191110 宣教要旨 イザヤ書22:1-8 マルコ福音書9:9-13 「神の国と地上の国」宣教 金田恆孝

イザヤ書22章1-8節

1 幻の谷についての託宣。あなたがたはなぜ、みな屋根にのぼったのか。

2 叫び声で満ちている者、騒がしい都、喜びに酔っている町よ。あなたのうちの殺された者はつるぎで殺されたのではなく、また戦いに倒れたのでもない。

3 あなたのつかさたちは皆共にのがれて行ったが、弓を捨てて捕えられた。彼らは遠く逃げて行ったが、あなたのうちの見つかった者はみな捕えられた。

4 それゆえ、わたしは言った、「わたしを顧みてくれるな、わたしはいたく泣き悲しむ。わが民の娘の滅びのために、わたしを慰めようと努めてはならない」。

5 万軍の神、主は幻の谷に騒ぎと、踏みにじりと、混乱の日をこさせられる。城壁はくずれ落ち、叫び声は山に聞える。

6 エラムは箙を負い、戦車と騎兵とをもってきたり、キルは盾をあらわした。

7 あなたの最も美しい谷は戦車で満ち、騎兵はもろもろの門にむかって立った。

8 ユダを守るおおいは取り除かれた。その日あなたは林の家の武具を仰ぎ望んだ。

マルコ福音書9章9-13節

9:9一同が山を下って来るとき、イエスは「人の子が死人の中からよみがえるまでは、いま見たことをだれにも話してはならない」と、彼らに命じられた。 9:10彼らはこの言葉を心にとめ、死人の中からよみがえるとはどういうことかと、互に論じ合った。 9:11そしてイエスに尋ねた、「なぜ、律法学者たちは、エリヤが先に来るはずだと言っているのですか」。 9:12イエスは言われた、「確かに、エリヤが先にきて、万事を元どおりに改める。しかし、人の子について、彼が多くの苦しみを受け、かつ恥ずかしめられると、書いてあるのはなぜか。 9:13しかしあなたがたに言っておく、エリヤはすでにきたのだ。そして彼について書いてあるように、人々は自分かってに彼をあしらった」。

聖書から聴く 「地上の国と神の国家」

アブラハムが居留した地パレスチナのカナン。飢饉をきっかけにエジプトに移動し、エジプト王の奴隷となり、やがてモーセに引き出されエジプト脱出を果たし、長年の放浪の末、カナンに入植したイスラエル12部族は大きな難民の集合体であった。元来遊牧民であり「神とともに歩む民・イスラエル」は、城壁や軍事力によって自分たちを守り武力で領土を拡大するという好戦的な民族ではなかった。溶け込むことが第一義であったはずである。彼らの侵入を阻もうとする側の城壁が崩れた、とは、排他的な土地支配を神は祝福しない、の意味と理解できる。
軍事的に強かった北のアッシリアが若干弱ったとき、イスラエルはそのチャンスを狙って近隣諸国との間に軍事同盟を結び、その中心となってアッシリアを滅ぼそうとした。他国に宣戦布告するような強い軍事国家を樹立しようとしたが、負けて多くの民がアッシリアの奴隷・捕囚となり、北イスラエル国は滅んだ。戦いの知恵や軍事力の拡大でこの民は傲慢となり、神によってのみ守られてきたことを忘れた。BC700年頃のイスラエルの様子が「幻の谷」として語り継がれた。
イエスの時代。巨大ローマ帝国と、イスラエル側ヘロデ、ローマ帝国に操られる傀儡政権のもとで、富める者と貧しい者との格差は広がり、「再びエリアがこの世に現れて心ない王たちと対決し、弱い立場の人間を解放してくれる、世の中を改めてくれるというメシア待望の機運が高まったと思われます。そのエリアはバプテスマのヨハネというかたちで現れたが、神の国を回復させようとした「エリア」をあしらい、王に殺されるままにしてしまった、との理解がイエスたちから広まっていったと思われます。
ヘロデ王やローマ帝国の為政者たちの行いを告発しつつ、社会的弱者のしんがり・最後尾に立って、神に向かって立ち上がらせようとするイエスたちの行為は、強い者、長いものに巻かれようとする世の中の秩序を大いに乱す者たちであったわけで、権力者たちやそれに追従する神殿政治にとって、イエスたちやそれに同調する人々を一挙に「犯罪者」として処罰する機会をうかがっていたと思われます。
その攻勢を自分ひとりだけに向けさせ、「戦争」を避けることが、仲間たちに理解されにくいイエスの主眼であったと思われるのです。その延長線上に“ユダの裏切り”があったと思えてなりません。

