20211226 東淀川教会礼拝 イザヤ書53章 ルカ24章 宣教「受苦と執り成しのイエス」担当 金田恆孝

本日の聖書箇所(聖書協会共同訳)
イザヤ書53章 4〜12節
彼が担ったのは私たちの病 彼が負ったのは私たちの痛みであった。しかし、私たちは思っていた。彼は病に冒され、神に打たれて 苦しめられたのだと。彼は私たちの背きのために刺し貫かれ 私たちの過ちのために打ち砕かれた。彼が受けた懲らしめによって 私たちに平安が与えられ 彼が受けた打ち傷によって私たちは癒やされた。
私たちは皆、羊の群れのようにさまよい それぞれ自らの道に向かって行った。その私たちすべての過ちを 主は彼に負わせられた。彼は虐げられ、苦しめられたが 口を開かなかった。屠り場に引かれて行く小羊のように 毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように 口を開かなかった。不法な裁きにより、彼は取り去られた。
彼の時代の誰が思ったであろうか。私の民の背きのために彼が打たれ 生ける者の地から絶たれたのだと。彼は暴虐をなさず 口には偽りがなかったのに その墓は悪人どもと共にされ 富める者と共に葬られた。主は彼を打ち砕くことを望まれ、病にかからせた。彼が自分の命を償いのいけにえとするなら その子孫を見、長寿を得る。
主の望みは彼の手によって成し遂げられる。彼は自分の魂の苦しみの後、光を見 それを知って満足する。私の正しき僕は多くの人を義とし 彼らの過ちを自ら背負う。それゆえ、私は多くの人を彼に分け与え 彼は強い者たちを戦利品として分け与える。彼が自分の命を死に至るまで注ぎ出し 背く者の一人に数えられたからだ。多くの人の罪を担い 背く者のために執り成しをしたのは この人であった。

ルカによる福音書24章30〜32節(エマオへの道)
一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、祝福して裂き、二人にお渡しになった。
すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。
二人は互いに言った。「道々、聖書を説き明かしながら、お話しくださったとき、私たちの心は燃えていたではないか。」

宣教の要旨「受苦と執り成しのイエス」
 イエスの十字架を仰ぎながら、「私たち人間の病い、痛み、苦しみをイエスご自身が受けてくださり、私たちの本来の罪、愚かさ、弱さをもイエスは担ってくださった」と理解しながら、イエスの姿を男性イエスとしてイメージすることが多いのですが、一方で、イエスの働きを「聖母マリア」に投影し受け取ってきた歴史があります。
 アブラハムから始まる男性中心の系譜、教父、父なる神、男であるイエス、悪を裁く神、力の主なる神と、男性イメージが色濃いキリスト教ですが、マリア信仰、母なる神のイメージをマリア像、隠れキリシタンにおいては納戸(なんど)の神として隠した聖画ピエタやマリア像を神の代わりに祈りの対象としてきた。母なる神のイメージを日本の文学の中で伝えたひとりが遠藤周作だと思います。
 父親不明なマリアの子、イエスは人々から後ろ指を指される女性に近づき、いかなる人間も高所からひとを裁いたり軽蔑する資格がないことを告げ、辛酸を舐めた女性の苦しみを、慰めるだけではなく、ともに苦しみ、ともに歩んだ。その共苦の姿は、踏み絵を踏まざるを得なかった隠れキリシタン(ポルトガル神父ロドリゴ)、棄教者の苦しみをともに苦しむ同伴者のイエスの姿であるのでしょう。
 “他者に理解してもらえぬ自分の苦しみや悲しみを分かち合ってくれる、涙を流してくれる母のような同伴者を人は必要としている”(遠藤周作 聖書なかの女性たち・沈黙)
 “あれほどまでに忍耐強く、優しく、慈愛に満ち、罵られても打たれても復讐することなくもう一方の頬を差し出すキリストの静かな姿は、赦しに満ちた完全な人間の美しい実例だと私は考えています。”マハトマ・ガンディ
 どちらも聖母マリアに投影された究極の母なるイメージと感じます。
 マリア崇拝、日本のマリア観音など、母マリアを通して神の愛を理解してきた歴史を、特にプロテスタントのキリスト教は切り捨ててきた。

