20211205 東淀川教会 申命記32 マタイ12:43 宣教要旨「悪霊と汚れた霊の差」担当 金田

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本日の聖書箇所(聖書協会共同訳)
民数記20章 5-12節
なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから上らせて、こんなひどい所に導き入れたのですか。ここは穀物もいちじくも、ぶどうもざくろもない所で、飲み水さえもありません。」モーセとアロンは会衆から離れて会見の幕屋の入り口に行き、ひれ伏した。すると、主の栄光が彼らに現れた。主はモーセに告げられた。「杖を取り、あなたと兄アロンは会衆を集め、彼らの目の前で岩に向かって、水を出せと命じなさい。あなたは彼らのために岩から水を出し、会衆とその家畜に水を飲ませなさい。」モーセは、主が命じられたとおりに、主の前から杖を取り、モーセとアロンは会衆を岩の前に集めて言った。「聞け、反逆する者たちよ。私たちがあなたがたのために、この岩から水を出さなければならないのか。」モーセが手を上げ、杖で岩を二度打つと、水がたくさん湧き出たので、会衆も彼らの家畜も飲んだ。だが、主はモーセとアロンに言われた。「あなたがたは私を信じることをせず、イスラエルの人々の目の前に、私を聖としなかった。それゆえ、あなたがたは、私が彼らに与えた地にこの会衆を導き入れることはできない。」

申命記32章 17-20節
彼らは神でもない悪霊にいけにえを献げた。それは、彼らの知らなかった神々 近頃現れ、先祖が畏れもしなかった 新しい神々である。あなたは自分を生んだ岩を忘れ 自分に命を与えた神を忘れた。主はこれを御覧になり 息子や娘への怒りのゆえに彼らを退けて、言われた。「私は顔を隠し 彼らがその後どうなるか、見届けよう。 彼らは逆らう世代 真実のない子らだ。

マタイによる福音書/ 12章 43-45節
「汚れた霊は、人から出て行くと、休む場所を求めて水のない所をうろつくが、見つからない。
それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。帰ってみると、空き家になっており、掃除をして、飾り付けがしてあった。そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を一緒に連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。この邪悪な時代もそのようになる。」

 

宣教要旨「悪霊と汚れた霊の差」

宣教の要旨「悪霊と汚れた霊の差」

汚れた、でも、穢れた、でもかまわないが、悪霊や汚れた霊について、ギリシャ語では、ヘブライ語では、アラム語では云々の知性遊びは好きではない。ただ、「悪霊」と、「汚れた霊」が区別されて用いられていることだけで充分だろう。
 読み解く者の解釈を前に押し出すが、簡単に言えば、悪霊とは、己がために他人を利用し、意のままにならぬ者を殺すのも厭わぬ、悔い改めることのない者を指す。汚れた霊とは、時に自暴自棄となり、嫉妬、恨み、怒りに突き動かされてはいるが、悔い改めて「神の子」に戻ることのできる者を指していると思われる。
 マタイ福音書の「穢れた霊」は、“放蕩息子”の如く、心の底に、神の子に戻りたい願いを秘めた者へのイエスの語りかけが描かれていると感じられる。

申命記では「悪霊」とは「神」を名乗り、人々に服従と生け贄を求め、奴隷化する者を指す。今日“カルト”と呼ばれる、自らを神格化する教祖とはこの類いである。

イエスもまた「メシア」「救世主」「神の子」と呼ばれ、「現人神」として神格化し「神輿」に乗せて担ごうとした人々が多かった。イエスの言葉に「人の子」が多いのは、「神の子メシア」などの呼びかけに「わたしは人の子」と切り返すことが多かったためと思われる。

 神に用いられるために全身全霊働いているモーセにも「汚れた霊」が入り込んだ“メリバの水”事件。奴隷状態から救い出されたが不平不満だらけの“奴隷根性”の民に苛立ったモーセが傲慢になってしまい、民に仕え、聖なる神を指し示すことをしなかった。この傲慢さによってモーセはカナンの地に入ることを赦されなかった。

モーセに対して不平不満を募らせる人々に対して、モーセが苛立ち、傲慢になってしまったからといって、モーセに対する「罰」はひどいんじゃないか? という感覚は残る。このあたりは皆様と議論を交わしたい。
 
 昨今、子どもたちが手持ちのコンピュータ・スマホでSNSを使って“ネット社会”を渡り歩く。その匿名性や、外部から眺めることのできない閉鎖性の中で、「悪霊」の被害者になったり、無責任な「汚れた霊」となって他者を苦しめる事件が頻発し、かつ低年齢化していると感じる。

 北海道旭川市女子中学生14歳凍死事件の廣瀬さん。小中学生の“穢れた霊”の罠にはまり、虐めを学校に訴えても取り合ってもらえず、裸の写真や自慰行為を自撮りすることを強要され、その写真を拡散されるなど追い詰められ、心的外傷により病を負った末に凍死していた事件。
 原子力発電も軍事技術もインターネットも、社会をリードする者たちと、その便利さを甘受する者たちにとって利益は大きいのだが、そこに潜む「穢れた霊」どもには小中学生でもなれる。イエスがこれら「汚れた霊」とどう対峙したのか、悔い改めを求めたのか、イエスの声に耳を傾けたい。

先週の出来事
アメリカ・ミシガン州の高校で男子生徒が拳銃を乱射し4人が死亡した事件。銃は父親がクリスマスプレゼントに15歳の少年に買い与えたもの、とのこと。米国に潜む社会病理に日本もどんどん近づいていると感じられる。

15歳の息子に拳銃を買い与える感覚は、大人に近づき、帯刀を赦された息子に小刀を与える武士の感覚とどのくらい差があるのだろう。また、みなさまと議論を交わしたい。

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