先週の出来事
京都アニメを襲ったとされる青葉容疑者が、「死刑になるために大人数の殺害を狙った」と話している様子。すでに死刑制度は犯罪抑止力にも反省を促す力にもならず、むしろ犯罪を促進する手段になっている。死刑という生命の処分装置をまず外すことから始めるべきだろう。

 

191201 宣教要旨 旧約聖書の「いちじく」箇所 マルコ福音書11:16 「比喩でしか記せないこと」宣教 金田恆孝

雅歌:2章:13節   いちじくの木はその実を結び、ぶどうの木は花咲いて、かんばしいにおいを放つ。わが愛する者よ、わが麗しき者よ、立って、出てきなさい。
イザヤ書:38章:21節   イザヤは言った、「干いちじくのひとかたまりを持ってこさせ、それを腫物につけなさい。そうすれば直るでしょう」。
イザヤ書:5章: 1節   わたしはわが愛する者のために、そのぶどう畑についてのわが愛の歌をうたおう。わが愛する者は土肥えた小山の上に、一つのぶどう畑をもっていた。
イザヤ書:5章: 2節   彼はそれを掘りおこし、石を除き、それに良いぶどうを植え、その中に物見やぐらを建て、またその中に酒ぶねを掘り、良いぶどうの結ぶのを待ち望んだ。ところが結んだものは野ぶどうであった。イザヤ書5章7節 万軍の主のぶどう畑はイスラエルの家であり、主が喜んでそこに植えられた物は、ユダの人々である。主はこれに公平を望まれたのに、見よ、流血。正義を望まれたのに、見よ、叫び。イザヤ書8 わざわいなるかな、彼らは家に家を建て連ね、田畑に田畑をまし加えて、余地をあまさず、自分ひとり、国のうちに住まおうとする。万軍の主はわたしの耳に誓って言われた、「必ずや多くの家は荒れすたれ、大きな麗しい家も住む者がないようになる。

      マルコ福音書 11章11-16節
11
こうしてイエスはエルサレムに着き、宮にはいられた。そして、すべてのものを見まわった後、もはや時もおそくなっていたので、十二弟子と共にベタニヤに出て行かれた。
12 翌日、彼らがベタニヤから出かけてきたとき、イエスは空腹をおぼえられた。
13 そして、葉の茂ったいちじくの木を遠くからごらんになって、その木に何かありはしないかと近寄られたが、葉のほかは何も見当らなかった。いちじくの季節でなかったからである。
14 そこで、イエスはその木にむかって、「今から後いつまでも、おまえの実を食べる者がないように」と言われた。弟子たちはこれを聞いていた。
15 それから、彼らはエルサレムにきた。イエスは宮に入り、宮の庭で売り買いしていた人々を追い出しはじめ、両替人の台や、はとを売る者の腰掛をくつがえし、
16 また器ものを持って宮の庭を通り抜けるのをお許しにならなかった。

聖書から聴く 宣教要旨「比喩でしか記せないこと」

 主なる神が奴隷だった人々をカナンの地に招いたのは自然との調和、同胞人や異邦人との平和、弱者・のけ者・疎外者を生み出さない社会を望んだ。それは入植したイスラエル人の希望であり、神に生かされる喜びであり、それは「ブドウ畑とその下のイチジクがたわわに実っている風景」として繰り返し語り継がれてきた。

 いつの間にか「強い国家」や物質的な豊かさを求め、神に生かされる姿を失い、よそ者や弱者を踏みつけるイスラエルに変わってしまった。

「神がイスラエルに望んだブドウ畑、イチジクの樹を誰が滅ぼしてしまったのか、について、イエスたちは歴史を遡り、或いは為政者たちや、「えらい人々」に向かって、その神に背いた行為、罪を具体的に語り明らかにしていったはずである。それは単に神殿体制だけではなく国家の存立を危うくしかねえない運動になりかけていたと思われます。だから公開で処刑された。

