191027 宣教要旨 列王記上19:7-12 マルコ福音書9:1-10 題「静かな細い声が」 宣教 金田恆孝

 

191027 降誕前第9主日礼拝 聖書から聴く「静かな細い声が」

旧約聖書 列王記上19章7-12節
7 主の使は再びきて、彼にさわって言った、「起きて食べなさい。道が遠くて耐えられないでしょうから」。
8 彼は起きて食べ、かつ飲み、その食物で力づいて四十日四十夜行って、神の山ホレブに着いた。
9 その所で彼はほら穴にはいって、そこに宿ったが、主の言葉が彼に臨んで、彼に言われた、「エリヤよ、あなたはここで何をしているのか」。
10 彼は言った、「わたしは万軍の神、主のために非常に熱心でありました。イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、刀をもってあなたの預言者たちを殺したのです。ただわたしだけ残りましたが、彼らはわたしの命を取ろうとしています」。
11 主は言われた、「出て、山の上で主の前に、立ちなさい」。その時主は通り過ぎられ、主の前に大きな強い風が吹き、山を裂き、岩を砕いた。しかし主は風の中におられなかった。風の後に地震があったが、地震の中にも主はおられなかった。
12 地震の後に火があったが、火の中にも主はおられなかった。火の後に静かな細い声が聞えた。

新約聖書 マルコによる福音書9章2-10節
9:1また、彼らに言われた、「よく聞いておくがよい。神の国が力をもって来るのを見るまでは、決して死を味わわない者が、ここに立っている者の中にいる」。
9:2六日の後、イエスは、ただペテロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。ところが、彼らの目の前でイエスの姿が変り、
9:3その衣は真白く輝き、どんな布さらしでも、それほどに白くすることはできないくらいになった。
9:4すると、エリヤがモーセと共に彼らに現れて、イエスと語り合っていた。
9:5ペテロはイエスにむかって言った、「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。それで、わたしたちは小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために」。
9:6そう言ったのは、みんなの者が非常に恐れていたので、ペテロは何を言ってよいか、わからなかったからである。
9:7すると、雲がわき起って彼らをおおった。そして、その雲の中から声があった、「これはわたしの愛する子である。これに聞け」。
9:8彼らは急いで見まわしたが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが、自分たちと一緒におられた。

聖書から聴く 主題 聖書から聴く「静かな細い声が」
六日の後、とはイエスたちの運動が敗北し、イエスは殺される、との宣告をした日から数えて6日目、宣告に続く一連の出来事、と解すべきである。
高い山の上でイエスの姿が真っ白に変わったのは、死装束であり、生前葬が行われたことになる。そこに現れたモーセとエリアとイエスが語り合うという様子をペテロ、ヤコブ、ヨハネたちは見た。奴隷状態からの救い出しと再生の象徴であるモーセ、富と権力支配を支える御利益宗教(偶像崇拝)からの解放の象徴であるエリア、そして今、殺されようとしているイエスを含めた三人が、神の「救いのわざ」について語り合っている、というビジョンである。
イエスの処刑・殺害を超えて、神の救済のわざは進んでいく、それが「復活」の予告だった。
これから起こる出来事は、エリアに起こった出来事と同じ。
イエスは取り去られる。イエスと行動を共にした者、追従した者たちへの大迫害が起ころうとしている。が、イエスは世のしっぺ返しを含め、すべてをご自身一人ですべてを引き受けようとされている。神もすべてをイエスに負わせようとされている。

「主の前に大きな強い風が吹き、山を裂き、岩を砕いた。しかし主は風の中におられなかった。風の後に地震があったが、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火があったが、火の中にも主はおられなかった。火の後に静かな細い声が聞えた。」
イエスの語る「復活」とは、イエスを焼き尽くす火の後に起こる[静かな細い声]のことであろう。
ペテロの語る「三人のための記念小屋を建てましょう」のとんちんかんな応答は、それでも現実的には受け入れがたい仲間たちのパニック状態を表している。三人を崇拝するための神社も寺も教会も神は求めない。不思議な神のみわざを凝視し恐れつつ賛美するしかない。いま、この時代にこそ、主よ、イエスよ、いまこそ来たりませ。

