20220731 東淀川教会宣教要旨「脱出」出エジプト記三章 マタイ福音書10章

聖霊降臨節 第九主日礼拝
本日の聖書箇所(聖書協会共同訳)

出エジプト記3章 
 すると、柴の間で燃え上がる炎の中に、主の使いが現れた。彼が見ると、柴は火で燃えていたが、燃え尽きることはなかった。(3:2)

 神は言われた。「こちらに近づいてはならない。履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地である。(3:5) 

 主は言われた。「私は、エジプトにおける私の民の苦しみをつぶさに見、追い使う者の前で叫ぶ声を聞いて、その痛みを確かに知った。(3:7) 

 それで、私は降って行って、私の民をエジプトの手から救い出し、その地から、豊かで広い地、乳と蜜の流れる地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、そしてエブス人の住む所に導き上る。(3:8)

 モーセは神に言った。「御覧ください。今、私はイスラエルの人々のところに行って、『あなたがたの先祖の神が私をあなたがたに遣わされました』と言うつもりです。すると彼らは、『その名は何か』と私に問うでしょう。私は何と彼らに言いましょう。」(3:13)

 神はモーセに言われた。「私はいる、という者である。」そして言われた。「このようにイスラエルの人々に言いなさい。『私はいる』という方が、私をあなたがたに遣わされたのだと。」(3:14)

 マタイによる福音書10章 23節 
 一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げなさい。よく言っておく。あなたがたがイスラエルの町を回り終わらないうちに、人の子は来る。

宣教の要旨「脱出」


イスラエルとは、定着生活、王の支配下の生活から脱出した移動の民、遊牧の民から始まった「神の声にしたがって神とともに歩む民(我々)」という自己理解、アイデンティティを示す言葉であり、血縁関係による民族を表すものではなかった。

エジプトの奴隷状態から救いを求める声が湧き上がったのは、「奴隷の子は奴隷」といった存在の定義に対し、かつての、神のみに従う「遊牧民・移動の民」の自己理解が燃え上がったからこそ、開放への祈りが生まれたのだろう。

 たまたま奴隷状態から脱してエジプトの支配側にいたモーセであったが、イスラエル人奴隷を虐待する王の兵士に怒りがわき上がり、その兵士を密かに殺したが、守ったはずのイスラエル人から殺人者として密告され、指名手配から逃れ、逃避行を続け、安息の地をようやく見いだしたモーセだった。安息を手に入れてもエジプトで奴隷状態になっているイスラエルの民を忘れることは出来なかった。

 「燃える柴」は、そんなモーセの内なる魂の火である。暗闇の祈りに瞼の裏に顕れる火。神の声が響いてくる。石器時代の太古より、狩猟民族は暗闇の洞窟に定期的に集い、目には見えない神の声を聴こうとしたと云われる。光のない闇の中で目を閉じたとき、やがて閉じた瞼の裏に燃える炎、動く光を感じ、それは目を開いてもそこに残る炎だった。そこから、文字以前の、共同のイメージ、壁画が生まれた、という学説が多々ある。モーセが見た「燃える柴」も太古からの暗闇の炎と繋がっている。

 神はモーセに、解放を求めるイスラエルの民を、奴隷から脱出させよと語りかける。「私を派遣した神の名を問われたらどう応えるべきか」の問いに、“イスラエル民族の神・アブラハムの、イサクの神”と応えるのではなく、「在る」=「存在の神」=“全ての根源”と神は応える。今日の、民族や国教を超えた、グローバル世界を先取りしているとも言える。

 聴いたイスラエル人は、口伝で伝えられた創造神話を通して、万物創造の神、目に見えるものの始まり、すべてのいのちを吹きこむ神、現代の言葉で言えば、時間を加えた4次元の世界の創造者をイメージできたのだろう。

 イエスの時代。いよいよ周囲の人々にとっての危機を迎えたとき、「ひたすら逃げよ、山に向かって逃げよ、下着も取りに戻ってはならない」とイエスは語ります。また、「一つの町で迫害されたら他の町に逃げよ。イスラエルの町を回りきらないうちに人の子は来る=助けは来る」と語ります。