 予言者たち、そしてイエスたちが繰り返し警告し、批判し、悔い改めを求め続けたにもかかわらず、根底から悔い改められなかったイスラエルは国を失い、ディアスポラ、流浪の民として世界中に散っていった。

「国家に固守したからこそ我々イスラエルは主なる神によってのみ生かされ生かし合い、神の栄光を表す道を見失った。主によって散らされた。だから主なる神が世界を一つにしてくれるときまで、私たちイスラエルはディアスポラのままでいるべきである」とは、イスラエル国家樹立運動、シオニズム運動に反対し続けているユダヤ教の一派のメッセージであった。

 因みに、古代パレスチナではブドウ畑の上部でブドウの栽培、地表でイチジクの栽培を行うことが多かったらしい。また、上のブドウを女性の乳房、下のイチジクを睾丸、つまり子孫繁栄に喩え、『産めよ増えよ地に満ちよ」との神さまからの人間に対する祝福のことばをおおらかに感謝しつつ受け取っていたようです。そんな「おおらかさ」を現代人は、いつ、なぜ、失ってしまったのでしょう。

先週の気になるニュース
連続幼女殺害事件で2008年に死刑で殺された宮崎勤氏。その彼が、女性や幼女にいっさい性欲を感じることなく、自慰行為もなく、性的興奮も経験したことがなかったことを最近知った。鍵を握るのは、彼の子守として幼児期から大人になるまで宮崎のそばに居続けた人。かれについて調べたいと思っている。

「プロテスタント」って何なのさ

伝統・政治に依拠し、組織(セクト)の拡大に重きを置くそれまでのキリスト教会の歴史に対してNoを示し、それらを信仰の堕落として脱ぎ捨て、聖書と、信仰の原点に戻ろうとしたのが「プロテスタント」(抗議する者)だったのならば、何時の時代であれ、自分たちキリスト者の堕落を問い、自らと組織・教会を糺し続けるのがその存在意義なのだろう。それができなければ、反抗して離反した「放蕩息子」と何も変わらないのだろう。

言い方を変えれば、犯してきた罪の大きさゆえに、なにが罪かを告白し、悔い改めるにふさわしい実を結ぶ、その資格を一番持っているのがクリスチャン、ということになる。

いつの間にか、「プロテスタント」は宗派・セクトの名称となり、勢力拡大を第一義とし、キリスト教全体どころか、プロテスタントを名乗る群れ自体の歴史的な過ちすら点検も糺すこともできず、“プロテスト”される側に成り下がっている。「悔い改め」の手本にすらならないのが今の教会の姿である。

キリスト教は、いわば「歴史の中でいちばん罪を犯し続けてきた宗教」である。何が「あやまち」だったのか、なぜ誤ったのか、なぜ糺せなかったのかを語るべき責任ある当事者であり、罪を告白し、神のゆるしと、和解を求める「悔い改め」こそがその存在意義であることは、「プロテスタント」でなくともイエスの十字架を信仰の象徴とする人々にとって自明なことのハズ。

イエスの十字架のもとに我が身を置くなら、イエスの「悔い改めよ」の声を、「我」に対する一番大きな主からの声として聴くところから再出発するしかない。
「悔い改め」、そこからの再出発と新たな希望を感じられない教会には、「乾いている人」が集まらないのはあたりまえなのだ。“食えないやつら”なのだ。

「悔い改めた」ごとき顔しながら、「悔い改めよ」と叫びつつ、「悔い改め」の実を結ぶことのできない瀕死のキリスト教会。まさに私たちの教会の現実。牧師も教会員も瀕死の現実?

今だ生かされていると言うことは、まだ役立たずへの「執行猶予中」と理解できる。 二階にのぼるにもゼイゼイ息を切らせつつも、問われている声の重みは軽くはならないどころか更に重くなっている。

さてさて、「悔い改め」の実を結ぶため、なにをどこからどうはじめましょうか。

191208 宣教要旨 列王記下 2:19-25 マルコ福音書9:33-37 タイトル「大人は堕落した子ども」 宣教 金田恆孝

20191208 聖日礼拝

列王記 下 2章19~25節

19 町の人々はエリシャに言った、「見られるとおり、この町の場所は良いが水が悪いので、この地は流産を起すのです」。

20 エリシャは言った、「新しい皿に塩を盛って、わたしに持ってきなさい」。彼らは持ってきた。

21 エリシャは水の源へ出て行って、塩をそこに投げ入れて言った、「主はこう仰せられる、『わたしはこの水を良い水にした。もはやここには死も流産も起らないであろう』」。