○先週の出来事(気になるニュース)
バングラデシュで今年4月、校長からのセクシュアルハラスメント(性的嫌がらせ)を警察に通報した女子学生(19)が火を付けられ死亡した事件をめぐり、裁判所は24日、被告16人に死刑を言い渡した、とのこと。死刑は決して罪の償いではない。日本での教師による教師への犯罪もそうだが、公的な機関での闇が広がっている以上、教育の場の透明化が求められていると思われると思われる。

191020 宣教要旨 イザヤ書52:7-12 マルコ福音書8:33-38 題「神が立ち上がられる響き」宣教 金田恆孝

聖霊降臨節第20主日礼拝

旧約聖書 イザヤ書52章7-12節
7 よきおとずれを伝え、平和を告げ、よきおとずれを伝え、
救を告げ、シオンにむかって「あなたの神は王となられた」と言う者の足は山の上にあって、なんと麗しいことだろう。
8 聞けよ、あなたの見張びとは声をあげて、共に喜び歌って
いる。彼らは目と目と相合わせて、主がシオンに帰られるのを見るからだ。
9 エルサレムの荒れすたれた所よ、声を放って共に歌え。
主はその民を慰め、エルサレムをあがなわれたからだ。
10 主はその聖なるかいなを、もろもろの国びとの前に
あらわされた。地のすべての果は、われわれの神の救を見る。
11 去れよ、去れよ、そこを出て、汚れた物にさわるな。
その中を出よ、主の器をになう者よ、おのれを清く保て。
12 あなたがたは急いで出るに及ばない、また、とんで
行くにも及ばない。主はあなたがたの前に行き、イスラエルの神はあなたがたのしんがりとなられるからだ。

新約聖書 マルコによる福音書8章33-38節
33イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、
引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」
34それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、
自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
35自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を
失う者は、それを救うのである。
36人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。
37自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。
38神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」

聖書から聴く 主題「神が立ち上がられる響き」

イザヤの語る「メヴァッセール」良き知らせ、主なる神が立ち上がられたという
「良きおとづれ」これぞ福音書の世界でエヴァンゲリオン「福音」と呼ばれるようになった原型であろう。主なる神は王として立ち上がられ、この世のしんがりに立たれ、救いのわざをなされる、と。

「10 主はその聖なるかいなを、もろもろの国びとの前にあらわされた。地のすべての
果は、われわれの神の救を見る。」
民族やら、国家やら、宗教やらのセクトとは関係なく、世の果てに追いやられた人々の
ところから救いのわざを始められるという知らせ。
それは、死にかけており、希望を失っている世の暗闇に光を当て、落とし穴、世の地獄、
牢獄、谷底を埋めるようなわざ、神が吹き込んだ命を輝かせるわざを神は開始されると
いう、良き知らせ。
イエスは主なる神が王として進まれる道へ、ともに進もうではないかと仲間たちに
呼びかけられる。そのためのしっぺ返しを引き受けるのは私一人で十分である、とも
言われる。

台風19号のすさまじい大雨で7県52河川73カ所が決壊したとのこと。死者の数の報道がどんどん膨れ上がる。山々に降り積もったままになっている放射性物質は雨が希釈しているのか拡散しているのか。汚染物質を詰め込んだフレコンパックも多くが流された。これは天然の除染? 希釈? 各地の土壌汚染がどうなっているのかの報道はシャットアウトされたまま。まだ踏みとどまって「打ち出の小槌」たる原発を止める力は民の中にありやなしや? 人間たちも希釈されるしかないのか。主よ 力を我々に与え給え、とともに祈りたい。

○先週の出来事(気になるニュース)
阿武隈山脈などの山々からもフレコンパックからも放射性物質が流れ出しまくっていることに関し、原発推進派の人々は、天が山々に降り積もった汚染物質を希釈してくれた、フレコンパックも流してくれたと喜んでいるのだろうか。「あとは野となれ山となれ」どころではなく、住める野も山も残らない。今や自然は守るものではなく、便利のために利用し、汚泥や危険物は水洗トイレのごとく流し通りすぎるのが今風なのだろうか。

191013 宣教要旨 ホセア書6:1-3 マルコ福音書8:27-33 題「おとしまえはわたしひとりで」宣教 金田恆孝

聖霊降臨節第19主日礼拝
旧約聖書 ホセア書6章1-3節
6:1「さあ、わたしたちは主に帰ろう。主はわたしたちをかき裂かれたが、またいやし、
わたしたちを打たれたが、また包んでくださるからだ。
6:2主は、ふつかの後、わたしたちを生かし、三日目にわたしたちを立たせられる。
わたしたちはみ前で生きる。
6:3わたしたちは主を知ろう、せつに主を知ることを求めよう。主はあしたの光のように
必ず現れいで、冬の雨のように、わたしたちに臨み、春の雨のように地を潤される」。