 そして現代。大量の核爆弾が製造貯蔵されている現代社会。もはや戦争は不可能、と高を括っていた私たちの姿があります。なのに自爆テロは続き、国家間によるテロ=仁義なき戦い=戦争が起こり、銃乱射による大量殺人、刃物による大量殺人事件が続いている。

一方で、日本国内でも「外に出られる軍隊を持つべきであり、核武装すべき」「そのための憲法改正をすべき」の声が高まっている。「気分は戦争中」で息巻いて元気になる人々が増えている。

“戦争反対”という標語、民の声で国家にたがをはめよう、という試み自体が「共通の、大切な理念」としてちからを持たなくなっている。

“人など殺さずに生きられる”=殺し合わなくても生きられるのか。そのためには、“にっちもさっちも動けない”、“敵・味方の関係”、支配する側・支配される側のどちらかにしか身を置けない、といった、追い詰められたところから逃げるには脱出するしかないのだろうが、現代社会は「脱出」の手だてが見いだせない社会なのだと感じる。匿名での逃避行も許されない。ワケありの人が逃げ続ける術がない。国家から迫害されたり、国家の守りを失った人々を“難民”とする定義もあるのだろうが、逃げ場を失っている人々こそ第一の「難民」だと思う。現代の「逃げ場の無さ」、現代日本の、20代、30代世代の死亡原因の第一位が自殺であることがそれを如実に示している。ひとりでは死にきれず、多くの人々を死に巻き込んで死のうとする心理は、是非は別として理解できます。死で終わらせるのではなく、逆に生きて、関係を強いてくるものに向き合って対峙する、対決する道は、現代社会にはないのだろうか。“行政の福祉課に相談しなさい”でも“警察に相談しなさい”でもない、手を差し伸べてくれる「人の子」は現れないのだろうか。イエスに従う教会は、その「手」となれないのだろうか。

わたしたちは「正しい答え」の前に立てない。逃れようのない問いの前に立たされている。モーセの如く、眼を閉じて、瞼の裏から始まる燃える炎を見つめつつ、主の声を聴きたい。

先週の出来事 


山上徹也容疑者からカルト問題のルポライター米本和広宛手紙の一部がネットに流れています。
「世界中の金と女は本来全て自分のものだと疑わず、その現実化に手段も結果も問わない自称現人神(文鮮明)。私はそのような人間、それを現実に神と崇める集団、それが存在する社会、それらを「人類の恥」と書きましたが、今もそれは変わりません。苦々しくは思っていましたが、安倍は本来の敵ではないのです。あくまでも現実世界で最も影響力のある統一協会シンパのひとりに過ぎません。文一族を皆殺しにしたくとも、私にはそれが不可能なことは分かっています。」
おぞましい「人類の恥」を放置し、さらにそれすら「利用」し合ってきた権力者や追従する人々に向けて放たれた銃弾として理解できます。

20120727 東淀川教会礼拝 宣教要旨「世の時も ひとの時も我の時もわからない」コヘレトの言葉3章 マタイ福音書16章

本日の聖書箇所(聖書協会共同訳)

コヘレトの言葉3章 19〜22節
人の子らの運命と 動物の運命は同じであり、これが死ねば、あれも死ぬ。両者にあるのは同じ息である。人が動物にまさるところはない。すべては空である。(19)
すべては同じ場所に行く。すべては塵から成り すべては塵に帰る。(20)
人の子らの息が上へ昇り、動物の息が地に降ると誰が知るだろうか。(21)
私は見極めた。人は自分の業を楽しむ以外に幸せはないと。それがその人の受ける分なのだから。彼の後に起こることを 一体誰が彼に見せることができようか。(22)

マタイによる福音書16章1~4節
ファリサイ派とサドカイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを見せてほしいと願った。(1)イエスはお答えになった。「あなたがたは、夕方には『夕焼けだから、晴れだ』と言い、(2)
朝には『朝焼けでどんよりしているから、今日は嵐だ』と言う。このように空模様を見分けることは知っているのに、時のしるしは見分けることができないのか。(3)
邪悪で不義の時代はしるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」そう言って、イエスは彼らを後に残して去って行かれた。(4)