22 こうしてその水はエリシャの言ったとおりに良い水になって今日に至っている。

23 彼はそこからベテルへ上ったが、上って行く途中、小さい子供らが町から出てきて彼をあざけり、彼にむかって「はげ頭よ、のぼれ。はげ頭よ、のぼれ」と言ったので、

24 彼はふり返って彼らを見、主の名をもって彼らをのろった。すると林の中から二頭の雌ぐまが出てきて、その子供らのうち四十二人を裂いた。

25 彼はそこからカルメル山へ行き、そこからサマリヤに帰った。

      マルコ福音書 9章33-37節

9:33 それから彼らはカペナウムにきた。そして家におられるとき、イエスは弟子たちに尋ねられた、「あなたがたは途中で何を論じていたのか」。

9:34 彼らは黙っていた。それは途中で、だれが一ばん偉いかと、互に論じ合っていたからである。

9:35 そこで、イエスはすわって十二弟子を呼び、そして言われた、「だれでも一ばん先になろうと思うならば、一ばんあとになり、みんなに仕える者とならねばならない」。

9:36 そして、ひとりの幼な子をとりあげて、彼らのまん中に立たせ、それを抱いて言われた。

9:37 「だれでも、このような幼な子のひとりを、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。そして、わたしを受けいれる者は、わたしを受けいれるのではなく、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである」。

     聖書に聴く 「大人は堕落したこども」

古代より、日々の糧を得ること、家族や一族を危険から守ること、自然相手や人間相手の労働、商いなどに従事する「おとな」の意志や発言力が大きくなりがちでした。イエスの時代もそこから疎外されていたのはハンディを負っている者であり寡婦・やもめであり「こども」でした。雇う者雇われる者・賃金を支払う者受ける者・支配者服従者などの強固な縦の関係が人を縛ります。

イエスの語り伝えた神の国を理解し受け入れるのは「こども」だとイエスは言います。神の御心・真理とは「子どもにもわかること」であり、この世の「縦の関係」に縛られている「おとな」には隠されているのでしょう。

こどもを受け入れる者がイエスを受け入れ、神の国を受け入れるのだ、とイエスは語ります。

 そのこどもが大きくなり、大人へと「堕落」していくとき、性欲権力欲財欲等の欲望に目覚め、上昇志向を強めるとき、それと対峙できるのは、大人の堕落と対峙できる、弱くされていることの悲しみと怒りを知っている「おとな」なのでしょう。

人間の作る縦の序列と戦い、世の「神の恵みからの離反」を糺すエレミヤが、堕落し始めた子どもたちから「禿げ!はげ!こっから出ていけ!」とからかわれたとき、本気で怒ったことがデフォルメされ寓話のように伝えられています。

 こどもの大人化、悪やエゴや欲望への目覚め、社会的弱者に対する「いびり」などと対峙できるのは、「そんなことしたら自分が損だよ」などと教える理性的合理的思考の「おとな」ではなく、見た目やハンディや弱い立場の人間をからかう、おちょくる心を「そりゃ、ひどいよ」と本気で怒る、子どもの心のままの「ひと」なのではないでしょうか。

先週の出来事・気になるニュースなど

北海道がんセンター所長、西尾正道医師の講演録の中で、食べ物の遺伝子操作、ホルモン添加、農薬などの影響で、米国でも癌と自閉症が増大しており、米国のみならず日本の子どもたちに広がっている自閉症の原因となっている、との論文の紹介があった。ぜひ調べたい。

