20210228 宣教要旨「所有権とは何か」

本日の聖書箇所 (聖書協会共同訳) 創世記16 6
アブラムはサライに言った。「女奴隷はあなたのものだ。好きなようにするがよい。」サライは彼女につらく当たったので、彼女はサライの前から逃げて行った。

マルコによる福音書3 31-35
イエスの母ときょうだいたちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。
時に、群衆がイエスの周りに座っていた。「御覧なさい。お母様と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、イエスは、「私の母、私のきょうだいとは誰か」と答え、周りに座っている人々を見回して言われた。
「見なさい。ここに私の母、私のきょうだいがいる。神の御心を行う人は誰でも、私の兄弟、姉妹、また母なのだ。」

マルコによる福音書/ 10 29-31
イエスは言われた。「よく言っておく。私のため、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子ども、畑を捨てた者は誰でも、今この世で、迫害を受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を百倍受け、来るべき世では永遠の命を受ける。
しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」

宣教テーマと要旨『所有権とは何か』 

 アブラムにとってハガイは妻サライの所有物・奴隷であり、どう扱おうと口出しはできなかった。 マルコ福音書3章では、イエスたちの活動が社会の治安を乱すものとして行政側から、母や兄弟の管理・連帯責任が問われたため、イエスを迎えに来た(活動を止めさせようとする)場面です。

マルコ福音書10章では、“子は親の所有物、妻は夫の所有物”などの所有権を無効とし、所有権はすべて神に返せ、とイエスは語っていると思われる。

 古事記等では奴隷は(奴)(奴婢)など。大化の改新における律令制度では稲1000束が対価との記録も。1582(天正10)ローマに向けて派遣された少年使節団の記録より『我が旅行の先々で売られて奴隷の境涯に落ちた日本人を親しく見たときには、こんなに安い値で打数の男女、童男童女が小家畜か駄獣かのように手放す我が民族への激しい念に燃え立たざるを得なかった。』との少年たちの語録が残っています。 黄海・インド洋航路、マニラ・アカプルコ太平洋航路は1560年代から奴隷航路とも呼ばれていたようです。資料“「近代世界と奴隷制~大西洋システムの中で」池本幸三他、人文書院1995年”

 1872年娼妓ショウギ解放令が出るまで、童女が家の借金の代わりに娼妓見習いとして売られ、解放令後にもヤクザが絡み、闇で略売・人身売買は続いていた。童男(少年)が作業のための奴隷として売られた山形県飛島の南京小僧(南京袋が作業着)や、山口県大島、屋代島の「梶子」と呼ばれる作業要員として売られていたことも、戦後の法整備まで続いていたようです。

 イエスが激しく非難し語ったのは、家族を捨てよ、ではなく、人を所有物(性的欲望の対象とする、奴隷とする)所有権放棄そのものだったと思われる。

先週の出来事
映画「異端の鳥」を観た。原作はホロコーストの生き残り、ポーランドの自殺した作家イェジー・コシンスキの「ペインディッド・バード」。ペンキを塗られた毛色の違う仲間のハズの鳥を襲う鳥の群れ。難民となった少年を次々と襲う人間の悪。目の色や髪の毛や肌の色が異なる者を排除し暴力を振るう人々。
善人面しながら少年を性愛の対象とする教会の司祭… どこに救いがあるのか?と苦しくなると同時に、観る側を善人の側に逃がさない、“わたし”に内在する悪を告発し続ける映画でした。

20210221 宣教要旨『奴隷からの解放』

2021年2月21日 聖日礼拝 宣教要旨「奴隷からの解放」 
聖書 詩編23篇1ー6節 マルコ福音書6章34節 14章27節
讃美歌 312いつくしみ深き 239さまよう人々 310静けき祈りの

詩編23編 1〜6節
主は私の羊飼い。私は乏しいことがない。
主は私を緑の野に伏させ 
憩いの汀に伴われる。
主は私の魂を生き返らせ 御名にふさわしく、
正しい道へと導かれる。
御名にふさわしく、正しい道へと導かれる。
たとえ死の陰の谷を歩むとも 
私は災いを恐れない。
あなたは私と共におられ あなたの鞭と杖が
私を慰める。
私を苦しめる者の前で あなたは私に食卓を
整えられる。私の頭に油を注ぎ 
私の杯を満たされる。
命あるかぎり 恵みと慈しみが私を追う。
私は主の家に住もう 日の続くかぎり。

マルコによる福音書6章 34節
イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。

マルコによる福音書14章 27節
イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたは皆、私につまずく。『私は羊飼いを打つ。すると、羊は散らされる』と書いてあるからだ。


