教会員の活動・アピール・つぶやき

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2023/11/26
致命的にヤバい失敗
 本日の礼拝のための週報と讃美歌(本日の分三曲)のプリントを西宮の自宅に忘れてきてしまったようナノだ。カバンに入れたハズ(自信はある)なのにナイのだ。とりあえず聖餐式の準備(ボクシの未熟な説教より大事)を済ませたが、持参のパソコンから週報をプリントアウトする時間がない。ボクシの最も重要な役割は、集まった人々に礼拝の開始と終わりを告げること。礼拝は参加者のもの。司祭者の都合で遅らせるわけにはいかない。週報なしでお詫びしてから礼拝を始めたが、パニックの余波で“主の祈り”すらつっかえた。礼拝参加者の、半分あきらめ顔の同情に支えられてなんとか乗り切った。だれかにバトンタッチして引退か、教会をたたむかの決断が更にサラに迫られている。

 

2023/11/12 矛盾(contradiction)の語源は「韓非子」一篇に出てくる故事で「どんな盾も突き通す矛(長い刀)」と「どんな矛も防ぐ盾(防具)」を売っていた楚の男が、客から「その矛でその盾を突いたらどうなるのか」と問われ、返答できなかったという話から出た語とのこと(Wikiより)。
 オトナを自認している人であれば、売っていた楚の男のように、自分のしていることに矛盾があっても葛藤することなく、これはこれ、それはそれ、あれはあれ、と意識(頭)する部分を都合良く使い分けられるし、不都合な部分を忘れていられるから悩まなくて済むわけです。
 もしも内なる矛盾に敏感なまま、意識の使い分けも忘れることも何かに逃避することも出来ないままだと、現実から自閉するか、統合失調症に至ると思われます。意識そのものを誤魔化すことができるから人は「正常」「フツウ」でいられるのでしょう。
 地球規模の矛盾では、いま不安として浮かび上がってくるのは、地球温暖化でもなく、差別問題でもなく、ウィルスなど伝染病でもなく、世界の核弾頭だと思われます。日本国内では沖縄諸島の方々はヤマト本島の人たちより敏感に感じていると思われます。
 推定1万発以上。地球上すべてを何回も壊滅状態にできる爆弾であり残り続ける毒。米国、ロシア、フランス、英国、中国、インド、パキスタン、イスラエル、北朝鮮の 9カ国が保有しており、いつでも使用可能状態。「正常な政治指導者であればバカなことはしないだろう」という楽観的見通しを持つし持ちたいからこそ「地球温暖化こそ最重要課題」と言えるのでしょう。ロシアとウクライナの戦争は続いており、ガザ地区へのイスラエルへの容赦ない攻撃も拡大していますが、それらは局所的、部分的な“双方のケンカ”ではありえず、世界大戦がそうであったように、どこに飛び火しどこから発火するかわからない緊張が広がりつつあります。長崎大学核兵器廃絶研究センターが更新し続けているデータでも、有事のシュミレーションでもその緊張が伝わってきます。しかもこの日本という国の外交を担う指導者たち(内閣)は「より強い矛が強い盾となる」などという妄想を手放そうとせず、武装放棄を定めた憲法すら“実態に合わない”とばかり変えようとしています。

「この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石が落ちてきた者は、押し潰される」マタイ福音書21章43節

 長く生きてしまった者として“打ち砕かれ”、“押し潰される”ことを覚悟しながらも、若者たちやこどもたちがそうなることを想像すると死にたくなります。

 

2022/10/02   「死にたい」「消えてなくなりたい」という「ことば」に接する機会が増えました。そのたびに、やりきれない“重たさ”がずしんずしんと、ヒリヒリと伝わってきます。その重たさに必ず付随している、言葉にならないメッセージがあります。あえて言葉にすれば、「つらいことばかり」「生きているのがしんどい」「生き続けるために努力をする意味を感じられない」「楽になりたい」「逃げ出したい」などです。それらのメッセージの底に流れる、ある「共通の感覚」を感じています。それをあえて言葉にすれば、「鬱陶しい」が比較的当たっていると思います。現代の子どもたちが、とてもよく使っている「ウザ!」です。