191124 宣教要旨 イザヤ書6:6-12 マルコ福音書9:28-29 11:22-23 タイトル「御心とひとつに」宣教 金田恆孝

東淀川教会 聖日礼拝 聖書に聴く 「御心とひとつに」

イザヤ書6章6-12節

6:6この時セラピムのひとりが火ばしをもって、祭壇の上から取った燃えている炭を手に携え、わたしのところに飛んできて、
6:7わたしの口に触れて言った、「見よ、これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの悪は除かれ、あなたの罪はゆるされた」。
6:8わたしはまた主の言われる声を聞いた、「わたしはだれをつかわそうか。
だれがわれわれのために行くだろうか」。
その時わたしは言った、「ここにわたしがおります。わたしをおつかわしください」。
6:9主は言われた、「あなたは行って、この民にこう言いなさい、『あなたがたはくりかえし聞くがよい、しかし悟ってはならない。あなたがたは
くりかえし見るがよい、しかしわかってはならない』と。
6:10あなたはこの民の心を鈍くし、その耳を聞えにくくし、その目を閉ざしなさい。これは彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟り、悔い改めていやされることのないためである」。
6:11そこで、わたしは言った、「主よ、いつまでですか」。主は言われた、「町々は荒れすたれて、住む者もなく、家には人かげもなく、国は全く荒れ地となり、
6:12人々は主によって遠くへ移され、荒れはてた所が国の中に多くなる時まで、こうなっている。

マルコ福音書 9章28-29節 11章22-23節
9:28家にはいられたとき、弟子たちはひそかに
お尋ねした、「わたしたちは、どうして霊を
追い出せなかったのですか」。
9:29すると、イエスは言われた、「このたぐいは、
祈によらなければ、どうしても追い出すことは
できない」。
11:20朝はやく道をとおっていると、彼らは先の
いちじくが根元から枯れているのを見た。
11:21そこで、ペテロは思い出してイエスに言った、
「先生、ごらんなさい。あなたがのろわれた
いちじくが、枯れています」。
11:22イエスは答えて言われた、「神を信じなさい。 11:23よく聞いておくがよい。だれでもこの山に、動き出して、海の中にはいれと言い、その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら、そのとおりに成るであろう。

聖書から聴く 宣教要旨「御こころとひとつに」

☆セラピム=カルデア神話に登場する稲妻の精。アブラハムの出身地の神話が聖霊の一つの姿として登場している。神の「火の働き」なのだろう。

神が「それ」を滅ぼそうとしたら必ずそうなる。人の罪さえ焼き尽くす「火」である。
「繰り返し聞け。しかし悟るな。繰り返し見よ。しかし理解するな」のメッセージは、神の計画の絶対性、人の思いによって想像することも、変更すらできない厳粛な主のわざを示している。しかも、それを「わかる」と思いたい私達の傲慢さを明らかにしている。

 個人や共同の祈りのあと、「しかし、私(我ら)の思いではなく、御心が行われますように」との祈りは、主なる神のわざへの謙虚さの顕れである。

 ひきつけを起こし、口から泡を吹いてのたうちまわる少年に対し、そうさせている正体を見抜き、神が少年に派遣しているセラピムの姿がイエスには見えていたのでしょう。だから、セラピムに焼け尽くされようとしている悪霊に命令することができたのでしょう。

 現代社会。生理学的検査の発達や様々な疾病・障害などについての知見が深まり広がっている中で、人類は“戦争”を根治する術を知らず、人を殺さないための術を確立できないにもかかわらず、人によっては殺すべきだと主張したり、自分たちより小さくされている者たちが自分たちより恵まれていることを許さなかったり、病気や障害について、頭で“わかり”、理解できると思い込んでいる。精子や卵子や細胞の操作、遺伝子の解析などの科学技術によって、生命そのものの操作ができるような幻想に陥り傲慢の極みに達しようとしている人類に現代セラピムはどうするのでしょう。

先週の気になるニュース

総理といえども公務に仕える公僕・公務員である。何でもできる王様ではない。総理夫妻が公的な行事「桜を見る会」を私的、恣意的に利用・拡大し、国会で追求された途端に膨大な記録を大型シュレッダーで証拠隠滅を図った件、偽計業務妨害の疑いにつき、警察・検察が動かないのは、法治国家なのになぜなのだろう。