宣教テーマと要旨『奴隷からの解放』
“主はわたしの羊飼い”23篇はキリスト者愛唱の詩です。主は万物・命の神であり、羊は人間(イスラエル・神の民)である。命を吹き込んだ神と、生かされる神との調和が美しく描かれている。モーセがエジプトの奴隷であったイスラエルの民を解放したように、イエスはこの世の支配者たちと、その呪縛からの解放を支配に苦しんでいる人々(貧しい人々、差別され疎外されている人々)に“神の国”として語りかけていたと思う。
それが国や王や支配する者にとって都合の良い羊のイメージに利用されるようになった。羊は英語でsheep 単数形も複数形も同じ。個性はない。
 イエスが貧しい人々、強い王を求める人々をみて「飼い主のいない羊のような有様」とは、神のみを飼い主・主とする「人」として自立するよう願っているからだろう。イエスを王・羊飼いとして依存している人々は、イエスが捕まり処刑されることによりめあてを失い、躓く、と予告している。
人間の歴史は文明の始まりとともに国家が始まり△型の構造を作り出した。上に行くほど豊かで底辺に近づくほど貧しくなる。イエスが人々に語りかけたのは、高い天にいる神ではなく、底辺に下り給うた神であった。イエスが神の国を形で描くなら、▽、逆三角形で、一番上に赤ちゃんやお年寄りやハンディを抱えた人や病人たちが一番上に横並びで、その下に健康な人、力ある人々、公務員、さまざまな才能を持つ人々、弱い人々を支えらられる人々であっただろうと想像する。現代はピラミッド型△の、ファシズムがますます強まっている時代と思うのです。

 先週の出来事 
ロシア全土でプーチン独裁に反対するデモが広がっていると報道されています。北朝鮮や中国の党独裁体制も軋み始めている。世界中の独裁、暴力、命の危険から逃げ出した難民は8千万人ともいわれ、過去最高となっている。中国における少数民族への虐殺ジェノサイドも報道されています。日本は独裁の国ではない、とは言えないと思いますが、“悪を指摘する人々は善”と思わされてしまう心理誘導に気をつけたい。

20210214 宣教要旨「驕れる男の死と再生」

ギルガメッシュ叙事詩
衣を清く保ちなさい。頭を洗い、水を浴びなさい。おまえの手にすがる子供に目をかけなさい。おまえの膝で妻が歓ぶようにしなさい。これが人間のなすべきことなのです…」
創世記2章 21節
そこで、神である主は人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、そのあばら骨の一つを取り、そこを肉で閉ざされた。

マルコによる福音書12章 18-25 節
復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスのところへ来て尋ねた。「先生、モーセは私たちのために書いています。『ある人の兄が死に、妻を残して子がない場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄のために子をもうけねばならない。』さて、七人の兄弟がいました。長男は妻を迎えましたが、子を残さないで死にました。次男が彼女を妻にしましたが、子を残さないで死に、三男も同様でした。こうして、七人とも子を残しませんでした。最後にその女も死にました。 復活の時、彼らが復活すると、彼女は誰の妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」 イエスは言われた。「あなたがたは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天の御使いのようになるのだ。

宣教テーマと要旨『驕れる男の死と再生』
紀元前3,500年頃から約1,000年続いたメソポタミアのシュメール文明時代の神話「ギルガメッシュ叙事詩」。主人公ギルガメシュはウルクの王。暴君であり、都の乙女たちを奪い去るという悪業その他の暴君ぶりで住民に恐れられていた。ウルクの人びとが神々に訴えると、大地の女神アルルがギルガメッシュを滅亡と再生へと旅立たせることから始まる。 創世記の男と女の誕生、洪水物語もシュメールの神話の影響を多く受けているといわれる。資料によると妻(音価で“Nin-Ti ”)は「肋骨」の意味もあるが、心臓=いのちの象徴であり、元来「生命ある者の母」と訳されるべき語が誤って「肋骨そのもの」として転記されたようです。イスラエル人も元来遊牧民であり、リーダーは男性族長、父系中心になりがちな文化だった。キリスト教が生まれローマ帝国の国教となった後も、一神教(キリスト教以外は認めない)を中心とし、男(王)が家族(女・子ども・国民)を守り外敵と戦い、他国や自然を征服する男性イメージを中心とする西洋文明の基礎をキリスト教が支えてきた。パウロの宣教もまた“主導するのは男性”イメージが強い。

 現代社会もまた、強い国々(先進国)と搾取される国々(後進国)の格差、富んでいる者と貧しい人々の格差もますます広がり、自然を征服すべきものとして破壊を続けてきた結果、地球環境は人類の持続可能性が脅かされる事態にまでなってきた。いまや、人間の豊かさを求めて地球を利用してきたことの限界に直面している世代として、わたしたちは古代の人々のように、“母なる大地”、“生命あるものの母”を中心とする、再生・循環、自然との共生、というよりも、むしろ「自然によって生かされる」地点に立ち戻るしか道はないのではないか。

