達の赦しは過去形である。ルカ福音書では、私達に負債のある者を皆ゆるしますから、私達の罪をも許してください」と、隣人への赦しは未来形である。これは、「立って祈るとき、だれかに対して、何か恨み事があるならば、ゆるしてやりなさい。そうすれば、天にいますあなたがたの父も、あなたがたのあやまちを、ゆるしてくださるであろう。もしゆるさないならば、天にいますあなたがたの父も、あなたがたのあやまちを、ゆるしてくださらないであろう。」との、イエスのことばに対する応答であろう。
マタイ福音書で言えば「私達が過去から今日までに隣人の負債を赦した分だけ、赦してもらえる」というニュアンスが大きい。ルカ福音書では、隣人の負債を赦しますから、という決意表明のようになっており、今後私達による隣人への赦しがなければ、私達の罪も許されないことを覚悟する、というニュアンスが含まれる。
マルコ福音書の記述は、「神に赦しや憐れみを求めて祈る前に、することあるだろう」というニュアンスがにじみ出ている。
人は自身が隣人にとって加害者であり、自分自身にとって「どうしようもない馬鹿・罪人」であることに気付かざるを得ないし、程度の差はあれ自己嫌悪・葛藤(コンプレックス)を抱え続け、神(天・仏)に赦しや憐れみを求める。自分を好きでたまらないユーフォリア(自己愛者)ではいられない。共同で集って祈る宗教(セクト)化・儀式化していくとき、儀式・定式としての「祈り方」が課題となる。が、イエスは、「祈る前にすることあるだろう?」と応答される。
ハガルが樹の下に置いた我が子の衰弱死を直視できず木から離れたとき、子イシュマエルが泣き、神はその鳴き声をまことの祈りとして聞かれた。必至の状況で生きようとした赤子の声こそ祈りだった。
「祈る前にすることあるだろう?」のイエスの声を今こそ聴きたい。

○先週の出来事
「ことば」と「行い」について、某国の首相も政治家も嘘だらけ。広報も嘘だらけ。嘘を裁くはずの検察も嘘だらけ。「信」をどこにおけばよいのかわからなくなっている。「信」がなくなれば、信仰もなくなってしまう? 信じる対象がなくて人は生きていけるのか? みんなで自閉症になれば、現実は怖くない?

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