宣教の要旨「世の時も ひとの時も我の時もわからない」担当 金田恆孝

 旧約聖書の、雅歌が「青年の情熱」、箴言が「壮年期の智恵」、そいてコヘレトの言葉が「老齢期の悟り」とそれぞれの特徴を言うことができます。

「時」とは「意識の枠」の別名と思われます。これがギリシャ哲学から始まる西洋的な「意識の枠」=「時」を前提とする感覚と、「色即是空」に表現される、意識の枠を取り払った「空」を前提とする東洋的な感覚との違いがあると思います。聖書はその両方にまたがった書と思います。 

「一切は空である」から始まるコヘレトの言葉。人間の頭で思い描くことも、聞き覚えた言葉も、口から吐き出す言葉も空しい、「虚」であると語ります。

3章は「全ての出来事は神の時の内側にあり、生まれるにも死ぬにも神の時があるが、人にはわからない」「人は動物に優るものではない」「すべては神の時の中にあるが、人間には神の時はわからないし、計り知れない。」
「神の時に対して謙虚な動物と、神の時に対して傲慢な人とを比べ、人間は動物に優るものではない」と断言します。人も動物も明日のことはわからず「今」を生かされているにすぎないと。

“人の息は天へ・動物の息は地へ”。とは、神の息が直接吹きこまれて生きるものになった人の息は、肉体から離れて神に帰るから「上・天」であり、動物の息は、自然に還るので「下」です。 

イエスの語る言葉が正しいのか、神の御心に適うことなのかを自分で証明しろと(エビデンスを)迫った反対者たちに、ヨナのしるし以外の証明はない、とイエスは語る。ヨナのしるしとは、人の思いと神の思いは真逆になったということ。人が必死で追い求めても得られるものではなく、逆に人が必死で逃げても捕まるものなのだと。

何がどうしてこうなったのか、どうすればいいのか、その原因や結果や生き方の答えについて人は問います。或いは、現在の権力支配が終わる時(革命 救出)、神が救世主を遣わして、この苦しみの時代を終わらせてくれる時(終末)それはいつかという問いは、「この時」への「しるし」を求めていることになります。“時のしるしは与えられていない” それがこれらの問いに対するイエスの応答でもあったのでしょう。

イエスが語ったのは、「神の子」である尊厳を取り戻せ =あなたにいのちを吹きこんだ主なる神をひたすら求めよ、という教えと、自分自身を大事にするように隣人も大事にしなさい=路傍に倒れている人があれば、旅人で隣人であるあなたは一杯の水を携えて駆けつけなさい。その行いは,神の御手の内側にある、とイエスは語るのです。

なにが相手にとって助けになるのかわからないし、困っていることの因果関係もわからない。こちらにも余裕があるわけではない。が、相手が一杯の水を求めたら、休息の場所を求めたら、出来る範囲でそれに応えなさい、というイエスのメッセージだと思います。

「時はわからない」について、三上寛の歌を思い出します。三上の歌“夢は夜開く”で、『サルトル マルクス 並べても 明日の天気はわからねえ』ってのがありました。どれほど過去を振り返ったり、歴史を学んだとしても、そこから先のことを、過去から今日までの延長と想定することはできない。映画のトラさんではありませんが、ときたま楽しいことはあるが、「わからないこと、苦しいこと悲しいことばかり多かりし」が日々の実感の人間にとって、“夢は夜開く”の二番『八百屋の裏で泣いていた 赤ん坊背負った泥棒よ キャベツ一つ盗むのに 涙はいらないぜ』はジーンとくる歌詞でした。他人のことなんぞかまっていられない、そんな現実の中であっても、他人に対する人の優しい眼差しが感じられる台詞です。イエスもそんな眼差しだったんじゃないかって想像しています。

