20210207 宣教要旨「イチジクを叱るイエス?」

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聖書箇所(聖書協会共同訳)
ゼカリヤ書14章1~3節
主の日が来る。略奪されたあなたのものが あなたのただ中で分けられる。
私は諸国民をすべて集め エルサレムに戦いを挑ませる。
町は占領され、家は略奪され 女たちは犯される。町の半分は捕囚とされて連れて行かれる。
しかし、残りの民は、町から絶たれることはない。
主は出て来られ 決戦の日に、自ら戦われた日のように それらの諸国民と戦われる。

ゼカリヤ書14章 20~21節
その日には、馬の鈴にも「主の聖なるもの」と刻まれ、主の神殿の鍋も、祭壇の前にある鉢のようになる。
エルサレムとユダの鍋も、すべて万軍の主の聖なるものとなる。いけにえを献げる者は皆やって来て、鍋を取り、それで煮る。その日には、万軍の主の神殿に、もはや商人はいなくなる。

マルコによる福音書11章 12~17節
翌日、一行がベタニアを出るとき、イエスは空腹を覚えられた。
そこで、葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実がなってはいないかと近寄られたが、葉のほかは何もなかった。いちじくの季節ではなかったからである。
イエスはその木に向かって、「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言われた。弟子たちはこれを聞いていた。
それから、一行はエルサレムに来た。イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを覆された。
また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった。
そして、人々に教えて言われた。「こう書いてあるではないか。『私の家は、すべての民の 祈りの家と呼ばれる。』ところが、あなたがたは それを強盗の巣にしてしまった。」

宣教テーマと要旨『イチジクを叱るとは』
 神殿を中心としたエルサレムは神の前に明らかに堕落していた。ローマ帝国に服従し、人々はローマとヘロデ王の徴税に加えて神殿からのさまざまな徴収にも苦しんでいた。神殿では律法を利用して贖罪口実と商売で利益を上げ、神殿娼婦を利用して貧困の女性の性を収奪しながら、姦淫の罪で女性だけを罰していた。(かつて伊勢神宮のまわりにも売春宿が並び、お伊勢参りの客がお金を落とし、売春宿からの献金で伊勢神宮は潤っていたのと同じような構造)。
ゼカリヤ書は紀元前500年頃の書。神が罪にまみれたイスラエルを滅ぼし、再生させるための終末を予言するような書。暗示された新たな、再生されたエルサレムは聖なる場所となり、誰も値なしで必要なものを手に入れることができ、『自分自身を愛するように隣人を愛する』、生かし合うことが実現する神殿として描かれている。

 エルサレム入城に際し、イエスが実のならないイチジクを呪った、との奇妙な記事がある。イエスは神殿における収奪、女性の性に対する収奪を激しく非難していたが、キリスト教が始まり、福音書としてまとめられるとき、男女の性に関する記述は神の教えにふさわしくないものとして徹底的に隠された。が、文字として隠されても絵で描かれる。バチカンのシスティーナ礼拝堂の天井画として描かれたミケランジェロの絵「禁断の果実」やウィリアム・ブレイクの「知恵の木」は聖画として描かれているが、明らかにイチジクは女性の性器の象徴であり、イチジクの葉はそれを隠すもの、更に、「性」は男女の契約関係を前提に祝福されるものとして描かれている。

 イチジクは、今日でいうところのバレスチナ周辺住民に“隠語”として語られる女性の性器やセックスの象徴として表現されていた(それを示す資料は多い)。イエスが“イチジク”を叱った、呪った、とは、イチジクの実や葉が一般民衆の中で、暗にどう語られていたかを知っている者ならば、「ハハーン」と福音書の記者の意図は理解できたのだろう。 イエスが呪ったのは、本来、神の子たちが生まれるための祝福された性が、「祈りの家」であるべき神殿において、収奪や陽圧の材料として利用され、神殿の機能が、まさに強盗の巣となっていることに対する告発であり露骨な糾弾だったと思われる。福音書は、イエスによって語られた「神の教え」でなければならなかった。イエスは神殿の堕落について具体的に非難したと思われるが、福音書では“露骨なテーマ”はイチジクの葉のように隠されなければならなかった。その結果が“イチジクを叱る”記事として私たちの前にある。

先週の出来事 
 森喜朗オリンピック会長の「女性は…」発言が更なる混迷を招いている。彼は私人として勝手に行動し発言しているのではなく、責任ある公人として働いている(働かせてもらっている)ことすら気がつかなくなってしまったのだろうか? 

 

 

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