「私はあなたの味方になりたい」とか、「あなたのことを理解したい」などと近づいてくるカウンセラーや教師や心理師や「心の専門家」たちの「ことば」や、そのしたり顔に、より大きな鬱陶しさ、ウザさを感じている人々が増えていると実感しています。

こういう「うっとうしい現在」を作り出してしまった、寄与してきた責任は、“こころの医師”などという幻想を抱き、臨床心理士という資格を取得し、スクールカウンセリングとして学校で生徒たちと面談し、失望させてきた「私」や「我々」の側にもあるのは確かですが、それ以上に、社会、子どもたちにとって、その象徴としての「がっこう」の「うっとおしさ」が、どんどん、ますます酷くなっていることは否定できない「事実」です。言葉に表せない鬱陶しさの正体に迫り、一緒に戦う、抗う、逃げる、などをしてこなかった責任は痛感しています。

 この「うっとうしい」をキーワードに、現代の、子どもたちが語る“ウザ!”の「正体」について、しばらく考え続けたいと思っています。

 

2022/05/22 「スクールカウンセラーをクビになりました」
 1997年より、教会活動とは別に小・中・高等学校の「スクールカウンセラー(SC)」として25年余り働いてきました。当初は、SCに対し、不登校数を減らすべし、みたいな圧力もなく、「子どもたちのストレス発散の場があることは良いこと」みたいな、おおらかな「容認」乃至は「ほったらかし」の雰囲気がありました。わたしも子どもと遊べることを楽しみに続けてきました。
 近年は阪神地区の小中学校に配属されていました。2年ほど前、勤務していた尼崎市の某中学校の校長と教育委員会2名からSC金田の働き方について批判(報告書の書き方に不備がある、教職員向けの研修会の内容が不適切である、校長の直接の指示の元で働くべし)があり、三田市の某小学校へと勤務先が変更になりました。そこの小学校校長から注意を受けたのは、「三田市の教育委員会が、学校での金田SCの服装が「作務衣」であり、学校教職員の服装としてふさわしくないと言っている」という忠告だった。私からはなぜ作務衣をSCの服装として選択しているのかの説明をし、校長からは服装を改めなさいとの指示はなかった。  
 2022年の二月に、兵庫県教育委員会の阪神教育事務所の新たなSCの担当者から電話があり、『SCとの契約は単年度契約(それまでは一校三年間)となり、金田SCとの契約更新はできない。金田SCには阪神教育事務所で以前の担当者が面談し、改善すべき点を指摘したが、改善されなかった。SCを指導するスーパーバイザーも金田のもとに派遣したが、改善されなかったのが理由』との内容だった。が、阪神教育事務所に呼ばれて指導を受けた記憶もなく、スーパーバイザー(固有名をあげていた)が派遣されてきて指導を受けた記憶もない。
 おそらく、校長会、或いは三田市教育委員会、或いはその他?から、金田SCを止めさせるべき、などの声があり、退職させるにあたって「教育事務所に呼んでわざわざ忠告したのに」「わざわざスーパーバイザーを派遣して改めるべき点を指導したのに」という理由をでっちあげてまで退職を迫る必要があったのでしょう。
 
 私自身、70歳を過ぎた、難聴と肺気腫の疾患を持つ高齢者であり、それを理由に退職してくださいと言われれば素直に受け入れることにやぶさかではないのですが、虚偽の事実まででっち上げて“首”宣告されたことはショックでした。「石つぶて」に慣れることはありません。

 学校生活になじめなくなった、しんどくなった子どもたちがまず駆け込むのは保健室です。週一日しか学校に訪れないSC は、保健室との連携を密にして、保健室から子どもたちにSCとの面談を勧めてもらい、本人の承諾があれば担任とも連絡を取っていただいて面談開始となるケースが多かったのです。或いは子どもが直接カウンセリングルームに遊びに来て、そこからカウンセリングが始まるケースも多かったのです。だた学校によっては、保健室の先生がSCとの連携を望まない場合(仕事が増える!)もあり、すべての学校で保健室と連携できたわけではありません。

 校長や教頭先生は普段でも雑務で多忙ですから、面談内容や子どもの様子などは保健の先生に報告し、学校責任者に報告すべきことは保健の先生に判断していただき、担任との話し合いも保健の先生に判断を委ねていました。
 どうやらそれらの、私の活動の仕方が、学校責任者・校長教頭を無視していると受け取られたと思います。 