 イエスの失言を引き出そうと論争を仕掛けた者たち。族長たる長子の名を残すための身代わり婚・レビラート婚の風習が残っていた。 次々と死んだ七人の男兄弟の妻だった女は、死んで復活したとき、誰の妻(だれのものとなるか)の問いに対し、娶ることも嫁ぐこともなく天の御使い(天使)のようになる、とイエスは答える。肉体は滅び、魂(霊)は神の元に帰るとき、もはや男・女である必要もなく、聖霊として神とともに働くのだ、と言い換えてもいいと思う。

 この国の古代神話、太陽神は女性神アマテラスであったが、“権威”は地上の武力・権力を握った王、武尊に取って代わられた。
 いま、オリンピック委員会委員長の発言(暴言)がマスコミを賑わしている。
ジェンダー(女性・男性)の対立、反発、主導権争いではなく、弱さを慈しみ、子どもたちを守り育てる知恵と力とを、性差には関係なく主に祈り求める時だとあらためて思われる。

先週の出来事 
ミャンマーで起こった軍事クーデター。“最後は軍事力こそがものを言う”みたいな出来事。
それに対して、それを許さない、阻止するための過去最大数十万人規模の軍事クーデターに対する抗議デモが起こっている。これを鎮圧するための、更なる軍の暴走が起こらないことを祈りたい。

 

 

 

20210207 宣教要旨「イチジクを叱るイエス?」

聖書箇所(聖書協会共同訳)
ゼカリヤ書14章1~3節
主の日が来る。略奪されたあなたのものが あなたのただ中で分けられる。
私は諸国民をすべて集め エルサレムに戦いを挑ませる。
町は占領され、家は略奪され 女たちは犯される。町の半分は捕囚とされて連れて行かれる。
しかし、残りの民は、町から絶たれることはない。
主は出て来られ 決戦の日に、自ら戦われた日のように それらの諸国民と戦われる。

ゼカリヤ書14章 20~21節
その日には、馬の鈴にも「主の聖なるもの」と刻まれ、主の神殿の鍋も、祭壇の前にある鉢のようになる。
エルサレムとユダの鍋も、すべて万軍の主の聖なるものとなる。いけにえを献げる者は皆やって来て、鍋を取り、それで煮る。その日には、万軍の主の神殿に、もはや商人はいなくなる。

マルコによる福音書11章 12~17節
翌日、一行がベタニアを出るとき、イエスは空腹を覚えられた。
そこで、葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実がなってはいないかと近寄られたが、葉のほかは何もなかった。いちじくの季節ではなかったからである。
イエスはその木に向かって、「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言われた。弟子たちはこれを聞いていた。
それから、一行はエルサレムに来た。イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを覆された。
また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった。
そして、人々に教えて言われた。「こう書いてあるではないか。『私の家は、すべての民の 祈りの家と呼ばれる。』ところが、あなたがたは それを強盗の巣にしてしまった。」

宣教テーマと要旨『イチジクを叱るとは』
 神殿を中心としたエルサレムは神の前に明らかに堕落していた。ローマ帝国に服従し、人々はローマとヘロデ王の徴税に加えて神殿からのさまざまな徴収にも苦しんでいた。神殿では律法を利用して贖罪口実と商売で利益を上げ、神殿娼婦を利用して貧困の女性の性を収奪しながら、姦淫の罪で女性だけを罰していた。(かつて伊勢神宮のまわりにも売春宿が並び、お伊勢参りの客がお金を落とし、売春宿からの献金で伊勢神宮は潤っていたのと同じような構造)。
ゼカリヤ書は紀元前500年頃の書。神が罪にまみれたイスラエルを滅ぼし、再生させるための終末を予言するような書。暗示された新たな、再生されたエルサレムは聖なる場所となり、誰も値なしで必要なものを手に入れることができ、『自分自身を愛するように隣人を愛する』、生かし合うことが実現する神殿として描かれている。

 エルサレム入城に際し、イエスが実のならないイチジクを呪った、との奇妙な記事がある。イエスは神殿における収奪、女性の性に対する収奪を激しく非難していたが、キリスト教が始まり、福音書としてまとめられるとき、男女の性に関する記述は神の教えにふさわしくないものとして徹底的に隠された。が、文字として隠されても絵で描かれる。バチカンのシスティーナ礼拝堂の天井画として描かれたミケランジェロの絵「禁断の果実」やウィリアム・ブレイクの「知恵の木」は聖画として描かれているが、明らかにイチジクは女性の性器の象徴であり、イチジクの葉はそれを隠すもの、更に、「性」は男女の契約関係を前提に祝福されるものとして描かれている。