191117 宣教要旨 イザヤ書38:1-8 マルコ福音書9:20-27テーマ「チェンジ」宣教 金田恆孝

2019年12月1日 東淀川教会礼拝 宣教要旨

          イザヤ書 第38章1-8 19-20
1 そのころヒゼキヤは病気になって死にかかっていた。アモツの子預言者イザヤは彼のところに来て言った、「主はこう仰せられます、あなたの家を整えておきなさい。あなたは死にます、生きながらえることはできません」。
2 そこでヒゼキヤは顔を壁に向けて主に祈って言った、
3 「ああ主よ、願わくは、わたしが真実と真心とをもって、み前に歩み、あなたの目にかなう事を行ったのを覚えてください」。そしてヒゼキヤはひどく泣いた。
4 その時主の言葉がイザヤに臨んで言った、
5 「行って、ヒゼキヤに言いなさい、『あなたの父ダビデの神、主はこう仰せられます、「わたしはあなたの祈を聞いた。あなたの涙を見た。見よ、わたしはあなたのよわいを十五年増そう。
6 わたしはあなたと、この町とをアッスリヤの王の手から救い、この町を守ろう」。
7 主が約束されたことを行われることについては、あなたは主からこのしるしを得る。18 陰府は、あなたに感謝することはできない。死はあなたをさんびすることはできない。墓にくだる者は、あなたのまことを望むことはできない。
8 見よ、わたしはアハズの日時計の上に進んだ日影を十度退かせよう』」。すると日時計の上に進んだ日影が十度退いた。
19 ただ生ける者、生ける者のみ、きょう、わたしがするように、あなたに感謝する。父はあなたのまことを、その子らに知らせる。
20 主はわたしを救われる。われわれは世にあるかぎり、主の家で琴にあわせて、歌をうたおう。

      マルコ福音書 9章20-27節

9:20 そこで人々は、その子をみもとに連れてきた。霊がイエスを見るや否や、その子をひきつけさせたので、子は地に倒れ、あわを吹きながらころげまわった。

9:21 そこで、イエスが父親に「いつごろから、こんなになったのか」と尋ねられると、父親は答えた、「幼い時からです。

9:22 霊はたびたび、この子を火の中、水の中に投げ入れて、殺そうとしました。しかしできますれば、わたしどもをあわれんでお助けください」。

9:23イエスは彼に言われた、「もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもできる」。

9:24 その子の父親はすぐ叫んで言った、「信じます。不信仰なわたしを、お助けください」。

9:25 イエスは群衆が駆け寄って来るのをごらんになって、けがれた霊をしかって言われた、「おしとつんぼの霊よ、わたしがおまえに命じる。この子から出て行け。二度と、はいって来るな」。

9:26 すると霊は叫び声をあげ、激しく引きつけさせて出て行った。その子は死人のようになったので、多くの人は、死んだのだと言った。

9:27しかし、イエスが手を取って起されると、その子は立ち上がった。

聖書から聴く 宣教要旨「チェンジ」
北の強国アッシリアからの脅威と南の強国エジプトとの間でイスラエル国のバランスを取ろうと策略を繰り返し、神の声を聴くことすら忘れ、病と絶望の中にあったヒゼキア王のところに出かけたイザヤが王に告げたのは「あなたはまもなく死ぬ」という宣告だった。死を受け入れた王が為したのはこれまで生かし支えてくれた神への祈りだった。悔い改めたヒゼキアに対し、神が15年のいのちを与えたことをイザヤは告げる。イザヤが告げた死の宣告はヒゼキアがチェンジする重要なきっかけだった。

 イエスの元に連れてこられたのは耳が聞こえず口がきけない、しかも癲癇のような発作に苦しむ少年と子の回復を願う父親だった。この少年に対してイエスがどうするだろうか、との興味関心で群衆が次々と集まってきた。その群衆、大勢から子を離し、子に取り憑いている悪霊と争い出て行くことを命じたためその子は大発作に襲われ死んだようになった、とのこと。すさまじい「チェンジ」が行われたようです。
耳も口も閉ざし閉ざされ発作に死線をさまよう少年とは、“追いやられ追い詰められ死に直面している”存在です。深刻な災難に襲われ、大きな病にかかり、周囲の人々の苛立ちや鬱憤のはけ口にされる存在でもあります。しかもこの少年の父親のように息子の回復を必死で祈る身近な存在すらいない子どもたちが増えている現在。
イエスが悪霊と対決するという、その相手とは、このひとりの魂を追い詰めている強者たちのエゴであり、興味本位で表面的な同情を装いながら助けるために指一本貸そうとしない無情な大勢、一般人、わたしたちです。

 いま、大きな滅びと「チェンジ」が私たちを襲おうとしている予感がします。

先週の気になるニュース

沖縄駐留米軍に対し日本側が支払っている思いやり予算が米国側の更なる要求で現状の4.5倍、80億ドル8640億円になりそう。ヤクザのショバ代よりえげつない。何も抵抗すらできず尻尾を振る犬のようなこの国の現状があるのだろう。