先週の出来事 
発砲事件の山上容疑者への精神鑑定、責任能力の有無に白黒つけようと政府がやっきになって急がせている様子。「国葬」で“偉人”化を演出し、事件の背景を追求することもなく、さっさと死刑執行まで急がせようとする腹づもりなのだろうか。
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20220717 東淀川教会礼拝 宣教要旨「悪い木は良い実を実らせない」マタイ福音書7章 12章 担当 金田恆孝

本日の聖書箇所(聖書協会共同訳)
マタイによる福音書7章 16-20節
あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。」
マタイによる福音書12章 31-37節
だから、言っておく。人が犯す罪や冒瀆は、どんなものでも赦される。しかし、霊に対する冒瀆は赦されない。また、人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも来るべき世でも赦されることはない。」「木が良ければその実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木の良し悪しはその実によって分かる。毒蛇の子らよ、あなたがたは悪い人であるのに、どうして良いことが言えようか。およそ心から溢れることを、口は語るのである。善い人は良い倉から良い物を取り出し、悪い人は悪い倉から悪い物を取り出す。言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる。」

宣教の要旨「悪い木は良い実を実らせない」

「今の時代を何に喩えようか」とのイエスの言葉がありますが、この時代は『難民時代』と呼んで良いと思います。それは国連関連機関が発表している「2022年5月には難民の数は1億人を突破した」という世界規模の難民問題だけではなく、“社会の中で居場所を失っている” “貧困で生活が危うい” “発達障害や様々な社会不適応の代名詞のような障害名でラベリングされたり向精神薬を投与されているこどもたち” “20代から30代の死亡原因の第一位は自殺” 等々に顕れている、生き難さにあえいでいる目立たない人々、「難民」の時代であると言っていいと思います。

 「その実が良いか悪いかによって、実の木の善し悪しを見分けなさい」とイエスは語ります。これは明らかに譬喩であり、聖書の記事には何が“悪い実であり悪い木”であるのか、具体的には記録されていません。当時の社会状況への想像力を働かせれば、支配するローマやヘロデ王や神殿の支配者たちから課せられている重税、神殿税、捧げ物の義務により「貧しい者」が大量に量産され、浄い人と浄くない人のランク付け、ラベリングが行われ、服従・追従しきれずに病む人々への容赦ない排除、分断、迫害が行われていたわけですし、おそらくイエスはもっと具体的に「悪い木」と「悪い実」について具体的に例を挙げて語っていたと思われます。

人をありのままでは生き難くさせている支配者たち、大人たち、教師たちに向かって「悪い木」と呼んでいます。「地獄」は決してあの世の地獄の意味ではなく、「悪い木」が、この世の「悪い実」である地獄(ゲヘナ・スラム地区)を作り出しており、「ゲヘナでは蛆が尽きることも、火が消えることもない」マルコ9:48とは、エルサレム城壁における「糞門」の外に広がる「ヒンノムの谷」の姿を現していると思われます。

フィリピンの都市から生み出されたゴミがくすぶり続ける“スモーキーマウンテン、現在のスモーキーバレー”そのままの姿だと思います。日本の産業廃棄物もかなりアジア諸国に押しつけられている現実があります。 

難民とは英語でrefugeeと言うようですが、“後ろ向きに逃げる” “拒否される”が語源のようです。イエスは「ありのままの人間」を「神の子」と呼んでいたし、「ありのままの人間がありのまま生きられる・生かし合える」社会が自然な人間関係、「神の国」だと仮定したら、そこからもっとも遠い、生き難い社会に突入している気がします。たとえ、それがどれほど「便利」な「清潔」な社会に見えたとしても、膨大なリスクの上に成り立っている砂上の楼閣のごとき、“一定の条件に合った人たちだけの快適さ”なのでしょう。

生き難さとしての『難民』。貧困が生み出す「難民」。ウィルスきっかけに防衛の自己判断・自己決定が事実上タブーになり、何が常識なのか、絶えず周囲に忖度しつづけなければならない生き難さを抱えた難民。周囲の人々に「普通の人」と見做されるために神経をすり減らして生活しなければならない「難民」は、私自身も含めて増大しています。