 理解されることを諦め、愛する人や、ともに涙してくれる人も失い、自殺するために多くの人を巻き込んでいく事件が続いている昨今の世相の中で、現代、女性の復権のために、男性を敵視する女性観からではなく、聖母マリアに投影された、イエスの、受苦・共苦と、執り成し(神との和解)の行為とメッセージを、現代の只中で聴き続けたい。

先週の出来事
保管に6億円もかかる「アベノマスク」の廃棄が決まった、とのこと。マスクの廃棄だけでなく、失策の事実とともに、安倍政権時代の“マスク”に隠されたお金の流れ、公文書の改ざん、隠蔽された事実は決して廃棄は許されない。

 

20211219 東淀川教会X’mas礼拝 創世記3章マルコ10章 「神の子に還れ」担当 金田恆孝

(創世記3章 21-24節)
神である主は、人とその妻に皮の衣を作って着せられた。
 神である主は言われた。「人は我々の一人のように善悪を知る者となった。さあ、彼が手を伸ばし、また命の木から取って食べ、永遠に生きることがないようにしよう。」
 神である主は、エデンの園から彼を追い出された。人がそこから取られた土を耕すためである。
 神は人を追放し、命の木に至る道を守るため、エデンの園の東にケルビム(見張りの天使)ときらめく剣の炎を置かれた。

(マルコによる福音書10章13-16節)
 イエスに触れていただくために、人々が子どもたちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。
 イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子どもたちを私のところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。
 よく言っておく。子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」

宣教テーマ 主イエスの降誕祭「神の子に還れ」
 人の子が神の国から追放されたという“失楽園”は、神にいのちを吹きこまれた「人」が肉体をまとって地上に誕生し、やがて神の国に還るそのときまで、地上を放浪し、額に汗しつつ与えられた運命や課題を生きる全体を神話として表現していると読めます。「善悪を知る木の実」を食べ、知恵とちからを得て神に近づこうとする“傲慢”が、神の栄光をあらわすものとなるよう、神の祝福を求める“求道”へと変わるよう求められていると思われます。

 主イエスの、こどもの心こそ、神に祝福されている、という“ことば”は、地上の全ての人は神の子であり、お互いが尊重し合い活かし合う・愛し合う道を求めよ、傲慢な知恵と力を誇るおとなになってしまった心から、こどもの心を取り戻せ、それが神の栄光を顕すことである、と語っていると聴こえるのです。

 地球資源自然破壊に続く乱開発からコロナウィルスが生まれたのでしょう。火薬の登場という第一次軍事革命、原水爆が登場した第二次軍事革命、そして現代は人工知能をベースとした無人の、ロボットやドローンを使ったサイバー攻撃、電磁波攻撃、医療技術と表裏一体の遺伝子操作・生命操作・脳の操作・バイオ技術が可能となった第三次軍事革命へと変わってきたと言われています。人文科学や社会科学をそっちのけで自然科学の一分野だけが強者の効率と利益を求めて肥大してきましたが、この第三次軍事革命も行き詰まりに直面しているようです。人間らしさを探る人文科学、社会の在り方を探る社会科学とともに、「傲慢なおとな」から「神の子」のこころを取り戻すことが最大の課題となるんだと思います。

 主イエスがこの世に誕生してくださったことを祝うこのクリスマスに、
神を讃美し、主イエスの導きを更に求めたい。メリークリスマス!