 大きな背景としては、スールカウンセリング制度が発足してから今日まで、不登校児童が減らなかったこと(むしろ増加した)、学校に対して不満や批判的意見を持つ児童や父母の面談内容を校長に詳細に報告しなかった(学校の防衛のための協力をしてこなかった)こと、学校生活に不適応な児童の家族に、心療内科や精神科などの診断や投薬治療を受けるよう勧めるなど、精神科医との連携を(積極的に)怠ってきたこと、授業についてこれない生徒たちのケア、“発達援助”をスクールソーシャルワーカー(SSW)が行うようになり、「子ども主体のカウンセリング利用」を保証する「カウンセリングルーム」の存在意義が重要視されなくなってきている、などがあると思われます。
 また、休憩時間や昼食時間や放課後にカウンセリングルームに遊びに来る子どもたちもめっきり減ってきました。学校内での自由な時間そのものが減ってきていると感じています。
 臨床心理士が国家資格になれず、医師の指示のもとで働く「公認心理師」がスクールカウンセラーに任用されるようになりました。精神科医と連携をとることに積極的ではないSCはますます不要な存在になりそうです。 
 私自身の「社会不適応度」はますます増大しつつあります。

 

20220213「つれづれ」
「主体の形成? 自我幻想?」
 キリスト教と出会い、関東学院大学に籍を置いていた頃や、同志社大学神学部に移った頃からもずっと、私の思念から離れなかったもの、「田川建三」風に言えば、『批判的主体の形成』だった。「主体」「自我」の確立を自分でせねばならない、社会に対して批判的であらねばならない、社会は批判的に止揚されなければならない、という強迫観念が長く長〜く長〜〜く続いていた。
 社会不適応のまま齢70を超えてようやくわかってきたこと。「ありゃ〜幻想だった」
「ないものをずっとずっと追い求めていた」というところにようやくたどり着いた。それにしても、長かったなあ。

    教会専従者(牧仕)「告白」の章

「あなたがたは教師と呼ばれてはならない」とのイエスの言葉があるにもかかわらず、牧師と呼ばれ続ける欺瞞をごまかすために「牧仕」と称しています。

日本基督教団東淀川教会の専従をさせていただいていますが、世界史や宗教史、キリスト教史を学べば学ぶほどキリスト教は、歴史の中でいちばん罪深い宗教(セクト)だったと感じます。少なくともキリスト教がローマの国教となってからずっと今日まで「罪作り」なセクトであったことは確かです。「王権神授神話」も、日本の征夷大将軍や総理大臣などの任命権を持った天皇も同じ構造なのでしょう。

 ただ、自分や自分たちのふるまいを罪として自覚し、悔い、将来に対って犯す罪を減らす、防ぐ努力を続けるなら(悔い改めるなら)、或はセクトの内外に向かって何を為すべきか、いや、それ以前に、少なくとも何を為すべきではないかについて提言しつつ過去の罪と向き合い続ければ、罪を一番よく知っているセクトとして説得力はあるでしょうし、神さまに嘉されることかと思うのです。

 まず「隗より始めよ」で、専従者、金田の告白から。

「われ罪びとの頭なれど」 
おもえばかかる つみびとわれを さがしもとめて すくいたまいし
主のみめぐみは かぎりなきかな (讃美歌249番 4番)

 老いた自分自身について、だんだん解ってきたことのひとつとして、これまで気付いていた以上に、「たばこ臭い、爪が黒い、清潔さに欠ける」から始まり、自分が周囲から鬱陶しがられ、嫌われていること、更には「あいつだけは許せない」という思いを与えているようです。

 「ボクシ」にも「臨床心理士」にも、神に近いとか、心の医師とかの、“幻想”がつきまといます。「ただのジジイだったら軽蔑の対象だけなのに、ボクシや臨床心理士をやっていることが許せない!」と怒り続ける人もいるのは確かです。これは被害妄想ではなく、小粒であっても石のようなものが飛んできます。罪には、律法(法律)違反というよりも、ひとの心に拭い去りがたい憎悪を引き起こすこともあるようです。