 イチジクは、今日でいうところのバレスチナ周辺住民に“隠語”として語られる女性の性器やセックスの象徴として表現されていた(それを示す資料は多い)。イエスが“イチジク”を叱った、呪った、とは、イチジクの実や葉が一般民衆の中で、暗にどう語られていたかを知っている者ならば、「ハハーン」と福音書の記者の意図は理解できたのだろう。 イエスが呪ったのは、本来、神の子たちが生まれるための祝福された性が、「祈りの家」であるべき神殿において、収奪や陽圧の材料として利用され、神殿の機能が、まさに強盗の巣となっていることに対する告発であり露骨な糾弾だったと思われる。福音書は、イエスによって語られた「神の教え」でなければならなかった。イエスは神殿の堕落について具体的に非難したと思われるが、福音書では“露骨なテーマ”はイチジクの葉のように隠されなければならなかった。その結果が“イチジクを叱る”記事として私たちの前にある。

先週の出来事 
 森喜朗オリンピック会長の「女性は…」発言が更なる混迷を招いている。彼は私人として勝手に行動し発言しているのではなく、責任ある公人として働いている(働かせてもらっている)ことすら気がつかなくなってしまったのだろうか? 

 

 

20210131 宣教要旨「人は鳥より優れているか」

申命記 28章 26節
あなたの死骸はすべての空の鳥と地の獣の餌食となり、追い払う者もいない。

ヨブ記12章 6-7節
略奪者の天幕は安全で 神を怒らせる者 神を支配しようとする者は安らかである。
しかし、獣に尋ねてみよ。 それはあなたに教えるだろう。 空の鳥もあなたに告げるだろう。

ヨブ記 12章 10節
すべての生き物の命 すべての肉なる者の息は御手の内にある。

マタイによる福音書 6章 26節
空の鳥を見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。まして、あなたがたは、鳥よりも優れた者ではないか。

宣教題「人は空の鳥よりも優れた者か」
 遊牧民であった古代イスラエルの民にとって、空の鳥は、野の獣とともに人の魂が神の元に返った後、亡骸をきれいに掃除してくれるありがたい存在だった。マタイ福音書の「空の鳥を見なさい」は、野の花とともに、殆どのキリスト者のこころに深く美しく刻まれた聖句だと思われる。「まして、あなたがたは、鳥よりも優れた者ではないか。」そうだろうか。コロナウィルスは鳥インフルエンザ由来とも言われている。養鶏も養豚も犬猫も家畜は必ず野生より弱くなっており、免疫のないウィルスに死ぬことも多い。人間が感染を恐れているだけで、殺処分で残りの動物が救えるわけではない。

『鳥インフルエンザ感染拡大、日本の養鶏場の鳥が弱くなってるだけ。これは新型コロナ騒ぎと全く同じ構造。生き残った強い鳥を繁殖させよう。毎年来るインフルも、鳥インフルも、豚ウイルス、新型コロナも変異してるから新たに感染する。当然だ。変異しなきゃとっくに根絶している。今までもこれからもウイルスは永久に変異していくのだ。永久に逃げ続けられると人間は思ってるのか?仕事もせず、家族となんか暮らさず、誰とも会わず、ワクチンは全部打って、宇宙服みたいな防護服を着て過ごす気か?』(ピンピンコロリを応援する萬田 緑平 医師の弁)

 家畜のみならず、文明の利器に守られた人間たちが弱くなっているのは当然。いつまでもロックダウンや死体の焼却処分やワクチンで、逃げ続ける、町そのものを病院化する、死なせたくない子どもたちに防護服を着せる そんな未来をこどもたちに残したくはない。病院とは本来危険な場所。一時的な治療の場ではあっても本来死を迎える場所ではない。“病院なんぞで死にたくはない”が本音だったと思われる。たとえお世話になっても忘れたい場所。自分でコントロールできる持病薬を携帯しながらでも、痴呆症で周囲に迷惑をかけたとしても、野の花を愛でつつ、空の鳥から学びつつ「ピンピンコロリ」がやはり理想だと思う。萬田 緑平 医師があらためて“あなたはどんな最後を望むのか”の問いを投げかけておられる。これは本来、牧師神父の仕事だとあらためて思わされた。

先週の出来事

運転免許の切り替え。消毒とマスクでずらりと並ばされ番号で呼ばれ切り替え費用を支払い、「となりで交通安全協会費の支払いをお願いします」と言われ、列の動きから離れにくく、2500円の会費を払ってしまった。敗北感と屈辱感でへこんだ。まさにマスクと同様の「同調圧力」に屈してしもうた。ああ、情けない。みじめ。気合いが足りなかった。