20211212 東淀川教会礼拝 創世記17:27 マタイ20:1016 ルカ15:8-9 宣教主題「お金って何?」担当 金田恆孝

本日の聖書箇所(聖書協会共同訳)
創世記17章 27節
アブラハムの家の男子は皆、家で生まれた者も、外国人から銀で買い取った者も、彼と一緒に割礼を受けた。
マタイによる福音書20章 1-16節
「天の国は、ある家の主人に似ている。主人は、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けとともに出かけて行った。彼は、
一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。
また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場で立っている人々がいたので、『あなたがたもぶどう園に行きなさい。それなりの賃金を払うから』と言った。それで、彼らは出かけて行った。
主人はまた、十二時ごろと三時ごろに出て行って、同じようにした。五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と言った。
彼らが、『誰も雇ってくれないのです』と答えたので、主人は、『あなたがたもぶどう園に行きなさい』と言った。
 夕方になって、ぶどう園の主人は管理人に言った。『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい。』そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。
 最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと
思っていたが、やはり一デナリオンずつであった。それで、
受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、
一時間しか働かなかったのに、丸一日、暑い中を辛抱して働いた私たちと同じ扱いをなさるとは。』主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたは私と
一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。私はこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分の物を自分のしたいようにしては、いけないのか。それとも、私の気前のよさを妬むのか。』
このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」
ルカによる福音書15章 8-9節
「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、灯をつけ、家を掃き、見つけるまで念入りに捜さないだろうか。そして、見つけたら、女友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。

宣教の要旨「お金って何なの?」
 元々難民であり遊牧民であったアブラハムは、家畜を売り貨幣と交換し、蓄えた銀で難民(外国人)を雇い、群れの仲間(割礼)とし群れは大きくなった。

アブラハムが「難民」であり、遊牧生活を送ったのだが、創世記から始まる教えは“難民”のための教えであることは旧約聖書解釈のベースとしてもっと重視されるべきだと思われる。こどもにも、雇った外国人「難民」にも割礼を施した、とは、神とともに歩む民・イスラエルの同胞として認め、イスラエルの群れをおおきくしていったのだから、信仰共同体みたいなものであり、今日の私たちが考える「ユダヤ人の血統」みたいなもので理解するとかなり間違えてしまう可能性が大きい。

 主従関係は6年で終わり、7年目には(或いは50年目のヨベル・回復の年には)主従関係はなくなり自由の身となった。身分制度のようなものも一時的なものであり、神のみを主とする関係であり、神を主とする神の子らは、神に生かされ、お金や武力の奴隷になってはならない(出エジプトがそれを示す)がイスラエルの信仰の核心部分にあったと思われる。


 農園で朝から働いた者にも、昼から働いた者も、仕事にありつけず夕方来た者も同じ1デナリオンを支払う。デナリオンは1日分の生活費。親である神は子である人間が生きるための恵みを充分に与えてくださる。人間の親なる神は、人が「産めよ増えよ満ちよ」とどれほど増えても、「1日の苦労は1日で足りる」し、全ての人に1日の食料と休み場所を用意している」といわれる。あとはいただいたものの「分かち合い」の問題だけである。

朝から働くことができた者も、半分働いた者も、働くことができなかった者にも神は養ってくださる。それを分かち合え。働くことができた時間や労働の成果で隣人を差別するのか! 神の恵みになぜ嫉妬するのか! 交換価値としての“貨幣”が隣人を助け、恵みを分かち合うものとして使われるのは良いが、隣人を貨幣の奴隷とし、貨幣を得られない者を“貧しい者”として差別し、神の子としての祝福が奪われるのは間違っている! 人間の作り出した貨幣なんぞなくっても、親なる神はすべての子(人間)を養ってくださっているのにそれを妨害するつもりか!…これがイエスのメッセージだった。

 お金なんぞなくても一緒に生きていける社会こそが神の御心に叶う理想の社会、というイエスの宣言は、「お金のために働く」ことが「あたりまえ」となり、人々が国に国民として従属し、税を納め、各々の国々の経済が貨幣で成り立つ貨幣経済となっていく時代には“あまりに幼稚な、危険な思想・信仰”と見做されたと思われる。