 前科もあります。関東学院大学一回生の時は、横浜駅近くの紀伊國屋書店で本を万引きし、店員に捕まりました。本のタイトルが忘れもしないアウグスティヌスの『告白』だったことは、今につながる不思議なシンクロニシティです。警察への引き渡しに至らず許してもらえましたが。二回生のときは谷川岳マチガ沢に無届けで登って遭難し救助されましたが、谷川岳登山条例違反で起訴され有罪となっています。交通違反と免停と罰金支払いは絶え間なく、同志社大学神学部卒業後、タクシー運転手のときは事故を起こし、被害者が複数いたために免許取り消し寸前までいったこともあります。

 牧師となって統一協会の被害相談を受けるようになり、カルトカウンセリングを重ねる中で、熱狂的なカルトを卒業・脱会できてカウンセリングはそこで終了となるのですが、中には、熱狂的な信条と行動が本人の心の傷(トラウマ)を隠す、癒す「包帯」の役割をしている場合がままあり、カルトを脱した後にその包帯が剥がれたことにより、本来の「傷」がむき出しになって激しく傷み出すケースがいくつかありました。(これまでの150例ほどを振り返ると1〜2割はそうだったと思います。)そんなケースと向かい合うために友人と相談する中で臨床心理学を学ぶ必要を感じ、40歳を過ぎてから大学院に入り直し、樋口教授のもとで臨床心理学を学び、臨床牧会訓練を受け、臨床心理士資格も得ることができました。

 近年、もっとも巨きな“怒りの石つぶて”が飛んできたケースです。
わたしが「臨床心理士」であることを許せない人(臨床心理士 K(旧姓)さん)が、以前に私がカウンセリングした人(Aさん 上記のケースのひとり)を伴って日本臨床心理士認定協会に訴え出て、クライエントAさんとの不適切な濃厚接触が疑われ、2005年には認定協会から登録抹消を告げられました。臨床心理士資格認定協会にも「私は二人と直接話し合いたいが、相談者が私と話し合えないなら、同行している臨床心理士と私が、認定協会の委員を交えて直接話し合いたい」と申し出ましたが、受け入れられませんでした。金田の、臨床心理士としての働きが間違っている、と主張するなら、私と直接話し合うなり、資格認定協会の役員たちを前に堂々と主張すべきだと思うのですが、これまで一度も私に直接批判なり非難することはありませんでした。少なくとも臨床に関わる者であるなら、クライアントへの関りについて抗議や意見があれば直接意見を伝え批判すべきでした。一言の批判もないまま、面と向かい合うこともないまま、資格剥奪、処刑を求めるがごとき闇からの攻撃に、当時は日常のなかでこの件が頭の中で渦巻き、歩いていた路上でいきなり苦しくなり、へたり込んでしまうような脱力感、無力感に幾たびか襲われました。
 訴えられた内容が事実と異なり、弁護士を通して異議申し立てを行い、調停の結果2年間の資格停止と再研修となりました。

 臨床心理士資格剥奪の目的を達せられなかった“怒り主”は、今度は牧師資格剥奪のために日本基督教団兵庫教区に「金田が牧師であることは許せない」と訴えました。訴えた側(K、Aさん)はキリスト者でも教会関係者でもなかったのですが、万民の○△ハラスメントを裁こうとする教区は訴えを受理し、被害があったことを「認定」(判決)し、「カルト問題のカウンセリングは教区が牧師をカウンセラーとして任命したもの」(教区や教団から任命されたおぼえはありませんが)であるから、その任を解いたことを各教区に伝え、教団の教師(牧師)を辞任するよう勧告する、という通達を2007年4月10日に教区議長菅根より受けました。私からすぐに、教区の常置委員会、○△ハラスメント委員会で直接弁明なり説明する機会を求めましたが何故か拒否されました。異議があれば文書で出せとの高飛車な拒否でした。一度菅根議長と喫茶店で面談しましたが、私からの問いかけには委員会の決議だから、と集団に逃げ、個人として何も答えないままでした。やむを得ず弁護士にお願いして交渉した結果、“兵庫教区及び○△ハラスメント委員会はハラスメントの加害者を罰する、これだけの実績を上げました”という宣伝の餌食になることだけは避けられました。