新約聖書 マルコによる福音書8章27-33節
8:27さて、イエスは弟子たちとピリポ・カイザリヤの村々へ出かけられたが、その途中で、弟子たちに尋ねて言われた、「人々は、わたしをだれと言っているか」。
8:28彼らは答えて言った、「バプテスマのヨハネだと、言っています。また、エリヤだと
言い、また、預言者のひとりだと言っている者もあります」。
8:29そこでイエスは彼らに尋ねられた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと
言うか」。ペテロが答えて言った、「あなたこそキリストです」。
8:30するとイエスは、自分のことをだれにも言ってはいけないと、彼らを戒められた。
8:31それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに
捨てられ、また殺され、そして三日の後によみがえるべきことを、彼らに教えはじめ、
8:32しかもあからさまに、この事を話された。すると、ペテロはイエスをわきへ
引き寄せて、いさめはじめたので、
8:33イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペテロをしかって言われた、
「サタンよ、引きさがれ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。

聖書から聴く 主題「落とし前はわたし一人で」

「行って、姦淫の女をめとり、 姦淫の子らを引き取れ。」「この国は主を見捨てて、 はなはだしい淫行にふけっているからだ。」(1:2)。最も罪深い女をめとり愛せよ、の神の指示に従い、淫行に走り連れ子のいる女ゴメスをめとり、裏切られ続けながらも支え続けたホセア。
主は、ふつかの後、わたしたちを生かし、三日目にわたしたちを立たせられる。(6:2)神の指示に従ったばかりに受けた試練の期間を二日間であらわし(、耐えられぬ試練はない)、試練後(三日目)には再生の新たないのちを与えられる、という確かな希望をホセアの体験から語る。
イエスに希望を託し、群がるように集まっていた人々が、イエス自身の“わたしは必ず多くの苦しみを受け、世の中から捨てられ、また殺される”との言葉に躓き、離れていった。弟子と呼ばれる仲間たちも混乱と不安の中にあった。ペテロたちは、“この世がイエスを殺そうとしても神は、聖霊たちを総動員してメシアであるべきイエスを助けるに違いない”と自分に言い聞かせていたと想像します。また、イエスや自分たちが行っていることが、国の秩序に反乱している、国の秩序を支えている人々を激しく怒らせている、という危機感も持ち合わせていなかったと想像します。が、イエスは世から国への反乱者として必ず殺されることを告げ、“国に対する反乱者への「おとしまえ」は必ずなされる。それを引き受けるのはわたし一人で十分である。これは二日間の試練と同じであり、新たないのちへと再生されるための避けることのできない試練なのだ”と語ったと思われます。それはユダヤ教における、過越の祭と、種入れぬパンの祭のあとの初穂の祭りに至る「三日目」を言い表しています。再生のいのち、すなわち神の国の初穂となる、という意味が込められています。
リーダーであるイエスが必ず殺される、というイエス自身の言葉はとうてい仲間たちには受け入れることのできないものでした。

○先週の出来事(気になるニュース)
神戸市の中学校で、教師たちによる教師への“楽しげな嫌がらせ”事件。 教師という仮面の中身はただの人でしかないが、「ただのひと」たる自分自身を、先生と呼ばれ続け、先生であり続けようとする中で見失ってしまったのでしょう。政治家であれ、医師であれ、牧師であれ、仮面の中の、ただのひとたる自分を見失ってしまう悲劇は数多あり、生み出される被害も大きいのでしょう。いっそのこと、「先生」という称号、使用禁止にできないものでしょうか。牧仕、みたいに教仕、或いは「公僕」「年長様」とかに変えましょうか。