あまりの生き難さに「死」を求め、生き難さを生み出している、できるだけ多くの人を巻き込んで自分と「世」をいっぺんに終わらせようとする銃乱射事件、暴走事件が目立ちます。「仕事を続けられる社会人」であるために、どれほど多くの人々が睡眠剤を含む“向精神薬”のお世話にならなければならない現代社会であることか。薬を飲み続けなければ「正常」を保てない社会は明らかに病んでいます。「ストレス」などという概念ではもはや間に合わない、生き難さが体と心を蝕んでいる「難民の時代」なのだと思うのです。

先週の出来事

片山さつき国会議員の7月13日ツイート「警察庁長官に「奈良県警の情報の出し方等万般、警察庁本庁でしっかりチェックをと慎重に要請致しました。これ以上の詳細は申せない点ご理解を。霞ヶ関を肌で理解する者同士の会話です。皆様の感じられた懸念は充分伝わっています。組織に完璧はありませんが、国益を損なう事はあってはなりません。」これって、霞ヶ関に“国益を守るための陰謀”があるのはあたりまえで、民は知るべきではない、とはっきり言っていると思います。今という時代の政治状況、国家の方向性が、我々一般人が普段思っている以上に「民ひとりひとりが社会の主人公である民主主義」とは真逆の「非民主主義」に大きく傾いてしまっていることを、改めて思い知らされた思いです。

20220710 礼拝宣教要旨「うんちは恵み」申命記23章エゼキエル書4章マタイ福音書15章

讃美歌
1.9 力の主を
1.331 主にのみ十字架を
1.239 さまよう人々
本日の聖書箇所(聖書協会共同訳)
申命記23章 13節
陣営の外に場所を設け、用を足すときはそこへ行きなさい。

申命記/ 23章 14節
武器のほかにシャベルを携え、外でかがむときは、それで穴を掘り、再びそれで排泄物を覆いなさい。
エゼキエル書4章 15節
すると主は私に言われた。「私はあなたに人糞の代わりに牛糞を与える。あなたはその上で自分のパンを焼きなさい。」

マタイによる福音書15章 10−11節
それから、イエスは群衆を呼び寄せて言われた。「聞いて悟りなさい。口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである。」

マタイによる福音書 15章 15ー20節
するとペトロが、「そのたとえを説明してください」と言った。
イエスは言われた。「あなたがたも、まだ悟らないのか。
口に入るものはみな、腹に入り、外に出されることが分からないのか。
しかし、口から出て来るものは、心から出て来て、これが人を汚すのである。
悪い思い、殺人、姦淫、淫行、盗み、偽証、冒瀆は、心から出て来るからである。
これが人を汚す。しかし、手を洗わずに食事をしても、人が汚れることはない。