イエスの十字架から20〜30年後に書き記された福音書では、キリスト教は危険な集団ではなく、イエスのメッセージを貨幣経済、国家とのバランス、お金が得られてこそ生活が守られる、という認識とのバランスを図ることに心血が注がれたと思われます。『キリスト教を守るため』です。その一つの典型的な例が、“見失った銀貨を発見してみんなに喜んでもらう”という話へのすり替えだったと思われます。これは、おそらく、「隣人を自分自身のように大切にすべき」のイエスの語りに対し、「じゃあ、隣人とは誰ですかね?」の問いに関連してイエスが語った話のひとつだったのではないでしょうか。子どもが生まれたら、ご近所をまわって、「わずかですが食べ物と飲み物を用意しています。ぜひ生まれた子どもを見てやってください。一緒に喜んでください。祝ってやってください」と呼びかけないだろうか。呼びかけられたら、行って一緒に喜び、「おめでとう!」といわないだろうか。それが隣人だろ? 子どもが生まれた喜びを近所のみんなに知らせて祝ってもらう素朴な風習を、『見失われた一匹の羊』『見失った一枚の銀貨』の流れの中に押し込み、社会の全体主義化を容認しながら、そこからもれるかわいそうな一人を「も」守ってくださる優しい神さまのイメージ作り、更には、「わたしたちキリスト者は、王の貨幣システム、社会の貨幣制度を大切にし、非難したり、ないがしろにする危険な集団ではありません」という身の潔白を証明するためにも「見失った銀貨」の話としてねじ曲げられたのではないかと感じるのです。

先週の出来事

先週の出来事
台湾との外交を断絶し中国との国交を宣言したニカラグア。大国同士の覇権争い、つばぜり合いの裏舞台が透けて見える。国家間の交渉は必ず裏舞台で行われるのであり、北京オリンピック外交ボイコットなど表舞台のディスプレイなんぞより、6兆円を超える防衛費という名の軍事費の増大ぶり、難民数の増大ぶりが気になる。

20211205 東淀川教会 申命記32 マタイ12:43 宣教要旨「悪霊と汚れた霊の差」担当 金田

本日の聖書箇所(聖書協会共同訳)
民数記20章 5-12節
なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから上らせて、こんなひどい所に導き入れたのですか。ここは穀物もいちじくも、ぶどうもざくろもない所で、飲み水さえもありません。」モーセとアロンは会衆から離れて会見の幕屋の入り口に行き、ひれ伏した。すると、主の栄光が彼らに現れた。主はモーセに告げられた。「杖を取り、あなたと兄アロンは会衆を集め、彼らの目の前で岩に向かって、水を出せと命じなさい。あなたは彼らのために岩から水を出し、会衆とその家畜に水を飲ませなさい。」モーセは、主が命じられたとおりに、主の前から杖を取り、モーセとアロンは会衆を岩の前に集めて言った。「聞け、反逆する者たちよ。私たちがあなたがたのために、この岩から水を出さなければならないのか。」モーセが手を上げ、杖で岩を二度打つと、水がたくさん湧き出たので、会衆も彼らの家畜も飲んだ。だが、主はモーセとアロンに言われた。「あなたがたは私を信じることをせず、イスラエルの人々の目の前に、私を聖としなかった。それゆえ、あなたがたは、私が彼らに与えた地にこの会衆を導き入れることはできない。」

申命記32章 17-20節
彼らは神でもない悪霊にいけにえを献げた。それは、彼らの知らなかった神々 近頃現れ、先祖が畏れもしなかった 新しい神々である。あなたは自分を生んだ岩を忘れ 自分に命を与えた神を忘れた。主はこれを御覧になり 息子や娘への怒りのゆえに彼らを退けて、言われた。「私は顔を隠し 彼らがその後どうなるか、見届けよう。 彼らは逆らう世代 真実のない子らだ。