191006 宣教要旨 イザヤ書52:12 53:5-8 ヨハネ福音書6:56 60-66 題「みんな離れていく」宣教 金田恆孝

旧約聖書 イザヤ書52:12 53:5-8 11-12節
52:12あなたがたは急いで出るに及ばない、また、とんで行くにも
及ばない。主はあなたがたの前に行き、イスラエルの神はあなたがたの
しんがりとなられるからだ。
53:5しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義の
ために砕かれたのだ。彼はみずから懲しめをうけて、われわれに平安
与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。
53:6われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって
行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。
53:7彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。
ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている
羊のように、口を開かなかった。
53:8彼は暴虐なさばきによって取り去られた。その代の人のうち、だれが思ったであろうか、彼はわが民のとがのために打たれて、生けるものの
地から断たれたのだと。
53:11彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。義なるわがしもべはその知識によって、多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。
53:12それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に物を分かち取らせる。
彼は強い者と共に獲物を分かち取る。これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、とがある者と共に数えられたからである。
しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした。

新約聖書 ヨハネ福音書6章56、60-66節
6:60弟子たちのうちの多くの者は、これを聞いて言った、「これは、ひどい言葉だ。だれがそんなことを聞いておられようか」。 6:61しかしイエスは、弟子たちがそのことでつぶやいているのを見破って、彼らに言われた、「このことがあなたがたのつまずきになるのか。 6:62それでは、もし人の子が前にいた所に上るのを見たら、どうなるのか。 6:63人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である。 6:64しかし、あなたがたの中には信じない者がいる」。イエスは、初めから、だれが信じないか、また、だれが彼を裏切るかを知っておられたのである。 6:65そしてイエスは言われた、「それだから、父が与えて下さった者でなければ、わたしに来ることはできないと、言ったのである」。
6:66それ以来、多くの弟子たちは去っていって、もはやイエスと行動を共にしなかった。

聖書から聴く 主題「人々は去って行った」

イザヤ書を示しながら、イエスの語る神さまは、この世の“しんがり”に立たれる方。その貧しい者たち、闇に捨て置かれる人たち、忌み嫌われ嘲られる者の側に立って支えてくださる方でありながら、しんがりを作り出す権者、学者、富める者たちに悔い改めを求める神であった。バプテスマのヨハネはその働きの一翼を担っていた。

イエスは神の御手の一部として働き、しんがりから人々を支え、悔い改める者を神に取り成す働きを続けた。
そのことが何を結果するか、十分ご存じだった。しんがりを作り出す人々から殺されることになるだろう、と仲間たちに語った。

天高く君臨する神ではなく、世のしんがり、どん尻に立たれる神。しかも、しんがりに立ち続けるイエスやその仲間は必ず敗北し、イエス自身は殺されるであろうと。

イエスを、まったく新しい指導者、メシア、解放者、救い主、スーパースター、王さまと尊敬し、あがめ、イエスを中心とした教団形成、宗教指導者、政治的リーダーを願ってきた数多の人々は、イエスの、神の国運動の敗北予告、しかも仲間から見捨てられ、裏切られ、唾棄され、嘲笑され、極悪人として刺し殺されるという処刑予告につまずき、理解不能に陥り、次々と離れていった。
イザヤ書、ことにその53章は、神の御手のわざを為す者がなぜ極悪人として死刑に処されることになるのかについて、はるか昔にイザヤ(たち)が預言していたことであった。イエス自身も語っていたことだった。が、イエスをリーダーとしてあがめ、まつりあげたい人々にとっては我慢できないことだった。人気はがた落ち。あれほど集まり群がっていた人々がどんどん去って行った。
そして誰もいなくなる… 神の国運動とは、周りから見れば、そういう運動でした。

○先週の出来事(気になるニュース)
所沢市の中学校で同級の友人を友人宅で殺害した事件。同じ中学校で一昨年は電車への飛び込み自殺、去年は屋上からの飛び降り自殺と続いていたとのこと。
2004年6月1日午後、長崎県佐世保市の市立大久保小学校で、6年生の女子児童が同級生の女児にカッターナイフで切り付けられて死亡した事件。2014年、高校1年生の女子生徒(15)が、同学年の友人(15)の後頭部を鈍器のようなもので多数回殴り首を絞めて殺害し、首と手を切り落とし、腹を裂き解体した事件。おとなの日常生活でアナログとデジタルの境界線が曖昧になっているのと平行して、リアルとバーチャルの境界線も曖昧になっている、ましてや子どもたちの世界でその曖昧さは更に加速しているように感じる。何かそのあたりに共通の深い闇がありそうな気がする。