 かつて知り合いだった牧師(常置委員会の一人)から聞いたところでは、「心身にハンディを持つ女性を手篭め・籠絡し、心の闇を暴き出し、それを修士論文にして修士号と臨床心理士資格の両方を取ったあと、要らなくなった彼女を捨てた非道い、とんでもない男、というイメージが常置委員会の中で出来上っていた」とのこと。更に10年間働いた教会の元役員に聞いたところ、2007年3月に兵庫教区議長菅根より教会に電話で依頼があり、すでに教会を金田が辞任した後であるにもかかわらず、退職金30万円をまだ渡していなかった金田を教会役員会が呼び出し、審問し、教会が金田を牧師不適格として解雇・退職処分とし、退職金も渡さなくて済む。その処分を教区が支持するかたちにしてほしい旨の依頼があったことを教えていただきました。10年間働いた教会でしたが、危険を感じ、弁護士同行でなら呼び出しに応じる旨を伝えると、面談はキャンセルされました。
 教区とすれば、金田の牧師資格剥奪を求めるなら資格を与えた日本基督教団に対してしかるべき手続きを行うのがスジなのでしょうが、教区主体で辞職勧告を出して社会的ダメージを金田に与え、セクハラ男を罰しました、という教区活動実績・フェミニズム運動の成果を全国の教区にPRしたかったのでしょう。

 かつては兵庫教区社会部の活動にも参加し、死刑廃止も訴えていましたから、多くはキリスト教セクト内の牧師仲間・キリスト者仲間であり、牧会のしんどさを分かち合う仲間であると思ったからこそ事情聴取にも応じたのですが、この件については一度も面と向かって「被害を訴えている人と彼女に同行している人はこう言っているが、あんたはどう弁明するのか?」とか、「そりゃ、やっぱり、あんたが悪い!」など批判されたり話し合ったりすることは、願っても一度も実現しませんでした。

 米国におけるかつてのプロテスタント系キリスト教会がリードした、禁酒法運動(プロテスタントの姿勢はドライ、カトリックの姿勢はウェット?)、戦後の日本の公娼廃絶運動などを行っていた矯風会活動にみられる活動家、そして現在の常置委員会、各委員会の“前衛(フロント)意識”は、私の中にもあったものですが、「メサイアコンプレックス」の裏返しとも感じるのです。

 更に、話し合い、対話を求めても「拒否」され続けた背景にあったのは、この○△ハラスメント委員会なるものがリードする常置委員会も、2001年に行われた「女性国際戦犯法廷」の流れを引き継いでいるのか「既に判決を下したのであり、裁く側は裁かれる対象者と対話することはあり得ない」如き司法権力の傲慢さを感じます。

 今、何よりも気がかりなのは、カウンセリングのあと結婚し(金田が司式)、子供も産まれ、「子どもの顔を見に来てください」とのはがきをくれていたAさんが、Kさんとの出会いで、Kさんの金田に対する怒りが触媒となり、Aさん自身の根深いトラウマが再燃し、怒りが金田に投影されたと思われるのですが、その後Aさんがどうなっているかは確かめようもないままなことです。

 教会活動とは、イエスの福音を触媒としてイエスの十字架の元で活動専従者を中心として展開され、そこに集う個人に仕えるのが本分であり、教区は各々の教会に仕え(サポート)、教団は各地方教区に仕えるものです。いかなる活動も各自の信仰、信念、自己責任によりなされるものであり、相互批判、相互検証はあっても主体は個人です。しかし現実は、2007年には全員配餐を信仰として行っていた北村慈郎牧師に対し、信仰で答える、対話するのではなく、トップの決めたことを守らないからと教師解任を宣言するなど世俗的支配権力を誇示しています。日本基督教団はいつの間にか露骨なピラミッド型の権力構造(下からの徴税と上からの支配)となり、兵庫教区も教会や教師に対して徴税、上からの裁判、辞職勧告など、教団の権力構造をなぞっています。これが日本キリスト教団の現実であり、これに対してキリスト者にいくばくかの幻想(徹底して個として向き合える)を抱いていた、トンチンカンで無力なわたしの現実でした。

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