2022年7月10日 宣教要旨「うんちは恵み」
 特に人間のうんちは、昆虫や動植物にとって大きな恵みであることは確かです。人間のうんちを川に流したら、一里(4キロ)流れる間に魚たちが食べ尽くす、と村の長老から聞いたことがあります。人間にとっても大切なことであり、たいせつなものです。でも「不浄なもの」として差別されがちです。私の出身地である信州伊那谷には、旧正月の元旦の朝、家の便所のくみ取り口にゴザを敷いて、家族全員が正月の晴れ着を着て、便所の神さま、ウンチの神さまと一緒に食事をし、旧年の感謝と新年への祈りを捧げる行事を21世紀の今も続けている家があります。都市化し水洗便所があたりまえでウンチとのお付き合いが遠のいている現実があります。
 世界の安全排便・肛門清潔保持・糞処理についてのおおざっぱなスケッチです。
(中東)渇いた砂や渇いた小石で拭く 川の水で洗う 汲んだ水で左指で洗浄 糞を燃料として使用
(アジア)糞を魚の餌や豚の餌にする 川の中の縄で洗う 中国の紙使用6C〜
(日本)尻拭きは枯葉・海藻・蕗・木や竹のへら籌木(ちゅうぎ)を用いた。
畑の肥料として高い価値 肥だめ醗酵 堆肥作り (宮沢賢治の学校教育・農業指導) 
紙は江戸時代 武士・商人の肥買い 浅草紙 地方では藁、へらが近年まで使われた。
漢方には「人中黄」という人糞からとった薬があり解熱・解毒などに用いられました。
肥だめで人糞を発酵させ肥料として用いたのですが、発酵具合を指ですくって舐めて確認してた百姓も近年までいました。うんちとは親しい関係だったのです。
おそらく戦後、伝染病を抑えるため、とか、不衛生が病気のもと、とか、害虫駆除でDDTという薬品を散布するとか、家庭の衛生を保つためにはトイレをくみ取りから水洗トイレに変えるべき、等の、衛生局からの指導が頻繁に行われ、それが功を奏してウンチとの関係が“疎外関係”になってきたと感じています。
 世界の三分の一は屋外排泄の習慣のようです。昆虫や魚や動植物にとって人糞は恵み。自然を害するものではありません。インドの都市衛生向上のために先進国からトイレが送られたが、用いられなかった、というニュースがありましたが、まさに“後進諸国”を遅れていると見做しがちな“先進諸国”の傲慢さを感じました。

イエスの時代、神殿を中心とした支配・指導層の「選民」「聖別」思想はとても強く、イスラエル・ユダヤ人の「聖性」をいかに保つか、穢れから身を離すかが大きなテーマであり、そのために律法(法律)をどんどん増やし、それによって清浄と不浄を分け、人間自体も清浄な人間と不浄な人間とに分けることに熱心でした。
城壁に囲まれた市内の“清浄”を保つために、8つのエルサレム城壁の中で最も狭い糞門を通ってヒンノムの丘と呼ばれる場所に市内のゴミや糞尿が運ばれていました。イエスにとって糞門は、祭司長や律法学者や支配層の「清浄と不浄を分ける」傲慢の象徴であったと思われます。イエスの「狭い門から入りなさい」はこの糞門を差しており、最後のエルサレム入場もこの糞門からであったと考えられます。
 清浄と不浄の基準を作り、押しつけ、「穢れ」や「罪」として人々を裁く神殿支配者たちに向かって、「体から出るものが穢れているのではない。おまえたちの口からでる言葉(律法)こそが人々を穢している」という強烈な批判のことばをイエスは投げつけ続けていたと思われます。
「口から入るものは人を穢さない」のイエスの言葉は、律法そのものを否定することばとして響いたのでしょう。自分たちを神に選ばれた「選民」とし、選民の聖性を保つことに熱心だった祭司長や律法学者やファリサイ派やサドカイ派など指導者層をどれほど怒らせたことか、私たちの想像をはるかに超えていたことでしょう。
今も残る、ユダヤ教(豚・ラクダ・ウサギ・ほとんどの昆虫類・肉食動物)やイスラム教(豚・うなぎ・イカ・タコ・貝類)に残っている食べ物タブーのルーツをイエスは否定していたわけです。
水洗トイレが日常化し、その処理を行政に委ねている都市生活者とは、自然にとっての恵みであるうんちとの付き合い方を忘れ、自然との関係を見失い、自然の恵み、神からの恵みを“差別”しているのでしょう。

先週の出来事
逮捕された容疑者が警察の調べに対し「特定の宗教団体に恨みがあり、安倍元総理がこの団体と近しい関係あると思い狙った」と語っているとのニュース。この特定の宗教団体とは、阿部元総理も隠そうとしなかった、文鮮明率いた「統一協会・勝共連合」と思われます。狙撃は赦されませんが、狙撃者は逃げ隠れせず山上徹也と名乗り、自らの家庭を崩壊に導いたであろう統一協会の名をはっきり告げたはずです。報道管制が敷かれたのでしょうが、その言い分は正確に伝えられるべきです。

 