190929 宣教要旨 イザヤ書35:3-6 マルコ福音書8:22-26 題「再生のわざ」宣教 金田恆孝

190929 聖霊降臨節第17主日礼拝 宣教題「再生のわざ」

イザヤ書35章3−6節
3 あなたがたは弱った手を強くし、よろめくひざを健やかにせよ。
4 心おののく者に言え、「強くあれ、恐れてはならない。見よ、あなたがたの神は報復をもって臨み、神の報いをもってこられる。神は来て、あなたがたを救われる」と。
5 その時、見えない人の目は開かれ、聞えない人の耳は聞えるようになる。
6 その時、足の不自由な人は、しかのように飛び走り、口のきけない人の舌は喜び歌う。それは荒野に水がわきいで、さばくに川が流れるからである。

マルコ福音書8章22−26節
そのうちに、彼らはベツサイダに着いた。すると人々が、ひとりの盲人を連れてきて、さわってやっていただきたいとお願いした。
イエスはこの盲人の手をとって、村の外に連れ出し、その両方の目につばきをつけ、両手を彼に当てて、「何か見えるか」と尋ねられた。
すると彼は顔を上げて言った、「人が見えます。木のように見えます。歩いているようです」。
それから、イエスが再び目の上に両手を当てられると、盲人は見つめているうちに、なおってきて、すべてのものがはっきりと見えだした。
そこでイエスは、「村にはいってはいけない」と言って、彼を家に帰された。

聖書から聴く 主題「再生のわざ」
マルコ福音書7章31節に耳と口、舌が不自由な人のハンディキャップが癒やされたという記事があります。その人を衆目から話し、イエスは指をその人の両耳に入れ、ご自身の唾でその舌を潤した、とあります。眼を患っている人の目にイエスが唾を塗るわざも、イエスご自身の身体とその人の身体とを重ねる、繋がるわざであり、預言者エリアが死にかけている子どもを癒やすときのわざと同じわざでしょう。

ほんの僅かな食べ物が飢え乾く数多の人々を癒やしてあまりあった事件が続いたのち、神の国の近づきとそれへの参与が求められているのに、それを悟りもしない、わかろうとしていない周囲の人々へのイエスの苛立ち、告発があったあと、目の不自由な人がイエスのもとに連れてこられた、という流れになっています。“ひとりの盲人を連れてきて”とは、連れてきた人々がいたわけです。

連れてきた人はイエスを攻撃する側の人で、イエスを試みたい、失敗を期待する動機だったのでしょうか。それともイエスの力を信じたいひとだったのでしょうか。あるいは盲人の身内か友人などで、有名なイエスに頼んで本人をなんとかしてほしいと願った人だったでしょうか。

行為の動機はいつも重層的ですが、攻撃する側でなければ、おそらく“奇跡”が起こるかどうか衆目の中で試し、イエスのカリスマ性、超越性を世に示し、メシア待望の熱気を奮い立たせ、イエスたちから離れかけている多くの群衆を再び引き戻したいという思いが、彼を連れてきた動機としてあったのではないかと思うのです。立ち会った人々が証言者となり、『イエスこそメシア!神の子!スーパースター!革命指導者!我らの王!』などの熱狂が湧き上がる期待があった、イエスを中心とするセクトを拡大したい思いはあったのでしょう。

その意図、動機を感じたからこそ、そのひとを衆目から離して、もっと言えば“隠れた場所で”そのひとと繋がり、ハンディキャップ、重荷を分かち合う「再生のわざ」が行われたと思うのです。

イエスは決して自分自身をトップとしたセクト、宗派、集団を作ろうとしたのではなく、イザヤのいう“しんがりに立たれる神”による神の国のわざが始まっていること、神の裁きと救い・再生の技が始まっていることを具体的に示しただけでした。

○先週の出来事(気になるニュース)
国連でなされたグレタ・トゥーンベリさんの、子どもの立場から世界の為政者たちに向けて行われた怒りのスピーチは衝撃だった。単に地球温暖化の問題に限らず、資源争奪、海外派兵、原子力兵器、核汚染、海洋汚染、難民を拡大させながら難民を締め出す国々などの為政者たちの姿を彼女は見据えている。
が、さっそく、リベラリストたち、左翼の人々の仕組んだヤラセだとか、冷水を浴びせようとする騒音も湧き上がった。しかし
自分の子どもから、或いは子どもたちから『こんな社会に誰がしたんですか!』の告発から逃れられるおとなたちはいない。