マタイによる福音書/ 12章 43-45節
「汚れた霊は、人から出て行くと、休む場所を求めて水のない所をうろつくが、見つからない。
それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。帰ってみると、空き家になっており、掃除をして、飾り付けがしてあった。そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を一緒に連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。この邪悪な時代もそのようになる。」

 

宣教要旨「悪霊と汚れた霊の差」

宣教の要旨「悪霊と汚れた霊の差」

汚れた、でも、穢れた、でもかまわないが、悪霊や汚れた霊について、ギリシャ語では、ヘブライ語では、アラム語では云々の知性遊びは好きではない。ただ、「悪霊」と、「汚れた霊」が区別されて用いられていることだけで充分だろう。
 読み解く者の解釈を前に押し出すが、簡単に言えば、悪霊とは、己がために他人を利用し、意のままにならぬ者を殺すのも厭わぬ、悔い改めることのない者を指す。汚れた霊とは、時に自暴自棄となり、嫉妬、恨み、怒りに突き動かされてはいるが、悔い改めて「神の子」に戻ることのできる者を指していると思われる。
 マタイ福音書の「穢れた霊」は、“放蕩息子”の如く、心の底に、神の子に戻りたい願いを秘めた者へのイエスの語りかけが描かれていると感じられる。

申命記では「悪霊」とは「神」を名乗り、人々に服従と生け贄を求め、奴隷化する者を指す。今日“カルト”と呼ばれる、自らを神格化する教祖とはこの類いである。

イエスもまた「メシア」「救世主」「神の子」と呼ばれ、「現人神」として神格化し「神輿」に乗せて担ごうとした人々が多かった。イエスの言葉に「人の子」が多いのは、「神の子メシア」などの呼びかけに「わたしは人の子」と切り返すことが多かったためと思われる。

 神に用いられるために全身全霊働いているモーセにも「汚れた霊」が入り込んだ“メリバの水”事件。奴隷状態から救い出されたが不平不満だらけの“奴隷根性”の民に苛立ったモーセが傲慢になってしまい、民に仕え、聖なる神を指し示すことをしなかった。この傲慢さによってモーセはカナンの地に入ることを赦されなかった。

モーセに対して不平不満を募らせる人々に対して、モーセが苛立ち、傲慢になってしまったからといって、モーセに対する「罰」はひどいんじゃないか? という感覚は残る。このあたりは皆様と議論を交わしたい。
 
 昨今、子どもたちが手持ちのコンピュータ・スマホでSNSを使って“ネット社会”を渡り歩く。その匿名性や、外部から眺めることのできない閉鎖性の中で、「悪霊」の被害者になったり、無責任な「汚れた霊」となって他者を苦しめる事件が頻発し、かつ低年齢化していると感じる。

 北海道旭川市女子中学生14歳凍死事件の廣瀬さん。小中学生の“穢れた霊”の罠にはまり、虐めを学校に訴えても取り合ってもらえず、裸の写真や自慰行為を自撮りすることを強要され、その写真を拡散されるなど追い詰められ、心的外傷により病を負った末に凍死していた事件。
 原子力発電も軍事技術もインターネットも、社会をリードする者たちと、その便利さを甘受する者たちにとって利益は大きいのだが、そこに潜む「穢れた霊」どもには小中学生でもなれる。イエスがこれら「汚れた霊」とどう対峙したのか、悔い改めを求めたのか、イエスの声に耳を傾けたい。

先週の出来事
アメリカ・ミシガン州の高校で男子生徒が拳銃を乱射し4人が死亡した事件。銃は父親がクリスマスプレゼントに15歳の少年に買い与えたもの、とのこと。米国に潜む社会病理に日本もどんどん近づいていると感じられる。

15歳の息子に拳銃を買い与える感覚は、大人に近づき、帯刀を赦された息子に小刀を与える武士の感覚とどのくらい差があるのだろう。また、みなさまと議論を交わしたい。