20220703 東淀川教会 礼拝宣教要旨「選民思想を突き放すイエス」イザヤ書1章44章 マタイ3章9節 担当 金田恆孝


7月3日 讃美歌
1.51 日陰しずかに
1.58 神よみまえに
1.512 我が魂の慕い奉る

本日の聖書箇所(聖書協会共同訳)
イザヤ書1章 2節
天よ、聞け。地よ、耳を傾けよ。主が語られる。私は子どもたちを育て上げ、大きくした。しかし、彼らは私に背いた。

イザヤ書44章 24節
あなたの贖い主 あなたを母の胎にいる時から形づくられた方 主はこう言われる。私は主、万物を造った者。独りで天を広げ、自ら地を踏み広げた者。

詩編19章 15節
私の口が語ることと心の思いとが 御前で喜ばれますように。主よ、わが大岩、わが贖い主よ。

マタイによる福音書3章 9節
『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。

マタイによる福音書/ 7章 9-11節

あなたがたの誰が、パンを欲しがる自分の子どもに、石を与えるだろうか。
魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。
このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子どもには良い物を与えることを知っている。まして、天におられるあなたがたの父は、求める者に良い物をくださる。

宣教の要旨 「選民思想を突き放すイエス」
 これはイエスの爆弾発言のひとつでしょう。「自分たちはアブラハムの子孫であり、神に選ばれた特別の民族なのだ」という、ユダヤ人の民族的誇りに対し、「神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる」というイエスの言葉は、国の支配者たち、神殿を中心とした指導者たち、選民としての民族的な誇りをもった人々を怒らせた、“非国民”的発言だった。

「全ての人間は神がいのちを吹きこみ産んだ“神の子たち”なのだ。が、人々は神を忘れ、自分たちが世界の主人公のようにふるまい、「異邦人という敵」や、「汚れた人々」を作り出し、虐げ、罪を犯している」とイザヤは語っている。イエスの語る「神の子」という意味も、イザヤと同じだろう。

 神は万物と「いのち」の造り主、「親」であり、万人は「神の子」なんだ、子である人間は神の慈しみの対象であり、負い切れぬ重荷(災難、貧困、過ち、責任、病苦、ハンディなど)を、子が願えば(全知全能の神が重荷をチャラにしてくれるというのではなく)、親のように、子の代わりに背負ってくださる方なんだ、だから「贖いの主」と呼ぶんだ、という理解だと思われます。


 神が人間を「子」と呼ぶなら、子である私たちは、神を「おとうちゃん、おかあちゃん」と呼べば良い、というのがイエスのことばであり、「アバ、父よ、」の祈りも、「とうちゃん、かあちゃん、聞いておくれ」から始まる祈りだと思うのです。

「神」という言葉を自分たちの言葉で表現してはならない、という言い伝えがあり、聖書の記述にも反映されていますが、それ自体が万人、万世の神を、独占的かつ排他的に“自分たちの神”として理解する過ちを犯さないためだったと思われます。

「パンを欲しがる自分の子に石を与えるだろうか」とは、神を親のように感じ、本当に必要な物を願えば、親である神はそれを与えてくださる」とイエスは語られたし、今も語っておられる。

 現代社会に目を転じれば、「洗礼を受けたキリスト者こそ神に選ばれた民である」という考え方や感覚も、イエスのメッセージからは遠いと思います。


 富国強兵をスローガンとした明治からの日本は、日本人こそ神に選ばれた「選民」であり、天が与えた帝の子たちであり、親である天皇が治める国家を守るためには命を捧げることも厭わない親孝行が求められました。敗戦後、戦争を過ちと認め、神と崇められた天皇は人間宣言をしましたが、日本国の象徴・中心としてのイメージと憲法条文は残っています。様々な国を敵国と見立てて富国強兵、核武装が目論まれている現在。「こんな石ころからでも神の子たちを作り出すことが出来る」(こんな石ころからでも天皇と天皇の子たちを作り出すことが出来る)とのイエスの声に、いまこそ耳を傾けたい。

先週の出来事
 参議院選挙。政見放送が行われていますが、天皇制や死刑制度についての言及は殆どないのが悲しい。